サム・パーキンス player profile④

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私が初めてサム・パーキンスを見たのは、シアトル・スーパーソニックス時代のこと。
当時のソニックスはフルコートゾーンプレスを武器にコート狭しと走り回り、窒息してしまいそうなディフェンスからボールを奪っては相手ゴールに襲い掛かっていました。
そんなアップテンポなゲーム展開の中で、ノソノソとオフェンスに後からついていき、パスを受けたら平然とスリーポイントシュートを決め、またノソノソとディフェンスに戻っていく、そんな選手がいました。
それがパーキンス。
まだNBAを観始めたばかりの頃ですが、そんな私が見ても、とにかく異質。
センターなのにインサイドに入らない。
スリーポイントシュートばかり打つ。
しかもそれが入る。
そして何よりもマイペース。
間違い探しで、「間違い」がど真ん中にドンっと居座っているような、そんな衝撃を受けた覚えがあります。
今回は存在感抜群、スリーポイントシュートを武器に長い現役生活を送ったビッグマン、サム・パーキンスにスポットをあててみます。

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Sam・Perkins(サム・パーキンス)

誕生日 1961年6月14日
デビュー 1984年(ダラス・マーベリックス)
引退 2001年(インディア・ペイサーズ)
ポジション パワーフォワード/センター
身長・体重 206cm・107kg
キャリア通算平均 11.9PPG、6.0RPG、1.5APG、.362 3P%

 

ノースカロライナ大学時代

パーキンスはニューヨーク・ブルックリンに生まれ、ニューヨークの高校からカレッジバスケの超名門校ノースカロライナ大学へ進学します。
1年先輩にはジェームズ・ウォージー、1年後輩にはマイケル・ジョーダンがいました。
パーキンスはこの名門校で1年生時から主力を務め、ウォージー、ジョーダン、パーキンスが揃った1982年にはNCAAトーナメント優勝も果たしています。
この決勝戦では終了間際に決めたジョーダンの決勝点が「マイケル・ジョーダンが“マイケル・ジョーダン”となった瞬間」としてあまりに有名ですが、ジョーダンにシュートを打たせるという選択は、エースのウォージー、もしくはセカンド・オプションのパーキンスがシュートを狙うと考えた相手チームの思惑の裏をついたものでした。
このシュートが決まるまでパーキンスの格付けはジョーダンよりも上だったのです。
ジョーダンは翌シーズンから全米屈指の選手として注目を浴びますが、パーキンスもプロのスカウトが注目する選手として活躍を続けます。
1983年、パーキンスは3学年終了時にNBAへのアーリーエントリーを検討しますが、教え子が最も高い評価を受けるタイミングでのNBA入りを勧めるディーン・スミスコーチの判断により、パーキンスは翌シーズンも大学に残ってプレーを続けます。
結果、これが吉とでます。
パーキンスは大学最終年にAP通信が選ぶオールアメリカン1stチームにジョーダンとともに選出され、満を持して臨んだ1984年のNBAドラフトでは、ジョーダンに次ぐ全体4位という高い評価でダラス・マーベリックスから指名を受けます。
更には1984年のロサンゼルス・オリンピックにも出場し、金メダルという手土産を引っ提げて、いよいよNBAへのステージに進みます。
 

伝説の1984年ドラフト組

NBAドラフトで豊作の年といえば、レブロン・ジェームズやドゥエイン・ウェイド、カーメロ・アンソニーらがデビューした2003年、アレン・アイバーソンコービー・ブライアントらの1996年が知られていますが、その中でもいまだ多くのファンが史上最大の当たり年と位置付けているのが1984年のドラフトです。
1位指名のアキーム・オラジュワン、3位指名のマイケル・ジョーダンは揃って新人時代から別次元のプレーを披露し、パーキンスよりも後に指名されたチャールズ・バークリージョン・ストックトンらも、NBA史にその名を刻む活躍を見せました。
この錚々たる面々が揃う新人たちの中で、パーキンスも1年目から82試合全てに出場し、その半分で先発を務めるなど早くから主力として活躍を始めます。
この頃はまだスリーポイントシュートを狙う機会もあまりありませんでしたが、柔らかいシュートタッチを武器にシーズン平均11.0得点を記録し、ジョーダンやオラジュワンらとともにオール・ルーキー1stチームに選出されています。
翌年からは先発に定着し、高いオフェンス力を誇る強豪マブスで平均15得点を稼ぎ出す中心選手へと成長しますが、同期のライバルたちと比べて華やかさがなかったのか、オールスターゲームとは縁のないキャリアを送ることになりました。
それでもチーム史上初めて30得点&20リバウンド以上を記録するなど、チームに不可欠な選手としてその存在感を増していきます。
 

