1988年 NBAドラフト

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前年のドラフト翌年のドラフトドラフトトップ
 
新人王:ミッチ・リッチモンド(Mitch Richmond)
All Rookie Team
1st:ウィリー・アンダーソンハーシー・ホーキンスミッチ・リッチモンドチャールズ・スミスリック・スミッツ
 
主なプレイヤー
 
1.ダニー・マニング(Danny Manning)
キャプチャ

出身校:カンザス大学
ポジション: PF
所属チーム:LAC(1988~1994)→ATL(1994)→PHO(1994~1999)→MIL(1999~2000)→UTA(2000~2001)→DAL(2001~2002)→DET(2003)
キャリア平均:14.0PPG、5.2RPG、2.3APG、1.1SPG、.511FG%
個人賞:Sixth Man of the Year(1997-1998)
オールスター出場:2回(1993、1994)

カンザス大学をNCAAトーナメント優勝に導き、大きな期待を背負って低迷するロサンゼルス・クリッパーズに入団したが、1年目は26試合の出場にとどまるなど故障に苦しみ、2年目から主力として活躍を始めたもののチームを浮上させる事はできなかった。
しかし、1992年に大学時代の恩師ラリー・ブラウンがクリッパーズのヘッドコーチに就任すると、マニングは平均19.3得点、6.9リバウンド、3.5アシスト、1.6スティール、1.5ブロック、FG成功率54.2%と過去最高のシーズンを送り、チームも16シーズンぶりとなるプレイオフ進出を決める。
翌シーズンは平均22.8得点とさらに成績をアップさせ、初のオールスター出場も果たした。
2シーズン連続でプレイオフに進出するなど躍進を遂げたクリッパーズだったが、シーズン終了後にブラウンがチームを去ると、すぐに弱小チームへと逆戻りしてしまう。
マニングも1994年にトレードされ、最下位クリッパーズからカンファレンス首位を快走するアトランタ・ホークスに移籍したが、チームに馴染む事ができず、シーズン終了後にフェニックス・サンズへと移籍した。
サンズにとってマニングの獲得は優勝に向けて大きな前進になるかに思われたが、移籍後2シーズンは故障で満足に出場できず、健康を取り戻した時には大黒柱のチャールズ・バークリーはすでにチームを去った後だった。
チームはメンバーを一新して新たなスタートを切り、マニングもベンチプレイヤーとして新たなキャリアをスタートさせる。
先発としてプレーしていた頃のような数字は残すことができなくなったが、どのポジションでもこなす万能プレイヤーとしての能力はベンチからの登場で存分に発揮され、1997-98シーズンはチームの56勝という好成績に貢献してシックスマン賞を受賞。
その後も5シーズンにわたってプレーを続け、デトロイト・ピストンズでのプレーを最後に2003年に現役を引退した。
父親は元NBA選手のエド・マニング。
youtube:http://youtu.be/jQS0lrFUc8Y
 
2.リック・スミッツ(Rik Smits)
キャプチャ

出身校:マリスト大学
ポジション: C
所属チーム:IND(1988~2000)
キャリア平均:14.8PPG、6.1RPG、1.4APG、1.3BPG、.507FG%
オールスター出場:1回(1998)

オランダ出身。
ニックネームは「ダンキン・ダッチマン」。
身体の線が細く、224cmの身長の割にはリバウンドとブロックが少なかったが、非常に柔らかなシュートタッチを持ち、長身から繰り出される正確なショットはディフェンスを苦しめた。
インディアナ・ペイサーズでは1年目の序盤に主力の故障により先発に抜擢され、その後はチーム不動のセンターとして長く活躍した。
デビューから引退するまで常に2桁得点を記録し続け、スミッツの成長と同時にペイサーズは強豪チームとして成績を向上させていった。
1994-95シーズンに平均17.9得点、7.7リバウンドを記録し、プレイオフでは劇的な決勝シュートを決めるなど、チームの2年連続のカンファレンス決勝進出に貢献している。
1998年にデビュー10年目にして初めてオールスターに選出され、ジェイソン・ウィリアムス(ニュージャージ・ネッツ)のダンクを演出するビハインドパスで会場を沸かせた。
1999-2000シーズン、ペイサーズは好成績を収めていたものの、スミッツは長年悩まされていた足の故障により数字を下降させ、チームが初めてのファイナルで敗退しシーズンが終了すると、引退を表明して12年のキャリアに幕を下ろした。
youtube:http://youtu.be/e-Cl21XLt58
 
