1999年 NBAドラフト
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前年のドラフト・翌年のドラフト・ドラフトトップ
新人王:エルトン・ブランド(Elton Brand)、スティーブ・フランシス(Steve Francis)
All Rookie Team
1st:エルトン・ブランド、スティーブ・フランシス、アンドレ・ミラー、ラマー・オドム、ウォーリー・ザービアック
主なプレイヤー
1.エルトン・ブランド(Elton Brand) ※現役
出身校:デューク大学
ポジション: PF、C
所属チーム:CHI(1999~2001)→LAC(2001~2008)→PHI(2008~2012)→DAL(2012~2013)→ATL(2013~2015)→PHI(2015~2016)
キャリア平均:15.9PPG、8.5RPG、2.1APG、1.7BPG、.500FG%
個人賞:Rookie of the Year
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:2回(2002、2006)
203cmの身長ながら長い腕と屈強な肉体を武器にインサイドで活躍し、高い得点能力のほか、リバウンドやブロックでも強さを見せた。
名門デューク大学では初のアーリーエントリーを宣言してNBAに進んだ選手となり、再建中のシカゴ・ブルズへと入団する。
1年目からチームの柱として平均20.1得点、10.0リバウンド、1.6ブロックという活躍を見せ、ヒューストン・ロケッツのスティーブ・フランシスとともに新人王を同時受賞した。
一方でチーム成績は17勝と振るわず、翌シーズンも15勝という成績に終わると、チームの方針転換により2001年にロサンゼルス・クリッパーズへとトレードされる。
クリッパーズもまた不振にあえぐ時期が長く続いていたが、チームには能力の高い選手が揃い始め、ブランドの加入により躍進が期待された。
しかし、ブランド自身はオールスターに選ばれる活躍を見せながらも、故障者が続出したチーム状況もあってプレイオフ進出には程遠いシーズンが続いた。
005-06シーズン、ベテラン選手のサム・キャセールとカッティーノ・モーブリーが加入し、勝ち方を知る選手が増えた事でクリッパーズはシーズンを通して好調を維持する。
平均24.7得点、10.0リバウンド、2.5ブロックという活躍でチームを牽引したブランドはMVP候補に挙がるなどキャリア最高のシーズンを送り、チームを9シーズンぶりのプレイオフ進出に導く。
ようやく長い低迷から抜け出せたかに見えたが、翌2006-07シーズンはキャセールの故障からチームが失速し、プレイオフ進出を逃してしまう。
さらに、ブランドもシーズンオフのトレーニング中にアキレス腱を断裂し、大黒柱を失ったチームは再び低迷期に突入する。
チーム構想から外れることになったブランドは、希望に見合う契約も提示されず、2008年にフィラデルフィア・76ersへと移籍する。
その後は全盛期のような活躍を見せる事はなくなったが、チームを支えるベテラン選手として存在感を発揮している。
youtube:http://youtu.be/b2haxhaEriY
2.スティーブ・フランシス(Steve Francis)
出身校:メリーランド大学
ポジション:PG、SG
所属チーム:HOU(1999~2004)→ORL(2004~2006)→NYK(2006~2007)→HOU(2007~2008)
キャリア平均:18.1PPG、5.6RPG、6.0APG、1.5SPG
個人賞:Rookie of the Year
オールスター出場:3回(2002~2004)
瞬きほどの一瞬でディフェンスを抜き去る姿から「ウィンク」のニックネームを持ち、またヒューストン・ロケッツ在籍時はチームを背負って立つ存在として「スティービー・フランチャイズ」の名でも呼ばれた。
ドラフトではバンクーバー・グリズリーズから指名を受けたが、グリズリーズではすでにマイク・ビビーが司令塔として活躍していたため、望む役割が与えられないと判断したフランシスは入団を拒否する。
シーズン開幕前にトレードでヒューストン・ロケッツへと移籍すると、アキーム・オラジュワンやチャールズ・バークリーらに代わってチームを牽引する活躍を見せ、平均18.0得点、5.3リバウンド、6.6アシスト、1.5スティールの成績を残してシカゴ・ブルズのエルトン・ブランドとともに新人王を受賞した。
