1987年 NBAドラフト
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前年のドラフト・翌年のドラフト・ドラフトトップ
新人王:マーク・ジャクソン (Mark Jackson)
All Rookie Team
1st:グレッグ・アンダーソン、アーモン・ギリアム、マーク・ジャクソン、デリック・マッキー、ケニー・スミス
主なプレイヤー
1.デビッド・ロビンソン(David Robinson)
出身校:海軍兵学校
ポジション: C
所属チーム:SAS(1989~2003)
キャリア平均:21.1PPG、10.6RPG、2.5APG、1.4SPG、3.0BPG、.518FG%
個人賞:Rookie of the Year(1989-1990)、Defensive Player of the Year(1991-1992)、MVP(1994-1995)
ALL TEAM:All-NBA 1st 4回、All-NBA 2nd 2回、All-NBA 3rd 4回、All-Defensive 1st 4回、All-Defensive 2nd 4回
オールスター出場:10回(1990~1996、1998、2000~2001)
海軍で軍役に就いていたことから「提督(The Admiral)」のニックネームで呼ばれた。
サンアントニオ・スパーズからドラフト指名を受け、2年間の義務軍役を終えた1989-90シーズンからキャリアをスタートさせると、さっそく平均24.3得点、12.0リバウンド、1.7スティール、3.9ブロック、FG成功率53.1%という圧倒的な数字を残し、チームを前年より35勝も勝ち星を上積みさせる活躍を見せて新人王を受賞する。
216cmの長身選手としては過去に例を見ないほどの高い身体能力を備え、ガード並みの走力でコートを駆け上がり強烈なスラムダンクを叩き込み、またシュートレンジも広く得点のバリエーションも豊富で、1993-94シーズンには最終戦で71得点を叩き出し、シャキール・オニールとの熾烈な競争を制して平均29.8得点で初の得点王に輝いている。
マイケル・ジョーダンはアキーム・オラジュワンとパトリック・ユーイング、そしてロビンソンの3人をNBAを代表するBIG3と評価し、1992年にはドリームチームの一員としてバルセロナ五輪で金メダルを獲得するなど、時代を代表するセンターとして活躍を続けた。
その一方で、ロビンソンを擁するスパーズは毎シーズンのように優勝候補にあげられながらファイナル進出も叶わず、土壇場でチームを牽引する勝負強さを見せられないロビンソンに対して、ファンやメディアだけでなくチームメイトからも批判の声があがった。
1996-97シーズン、ロビンソンは故障により長期欠場を余儀なくされ、常に優勝候補であり続けたスパーズは一転して最下位を争うチームへと成績を急降下させる。
ロビンソンの欠場はその存在の大きさをあらためて知らしめる事になったが、同時にドラフト1位指名が確実視されていたティム・ダンカンを獲得するという恩恵をもたらした。
ロビンソンは健康を取り戻して1997-98シーズンを万全のコンディションで迎え、新人のダンカンとともに強力なツインタワーを形成すると、スパーズは早くも強豪へと返り咲いた。
翌1998-99シーズン、ロビンソンはチームの中心的役割をダンカンに譲り、献身的なプレーでチームをサポートする。
プレイオフでは他をよせつけない圧倒的な力で勝ち上がり、ニューヨーク・ニックスとのファイナルを制してついに悲願の初優勝を果たした。
2003年にも2回目の優勝を果たし、このシーズン限りで引退することを表明していたロビンソンは見事に花道を飾ることになった。
デビューから引退するまでスパーズの一員としてプレーを続け、背番号『50』は同チームの永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/oIkTMOwJsto
2.アーメン・ギリアム(Armen Gilliam)
出身校:ネバダ大学ラスベガス校
ポジション: PF、SF
所属チーム:PHO(1987~1989)→CHH(1989~1991)→PHI(1991~1993)→NJN(1993~1996)→MIL(1996~1999)→UTA(2000)
キャリア平均:13.7PPG、6.9RPG、1.2APG