3.チャールズ・スミス(Charles Smith)
キャプチャ

出身校:ピッツバーグ大学
ポジション: SF、PF
所属チーム:LAC(1988~1992)→NYK(1992~1996)→SAS(1996~1997)
キャリア平均:14.4PPG、5.8RPG、1.4APG、1.4BPG

ドラフトではフィラデルフィア・76ersから指名を受け、直後に6位指名のハーシー・ホーキンス、将来のドラフト指名権との交換でロサンゼルス・クリッパーズへトレードされる。
クリッパーズでは1年目から高い身体能力とフィジカルの強さを武器に平均16.3得点を記録し、翌2年目には平均21.1得点、さらに3年目には平均20.0得点、8.2リバウンド、2.0ブロックと攻守にわたってチームの柱となる活躍を見せた。
1992年にトレードでニューヨーク・ニックスへ移籍すると、タレントが揃うチームの中で個人成績を低下させたものの、パトリック・ユーイングチャールズ・オークリーと強力なフロントコートを形成し、プレイオフではライバルのシカゴ・ブルズと激闘を演じた。
1993年のブルズとのカンファレンス決勝では、2勝2敗のタイで迎えたシリーズ第5戦の試合終了直前、決まれば勝利が決まる場面でスミスはゴール下のシュートを4回連続でブルズのディフェンスに阻まれ、痛恨の敗戦を喫する事になった。
シリーズを制したブルズは勢いそのままに3連覇を達成し、スミスがシュートをブロックされ続けたシーンはチーム史に残る最悪な瞬間としてニックスファンの記憶に残ることになった。
youtube:http://youtu.be/mhiioD50B0I
 
4.クリス・モリス(Chris Morris)
キャプチャ

出身校:オーバン大学
ポジション: SF、SG
所属チーム:NJN(1988~1995)→UTA(1995~1999)→PHO(1999)
キャリア平均:11.0PPG、4.7RPG、1.6APG、1.2SPG

デビューから7シーズンを過ごしたニュージャージ・ネッツでは常に10~14得点のアベレージを残し、チームの3~4番手の得点源として活躍した。
2年目にキャリアハイとなる平均14.8得点を記録している。
1993年にシカゴ・ブルズと行われたゲームでは、ガラス製のバックボードをスラムダンクで破壊した。
youtube:http://youtu.be/ZWisFa-c-T4
 
5.ミッチ・リッチモンド(Mitch Richmond)
キャプチャ

出身校:カンザス州立大学
ポジション: SG
所属チーム:GSW(1988~1991)→SAC(1991~1998)→WAS(1998~2001)→LAL(2001~2002)
キャリア平均:21.0PPG、3.9RPG、3.5APG、1.2SPG、.388 3P%
個人賞:Rookie of the Year、All-Star Game MVP(1995)
ALL TEAM:All-NBA 2nd 3回、All-NBA 3rd 2回
オールスター出場:6回(1993~1998)