また、オールスターにも2002年から3年連続でファン投票で出場するなど、華やかなプレーでファンを魅了するフランシスは瞬く間に全国区の人気選手となっていく。
しかし、2003-04シーズンからロケッツの指揮を執ることになったヘッドコーチのジェフ・バン・ガンディとはチーム戦術を巡って何度も衝突し、2004年にトレイシー・マグレイディを獲得するためのトレードでオーランド・マジックへと放出される。
リーグ最下位に沈むマジックへの移籍に不満を示したフランシスだったが、新天地では平均21.3得点、7.0アシストを記録し、チームをプレイオフを争う位置にまで浮上させる。
ところがシーズン中盤、ともにロケッツから移籍してきたカッティーノ・モーブリーがトレードされた事でチームと対立し、直後から精彩を欠くようになったプレーはプレイオフを逃す大失速につながった。
フランシスはその後もチームから出場停止処分を受けるなど問題のある行動を続け、2005-06シーズンの途中にニューヨーク・ニックスへと放出される。
崩壊状態にあったニックスにとってフランシスの加入がチームの起爆剤になるかと期待されたが、混乱に拍車をかけていくチーム状況の中で出場機会を減少させ、移籍後の個人成績は軒並み急降下していった。
2007-08シーズンに古巣のロケッツに復帰したが、膝の故障を悪化させて10試合の出場にとどまり、これがNBA最後のシーズンとなった。
youtube:http://youtu.be/NeqUefRwNSw
3.バロン・デイビス(Baron Davis)
出身校:カリフォルニア大学ロサンゼルス校
ポジション: PG
所属チーム:CHH-NOH(1999~2005)→GSW(2005~2008)→LAC(2008~2011)→CLE(2011)→NYK(2011~2012)
キャリア平均:16.1PPG、3.8RPG、7.2APG、1.8SPG
ALL TEAM:All-NBA 3rd 1回
オールスター出場:2回(2002、2004)
ブロックに跳んだビッグマンを弾き飛ばしてダンクを決めるほどの強靭なフィジカルを誇り、積極的なディフェンスから生みだされる速攻でチームのオフェンスをリードした。
シャーロット・ホーネッツでは入団2年目から先発を務め、2001-02シーズンに平均18.1得点、8.5アシスト、2.1スティールを記録して初のオールスターに選出される。
2003-04シーズン、ジャマール・マッシュバーンが故障で離脱してからはエースとしてチームを牽引し、平均22.9得点、リーグトップとなる2.4スティールを記録して苦戦が予想されたホーネッツをプレイオフへと導いた。
しかし、デイビス自身も故障を抱えるようになるとチームは一気に低迷し、再建期に突入した事で2005年にゴールデンステイト・ウォリアーズへと放出される。
移籍後、健康を取り戻したデイビスは2006-07シーズンに平均20.1得点、8.1アシスト、2.1スティールを記録するなど復調し、チームもシーズン最終戦の勝利で辛うじてプレイオフに滑り込んだ。
プレイオフ初戦ではシーズン67勝15敗という圧倒的な強さを見せたダラス・マーベリックスと対戦し、デイビスのシリーズ平均25.0得点の活躍により4勝2敗で勝利をおさめ、歴史的なアップセットを演じてみせた。
翌2007-08シーズンは82試合全てに先発出場して平均21.8得点を記録したが、その後は再び故障が目立つようになり、徐々に個人成績を下降させていった。
2011-12シーズンにプレーしたニューヨーク・ニックスでは椎間板ヘルニアの影響で29試合の出場にとどまり、これが現役最後のシーズンとなった。
youtube:http://youtu.be/muZPsPn52y4
4.ラマー・オドム(Lamar Odom)
出身校:ロード・アイランド大学
ポジション: PF、SF
所属チーム:LAC(1999~2003)→MIA(2003~2004)→LAL(2004~2011)→DAL(2011~2012)→LAC(2012~2013)
キャリア平均:13.3PPG、8.4RPG、3.7APG
個人賞:Sixth Man of the Year1回(2010-2011)
208cmの長身に見合わないスピードやスキルを持ち、あらゆるポジションをこなすNBA屈指のユーティリティプレイヤーとして活躍した。
