マムード・アブドゥル=ラウーフ player profile⑥

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マムード(マクムード)・アブドゥル=ラウーフ。
首や肩を小刻みに動かす仕草を見せながらドリブルし、ディフェンスが反応できないような速いモーションからジャンプショットを放つ。
しかもそれがリングに触れず、「パシュッ!」という軽い音をたててネットに沈む。
日本でも人気の高かったラウーフはデンバー・ナゲッツなどで活躍し、NBAを離れてからは海外、日本でもプレーしていました。
今回はまさに波乱万丈ともいえる、ラウーフのキャリアを追ってみたいと思います。
 

abdul-raufMahmoud Abdul-Rauf(マムード・アブドゥル=ラウーフ)

誕生日 1969年3月9日
デビュー 1990年(デンバー・ナゲッツ)
引退 2001年(バンクーバー・グリズリーズ)
ポジション ポイントガード/シューティングガード
身長・体重 183cm・73kg
キャリア通算平均 14.6PPG、1.9RPG、3.5APG、.905FT%

 

ハンデによって磨かれたシュート力

マムード(マクムード)・アブドゥル=ラウーフ。
1969年、ミシシッピ州ガルフポートに、クリス・ジャクソンとして生まれます。
ラウーフという名前は、イスラム教への改宗を機に、NBA入り後の1991年に改名したものです。
ラウーフのトレードマークとして、首や肩をしきりに小刻みに動かす仕草が知られていますが、これは「チック」と呼ばれる、トゥレット症候群という神経系疾患の症状によるものでした。
トゥレット症候群は突発的に、しかも意図せずにある筋肉に運動が起きたり、汚い言葉を罵ったりしてしまう神経精神疾患だそうです。
トゥレット症候群の患者の特長のひとつとして、同じ動作を繰り返し行ってしまうというものがあります。
幼い頃からトゥレットに悩まされていたラウーフは、バスケを始めて以来、来る日も来る日もシュート練習を繰り返し、同じフォーム、同じ軌道、納得のいくシュートが目標数に到達するまで延々とシュートを打ち続けました。
しかし、これは情熱と呼ばれる類のものではなく、強迫的観念から炎天下の中だろうと雨の中だろうと、止めたくても止める事ができずに涙を流しながら行っていたものだそうです。
NBA史に残るピュア・シューターとして知られるレイ・アレンも、自身の強迫性人格障害を告白し、ラウーフと同じような経験をした事を語っています。
ラウーフにとって、この完璧主義は呪いと同義語だったのかもしれませんが、その成果は確実なシュート力となって実を結ぶこととなります。
有望な高校生が招待されるナイキ主催のキャンプに参加したラウーフは、そこでマイケル・ジョーダンを相手に1on1を挑む機会を得ます。
NBAで全盛期を迎えていたジョーダンを相手に得点を重ね、このときに自身も十分にNBAでプレーできると確信したそうです。
高校卒業後はルイジアナ州立大(LSU)へと進学し、ここで1年目から驚異的なパフォーマンスを見せます。
すぐにエースとしてチームを牽引する存在となり、AP通信が選ぶオールアメリカン1stチームに選出。
このときに記録した平均30.2得点は、1年目の選手の成績としてNCAA歴代最高の数字となりました。
翌年には後輩にシャキール・オニールが入学しますが、チームの顔は依然としてラウーフ。
2年連続でオールアメリカン1stチームに選出され、全米屈指の選手として注目されるラウーフは、卒業を待たずにアーリエントリーを表明。
1990年のNBAドラフトでは、デンバー・ナゲッツから1巡目全体3位で指名され、高い評価を受けてNBAへと進みます。
 