逞しい肉体とパワフルなプレーから「The Hammer」のニックネームで呼ばれた。
フェニックス・サンズでは1年目から平均14.8得点、7.9リバウンドの活躍を見せ、2年目には主力としてプレイオフ・カンファレンス決勝進出に貢献したが、3年目のシーズン序盤にトレードでチームを去ると、以降は多くのチームを渡り歩くジャーニーマンとしてキャリアを送ることになった。
デビュー以来、常に平均15得点前後を記録し、ニュージャージ・ネッツ在籍時の1995-96シーズンにキャリアハイとなる平均18.3得点、9.1リバウンドを記録している。
キャリア後半になって、「名前を間違って発音されるのをいちいち訂正するのが面倒になった」という理由で、「アーモン(Armon)」から「アーメン(Armen)」に改名している。
2000年に現役を引退し、13年の選手生活に幕を下ろした。
2011年、心臓発作により47歳の若さで死去している。
youtube:http://youtu.be/2c0m6CZDLiA
4.レジー・ウィリアムス(Reggie Williams)
出身校:ジョージタウン大学
ポジション: SF
所属チーム:LAC(1987~1989)→CLE(1989~1990)→SAS(1990)→DEN(1991~1996)→IND(1996)→NJN(1996~1997)
キャリア平均:12.5PPG、4.0RPG、2.5APG、1.3SPG
絹のような滑らかなプレースタイルから「シルク」のニックネームを持つ。
ロサンゼルス・クリッパーズに入団し、最初の2シーズンは主に控えとして平均10得点を記録していたが、3年目のシーズンの序盤にトレードされると、クリーブランド・キャバリアーズ、サンアントニオ・スパーズを立て続けに解雇される憂き目にあう。
1991年にデンバー・ナゲッツと契約を結び、ここでようやく先発として活躍の場を手にすると、1991-92シーズンにチームトップとなる平均18.2得点を記録した。
以降、ナゲッツのキャプテンとしてチームを牽引し、6シーズンを同チームでプレーした。
youtube:http://youtu.be/E0UuNiE3S68
5.スコッティ・ピペン(Scottie Pippen)
出身校:セントラルアーカンソー大学
ポジション: SF
所属チーム:CHI(1987~1998)→HOU(1998~1999)→POR(1999~2003)→CHI(2003~2004)
キャリア平均:16.1PPG、6.4RPG、5.2APG、2.0SPG
個人賞:All-Star Game MVP(1994)
ALL TEAM:All-NBA 1st 3回、All-NBA 2nd 2回、All-NBA 3rd 2回、All-Defensive 1st 8回、All-Defensive 2nd 2回
オールスター出場:7回(1990、1992~1997)
マイケル・ジョーダンとともにシカゴ・ブルズを6度の優勝に導き、NBA史に残るオールラウンドプレイヤーとして評価される。
オールスターの常連となり、3連覇を達成し、オリンピックでも金メダルを2回獲得するなど常に最高峰の舞台で活躍を続けていたが、キャリア前半はジョーダンあってのピッペンと囁かれ、その実力は過小評価されていた。
1993年にマイケル・ジョーダンが突然の引退を宣言すると、誰もがブルズの低迷を予想し、ヘッドコーチのフィル・ジャクソンですら「バードやマジックが去った後のチームを見れば…」と悲観的なコメントを残した。
ところがブルズは大方の予想に反して優勝争いに絡むほどの好成績を残し、平均22.0得点、8.7リバウンド、5.6アシスト、2.9スティールというオールラウンドな活躍でチームを牽引したピッペンは、ジョーダンに引けを取らないリーグ屈指の選手である事を証明してみせた。
このシーズン、ピッペンはオールスターゲームでMVPを獲得し、初めてオールNBA1stチームに選出されたほか、オールディフェンシブ1stチームにも3年連続で選出された。
1994年にはジョーダンが電撃的に復帰を果たしたが、ジョーダンは「ブルズはスコッティのチーム」と語り、ジョーダン復帰後もその評価が変わることはなかった。
ブルズは1995-96シーズンに72勝を記録する歴史的なシーズンを送り、このシーズンから2回目の3連覇を果たすなど再びリーグを支配した。