ロサンゼルス・クリッパーズでは1年目に平均16.6得点、7.8リバウンド、4.2アシスト、1.2スティール、1.3ブロックというオールラウンドな数字を残し、移籍を希望する選手を引き留めない事で知られるチームオーナーに「オドムは手放さない」と明言させる活躍を見せた。
低迷を続けるクリッパーズの救世主として期待が高まったが、その後はマリファナ使用による出場停止や、故障の影響もあって不本意なシーズンが続き、制限付きフリーエージェントとなった2003年にマイアミ・ヒートへ移籍する事になった。
迎えた2003-04シーズン、平均17.1得点、9.7リバウンド、4.1アシストと本来の実力を発揮し、エディー・ジョーンズや期待の新人ドゥエイン・ウェイドらとともにヒートをプレイオフに導いた。
ウェイドらチームメイトからの信頼も厚く、再びその能力を評価されるようになったオドムだったが、ロサンゼルス・レイカーズのシャキール・オニールの移籍が濃厚となると、オニールを獲得するためのトレード要員としてレイカーズへ移籍する事になった。
移籍当初はエースのコビー・ブライアントとのコンビも上手く機能せず、チームも11シーズンぶりにプレイオフを逃してしまうなど期待を裏切る結果となったが、フィル・ジャクソンがヘッドコーチに復帰してからはオフェンスシステムの鍵を握る選手として存在感を増していく。
2008-09シーズンはシックスマンとして起用され、どのような状況でも対応できるオドムの多彩さはレイカーズの7シーズンぶりとなる優勝に大きく貢献した。
さらに、翌2009-10シーズンに2連覇を達成、シーズン終了後に出場した世界選手権で金メダル獲得、続く2010-11シーズンに初の個人賞となるシックスマン賞を受賞と、オドムのキャリアは絶頂期を迎える。
しかし、レイカーズが優勝から遠ざかり始めた頃にオドムのトレードが計画され、これを知ったオドムはプレーする事を拒否して自らトレードを要求した。
2011年にレイカーズを去ってからは以前のような活躍を見せる事ができず、行方不明騒動や飲酒運転などトラブルメーカーとしてコート外の行動が話題となった。
2014年、シーズン終了間際の4月にニューヨーク・ニックスと契約したが、プレーする事なく同年6月に契約を解除されている。
youtube:http://youtu.be/6JNRze_mUlc
6.ウォーリー・ザービアック(Wally Szczerbiak)
出身校:マイアミ大学
ポジション: SF
所属チーム:MIN(1999~2006)→BOS(2006~2007)→SEA(2007~2008)→CLE(2008~2009)
キャリア平均:14.1PPG、4.0RPG、2.4APG、.406 3P%
オールスター出場:1回(2002)
スペインに生まれ、ニューヨーク州ロングアイランドに育つ。
ミネソタ・ティンバーウルブズでは1年目から平均11.6得点、FG成功率51.1%を記録するなど活躍し、高いシュート力と気迫あふれるプレーでチームの中心選手へと成長していく。
3年目の2001-02シーズンに平均18.7得点、FG成功率50.8%、スリーポイントシュート成功率45.5%という数字を残し、初のオールスターに選出された。
エースのケビン・ガーネットとともにウルブズを代表する選手となった一方で、ボールを独占するプレースタイルが批判される事もあり、練習中にガーネットと殴り合いの乱闘騒動を起こすなど我の強さも話題となった。
2003-04シーズンにリーグの大物選手であるサム・キャセールとラトレル・スプリーウェルが加入し、チームは注目を集める中で58勝24敗という好成績を残したが、ザービアックは故障で28試合の出場にとどまるなど不本意なシーズンとなった。
2006年にボストン・セルティックスへとトレードされ、ポール・ピアースのバックアップとして献身的なプレーを見せていたが、出場時間の減少に加えて故障の影響もあり、個人成績を大きく下降させた。
その後は移籍を繰り返し、2008-09シーズン終了後に3度目となる膝の手術を行うと、現役からの引退を決断した。
youtube:http://youtu.be/pP51Xf-wehg
7.リチャード・ハミルトン(Richard Hamilton)
出身校:コネチカット大学
ポジション:SG、SF
所属チーム:WAS(1999~2002)→DET(2002~2011)→CHI(2011~2013)
キャリア平均:17.1PPG、3.1RPG、3.4APG
オールスター出場:3回(2006~2008)
