サム・ブーイ player profile⑩

NBAネタ
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1984年、NBA。

NBAファンであれば誰でもすぐに、マイケル・ジョーダンがドラフトされた年だと思い浮かべるでしょう。

ジョーダンをはじめ、後にNBA史にその名を刻む事になるプレイヤーが何人もドラフトされた、史上最高の大豊作と呼ばれる1984年のNBAドラフト

その華の世代の中で、ひとり、影を落とす人物がいます。

ドラフト2位で指名されたサム・ブーイ。

3位指名のジョーダンを上回る評価を受けてNBA入りしたがために、ドラフト史上、最悪のハズレ選手と評される事になりました。

ブーイとはどんな選手だったのか、そのキャリアにスポットをあててみたいと思います。

Sam Bowie(サム・ブーイ)

誕生日 1961年3月17日
デビュー 1984年(ポートランド・トレイルブレイザーズ)
引退 1995年(ロサンゼルス・レイカーズ)
ポジション センター
身長・体重 216cm・107kg
キャリア通算平均 10.9PPG、7.5RPG、2.1APG、1.8BP

学生時代

1961年、ブーイはペンシルバニア州レバノンに生まれました。

地元の高校でプレーし、平均28得点以上、18リバウンドをたたき出す超高校級センターとして全米にその名を轟かせます。

カレッジバスケの名門校、ケンタッキー大学へと進学すると、1年生にしてオリンピック代表に選ばれるまでの活躍を見せました。

残念ながら、モスクワで開催されたこの大会にアメリカがボイコットしたため、ブーイのオリンピック出場は叶う事はありませんでしたが、2年生時にはすでにカレッジバスケ界を代表する花形選手となっていました。

しかし、順調に見えたキャリアに、最初の試練が待ち受けていました。

左脚の故障に見舞われたブーイは、3年生時のシーズンを全て欠場することになります。

その怪我は予想以上に長引き、さらに翌シーズンまでも棒に振る最悪なものとなってしまいました。

それでもブーイは大学に残り、長く辛いリハビリに耐えてシニアの選手として5年目のシーズンに復帰します。

ここで見せた活躍により、ブーイは1984年のNBAドラフトで全体2位という高い評価を受けてNBA入りする事になります。

プロへ

ブーイを指名したポートランド・トレイルブレイザーズは、インサイドの補強を急務としていました。

彼らの第一の選択肢はヒューストン大学のアキーム・オラジュワンでしたが、オラジュワンはヒューストン・ロケッツから1位で指名されたため、故障持ちというリスクを考慮したうえで第2候補のブーイを獲得します。

脚の故障を不安視される中、ブーイはインサイドの要としてチームの期待に応えるルーキーイヤーを送ります。

76試合に出場した1年目のシーズン、オフェンスでは平均10.0得点と平凡な数字に終わったものの、リバウンドはチームトップの平均8.6本、さらにブロックではリーグ3位となる平均2.7本という数字を残しました。

順当にオールルーキー1stチームに選出されたブーイでしたが、その活躍は2人の同期新人によって霞んでしまう事になりました。

まず、1位で指名されたオラジュワンは、シーズン平均20.6得点、11.9リバウンド、2.7ブロックを記録し、リーグの勢力図を変えるほどのチーム躍進の原動力となっていました。

さらにこのオラジュワンをも上回る活躍を見せて新人王を獲得したのが、しばらくすると「神」とまで称賛される事になるマイケル・ジョーダンでした。

ジョーダンは平均28.2得点、6.5リバウンド、5.9アシスト、2.4スティールという新人離れの数字を残したほか、プレーのひとつひとつがファンに強烈なインパクトを与え、その活躍はNBAという枠を超えて社会現象を引き起こすほどでした。

この2人以外にも、同世代のライバルたちはリーグを代表する選手へと成長していきます。

その一方で、ブーイには再び悪夢が襲い掛かっていました。

2年目のシーズン、脚の故障を再発させてしまったブーイは44試合に欠場します。

さらに3年目には77試合に欠場、4年目にはとうとうシーズン全休と、不安が現実となる苦しいキャリアを強いられる事になりました。

期待されていた選手が怪我によってそのキャリアを狂わせてしまうというのは、よくある話です。

しかし、ブーイにとって不運だったのは、ジョーダンよりも先にドラフト指名を受けていたという事でした。

ジョーダンが活躍すればするほど、

ブーイが怪我で試合を欠場すればするほど、

ドラフトでジョーダンを指名できたにもかかわらずブーイを選択したブレイザーズは、史上最低の失敗ドラフトと中傷されました。

そしてブーイ本人も、ジョーダンのひとつ前で指名されたばかりにドラフト史上最悪の外れ選手というレッテルを貼られる事になりました。

そして1989年、ブレイザーズは怪我で満足にプレーできないブーイのトレードを決断します。

オールスター出場経験もあるバック・ウィリアムズ獲得のため、ブーイはニュージャージ・ネッツへと移籍。

プレイオフ初戦敗退が続いていたブレイザーズは、ウィリアムズを獲得してすぐにファイナル進出を果たします。

優勝は逃したものの、その後も91年カンファレンス決勝進出、92年ファイナル進出と、それまで初戦で敗退していたチームは一気に優勝を争うチームへと変貌を遂げる事になりました。

