ウェイマン・ティスデイル player profile⑦

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2009年、
フェニックス・サンズなどで活躍したウェイマン・ティスデイルが亡くなった事をニュースで知りました。
44歳という若さでした。
骨癌におかされ、2年もの闘病生活を送っていた事、この期間に右足を切断していた事を、この時に初めて知りました。
大きな身体でいつも嬉しそうな笑顔が印象的だったティスデイル。
今回はこのティスデイルについて、そのキャリアを振り返ってみたいと思います。
 

1195090074Wayman Tisdale(ウェイマン・ティスデイル)

誕生日 1964年6月9日
デビュー 1985年(インディアナ・ペイサーズ)
引退 1997年(フェニックス・サンズ)
ポジション パワーフォワード
身長・体重 206cm・109kg
キャリア通算平均 15.3PPG、6.1RPG、1.3APG、.505FG%

 

少年時代

1964年、ティスデイルは牧師の子として生まれました。
彼の父、ルイ・ティスデイルはオクラホマ州タルサでは知られた牧師で、1997年に亡くなった際、地元の高速道路に「LLティスデイル・パークウェイ」とその名が命名されています。
少年時代のティスデイルはバスケットボールに対してそれほどの興味を持ってはおらず、2人の兄にピックアップゲームに連れられて行っても、すぐにひとりで帰宅してしまうような少年でした。
それでも8年生(日本の中学2年生)時にはダンクシュートができるようになり、徐々にスポーツに対して熱中し始めていきます。
バスケットボールの選手としてその才能を開花させていくティスデイルは、全米の優秀な高校生が招待されるマクドナルド・オール・アメリカンに選抜される選手へと成長し、大学は地元の有力校、オクラホマ大学へと進学します。
ティスデイルは大学に在籍した3年間、すべての年でAP通信が選ぶオールアメリカン1stチームに選出され、全米屈指の選手としてその名が知れ渡っていました。
そしてバスケと並行してティスデイルが情熱を注ぎこんだのは、音楽、ベースギターでした。
大学時代を通じて父親の教会での演奏を欠かさず、その重要性を理解していた大学のコーチは、日曜朝の演奏ができるようにとチームの練習時間を変更しました。
1984年、ロサンゼルス・オリンピックの代表に選ばれたティスデイルは、やマイケル・ジョーダンらとともに金メダルを獲得します。
翌年、1985年のNBAドラフトにエントリーし、パトリック・ユーイングに次ぐ2位指名でインディアナ・ペイサーズに入団。
高い期待を背負ってNBAへと進みます。

 

NBA時代

ティスデイルの入団したペイサーズは、1976年にABAからNBAに加入して以来、プレイオフ進出が1度きりと強豪ひしめくリーグの中で苦戦を強いられていました。
ティスデイルが入団する前年にはゴールデンステイト・ウォリアーズとともにリーグ最低勝率を分け合うなど低迷が続き、ドラフト2位という看板を背負って入団したティスデイルには当然、チームを浮上させる活躍が期待されていました。
入団1年目、ティスデイルは先発として60試合に出場し、平均14.7得点、FG成功率51.5%という堅実なプレーを見せます。
その後も15得点前後、FG成功率50%以上を記録するパワーフォワードとしてチームのインサイドを支え、3年目となる1986-87シーズンには久々のプレイオフ進出にも貢献しています。
しかしながら、カール・マローンチャールズ・バークリーら同世代のプレイヤーが「新時代のパワーフォワード」として評価を高めていくのに対し、中堅チームの脇役というポジションでしかなかったティスデイルに、入団当初に期待されていたチームを背負って立つ存在というのは荷が重いように思われました。
1988-89シーズン途中、ティスデイルはトレードの駒としてペイサーズを離れることになります。
向かった先はドアマットチームの代名詞、サクラメント・キングス。
リーグ屈指の歴史を持ち、後に人気チームとなるキングスも、このときは毎シーズのようにただ最下位争いを繰り返す、将来に何の希望を見出せない状態が続いていました。
ティスデイルはインサイドの選手層が薄いキングスで、移籍早々、得点源として活躍を始めます。
翌1989-90シーズン、キングスの先発フォワードとして開幕を迎えたティスデイルは、シーズンを通してチームの柱として活躍し、キャリアハイを大幅に更新する平均22.3得点という成績を残します。
しかし、その活躍がチームの成績アップには簡単に結びつかず、弱いチームでは熱心なNBAファン以外には注目されることもありませんでした。
1991年にはゴールデンステイト・ウォリアーズからミッチ・リッチモンドがトレードで加入し、ティスデイルとリッチモンドの2枚看板にチーム浮上の期待も高まりましたが、プレイオフ進出はままならず、注目される要素もないまま脚光を浴びることはありませんでした。
そんなティスデイルに、人気チームから声が掛かります。
サイズ不足に悩んでいたフェニックス・サンズがティスデイルに興味を持ち、1994年にキングスからサンズへ移籍することになります。
しかし、サンズでは主にチャールズ・バークリーのバックアップとしてベンチからのスタートとなり、それまで30分以上だった出場時間も20分以下へと激減します。
チームもティスデイル移籍1年目のシーズンこそディビジョン1位のタイトルを獲得しましたが、主力の故障が相次いでいたこともあり、1993年にファイナルに進んだ勢いはすでに陰りを見せていました。
1996年には、優勝を狙う態勢が整わないことに業を煮やしたバークリーがロケッツへと移籍。
サンズはバークリー移籍の見返りとして多くの有望な若手選手獲得に成功し、これによってティスデイルの出場時間はさらに限られていくようになります。
1996-97シーズン、デビュー以来、初めて1桁となる平均6.5得点の成績に終わり、シーズン終了後、32歳で12シーズンにわたる現役生活にピリオドを打ちます。
しかしティスデイルは立ち止まることなく、ここからいよいよ自身の活動を本格化させます。
 

人気ベーシストとして

バスケよりも音楽が好きだったというティスデイルは独学でベースを覚え、引退前の1995年にはファーストアルバムを発表しています。
NBAにはシャキール・オニールに代表されるように、音楽活動に精力的に取り組むプレイヤーが数多くいますが、スムース・ジャズ界ではティスデイルは左利きの人気ベーシストとして、その腕前を高く評価されていたそうです。
NBA引退後もコンスタントにアルバムを発表し、2008年にはデイブ・コーズの来日公演への出演も決まっていました。
しかし、骨癌と診断された2007年に右足を切断。
その後は杖をついてステージに上がり、椅子に腰掛け、いつもの笑顔を振りまきながらベースを弾いていたそうですが、
2009年、
44歳という若さでこの世を去ります。
ツアーの開始が決定した矢先の事だったそうです。
音楽の事は私には分かりませんが、ティスデイルがバスケットボールのコート上でファンに与えていた印象そのままに、彼の奏でるベースの音は非常に優しく繊細で人懐っこいものだったそうです。

この笑顔がもうこの世にないのかと思うと、悲しいというより不思議でなりません。
つねにファンの身近にあったティスデイルだからなのかもしれません。
実はティスデイルの曲をしっかりと聴いたことがないので、今日は思い出に浸りながらゆっくり聴いてみようと思います。

 

 

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