ニックネームは「ザ・ロック」。
新人時代にマイケル・ジョーダンから「得点面では自分を越える可能性を持っている」と評価され、史上4人しかいない「デビューから10シーズン連続平均21得点以上」を記録するなど、長くリーグを代表するプレイヤーとして活躍した。
ゴールデンステイト・ウォリアーズでは1年目に平均22.0得点、5.9リバウンド、4.2アシストの活躍で新人王を受賞し、翌シーズンにティム・ハーダウェイが入団すると、リッチモンドとハーダウェイ、そしてクリス・マリンの三人は高得点を連発するハイスコアリングトリオとして「RUN-TMC」と呼ばれるなどリーグを席巻する活躍を見せた。
しかし、プレイオフを勝ち上がるためにサイズが必要と判断したウォリアーズは、サクラメント・キングスがドラフトで指名したビリー・オーウェンスを獲得するためにリッチモンドを放出し、「RUN-TMC」はわずか2年で解体された。
強豪チームに成長しつつあったウォリアーズから一転、地区の最下位争いを続ける弱小チームでプレーする事になったリッチモンドは、移籍後も腐ることなくリーグ屈指のシュート力やディフェンスに磨きをかけていく。
チームが低迷を続けていたために一般的な評価は決して高くはなかったが、1995年のオールスターでMVPを獲得し、アトランタ五輪の選手選考に際してマイケル・ジョーダンが強く後押しをすると、あらためて完成された選手として認識されるようになった。
キングスでは1995-96シーズンにチームを10シーズンぶりのプレイオフ進出に導き、翌1996-97シーズンにはリーグ5位となる平均25.9得点を記録した。
しかしキングスではリッチモンドの他に大物選手が見当たらず、孤軍奮闘を続けるリッチモンドは次第に勝てるチームでのプレーを希望するようになっていく。
キングスも長年の功労者であるリッチモンドの意向を受け入れ、1998年にクリス・ウェバーとのトレードでワシントン・ウィザーズへとリッチモンドを送り出した。
能力の高い選手が揃うウィザーズで意気揚々と新しいシーズンを迎えたリッチモンドだったが、移籍1年目はチームトップの平均19.7得点を記録したものの、デビュー以来初めて20得点を下回り、システムの違いや主力の故障もあってチームは前年の勝率を大きく下回る事になった。
皮肉な事に、リッチモンドの去ったキングスはウェバーを中心に高い能力を持つ選手が揃い始め、ウェスタン・カンファレンスを代表するチームへと成長していく。
リッチモンドはその後、自身の故障もあって数字を下降させ、2000年に球団社長に就任したマイケル・ジョーダンが人員整理を進める中で、契約が終了した2001年にチームを去る事になった。
2001-02シーズンはロサンゼルス・レイカーズと契約し、出場機会は限られたものの、現役最終年となったこのシーズンに自身初となるチャンピオンリングを獲得した。
キングス時代の背番号『2』が同チームの永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/EuXs8KMFJ58
 
6.ハーシー・ホーキンス(Hersey Hawkins)
キャプチャ

出身校:ブラッドリー大学
ポジション: SG、PG
所属チーム:PHI(1988~1993)→CHH(1993~1995)→SEA(1995~1999)→CHI(1999~2000)→CHH(2000~2001)
キャリア平均:14.7PPG、3.6RPG、2.9APG、1.7SPG、.394 3P%
オールスター出場:1回(1991)

フィラデルフィア・76ersでは40%を超えるスリーポイントを武器に、チャールズ・バークリーに次ぐ得点源として活躍した。
1990-91シーズンは平均22.1得点を記録し、バークリーとともにオールスター出場を果たしている。
チーム事情によってポイントガードもこなし、ディフェンスでもスティールで高い数字を残した。
1995年から在籍したシアトル・スーパーソニックスではゲイリー・ペイトンとバックコートコンビを組み、1995-96シーズンに記録したフランチャイズ記録64勝、そしてファイナル進出に貢献している。
デビューから10シーズンで欠場したのは7試合しかなく、この期間中に出場した試合には全て先発としてプレーしている。
youtube:http://youtu.be/Er_2Us-vkhc
 
8.レックス・チャップマン(Rex Chapman)
キャプチャ

出身校:ケンタッキー大学
ポジション: SG、PG
所属チーム:CHH(1988~1992)→WSB(1992~1995)→MIA(1995~1996)→PHO(1996~2000)
キャリア平均:14.6PPG、2.5RPG、2.7APG

新設されたばかりのシャーロット・ホーネッツに入団し、ホーネッツ初のドラフト指名選手となった。
跳べる白人プレイヤーとして知られ、身体能力の高さを武器に1年目から平均16.9得点を記録する。
その後も主力として活躍を見せたが、ケンドール・ギルが入団してからは出場時間が減少し、1992年にワシントン・ブレッツへとトレードされる。
移籍後は故障に悩まされ数字を下降させたが、1993-94シーズンにキャリアハイとなる平均18.2得点を記録して復活を果たすと、以降はリーグ有数のアウトサイドシューターとして活躍する。
1996年からはフェニックス・サンズでプレーし、1997年のプレイオフでは5試合の出場で平均24.2得点と爆発力を見せた。
父親は元NBA選手のウェイン・チャップマン。
youtube:http://youtu.be/wNV5AUDhPUM
 
9.ロニー・サイカリー(Rony Seikaly)
キャプチャ

出身校:シラキュース大学
ポジション: C
所属チーム:MIA(1988~1994)→GSW(1994~1996)→ORL(1996~1998)→NJN(1998~1999)
キャリア平均:14.7PPG、9.5RPG、1.3APG、1.3SPG
個人賞:Most Improved Player(1989-1990)