愛称は「リップ」。
疲れ知らずのスタミナでコートを走り回り、いくつものスクリーンを利用して精度の高いジャンプショットで得点を重ねた。
高校時代から同地区で活躍するコービー・ブライアントとともにその名を知られ、大学進学後はコネチカット大をNCAAトーナメント優勝に導いた。
ワシントン・ウィザーズ入団1年目はミッチ・リッチモンドの控えを務め、2年目のシーズン途中から先発に昇格して平均18.1得点を記録する。
2001-02シーズンには現役復帰を果たしたマイケル・ジョーダンとともにプレーし、平均20.0得点を記録する活躍を見せたが、ウィザーズはプレイオフに進む事ができず、シーズン終了後にジェリー・スタックハウスとのトレードでデトロイト・ピストンズへと移籍した。
憧れのジョーダンの信頼を勝ち取る事ができず見捨てられたとショックを受けるハミルトンに対し、GMのジョー・デュマースはジョーダンをブロックする自身の現役時代の写真を見せ、「神様にも間違いはある。君は神様を見返せばいい。」と慰めた。
ピストンズはハミルトンらを中心に強豪へと返り咲き、2004年には前代未聞の大型補強で話題をさらっていたロサンゼルス・レイカーズとファイナルで対戦、下馬評を覆す4勝1敗という結果で14シーズンぶりとなる優勝を果たした。
ファイナルMVPの栄冠は兄と慕うチャウンシー・ビラップスに譲ったが、ハミルトンはチームトップとなるシリーズ平均21.4得点を記録し、自身初の優勝に大きく貢献している。
ピストンズでは2011年まで9シーズンを過ごし、2005-06シーズンから3年連続でオールスターに選出されるなどリーグを代表するシューティングガードとして活躍を続けた。
ピストンズで記録したプレイオフでの総得点数は現在チーム歴代1位の記録となっている。
youtube:http://youtu.be/eyPSB68IvsI
8.アンドレ・ミラー(Andre Miller)※現役
出身校:ユタ大学
ポジション:PG、SG
所属チーム:CLE(1999~2002)→LAC(2002~2003)→DEN(2003~2006)→PHI(2006~2009)→POR(2009~2011)→DEN(2011~2014)→WAS(2014~2015)→SAC(2015)→MIN(2015~2016)→SAS(2016)
キャリア平均:12.5PPG、3.7RPG、6.5APG、1.2SPG
ニックネームは「ザ・プロフェッサー」。
クリーブランド・キャバリアーズに入団し、2年目の2000-01シーズンに82試合全てに先発で出場して平均15.8得点、8.0アシストを記録する。
翌2001-02シーズンには平均10.9アシストを記録し、初のアシスト王に輝いた。
シーズン終了後、ミラー獲得を切望していたロサンゼルス・クリッパーズにトレードで移籍し、戦力が揃いながら低迷から抜け出せずにいるチームの浮上を期待される。
しかし、故障者が続出した事もあって期待されたほどの成果をもたらす事ができず、1シーズンのみでチームを去る事になった。
ジャーニーマンとして多くのチームの渡り歩いているが、チーム戦術を正確に理解し、チームを正しい方向に導く事のできる能力はコーチ陣だけでなくチームメイトからも高い評価を受けた。
ナゲッツ在籍時にヘッドコーチを務めていたジョージ・カールは、「実際に起こる前に感じ、見ることのできる選手」とミラーを評している。
また、「鉄人」と呼ばれるほどの頑丈さを持ち、欠場の少ない選手としても知られている。
2007-08シーズンに31歳にしてキャリアハイとなる平均17.0得点を記録し、その後も平均15得点前後を記録するなど、常にコンディションを維持し長く活躍を続けている。
youtube:http://youtu.be/VCll14sypvs
9.ショーン・マリオン(Shawn Marion)
出身校:ネバダ大学ラスベガス校
ポジション:SF、PF
所属チーム:PHO(1999~2008)→MIA(2008~2009)→TOR(2009)→DAL(2009~2014)→CLE(2014~2015)
キャリア平均:15.2PPG、8.7RPG、1.9APG、1.5SPG、1.1BPG
オールスター出場:4回(2003、2005~2007)
人間離れした脅威的な跳躍力を持ち、デビュー時に大ヒットした映画に因んで「マトリックス」の異名で呼ばれる。