ジョーダンの壁

1990年、フリーエージェントとなったパーキンスは、デビューから6シーズンを過ごしたマーベリックスを離れ、大学時代のチームメイト、ジェームズ・ウォージーのいるロサンゼルス・レイカーズへ移籍します。
1990-91シーズン、パーキンスはレイカーズの一員として自身初となるファイナルに出場し、こちらも大学時代のチームメイト、マイケル・ジョーダン擁するシカゴ・ブルズと激突します。
シリーズ初戦、このシーズンから増え始めたパーキンスのスリーポイントシュートがこの大事なゲームでも冴えわたり、4本中3本を成功させてチーム最多タイとなる22得点を奪取。
さらに接戦のまま進んだゲーム終盤、勝利を決定付ける値千金のスリーを沈め、チームに貴重な1勝をもたらします。
が、
レイカーズはこの後、ブルズの前に4連敗を喫し、パーキンスはジョーダンの初優勝を目の前で見届ける事になりました。
その後、1992-93シーズン途中にトレードでシアトル・スーパーソニックスへ移籍。
移籍後はベンチからの起用が多くなりましたが、このあたりからスリーポイントシュートに特化したパーキンスのスタイルが確立され、平均12.7得点を記録した1994-95シーズンにはチーム最高の136本を成功、その成功率も39.7%と高い数字を残しました。
前述したとおり、私がパーキンスを観始めたのはこの頃なのですが、個人的なイメージからパーキンスを一言で表すと、「嫌な選手」。
とにかく嫌な所で決めてくる。
それも何食わぬ顔で軽く放ってくる。
チームに勢いをもたらすのは、ショーン・ケンプのダンクだったり、ゲイリー・ペイトンのペネトレイトだったと思いますが、
相手に流れが傾きかけたとき、反撃の糸口が見えかけたときに、それを無情に潰すのがパーキンスのスリーでした。
32~33歳のベテラン選手でしたが、見た目よりも老けて見えるパーキンスに「何なんだ、このオッサン」と苦々しく思っていた記憶があります。
そんなパーキンスですが、ソニックス在籍時、1995-96シーズンにも自身2度目のファイナルを経験します。
しかし、ここでまたしてもマイケル・ジョーダンのシカゴ・ブルズの前に優勝への行く手を阻まれてしまいます。
このシーズンのソニックスはチーム史上最高の64勝18敗という驚異的な成績を収めていましたが、
ブルズは72勝10敗という歴史的なシーズンをおくり、ソニックスはその壮大な旅の締めくくりに華を添える形となってしまいました。
 
選手としての晩年、パーキンスはインディアナ・ペイサーズでプレーしていました。
デビューから長らく2桁を記録していた平均得点は、このとき5点前後まで下降していましたが、
パーキンスがスリーを放つと、
アリーナのファンは一斉に彼のニックネーム、「スムース!!」を叫んでいました。
このペイサーズ在籍時の1999-00シーズンにも、パーキンスにとって3度目となるファイナルに出場しますが、かつて在籍したレイカーズの前に敗れ、3度目の正直、というわけにはいきませんでした。
翌2000-01シーズン終了後、39歳で現役引退を表明。
17年間での通算得点は、15,324得点。
スリーポイントの成功率は36.2%でした。
ファンに愛されたパーキンス。
今では50歳を超え、そろそろ見た目と実年齢が一致したのかな~と考えてしまう今日このごろです。

 

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