子供の頃にベイルートからギリシャへ移り住み、その後シラキュース大に留学してデリック・コールマンらとともにプレーした。
新設されて間もないマイアミ・ヒートに入団すると、2年目に平均16.6得点、10.4リバウンドを記録して最も成長した選手に贈られるMIPを受賞している。
ヒートのゴール下を支え、そのプレースタイルから「Dr.スピン」の異名で呼ばれるなどローポストで強さを発揮した。
オーランド・マジック在籍時の1996-97シーズンに、キャリアハイとなる平均17.3得点を記録している。
youtube:http://youtu.be/gYivpvXgEog
 
10.ウィリー・アンダーソン(Willie Anderson)
キャプチャ

出身校:ジョージア大学
ポジション: SG、SF
所属チーム:SAS(1988~1995)→TOR(1995~1996)→NYK(1996~1997)→MIA(1997)
キャリア平均:12.2PPG、3.8RPG、3.8APG、1.1SPG

サンアントニオ・スパーズに入団すると、1年目から平均18.6得点を記録するなどチームをリードする活躍を見せた。
翌シーズン、デビッド・ロビンソンの入団によりオフェンス機会が減少したが、その後も主力としてチームの躍進を支えた。
故障の影響により数字を下降させ、7シーズンを過ごしたスパーズを去った後、2シーズンをプレーして1997年に現役を引退した。
弟のシャンドン・アンダーソンもNBA選手としてユタ・ジャズなどで活躍した。
 
11.ウィル・パデュー(Will Perdue)
キャプチャ

出身校:ヴァンダービルト大学
ポジション: C
所属チーム:CHI(1988~1995)→SAS(1995~1999)→CHI(1999~2000)→POR(2000~2001)
キャリア平均:4.7PPG、4.9RPG、0.8APG、.515FG%

シカゴ・ブルズではビル・カートライトのバックアップを務め、チームの3連覇に貢献した。
カートライトがチームを去った1994-95シーズンに先発として起用され、平均8.0得点、6.7リバウンドを記録した。
シーズン終了後にデニス・ロドマンとのトレードでサンアントニオ・スパーズへ移籍する。
移籍後はデビッド・ロビンソンのバックアップとしてプレーしていたが、ロビンソンが故障で長期欠場を強いられた1996-97シーズンに、過去最高となる平均29.5分の出場時間を得てキャリアハイとなる平均8.7得点、9.8リバウンド、1.6ブロックを記録した。
1999年に自身4個目となるチャンピオンリングを獲得している。
現役時代は最も足の大きい選手としても知られていた。
youtube:http://youtu.be/4amho-3eDSk
 
12.ハーベイ・グラント (Harvey Grant)
キャプチャ

出身校:オクラホマ大学
ポジション: PF、SF
所属チーム:WSB(1988~1993)→POR(1993~1996)→WSB-WAS(1996~1999)→PHI(1999)
キャリア平均:9.9PPG、4.4RPG、1.6APG

シカゴ・ブルズなどで活躍したホーレス・グラントは双子の兄。
大学時代に兄ホーレスとのポジション争いに敗れ、クレムゾン大学からオクラホマ大学へ転校した。
ワシントン・ブレッツ入団当初は出場機会に恵まれなかったが、3年目のシーズンから先発に起用されると、バーナード・キングに次ぐ平均18.2得点を記録するなどチームの得点源へと成長する。
1992-93シーズンにキャリアハイとなる平均18.6得点を記録し、チームのリーディング・スコアラーとなる活躍を見せたが、シーズン終了後にトレードされてからは徐々に数字を下降させていった。
youtube:http://youtu.be/3F202vZm8CI
 
14.ダン・マーリー (Dan Majerle)
キャプチャ

出身校:セントラルミシガン大学
ポジション: SG、SF
所属チーム:PHO(1988~1995)→CLE(1995~1996)→MIA(1996~2001)→PHO(2001~2002)
キャリア平均:11.4PPG、4.5RPG、2.9APG、1.3SPG、.358 3P%
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 2回
オールスター出場:3回(1992~1993、1995)

