コニー・ホーキンス player profile⑭

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「現在、または過去にさかのぼって、スラムダンクコンテストで対戦してみたい選手を3人あげてください。」
オールスターの際のインタビューで質問を受けたヴィンス・カーターはこう答えました。
マイケル・ジョーダンDr.J、それからコニー・ホーキンスだね。」
NBAでプレーしたのは1970年代前半を中心にわずか7シーズン。
それでもいまだに多くの人の脳裏に焼き付いているコニー・ホーキンスとは一体どんなプレイヤーだったのか、ちょっと調べてみることにしました。
 
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Connie Hawkins(コニー・ホーキンス)

誕生日 1942年7月17日
デビュー 1969年(フェニックス・サンズ)
引退 1976年(アトランタ・ホークス)
ポジション パワーフォワード/センター
身長・体重 203cm・95kg
キャリア通算平均 18.7PPG、8.8RPG、4.1APG

ブルックリンの大物ストリートボーラーとして名を馳せ、ABA、NBAでプレーした。
その独創的でアクロバティックなプレースタイルは、後のプレイヤーに多大な影響を与えたと言われている。
 

ニューヨーク時代

本名、コーネリアス・L・ホーキンス。
1942年、ニューヨーク、ブルックリンに生まれます。
11歳の頃にはすでにダンクができたというホーキンスですが、高校ではあまりプレーせず、もっぱらプロ選手も集まる伝説的なストリートコート、ラッカーパークに通い詰めていました。
ここで強敵を相手に腕を磨き、その名を広く知られるストリートボーラーへと成長していきます。
高校3年生になってようやく高校のチームにも参加するようになったホーキンスは、さっそくチームをニューヨーク市のリーグ優勝に導きます。
最終学年になると、チームは無敗でタイトルを獲得し、中心選手のホーキンスはパレード誌が選ぶ高校オール・アメリカンに選出されました。
全米にその名が轟くことになったホーキンスは、奨学金を得てアイオワ大学へと進学します。
 

ドロップアウト

名門大学での活躍が期待されていたホーキンスですが、大学生活は僅か1年で終わる事になります。
ニューヨークに端を発した賭博・八百長問題に巻き込まれてしまったのです。
この一大スキャンダルの関係者として扱われたホーキンスは、ニューヨーク市警から何度も尋問を受ける事になりました。
結局、事件との関わりは明らかになる事はありませんでしたが、疑惑の目が向けられるホーキンスに対し、スキャンダルを嫌う大学は追放という重い処分を科します。
さらに、NBAもバスケットボール界のブラックリストに入ってしまったホーキンスを受け入れる事はないと公に発表。
逮捕も起訴もされていないにも関わらず、ホーキンスは19歳にして行き場を失くしてしまいました。
1961年の事でした。
 
大学から追放されてすぐ、ホーキンスは誕生したばかりのプロリーグABLに参加しますが、シーズンMVPを受賞するなどの活躍も虚しく、わずか2シーズンという短さでリーグが消滅してしまいます。
その後、エキシビジョンチームとして興業を行うハーレム・グローブ・トロッターズに加わり、チームの一員として3年にわたり世界各地を回る生活を送ります。
この頃、ホーキンスはNBAを相手取り、自分を不当に締め出したとして訴訟を起こしました。
ホーキンスの弁護団は、ホーキンスがNBAレベルでも通用する選手だということを示すために、1967年からスタートするプロリーグABAでプレーする事を薦めます。
こうしてABA元年となる1967-68シーズン、ホーキンスはABAピッツバーグ・パイパーズでプレーする事になります。
 

ABA

ホーキンスはABA1年目のシーズンに平均26.8得点、13.5リバウンドを記録し、初代得点王、初代MVPの称号を手にします。
さらにチームはプレーオフを勝ち進んで初代チャンピオンとなり、ホーキンスは創成期のABAを背負って立つ存在となりました。
翌1968-69シーズンになると、NBAのスタープレイヤーであるリック・バリーもABAに参加し、ABAはNBAと渡り合うまでの盛り上がりを見せます。
この頃、ホーキンスが抱えていたNBAとの裁判が突如として進展します。
LIFE誌がホーキンスの無罪を報じたのを機に急展開した裁判は、最終的にNBAがホーキンスに和解金を払う事で決着しました。
NBA入りも認められる事になり、ホーキンスは1968年に創設されたばかりのフェニックス・サンズへの入団が決まります。
2シーズンという短い在籍期間でしたが、ABAで大きな足跡を残し、いよいよNBAへとさらに大きな一歩を踏み出します。
 

NBA

1969-70シーズン、ついに念願のNBAデビューを果たします。
すでに27歳となっていました。
ABAのMVP選手という看板を引っ提げてデビューしたホーキンスは、さっそくチームトップとなる平均24.6得点を叩き出したほか、平均10.4リバウンド、4.8アシストとオールラウンドな活躍を見せます。
NBA1年目にしてオールスター出場、オールNBA1stチームに選出され、創設2年目のチームを初のプレイオフにも導きました。
しかし、ホーキンスの全盛期は長くは続きませんでした。
身体能力に頼るホーキンスのプレーは身体への負担が大きく、酷使されてきた膝の状態が悪化すると、個人成績は徐々に下降していきました。
1973年にロサンゼルス・レイカーズにトレードされてからは、平均20得点を超えていた得点力は1桁までに落ち込みます。
最後はアトランタ・ホークスで1シーズンを過ごし、1976年に現役を引退しました。
 
NBAでプレーしたのは7シーズン。
残した成績は平均16.5得点、8.0リバウンド、4.1アシストというものでした。
オールNBA1stチームへの選出が1回。
オールスターには4年連続で4回出場していますが、個人タイトルやチームの通算記録などでホーキンスの名を見かける事はありません。
無実の罪で大学を追われ、選手としての全盛期を小さなリーグや世界各地を回るエキシビジョンゲームで費やすことがなければ、ホーキンスはNBA史に残る数字を残していたかもしれません。
しかし、多くの人々はホーキンスが積み上げた数字よりも、ホーキンスが見せるワンプレーに興奮し魅了されてきました。
鷲掴みしたボールを巧みに操ってリングに叩きつける、ホーキンスの華麗でアクロバティックなプレーは多くの子供が真似をしました。
ホーキンスがNBAを去った後も、その系譜を受け継ぐかのように、ジュリアス・アービングやマイケル・ジョーダンらがNBAのコートに登場します。
まだ派手なプレーを嫌う保守的な傾向にあったNBAに、ホーキンスは新しい時代を生む土壌をつくりました。
ホーキンスの背番号『42』はサンズの永久欠番となり、1992年に殿堂入りしています。
後の多くのプレイヤーに影響を与え、多くのファンを魅了したショーマンシップは、今なお高い評価を得ています。
 

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