一方でチームのフロントとは契約をめぐって長年対立を続け、関係が修復不能までに悪化すると、1998年についに11シーズンを過ごしたブルズを去る事になった。
ヒューストン・ロケッツで1シーズンを過ごした後にポートランド・トレイルブレイザーズに移籍し、2000年のプレイオフでは、カンファレンス決勝でフィル・ジャクソンの手腕によって変貌を遂げたロサンゼルス・レイカーズと激闘を繰り広げた。
ピッペンは数字以上の活躍でチームを牽引し、格上のレイカーズを敗退寸前まで追いつめる健闘を見せたが、この天下分け目の戦いともいうべきシリーズを制したレイカーズは3連覇を達成するなど王朝と呼ばれる時代を築き、一方、敗れたブレイザーズは徐々にチーム力を低下させていく事になった。
ピッペンも年齢とともに衰えを見せるようになり、かつての盟友ジョン・パクソンがブルズのGMに就任したのを期に古巣に復帰し、1シーズンをプレーした後、2004年に現役を引退した。
背番号『33』はブルズの永久欠番となっている。
甥のウィリアム・ピッペンはバスケットボール選手として日本のbjリーグでもプレーした。
youtube:http://youtu.be/tObgS6uUVjQ
6.ケニー・スミス(Kenny Smith)
出身校:ノースカロライナ大学
ポジション: PG
所属チーム:SAC(1987~1990)→ATL(1990)→HOU(1990~1996)→DET(1996)→ORL(1996~1997)→DEN(1997)
キャリア平均:12.8PPG、2.0RPG、5.5APG、1.0SPG、.399 3P%
191cmの身長でポイントガードを務め、並外れた跳躍力から「ザ・ジェット」のニックネームで呼ばれた。
ノースカロライナ大ではマイケル・ジョーダンやブラッド・ドアティらとともにプレーし、通算アシスト数は同校の記録となっている。
低迷するサクラメント・キングスに入団し、チームを浮上させるフランチャイズプレイヤーとして期待がかかった。
1年目から先発を務めて平均13.8得点、7.1アシストの記録を残し、2年目には平均17.3得点と順調な成長を見せる。
しかし、チームの成績に改善が見られないと、スミスは3年目のシーズン途中にアントワン・カーらとの交換でアトランタ・ホークスへとトレードされ、シーズン終了後にヒューストン・ロケッツへと再びトレードされる。
ロケッツでは移籍1年目から平均17.7得点と活躍を見せたが、先発で起用されながら出場時間は年々減少していった。
ロケッツは1994年に初優勝を飾り、スミスは依然としてチームの先発を務めていたが、若手のサム・キャセールと出場時間を分けあい、各スタッツでデビュー以来最低の数字を記録するようになっていた。
ロケッツは翌1995年に再びファイナルに進出したが、若く勢いにのるオーランド・マジックを相手に劣勢が予想された。
第1戦は一時20点差をつけられる苦境に立たされたが、スミスは次々とスリーポイントシュートを沈め続けて点差を縮め、終了直前にも延長に突入する同点スリーを決めるなど、チームの劇的勝利の立役者となった。
シリーズの流れを掴んだロケッツは周囲の予想を覆す4戦全勝で2年連続2度目の優勝を決めた。
スミスは1997年に現役を引退し、その後は人気解説者として活躍を続けている。
youtube:http://youtu.be/5IiHFHfULV4
7.ケビン・ジョンソン(Kevin Johnson)
出身校:カリフォルニア大学
ポジション: PG
所属チーム:CLE(1987~1988)→PHO(1988~1999、2000)
キャリア平均:17.9PPG、3.3RPG、9.1APG、1.5SPG
個人賞:Most Improved Player(1988-1989)
ALL TEAM:All-NBA 2nd 4回、All-NBA 3rd 1回
オールスター出場:3回(1990~1991、1994)
高校、大学では野球の選手としても活躍し、1986年にはMLBからドラフト指名を受け、マイナーリーグでもプレーした。
クリーブランド・キャバリアーズ入団後、2年目のマーク・プライスが急成長を見せたことで、1年目のシーズン途中にフェニックス・サンズにトレードされる。
サンズでは先発として起用され、2年目となる1988-89シーズンに平均20.4得点、12.2アシストを記録して最も成長した選手に贈られるMIPを受賞する活躍を見せた。
このシーズンから3年連続で20得点、10アシスト以上を記録し、リーグ屈指のポイントガードとしてサンズを強豪に導いていく。