フェニックス・サンズ入団当初は控えとしてプレーしたいたが、当時からインパクトのあるプレーを連発し、注目を集める活躍を見せた。
先発に定着した2年目のシーズンにチームトップとなる平均17.3得点、10.7リバウンド、1.4ブロックを記録する。
長い腕と高い身体能力を武器にリバウンドでも活躍し、主にスモールフォワードとしてプレーしながら常にランキング上位に名を連ねた。
独特のシュートフォームではあったもののアウトサイドシュートにも優れ、平均21.2得点を記録した2002-03シーズンにはチームトップとなる141本のスリーポイントシュートを成功させたほか、成功率も38.7%と高い数字を残している。
2004-05シーズンはラン&ガンオフェンスを掲げるチーム方針によりスモールフォワードからパワーフォワードへとコンバートされ、スモールラインナップとなったサンズは新加入のスティーブ・ナッシュのリードにより、圧倒的な攻撃力でリーグを席巻するチームへと変貌を遂げる。
攻守両面で存在感を発揮するマリオンはリーグを代表するフォワードとして評価を高め、翌2005-06シーズンには平均21.8得点、11.8リバウンド、2.0スティール、1.7ブロック、FG成功率52.5%を記録するなどキャリア最高のシーズンを送った。
一方でチーム内でのナッシュ、アマレ・スタウダマイアーに次ぐ3番手という扱いに不満を漏らし、2007-08シーズン途中にデビューから9シーズンを過ごしたサンズを去ることになった。
移籍後はチームを支えるロールプレイヤーへと役割が変わっていったが、攻守に貢献度の大きいベテランとしてプレーを続け、ダラス・マーベリックス在籍時の2011年に念願のチャンピオンリングを獲得している。
youtube:http://youtu.be/WwRd3030yhQ
10.ジェイソン・テリー(Jason Terry)※現役
出身校:アリゾナ大学
ポジション:SG、PG
所属チーム:ATL(1999~2004)→DAL(2004~2012)→BOS(2012~2013)→BRK(2013~2014)→HOU(2014~2016)
キャリア平均:14.3PPG、2.4RPG、4.1APG、1.2SPG、.379 3P%
個人賞:Sixth Man of the Year1回(2008-2009)
アトランタ・ホークスでの1年目は控えとしてプレーし、チームトップとなる平均4.3アシスト、1.1スティールを記録した。
先発に定着した2年目のシーズンに平均19.7得点を記録し、低迷期にあったホークスにとって待望のフランチャイズプレイヤー誕生を予感させる活躍を見せた。
しかし、テリーの活躍も虚しくホークスは低迷から抜け出す事ができず、激しく選手が入れ替わる中で5シーズンに渡りプレーを続けたが、2003-04シーズンの終了後にダラス・マーベリックスへとトレードされた。
テリーを放出したホークスがチーム史上最低となる13勝68敗という成績に沈んだ一方で、テリーは強豪マーベリックスで移籍1年目に自身初のプレイオフを経験する。
シーズン中は安定感を欠き、数字を大きく落としていたテリーだったが、プレイオフではエースのダーク・ノビツキーに次ぐ平均17.5得点を記録し、翌2005-06シーズンからは先発の一角としてホークス時代と変わらない得点力を発揮した。
シーズン終了後、テリーはチームと6年契約を結び、主力選手が固定されたマーベリックスはその後も強豪として好成績を残していく。
ジェイソン・キッドの加入により2007-08シーズン途中から控えとしてプレーする事になったが、得点に集中できる環境を与えられたテリーは翌2008-09シーズンに平均19.6得点を記録し、シックスマン賞に輝く活躍を見せた。
2010-11シーズンにはチーム史上初となる優勝にも貢献し、ファイナルではシリーズ平均18.0得点を記録、優勝が決まった第6戦ではチームトップとなる27得点を叩き出している。
名前のイニシャルから「JET」のニックネームで呼ばれ、重要なシュートを決めた後は両腕を翼のように広げて走るパフォーマンスを見せた。
従兄のマーテル・ウェブスターも2006年にNBAデビューしている。
youtube:http://youtu.be/eE08TIt68dA
13.コーリー・マゲッティ(Corey Maggette)
出身校:デューク大学
ポジション: SF、SG、PF
所属チーム:ORL(1999~2000)→LAC(2000~2008)→GSW(2008~2010)→MIL(2010~2011)→CHA(2011~2012)→DET(2012~2013)