リーグを代表するスリーポイントシューターとして活躍したほか、豪快なダンクも見せ、「サンダー・ダン」の愛称で多くのファンに親しまれた。
ドラフトではフェニックス・サンズから指名を受けたが、当時無名に近かったマーリーの指名には地元ファンからブーイングが巻き起こった。
コーチは「ブーイングしたことをすぐに後悔するだろう」とコメントし、マーリーはその言葉通りにチームにとって不可欠な選手へと成長するとともに、攻守にわたるひたむきな姿勢でファンの心を掴み、フェニックスでは絶大な人気を誇る選手となった。
キャリア序盤はベンチから登場してチームにエネルギーを注ぎ込むシックスマンとして活躍し、4年目の1991-92シーズンは平均17.3得点を記録して初めてのオールスターにも出場している。
翌1992-93シーズンからは先発として起用され、スリーポイントシュートの試投数と成功数がリーグトップとなるなどリーグ屈指のシューターとして活躍する。
1995年、インサイド補強の必要に迫られたチームの事情により、ホットロッド・ウィリアムズとのトレードでクリーブランド・キャバリアーズへ移籍する事になったが、マーリーの放出はファンだけでなくチーム内部からも疑問の声があがった。
移籍後は得点力を下降させていったが、シューターとして2002年までプレーを続け、現役最後の1シーズンを古巣のサンズで過ごして引退した。
youtube:http://youtu.be/w81v8M2pSD8
 
18.ロッド・ストリックランド (Rod Strickland)
キャプチャ

出身校:デポール大学
ポジション: PG、SG
所属チーム:NYK(1988~1990)→SAS(1990~1992)→POR(1992~1996)→WSB-WAS(1996~2001)→POR(2001)→MIA(2001~2002)→MIN(2002~2003)→ORL(2003~2004)→TOR(2004)→HOU(2005)
キャリア平均:13.2PPG、3.7RPG、7.3APG、1.5SPG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回

ドラフトでは前シーズンに新人王を獲得したマーク・ジャクソンが司令塔を務めるニューヨーク・ニックスから指名を受け、周囲からは不可解なドラフト指名と疑問視された。
オールルーキー2ndチームに選出されるなどバックアップガードとしてまずまずの成績を残したものの、やはりジャクソンとの共存は難しく、2年目のシーズン途中に早くもサンアントニオ・スパーズへとトレードされる。
スパーズ移籍後は先発として起用され、3シーズン連続で平均13得点、8アシスト以上を記録して能力の高さを証明して見せたが、契約をめぐってチームとの関係が悪化し、フリーエージェントとなった1992年にポートランド・トレイルブレイザーズに移籍した。
ブレイザーズではテリー・ポーターの控えを務めながら多くの時間をプレーし、ポーターから先発の座を奪ってからは個人成績を一気に上昇させる。
アウトサイドのシュートに難はあったものの1on1に抜群の強さを見せ、1994-95シーズンにキャリアハイとなる平均18.9得点を記録し、アシストでも常にリーグ上位となる成績を残した。
ワシントン・ウィザーズ在籍時の1997-98シーズンに平均10.5本で初のアシスト王に輝いている。
キャリア初期は度々起こす乱闘騒動など問題児としてのイメージが強く、その影響からかリーグ屈指の選手として評価されながらオールスターには1度も選出されずにキャリアを終えた。
実力があってもオールスターに出場できない選手の代表格として語られる事が多く、「ストリックランド現象」という言葉も生まれた。
youtube:http://youtu.be/ctEOnb7M3hU
 
20.ケビン・エドワーズ (Kevin Edwards)
キャプチャ

出身校:デポール大学
ポジション: SG、PG
所属チーム:MIA(1988~1993)→NJN(1993~1998)→ORL(1998~1999)、VAN(2000~2001)
キャリア平均:10.9PPG、2.7RPG、2.7APG、1.4SPG

マイアミ・ヒートでは1年目からシーズンの大半で先発を務め、平均13.8得点、4.4アシスト、1.8スティールを記録してオールルーキー2ndチームに選出される。
その後はベンチスタートが多くなったものの常に2桁得点を記録し、ヒートのベンチ層に厚みを加えた。
 
24.ブライアン・ショウ (Brian Shaw)
キャプチャ

出身校:カリフォルニア大学サンタバーバラ校
ポジション: PG、SG
所属チーム:BOS(1988~1989)、BOS(1990~1992)→MIA(1992~1994)→ORL(1994~1997)→GSW(1997~1998)→PHI(1998~1999)→POR(1999)→LAL(1999~2003)
キャリア平均:6.9PPG、3.4RPG、4.2APG