ロングレンジのシュートに難があったものの、マイケル・ジョーダンが「オープンスペースを与えたら誰にも止めることができない」と語るほどのクイックネスを誇り、ビッグマンの上からスラムダンクを叩き込むダイナミックなプレーも見せた。
チャールズ・バークリーが加入した1992-93シーズンに初のファイナルに進出したが、シカゴ・ブルズの前に敗退すると、その後はジョンソンを筆頭に主力に故障が相次ぎ、ファイナルからは次第に遠ざかっていく事になった。
1996-97シーズンに平均20.1得点、9.3アシストを記録するなど依然として高い能力を見せていたが、10シーズンというキャリアにこだわっていたジョンソンはシーズン終了後に引退を表明した。
しかし、チームの要請によって翌シーズンもプレーを続け、シーズン終了後にあらためて引退を表明。
1999-2000シーズンには再び復帰要請を受け、レギュラーシーズンとプレイオフの数試合に出場している。
背番号『7』はサンズの永久欠番となっている。
現役時代から人望が厚い選手として知られ、2008年にサクラメント市長に選出されている。
youtube:http://youtu.be/v-8c4zD40fg
8.オルデン・ポリニス(Olden Polynice)
出身校:バージニア大学
ポジション: C
所属チーム:SEA(1987~1991)→LAC(1991~1992)→DET(1992~1994)→SAC(1994~1999)→SEA(1999)→UTA(1999~2001)、LAC(2003~2004)
キャリア平均:7.8PPG、6.7RPG、0.7APG、.505FG%
ハイチ出身。
ドラフトではシカゴ・ブルズから指名を受け、事前の交渉により指名直後にスコッティ・ピッペンとのトレードでシアトル・スーパーソニックスへと移籍する。
ソニックスでは10分強の出場時間を得るにとどまり、目立つ成績を残すことはできなかった。
その後はチームを渡り歩き、1993-94シーズンの途中にサクラメント・キングスに加入すると、平均11.6得点、11.9リバウンドというキャリア唯一のシーズン・ダブルダブルを達成した。
以降、数シーズンにわたり、チームの先発センターとして平均10得点、9リバウンド以上を記録する活躍を見せた。
9.デリック・マッキー(Derrick McKey)
出身校:アラバマ大学
ポジション: SF
所属チーム:SEA(1987~1993)→IND(1993~2001)→PHI(2002)
キャリア平均:11.0PPG、4.7RPG、2.4APG、1.1SPG
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 2回
シアトル・スーパーソニックスでの2年目に82試合全てに先発出場し、キャリアハイとなる平均15.9得点を記録する。
チームプレーを重視し、ディフェンスにも能力を発揮するマッキーは高く評価され、1993年にオールスタープレイヤーのデトレフ・シュレンプとのトレードでインディアナ・ペイサーズへと移籍する。
移籍1年目に平均12.0得点、5.3リバウンド、4.3アシスト、1.5スティールとオールラウンドな活躍を見せ、チーム史上初のカンファレンス・ファイナル進出に貢献している。
ヘッドコーチのラリー・ブラウン好みの選手として長く先発を務め、強豪へと成長を遂げるチームの中で大きな役割を果たした。
10.ホーレス・グラント(Horace Grant)
出身校:クレムゾン大学
ポジション: PF、C
所属チーム:CHI(1987~1994)→ORL(1994~1999)→SEA(1999~2000)→LAL(2000~2001)→ORL(2001~2003)→LAL(2003~2004)
キャリア平均:11.2PPG、8.1RPG、2.2APG、1.0SPG、1.0BPG、.509FG%
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 4回
オールスター出場:1回(1994)
トレードマークのゴーグルを装着し、インサイドの要としてシカゴ・ブルズやオーランド・マジックなどで活躍した。
ブルズ入団当初はチャールズ・オークリーの控えを務めていたが、グラントの将来性を見込んだチームの判断により、オークリーを放出してグラントが先発フォワードに昇格する事になった。