キャリア平均:16.0PPG、4.9RPG、2.1APG
198cmという身長に強靭なフィジカルと高い身体能力を備え、スモールフォワードとシューティングガードをこなす得点力に優れたスウィングマンとして活躍した。
オーランド・マジックでルーキーシーズンを過ごし、満足な出場時間を与えられないままシーズン終了後にロサンゼルス・クリッパーズへとトレードされた。
移籍後は着実に個人成績をアップさせ、2001年に加入した大学時代のチームメイト、エルトン・ブランドとともにチームを牽引する中心選手へと成長する。
2003-04シーズンにはチームトップとなる平均20.7得点を記録したが、その活躍がチームの成績に結びつかず、8シーズン在籍したクリッパーズでプレイオフを経験したのは皮肉な事にマゲッティが長期欠場を強いられた2005-06シーズンのみとなった。
2008年にゴールデンステイト・ウォリアーズと大型契約を結び、先発・控えを問わない起用の中で2シーズンにわたりチームの得点源として活躍したが、2010年にトレードされてからは故障に苦しむシーズンが続き、デトロイト・ピストンズで18試合に出場した2012-13シーズンがNBA最後のシーズンとなった。
youtube:http://youtu.be/DArfTu7K4JY
16.メッタ・ワールド・ピース(Metta World Peace) ※現役
出身校:セントジョンズ大学
ポジション: SF
所属チーム:CHI(1999~2002)→IND(2002~2006)→SAC(2006~2009)→HOU(2008~2009)→LAL(2009~2013)→NYK(2013~2014),LAL(2015~2016)
キャリア平均:13.5PPG、4.6RPG、2.7APG、1.8SPG
個人賞:Defensive Player of the Year1回(2003-2004)
ALL TEAM:All-NBA 3rd 1回、All-Defensive 1st 2回、All-Defensive 2nd 2回
オールスター出場:1回(2004)
ポイントガードからパワーフォワードまでを抑え込むディフェンス力を持ち、その激しいプレースタイルから「Tru Warier(トゥルー・ウォリアー)」と呼ばれた。
ロン・アーテストとして生まれ、2011年に現在のメッタ・ワールド・ピースに改名している。
シカゴ・ブルズに入団し、下位指名ながら平均12.0得点を記録するなど1年目から即戦力として活躍する。
2002年にインディアナ・ペイサーズに移籍してからはリーグ屈伸のディフェンダーとして評価が高まり、2003-04シーズンには初のオールスターに選出されたほか、初めて最優秀守備選手賞も受賞した。
チーム状態も良く、優勝候補にも挙げられて2004-05シーズンを迎えたが、シーズン序盤の試合でアーテストが前代未聞の乱闘騒動を起こす。
アーテストとデトロイト・ピストンズの選手との小競り合いがピストンズファンをも巻き込む騒動に発展し、最終的にアーテストが観客を殴るという事件となった。(パレスの騒乱)
アーテストはシーズン残りの73試合を出場停止となり、ペイサーズは辛うじてプレイオフに進出したものの初戦敗退、このシーズン限りでの引退を表明していたレジー・ミラーの幕引きとしては悔いの残る結末となった。
翌2005-06シーズン、停止処分が明けたアーテストはチームに対してトレードを要求し、これまでアーテストを擁護してきたチームメイトやチーム関係者の反感を買ってサクラメント・キングスへと移籍する。
アーテストの加入により、開幕から不調が続いていたキングスはプレイオフ争いに復帰し、その言動や行動から問題児のイメージを強めながらも再びリーグ屈指のディフェンダーとして存在感を発揮していく。
2008年、プレイオフ進出を逃していたアーテストは、ロサンゼルス・レイカーズとボストン・セルティックスが対戦するファイナルに足を運び、レイカーズの敗退を見届けると、レイカーズのロッカールームに姿を現し、「自分がいればこんな結果にはならなかった」とチームに対して自身の獲得を直談判した。
キングスが実施したトレードにより、アーテストはレイカーズではなくヒューストン・ロケッツでプレーする事になったが、プレイオフではレイカーズのコービー・ブライアントを相手に激しいディフェンスを見せ、オフにフリーエージェントとなってレイカーズと契約を結んだ。