挫折と復活

NBAデビューとなった1990-91シーズン、大きな注目を集めてデンバー・ナゲッツに入団したラウーフでしたが、
このシーズンは身長178cmの苦労人、マイケル・アダムズが覚醒したシーズンでもありました。
アダムズから先発ポイントガードの座を奪えずにいたラウーフは、主にベンチからの起用で平均14.1得点とまずまずの成績を残します。
シーズン終了後、フリーエージェントとなったアダムズがチームを去ったことで、ラウーフに大きなチャンスが回ってきます。
しかし、2年目のシーズンは体重を増加させてしまうなどコンディション管理に問題があり、1年目の成績を大きく下回る結果に終わりました。
チームも2年連続で最下位争いを演じるなど低迷から抜け出せず、期待を裏切るラウーフに批判が集中、ファンやメディアからNBAに必要のない選手とまで酷評されました。
正念場を迎えるラウーフ。
チームも再建に向けて動き出します。
その大きな一手となったのが、ナゲッツのレジェンドでもあるダン・イッセルのヘッドコーチ就任でした。
イッセルはオフの間に選手それぞれと話し合い、ラウーフに対してもチームにとって必要な選手であり、コンディションを整えて新しいシーズンに臨んで欲しい事を伝えます。
こうして迎えた1992-93シーズン、
引き締まった身体つきで現れたラウーフは、見違えるようにキレのある動きでチームオフェンスを牽引し、チームトップとなる平均19.2得点を記録。
その活躍を評価され、このシーズンに最も成長した選手に贈られる、MIP(Most Improved Player)の受賞者となったのです。
チームも前年から12勝の勝ち星を増やして改善の兆しを見せると、翌1993-94シーズンには42勝40敗で勝ち越しを決め、4シーズンぶりのプレイオフ進出を決めます。
そして、ナゲッツはこのプレイオフで大波乱を起こします。
第8シードでプレイオフに滑り込んできたナゲッツは、圧倒的な成績で第1シードを勝ち取ったシアトル・スーパーソニックスに対して一歩も怯むことなく渡り合い、激闘の末にこれを打ち破ります。
これは第8シードのチームが第1シードを破るという、NBA史上初となる大アップセットとなりました。
ラウーフはこのプレイオフでは控えめな活躍でしたが、
ナゲッツは続くカンファレンス準決勝でも優勝候補のユタ・ジャズを相手に最終戦までもつれ込む健闘を見せ、惜しくも敗れたものの、今後のさらなる飛躍を期待できるシリーズとなりました。
しかし、明るい未来が待ち受けているかに思われたナゲッツでしたが、徐々に雲行きが怪しくなっていきます。
 

国歌斉唱問題

1994-95シーズン、シーズン中盤に差し掛かる頃、勝率5割を超えているにもかかわらず、ヘッドコーチのイッセルが突然辞任してしまいます。
選手からの信頼が厚いとされていたイッセルの辞任がナゲッツ迷走のきっかけとなったのか、これ以降、チームには次々と問題が発生していきます。
主力は故障に苦しみ、選手とフロントとの確執が表面化。
ナゲッツはなんとかプレイオフに辿り着いたものの、前年のようなミラクルを起こすことなく、サンアントニオ・スパーズの前に1勝もできずに完敗。
そして翌シーズンからはまさにどん底とも言える低迷期が始まるのですが、
その引き金となったのは、全米を騒然とさせた、ラウーフの国歌斉唱問題でした。
1995-96シーズン、
ラウーフは開幕から好調を維持し、1試合51得点、30得点&20アシストを記録するなど、キャリアハイを予感させるシーズンを送っていました。
そのさなか、問題の事件が起こりました。
1996年3月12日。
リーグは試合開始前のアメリカ国歌斉唱のときに立ち上がらなかったラウーフに対し、無期限の出場停止を命じます。
厳格なイスラム教徒のラウーフは、以前から試合開始前の国歌斉唱のセレモニーに参列せず、ロッカールームでひとり瞑想を行う事をルーチンとしていました。
これを問題視したナゲッツのフロントは、この行動をチーム内で処理せずにリーグに報告したのです。
ラウーフは国歌斉唱の間、イスラムの祈りを捧げることを認めてもらう事を条件にセレモニーへの参列を了解し、出場停止処分は結局1試合にとどまることになりました。
しかし、この問題はNBAの枠を超えて取り上げられる大きなニュースへと発展し、ラウーフは復帰後、ボールを持つたびに会場中から大きなブーイングを浴びる事になります。
「あのイスラム教徒をアメリカ国外へ追放しろ!」
この騒動は収まりを見せず、ラウーフは誹謗・中傷、さらには脅迫にさらされます。
結局、復帰後に4試合に出場した後、すぐに故障者リスト入りしてシーズン終了を迎え、そのままサクラメント・キングスへとトレードされる事になりました。
このチームの一連の対応に不信感を募らせたオールスターセンターのディケンベ・ムトンボは公然とフロントを批判し、自身もこの後にアトランタ・ホークスに移籍します。
崩壊していくナゲッツはプレイオフ進出も程遠い状態となり、2003年のカーメロ・アンソニー登場まで長い低迷期に突入することとなります。
ラウーフ自身もナゲッツ時代の活躍を見せることができず、2シーズンでキングスを退団。
その後は1シーズン限りでバンクーバー・グリズリーズに復帰するなど、海外を含めてバスケットボールをプレーしたりやめたりを続けていたそうですが、この期間にバスケットボールへの情熱が徐々に薄れていったと後に語っています。
 
2009年、
そのラウーフが日本でプレーする事になりました。
bjリーグ京都ハンナリーズに加入したラウーフの姿を生で観たいと思いながら、結局、願い叶う前に退団されてしまいました。
しかし、テレビで久々に観たインタビューを受けるラウーフは、以前の悲壮感漂うイメージはどこにもなく、随分とリラックスしている様子に何となくホッとしました。
ひょっとしたら遠征時の際に近くを歩いていたのかもしれないと想像をめぐらせながら、90年代中ごろに録画した擦り切れたビデオテープをいまだに観ています。
 

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