ボストン・セルティックスで1シーズンをプレーした後にイタリアへと渡り、翌年ふたたびセルティックスに復帰する。
1990-91シーズンは開幕から先発を任され、平均13.8得点、チームトップとなる7.6アシストを記録した。
その後は主にバックアップガードとして様々なチームでプレーしたが、重要な局面で起用される事が多く、大舞台での勝負強さを見せた。
歌手のマドンナと浮名を流したことでも知られている。
youtube:http://youtu.be/lXS85L77Jl8
 
29.ビニー・デル・ネグロ (Vinny Del Negro)
キャプチャ

出身校:ノースカロライナ州立大学
ポジション: SG、PG
所属チーム:SAC(1988~1990)、SAS(1992~1999)→MIL(1999~2000)→GSW(2000~2001)→PHO(2001)
キャリア平均:9.1PPG、2.3RPG、3.2APG、.359 3P%

サクラメント・キングスで2シーズンをプレーした後、イタリアのプロリーグでプレーし、その後にサンアントニオ・スパーズへ移籍する。
1995-96シーズンはデビッド・ロビンソンエイブリー・ジョンソンらとともに82試合全てに先発出場を果たし、キャリアハイとなる平均14.5得点を記録した。
youtube:http://youtu.be/g1l2zKmCtIQ
 
33.グラント・ロング (Grant Long)
キャプチャ

出身校:イースタン・ミシガン大学
ポジション: PF
所属チーム:MIA(1988~1994)→ATL(1994~1996)→DET(1996~1999)→ATL(1999)→VAN-MEM(1999~2003)→BOS(2003)
キャリア平均:9.5PPG、6.1RPG、1.7APG、1.2SPG

インサイドの信頼できるディフェンダーとして、15シーズンという長い現役生活を送った。
新設されたばかりのマイアミ・ヒートでプレーを始め、新人時代からチームを支える活躍を見せた。
1991-92シーズンに平均14.8得点、8.4リバンドを記録し、チームの史上初となるプレイオフ進出に貢献している。
伯父のジョン・ロング、従兄のテリー・ミルズもNBA選手として活躍した。
また、兄にプロ・ボクサーとして活躍したジュリアス・ロングがいる。
 
47.バーノン・マックスウェル (Vernon Maxwell)
キャプチャ

出身校:フロリダ大学
ポジション: SG、PG
所属チーム:SAS(1988~1990)→HOU(1990~1995)→PHI(1995~1996)→SAS(1996~1997)→ORL(1998)→CHH(1998~1999)→SAC(1999)→SEA(1999~2000)→PHI(2000)→DAL(2001)
キャリア平均:12.8PPG、2.6RPG、3.4APG、1.1SPG

ニックネームは「マッド・マックス」。
ヒューストン・ロケッツ2連覇時の主要メンバーで、「入りだしたら止まらない」と言われたスリーポイントシュートは相手チームの脅威となった。
平均17.2得点を記録した1991-92シーズンには、162本のスリーポイントを決め、2シーズン連続で成功数リーグトップとなっている。
一方で、コート上で感情の不安定さを見せる事が多々あり、1995年には観客を殴って出場停止処分を科せられている。
youtube:http://youtu.be/9u1QTfm_ZhM
 
48.マイケル・ウィリアムズ (Micheal Williams)
キャプチャ

出身校:ベイラー大学
ポジション: PG
所属チーム:DET(1988~1989)→PHO(1989)→CHH(1990)→IND(1990~1992)→MIN(1992~1999)→TOR(1999)
キャリア平均:11.0PPG、2.5RPG、5.8APG、1.7SPG

デビューからしばらくは目立った活躍ができず、解雇されるなどチームに定着できないシーズンが続いた。
1990年にインディアナ・ペイサーズに加入すると、シーズン後半から先発起用される。
翌シーズンには平均15.0得点、8.2アシストと一気に成績を上げ、とくにスティールではリーグトップに0.1本差の平均2.9本を記録した。
1992年にミネソタ・ティンバーウルブズへ移籍する。
この頃に、シーズンをまたいでフリースローを97本連続で成功させ、現在もNBA記録となっている。
 