当時はエースのマイケル・ジョーダンからもグラントには荷が重いと否定的な意見が聞かれたが、チームにとって必要不可欠な選手へと成長し、1991年からの3連覇に大きく貢献した。
ジョーダン引退後の1993-94シーズンには平均15.1得点、11.0リバウンドを記録し、初のオールスター出場を果たしている。
リーグ有数の好ディフェンダーとして高い評価を受けた一方で、チームの待遇に不満を募らせ、フリーエージェントとなった1994年にオーランド・マジックへと移籍する。
グラントは若く才能あふれる選手が揃うマジックに経験をもたらし、マジックは優勝候補の本命として高い注目を集める。
プレイオフではカンファレンス準決勝で古巣のブルズと対戦し、グラントは弱体化したブルズのインサイドを攻め、シリーズ平均18得点、11リバウンドという活躍でブルズに引導を渡した。
しかしファイナルではヒューストン・ロケッツを相手にまさかの4戦全敗で優勝を逃し、翌年のプレイオフ・カンファレンス決勝で雪辱に燃えるブルズの前に完敗すると、以降チームは急速に力を失っていった。
グラントも1999年にチームを去る事になり、2000-01シーズンにロサンゼルス・レイカーズで自身4個目となるチャンピオン・リングを獲得している。
双子の弟のハーベイ・グラントは1988年にNBA入りし、ワシントン・ブレッツなどで活躍した。
youtube:http://youtu.be/TWVPhBnyZ5s
11.レジー・ミラー(Reggie Miller)
出身校:カリフォルニア大学ロサンゼルス校
ポジション: SG
所属チーム:IND(1987~2005)
キャリア平均:18.2PPG、3.0RPG、3.0APG、1.1SPG、.395 3P%
ALL TEAM:All-NBA 3rd 3回
オールスター出場:5回(1990、1995~1996、1998、2000)
リーグ屈指のアウトサイドシューターとして、また「ミラータイム」と呼ばれた土壇場での異常なまでの勝負強さで人気を博した。
少年時代は後に女子バスケ界の伝説的な存在となる姉のシェリル・ミラーを相手に腕を磨き、姉弟ふたりで周辺のプレイグラウンドを荒らしてまわった。
名門UCLAに進学し、カリーム・アブドゥル=ジャバーに次ぐ歴代2位の得点記録を残すなど活躍したが、インディアナ・ペイサーズ入団当初は針金のように線が細いミラーがNBAレベルで通用するかは疑問視された。
しかし、1年目に控えながら82試合全てに出場して平均10.0得点を記録すると、先発に固定された翌1988-89シーズンに平均16.0得点、スリーポイント成功率40.2%を記録し、以降チームの顔として活躍を始める。
3年目にはリーグ8位となる平均24.6得点を記録してチームを3シーズンぶりとなるプレイオフ進出に導き、リーグ有数のシューターとして初めてオールスターに選出された。
しかし、当時は姉シェリルの知名度が圧倒的に高く、オールスター選手となってからも「シェリルの弟」という見方がついてまわった。
ミラーはその活躍よりも陰湿なまでに相手を挑発するトラッシュトークで注目され、マイケル・ジョーダンも激昂してミラーに殴りかかるなど、リーグ随一のヒールとして認知されていく。
ペイサーズはミラー入団3年目から連続でプレイオフに進出していたが、チーム成績は常に5割前後を行き来する程度にとどまり、優勝には程遠いシーズンが続いていた。
その状況は、ラリー・ブラウンがヘッドコーチに就任した1993年以降、急速に変わっていく事となった。
1993-94シーズン、就任1年目のブラウンの下でペイサーズはチーム記録となる47勝の成績を収め、プレイオフではチーム史上初めてとなる初戦突破を果たすと、勢いそのままにカンファレンス決勝まで勝ち進み、初の舞台で優勝候補のニューヨーク・ニックスと対戦した。
前年のプレイオフ初戦では、いとも簡単にニックスに屈したペイサーズだったが、ミラーの活躍もありシリーズは互いに譲らない激戦となった。
2勝2敗で迎えた第5戦、ミラーは熱狂的なファンが集まるニックスのホーム、マディソン・スクウェア・ガーデンで大活躍を見せる。
12点をリードされて迎えた第4クォーター、ミラーは最後の12分だけで25得点をあげる爆発力を見せ、ゲームハイとなる39得点を叩き出してファイナル進出に王手をかける貴重な勝利の立役者となった。