ブーイとウィリアムズのトレードは、プレーでチームに貢献する事のできなかったブーイ唯一のチームへの貢献だとも囁かれました。

しかし、ブレイザーズ躍進の影で、ブーイも予想外の活躍を見せていました。

移籍1年目、直近4シーズンの出場試合数の合計を超える68試合に出場し、平均14.7得点、10.1リバウンドのダブルダブルを記録。

個人成績の面では、バック・ウィリアムズがブレイザーズで記録した数字を上回る、キャリアハイのシーズンを過ごしていました。

ネッツに在籍した4年間、全てのシーズンで60試合以上に出場し、ブーイはようやく健康を取り戻したかに見えました。

が、

やはりまたしても怪我の問題が浮上します。

1993年にネッツからロサンゼルス・レイカーズへと移籍したブーイは、移籍1年目にシーズンの大半を怪我で欠場。

そして翌1994-95シーズンに現役からの引退を表明し、長く怪我に苦しんだキャリアに幕を下す事を決断しました。

11年にわたるキャリアで511試合に出場し、欠場は391試合でした。

この間に3度の骨折に見舞われています。

ブーイの現役最後となったシーズン、先に突然の引退をしていたジョーダンがシカゴ・ブルズに電撃復帰し、その翌シーズンから2回目となる3連覇を達成します。

ブーイの背中には引退してなお“ジョーダンよりも先に指名された選手”という十字架が重くのしかかりました。

ドラフト指名の評価

なぜ、ブレイザーズはあのドラフトでジョーダンを指名しなかったのか。

結果を知っている現在の私たちから見れば「なんて見る目のない」と思ってしまう指名ですが、

未来は誰にも分からないし、当事者はその時その状況で最適だと思われる判断をしていくしかありません。

ブレイザーズにはジョーダンと同じポジションでプレーするクライド・ドレクスラーがいた他、キキ・バンダウェイジム・パクソンなど、ガード・フォワードに得点力のあるプレイヤーが揃っていました。

チームにとって残る補強はインサイドでした。

もしブーイが指名できなくても、代わりに指名するのはチャールズ・バークリーだったであろうと当時のチームトップは語っています。

そしてこの1984年当時、ブレイザーズのこの判断に疑問をもったNBA関係者はいなかったそうです。

過去に重大な怪我を追っていたブーイを指名するというのは大きな賭けだったのかもしれませんが、

キャリアを狂わせる怪我は誰にでも起こりうるものとして、ブレイザーズ・ファンはブーイに対し同情の念を抱いている人が多いそうです。

将来を嘱望されながら怪我に泣き、周囲の期待にこたえられなかった選手を挙げれば枚挙に暇がありませんが、

マイケル・ジョーダンという不世出のスタープレイヤーの前に指名されたばかりに、“史上最悪の外れ選手”というレッテルを貼られたまま、ブーイの名は歴史から消えることも許されません。

それでもブーイは早い段階でその事実を受け入れていたそうです。

ブーイにとって最も重要だったのは、ポートランドで何年もプレーし、何回も優勝することでした。

そしてその優勝をファンに捧げられなかった事こそ、自分にとっての唯一の後悔だと語っています。

おまけ

1984年のドラフト前、インディアナ大の名将ボビー・ナイトがブレイザーズにマイケル・ジョーダンを強く勧めていました。

ジョーダンに惚れこんでいたナイトは、知人が人事を務めるブレイザーズに対してジョーダンの能力を熱心に説きました。

しかし、「ボビー、うちが欲しいのはセンターなんだ。」と断られてしまいます。

そこでナイトが放った一言。

「じゃあ、ジョーダンにセンターをさせればいいだろ。」

何があってもジョーダンを獲るべきだと考えていた人もいたようです。

この記事を書いた人
TANA

バスケ初心者でありながらバスケサークルを立ち上げる。
2025年までの代表。
初心者ならではの視点でバスケを見つめ、「もっと楽な道」がないかを常に探求し続ける。

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