2009-10シーズン、前年王者のレイカーズは新たにアーテストを加え、プレイオフを順当に勝ち上がっていく。
ファイナルでは2年前に敗退を喫した宿敵セルティックスとの対戦となり、シリーズは互いに譲らぬまま3勝3敗のタイで最終戦を迎えた。
両チームがショットの精度に苦しむ中、アーテストは20得点、5スティールと攻守に活躍を見せ、2年前の発言が正しかった事を証明するようにレイカーズの2年連続となる優勝に大きく貢献した。
2011年にメッタ・ワールド・ピースに改名。
2014年からは中国のプロリーグに移籍し、登録名を「ザ・パンダズ・フレンド」に改名するなど話題に事欠かなかったが、2015年にNBAに復帰し、再びレイカーズの一員としてプレーしている。
youtube:http://youtu.be/_aD_mKGqVWk
18.ジェームス・ポージー(James Posey)
出身校:ザビエル大学
ポジション: SF、SG、PF
所属チーム:DEN(1999~2002)→HOU(2002~2003)→MEM(2003~2005)→MIA(2005~2007)→BOS(2007~2008)→NOH(2008~2010)→IND(2010~2011)
キャリア平均:8.6PPG、4.7RPG、1.6APG、1.1SPG
相手チームのスコアラーをディフェンスするエースキラーとして活躍し、重要な局面で仕事をこなせる選手として、数字以上の高い評価を受けた。
デンバー・ナゲッツに入団し、攻守に貢献度の高い先発フォワードとして活躍した。
2003年にメンフィス・グリズリーズに加入し、2003-04シーズンに82試合全てに先発出場してキャリアハイとなる平均13.7得点、1.7スティールを記録、グリズリーズ初のプレイオフ進出に貢献した。
その後は控えとしてプレーする機会が多くなったが、アウトサイドのシュート力は精度を増し、攻守に重要な役割を担うシックスマンとして活躍を続けた。
2005年にマイアミ・ヒートに移籍し、移籍1年目に自身初となるチャンピオンリングを獲得した。
ポージーはプレイオフを通して相手チームのポイントゲッターを封じ込めるディフェンスを見せ、ドゥエイン・ウェイドらにディフェンスが集中したときはスリーポイントシュートを炸裂させた。
2007年にはボストン・セルティックスに移籍し、またも移籍1年目にチームが優勝を果たすと、大舞台で大きな活躍を見せるポージーは優勝請負人と呼ばれるようになった。
2011年に現役を引退し、その後はマイナーリーグのコーチを経て、故郷クリーブランドに本拠地を置くキャバリアーズのアシスタントコーチに就任している。
youtube:http://youtu.be/tQZcnPlC4tg
21.ジェフ・フォスター(Jeff Foster)
出身校:テキサス州立大学
ポジション: C
所属チーム:IND(1999~2012)
キャリア平均:4.9PPG、6.9RPG、0.9APG
ドラフトではゴールデンステイト・ウォリアーズから指名されたが、直後にインディアナ・ペイサーズにトレードされ、以降、引退するまでの13シーズンをペイサーズで過ごした。
キャリアの大半を控えとして過ごし、オフェンス機会は少なかったものの、身体を張った泥臭い仕事をこなすスタイルでチームに不可欠な選手として活躍した。
2004-05シーズンは43試合で先発を務め、平均7.0得点、9.0リバウンドを記録している。
キャリア晩年は背中の故障に苦しみ、2011-12シーズンを最後に現役を引退した。
入団から引退までペイサーズに所属したのは、レジー・ミラー以来2人目となった。
youtube:http://youtu.be/-2wbkrWJIp0
24.アンドレイ・キリレンコ(Andrei Kirilenko)
ポジション: SF、PF
所属チーム:UTA(2001~2011)、MIN(2012~2013)→BRK(2013~2015)
キャリア平均:11.8PPG、5.5RPG、2.7APG、1.4SPG、1.8BPG
ALL TEAM:All-Defensive 1st 1回、All-Defensive 2nd 2回
オールスター出場:1回(2004)
ソビエト連邦ロシアイジェフスク出身。
出身地で製造される自動小銃「AK-47」に因んで背番号47を着用し、ユタ・ジャズ時代に「AK-47」のニックネームを名付けられた。