シリーズはその後2連敗を喫し、ファイナル進出は叶わなかったものの、ペイサーズは強豪ニックスのライバルへと成長し、とくにエースのミラーはニューヨークのファンにとって目の上のコブとなる存在になっていく。
ペイサーズは翌シーズンに52勝30敗の成績で初のディビジョン優勝を果たし、プレイオフではカンファレンス準決勝で3年連続となるニックスと顔を合わせた。
シリーズ第1戦、試合終了まで残り16.4秒でペイサーズは6点差をリードされていたが、ミラーは勝利を確信するニューヨークのファンの前で、スリーポイントシュート2本を含む8得点を一気に連取するという離れ業をやってのける。
劇的な勝利を収めたペイサーズは4勝3敗でシリーズを制し、ミラーはヒールという存在から、チームの窮地を救うヒーローとして高い人気を誇る選手となった。
ドリームチームⅡ、Ⅲのメンバーに連続で選ばれ、アトランタ五輪で金メダルを獲得するなどNBAを代表する選手として評価を高めていったミラーだったが、18シーズンのキャリアでついに最大の目標であるNBA優勝を実現できずに現役を引退した。
キャリア晩年に優勝の可能性の高い有力チームへ移籍する動きがNBAで盛んに見られるようになったが、ミラーはペイサーズで現役を全うする事にこだわり、いくつものライバルチームが激しい浮き沈みを繰り返す中、チームの長期間にわたる好成績に貢献している。
ペイサーズのチーム記録では、NBA歴代2位のスリーポイント成功数のほかに、得点やアシストなどの通算数など多くのカテゴリーで1位となる記録を残している。
ミラーの背番号『31』はペイサーズの永久欠番となっている。
家族は姉のほかに、兄がMLBでプレーし、妹もUCLAでバレーボールの選手として活躍するなど、スポーツ一家として知られている。
youtube:http://youtu.be/rmme_HV1ccY
12.マグジー・ボーグス (Muggsy Bogues)
出身校:ウェイクフォレスト大学
ポジション: PG
所属チーム:WSB(1987~1988)→CHH(1988~1997)→GSW(1997~1999)→TOR(1999~2001)
キャリア平均:7.7PPG、2.6RPG、7.6APG、1.5SPG
本名はタイロン・カーティス・ボーグス。
愛称の「マグジー」は、ボーグスにそっくりだったという映画に登場するギャングの役名が由来。
身長160cmというNBA史上最も低いプレイヤーとして知られ、キャリアをスタートさせたワシントン・ブレッツには231cmというNBA史上最も高い身長(当時)を誇るマヌート・ボルも在籍していたことで話題となった。
注目を集める反面、満足な出場機会を得る事ができず、2年目にはエクスパンション・ドラフトで新設されたばかりのシャーロット・ホーネッツへ移籍する。
移籍1年目、控えとして平均7.8アシストを記録すると、翌シーズンは先発として多くの試合に出場し、平均9.4得点、リーグ4位となる10.7アシストを記録した。
以降もアシストは常にリーグ上位の数字を記録し、エネルギーに満ち溢れ強烈なリーダーシップを発揮するボーグスは地元シャーロットで絶大な人気を誇るようになっていく。
片手で掴めるボールならダンクできてしまうほどの跳躍力があり、リーグを代表するセンターであるパトリック・ユーイングをブロックしたこともあった。
ホーネッツで10シーズンを過ごし、通算アシスト、通算スティールはチーム歴代トップとなっている。
youtube:http://youtu.be/lOGj8qM6hQ0
18.マーク・ジャクソン (Mark Jackson)
出身校:セントジョンズ大学
ポジション: PG
所属チーム:NYK(1987~1992)→LAC(1992~1994)→IND(1994~1996)→DEN(1996~1997)→IND(1997~2000)→TOR(2000~2001)→NYK(2001~2002)→UTA(2002~2004)→HOU(2004)
キャリア平均:9.6PPG、3.8RPG、8.0APG、1.2SPG
個人賞:Rookie of the Year
オールスター出場:1回(1989)
ニューヨーク・ニックスでは1年目に平均13.6得点、10.6アシスト、2.5スティールを記録して新人王を受賞し、歴代の新人王受賞選手の中で最もドラフト指名順位の低いプレイヤーとなった。