ほかに「蛇男」、「ゴム人間」の異名を持つが、本人は好んでいないとの事。
1999年のドラフトでユタ・ジャズから指名されたが、当時所属していたロシアCSKAモスクワとの契約が残っていたため、2001年になってNBAにデビューする。
最初の2シーズンは控えとしてプレーしながら平均得点は2桁を超え、とくに長い腕をいかしたディフェンスで早くも存在感を発揮した。
2年目のシーズン終了後、長くジャズを支えてきたカール・マローンとジョン・ストックトンがそれぞれ移籍と引退でチームを去り、新たにチームを背負って立つ存在としてキリレンコに期待が集まる。
2003-04シーズン、先発に昇格したキリレンコは平均16.5得点、8.1リバウンド、3.1アシスト、1.9スティール、2.8ブロックというオールラウンドな数字を残し、さらにトリプル・ダブルよりも難しいとされるファイブ・ファイブス(主要5部門全てで5以上を記録すること)を2度記録するなど万能選手として高い能力を発揮、低迷が予想されたジャズをプレイオフへ導く活躍を見せた。
翌2004-05シーズンは故障により41試合の出場にとどまり、チームもプレイオフを逃してしまったが、平均3.3ブロックを記録し、スモールフォワードとしては異例のブロック王に輝いている。
ストックトン&マローン以降のジャズを中心選手として支えたが、次第に若い選手が台頭を見せ始めると、キリレンコは望む役割を得られずに数字を下降させ、チームに対してトレードを要求するようになっていく。
ジャズとは関係を悪化させながらもプレーを続けていたが、2011-12シーズンにロックアウトの影響で開幕が12月後半にずれこむと、キリレンコはプレーする場を求めて古巣のCSKAモスクワに復帰した。
2012-13シーズンにNBAに復帰し、ミネソタ・ティンバーウルブズやブルックリン・ネッツでプレーした。
youtube:http://youtu.be/MwI06YzO-j8
57.マヌ・ジノビリ(Manu Ginobili)※現役
ポジション:SG
所属チーム:SAS(2002~2016)
キャリア平均:14.0PPG、3.7RPG、4.0APG、1.4SPG、.369 3P%
個人賞:Sixth Man of the Year1回(2007-2008)
ALL TEAM:All-NBA 3rd 2回
オールスター出場:2回(2005、2011)
本名はエマニュエル・ダヴィド・ジノビリ。
アルゼンチンのバスケットボール一家に生まれ、コーチを務める父親やプロ選手として活躍する兄弟に囲まれる中で、自身もアルゼンチンのプロリーグで活躍する選手へと成長した。
1999年、イタリアのセリエA在籍中にNBAのサンアントニオ・スパーズからドラフト指名を受けたが、ジノビリはイタリアでのプレーを続行し、ユーロリーグ制覇やMVP受賞など、ヨーロッパ最高峰の選手として活躍した。
2002年に行われた世界選手権にアルゼンチン代表として出場し、国際大会にNBA選手を送り込み始めてから無敗を続けるアメリカを予選で破る大金星を挙げた。
2002-03シーズンからスパーズに加わり、1年目にしてNBA優勝を経験する。
しかし、その活躍はまだ限定的であり、ジノビリ自身は故障もあって目立った成績を残す事はできなかった。
2年目になると出場時間も増え、徐々に注目を集める活躍を見せ始めていたが、シーズン終了後に開催されたアテネ五輪ではジノビリを中心としたアルゼンチン代表が連覇を続けるアメリカ代表を決勝トーナメントで破り、世界に衝撃を与えた。
イタリアとの決勝戦を制して金メダルを獲得すると、チームトップの平均19.3得点を記録し、勝負強いプレーでチームを牽引してきたジノビリが大会MVPの栄冠に輝いた。
NBAでもその評価は高まり、欧州の選手が見せる「ユーロステップ」は、ジノビリの活躍により「ジノビリ・ステップ」と呼ばれるようになった。
ティム・ダンカン、トニー・パーカーとともにスパーズのBIG3と呼ばれ、10年以上にわたりチームを支える長期的な活躍を続ける。
また、プレイオフやファイナルなど大舞台になるとシーズン以上の活躍を見せ、これまで4度の優勝に大きく貢献している。
2007-08シーズンは控えとしてプレーしながらチームトップとなる平均19.5得点を記録し、シックスマン賞を受賞した。
2012-13シーズン終了後に一時引退を示唆したが、スパーズと2年契約を結んで現役続行を決めている。
youtube:http://youtu.be/iPSXDDg-aZw