ニックスも4シーズンぶりにプレイオフ進出を決め、翌シーズンには18シーズンぶりとなるディビジョン優勝を果たすなど、パトリック・ユーイング入団以降、高い期待を集めながら低迷を続けていたチームは、ようやく調子を上向かせる事に成功する。
しかし、プレイオフを勝ち上がれないシーズンが続くと、1991年にヘッドコーチに就任したパット・ライリーは次々とトレードを敢行し、ジャクソンも1992年に5シーズンを過ごしたニックスを去ることになった。
移籍先のロサンゼルス・クリッパーズではチームのプレイオフ進出に貢献し、ラリー・ブラウンがインディアナ・ペイサーズのヘッドコーチに就任すると、ジャクソンも1年後にトレードでペイサーズへと移籍した。
ペイサーズではパス優先型の司令塔としてチームの勝利に貢献し、レジー・ミラーらとともにペイサーズの黄金期を築く。
1996年にデンバー・ナゲッツにトレードされたが、シーズン途中にペイサーズに復帰している。
シーズン前半をラン&スタイルを得意とするナゲッツでプレーした事でアシスト数が例年よりも増加し、平均11.4アシストを記録して初のアシスト王に輝いた。
2000年にペイサーズを去り、その後4シーズンをプレーして引退した。
通算アシスト数は10,334本となっており、ジョン・ストックトンのバックアップを務めていたユタ・ジャズ在籍時に通算1万アシストを達成している。
得点を決めた際に身体を揺らす「ジャクソン・ジグル」がトレードマークとして知られている。
youtube:http://youtu.be/jqivzyrOZIs
19.ケン・ノーマン (Ken Norman)
出身校:イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校
ポジション: SF
所属チーム:LAC(1987~1993)→MIL(1993~1994)→ATL(1994~1997)
キャリア平均:13.5PPG、6.1RPG、2.1APG
ニックネームは“スネーク”。
ロサンゼルス・クリッパーズに入団し、先発として起用されるようになった2年目に平均18.1得点、8.3リバウンドを記録するなどチームのリーディング・スコアラーとして活躍した。
その後、ドラフト上位の選手が揃うにつれて得点機会も減少していったが、クリッパーズではデビューから6シーズンを過ごし、そのうち4シーズンで平均15得点以上を記録するなど、チームの貴重な戦力として活躍を続けた。
youtube:http://youtu.be/av24J1CO2FM
22.レジー・ルイス (Reggie Lewis)
出身校:ノースイースタン大学
ポジション: SG、SF
所属チーム:BOS(1987~1993)
キャリア平均:17.6PPG、4.3RPG、2.6APG、1.3SPG
オールスター出場:1回(1992)
ボストン・セルティックスに入団し、1年目は出場機会を得ることができなかったものの、翌シーズンは主力の故障もあって先発のチャンスを掴み、平均18.5得点と結果を残す。
その後も順調に成長を続け、1991-92シーズンには平均20.8得点を記録してオールスター初出場も果たした。
ラリー・バードの後継者として、セルティックスの新しい時代を背負って立つ選手と期待されていたが、1993年に心臓に異常が見つかり、医師からは引退を薦められる。
ルイスはこれに反発し、現役を続行することを強行した。
しかし同年7月、シュート練習中に意識を失い、目を覚ますことなく27歳という若さで死去した。
ルイスの背番号『35』はセルティックスの永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/AxO8koWxZMQ
23.グレッグ・アンダーソン (Greg Anderson)
出身校:ヒューストン大学
ポジション: PF、C
所属チーム:SAS(1987~1989)→MIL(1989~1991)→NJN(1991)→DEN(1991~1992)、DET(1993~1994)→ATL(1994~1995)→SAS(1995~1997)→ATL(1997~1998)
キャリア平均:7.3PPG、6.2RPG、0.6APG
ニックネームは“キャデラック”。
サクラメント・キングスでは1年目から82試合全てに出場し、先発は45試合だったものの、平均11.7得点、6.3リバウンドの成績を残してオールルーキー1stチームに選出された。
翌シーズンも平均13.7得点、8.2リバウンドと成長を見せるが、1989年にトレードされてからは出場時間が一気に減少し、数字も下降させていった。
デンバー・ナゲッツ在籍時の1991-92シーズン、82試合全てに先発起用され、平均11.5得点、11.5リバウンドとダブルダブルの活躍を見せたが、シーズン終了後に解雇された。
その後はイタリアへと渡り、1993年から再びNBAでプレーしている。
40.ウィンストン・ガーランド (Winston Garland)
出身校:ミズーリ州立大学
ポジション: PG
所属チーム:GSW(1987~1990)→LAC(1990~1991)→DEN(1991~1992)→HOU(1992~1993)、MIN(1994~1995)
キャリア平均:9.4PPG、2.8RPG、4.7APG、1.3SPG
ミルウォーキー・バックスにドラフト指名を受けたが、開幕前に解雇され、ゴールデンステイト・ウォリアーズでキャリアをスタートさせる。
1年目から多くの試合で先発起用され、平均12.4得点、6.4アシストと結果を残した。
2年目も平均14.5得点と成長を見せたが、ティム・ハーダウェイが入団した1989年以降、出場機会が激減していった。
ウォリアーズを去ってからは多くのチームを渡り歩き、ヨーロッパのチームでもプレーした。
63.ケビン・ギャンブル (Kevin Gamble)
出身校:アイオワ大学
ポジション: SF
所属チーム:POR(1987~1988)→BOS(1988~1994)→MIA(1994~1996)→SAC(1996~1997)
キャリア平均:9.5PPG、2.2RPG、2.0APG、.502FG%、.360 3P%
ポートランド・トレイルブレイザーズでは、9試合の出場で得点0と見せ場もなく、1シーズンで解雇される。
その後契約したボストン・セルティックスで少しづつ出場機会を増やし、移籍3年目となった1990-91シーズンに先発として起用され、平均15.6得点、FG成功率58.7%を記録するなど大躍進を遂げた。
その後もセルティックスで活躍を続けたが、1994年にフリーエージェントとなってチームを去ってからは、出場時間は減少していく事となった。
75.クリス・ダドリー (Chris Dudley)
出身校:イェール大学
ポジション: C、PF
所属チーム:CLE(1987~1990)→NJN(1990~1993)→POR(1993~1997)→NYK(1997~2000)→PHO(2000~2001)→POR(2001~2003)
キャリア平均:3.9PPG、6.2RPG、0.4APG、1.2BPG
フリースローの成功率が30%台を記録するシーズンが何度もあるなど、シュートの下手な選手として知られ、オフェンスでは非常にぎこちない動きを見せた。
反面、献身的なディフェンスは評価が高く、16シーズンという長い現役生活をおくっている。
1990-91シーズンにはブロックで平均2.5本を記録し、リーグ5位にランキングされた。
youtube:http://youtu.be/St8sfKkszZ0
127.サルナス・マーシャロニス (Sarunas Marciulionis)
ポジション: SG、SF
所属チーム:GSW(1989~1994)→SEA(1994~1995)→SAC(1995~1996)→DEN(1996~1997)
キャリア平均:12.8PPG、2.3RPG、2.2APG、1.3SPG、.505FG%、.369 3P%
リトアニア出身。
ソ連代表としてソウル五輪で金メダル、バルセロナ五輪とアトランタ五輪ではリトアニア代表として銅メダルを獲得している。
1989年にNBAデビューを果たし、キャリアを通じて得点力の高いシックスマンとして活躍した。
独特のステップを駆使して得点を重ね、1991-92シーズンには平均18.9得点、FG成功率53.8%を記録し、シックスマン賞の投票では2位となった。
翌1992-93シーズンの前半に負った故障の影響により、その後1年半にわたりプレーする事ができず、復帰後は全盛期ほどの得点力を見せる事はできなかった。
アメリカの大学を経ずにNBA入りしたヨーロッパ出身選手の草分け的存在として知られ、1990年代のリーグ国際化に大きく貢献した。
引退後はホテル業で成功を収めるなど、ビジネスマンとして活躍している。
youtube:http://youtu.be/1a0dUoCCqiU