50.スティーブ・カー (Steve Kerr)
キャプチャ

出身校:アリゾナ大学
ポジション: PG、SG
所属チーム:PHO(1988~1989)→CLE(1989~1992)→ORL(1992~1993)→CHI(1993~1999)→SAS(1999~2001)→POR(2001~2002)→SAS(2002~2003)
キャリア平均:6.0PPG、1.2RPG、1.8APG、.454 3P%

重要な局面でベンチから登場し、高確率のスリーポイントシュートでチームの期待に応えた。
キャリア通算のスリーポイント成功率は45.4%と非常に高く、50%を上回ったシーズンが4度ある。
シカゴ・ブルズで3連覇を経験し、1999年にはサンアントニオ・スパーズでも優勝、個人として4年連続で優勝を経験した。
キャリア最終年にもスパーズで優勝し、自身5個目となるチャンピオンリングを獲得している。
大舞台で勝負強さを発揮し、ブルズ、スパーズ、ポートランド・トレイルブレイザーズなど複数のチームで記憶に残るショットを沈めた。
父親のマルコム・カーはエジプト政治思想の研究者として知られ、ベイルートのアメリカン大学学長を務めていた1984年に、テロの標的として暗殺されている。
youtube:http://youtu.be/vQg2Yt0nHMY
 
53.アンソニー・メイスン (Anthony Mason)
キャプチャ

出身校:テネシー州立大学
ポジション: PF、SF、C
所属チーム:NJN(1989~1990)→DEN(1990~1991)→NYK(1991~1996)→CHH(1996~2000)→MIA(2000~2001)→MIL(2001~2003)
キャリア平均:10.9PPG、8.3RPG、3.4APG、.509FG%
個人賞:Sixth Man of the Year(1994-1995)
ALL TEAM:All-NBA 3rd 1回
オールスター出場:1回(2001)

201cmの身長ながらプロレスラーのような屈強な肉体でインサイドに陣取り、ガードのようにゲームをコントロールするポイントフォワードとして活躍した。
デビュー当初は出場機会を得ることができなかったが、ニューヨーク・ニックスでパット・ライリーに見出され、チームのプレイスタイルを体現するタフプレイヤーとして注目された。
初めて82試合全てに先発出場を果たした1995-96シーズンに平均14.6得点を記録し、インサイドプレイヤーながらチームトップとなる4.4アシストという数字も残した。
翌シーズン、ラリー・ジョンソンとのトレードでシャーロット・ホーネッツへ移籍すると、前シーズンを上回る平均16.2得点、11.4リバウンド、5.7アシストを記録し、初のシーズン・ダブルダブルを達成した。
その風貌に似合わず器用なプレイヤーとして知られるが、フリースローの成功率はいまひとつで、一時は片手でシュートを放つなどキャリアを通して試行錯誤している。
2015年、心臓疾患により48歳の若さで死去した。
youtube:http://youtu.be/TZCUCTp7CqE
 
ドラフト外.ジョン・スタークス (John Starks)
キャプチャ

出身校:オクラホマ州立大学
ポジション: SG
所属チーム:GSW(1988~1989)、NYK(1990~1999)→GSW(1999~2000)→CHI(2000)→UTA(2000~2002)
キャリア平均:12.5PPG、2.5RPG、3.6APG、1.1SPG
個人賞:Sixth Man of the Year(1996-1997)
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 1回
オールスター出場:1回(1994)

大学では度々問題を起こし、3度の転校を重ねて1988年にオクラホマ州立大学を卒業する。
ドラフトではどのチームからも指名されなかったために独立リーグでプレーする事になったが、すぐにゴールデンステイト・ウォリアーズと契約を結び、NBAデビューを実現させる。
ウォリアーズでは活躍できずに1シーズンで放出され、CBAなどでのプレーを経て、1990年にニューヨーク・ニックスにフリーエージェントとして加入した。
開幕前に膝を怪我して放出されかけるというトラブルもあったが、スタークスのアウトサイドシュートはチームの重要な武器となり、闘争心溢れるプレーは熱狂的なニューヨークファンを虜にした。
1992-93シーズンに平均17.5得点を記録し、パトリック・ユーイングに次ぐ得点源へと成長する。
この年のプレイオフではカンファレンス決勝でシカゴ・ブルズと激闘を繰り広げ、マイケル・ジョーダンを相手に執拗なディフェンスを見せて高い評価を受けた。
また、ジョーダンをかわしホーレス・グラントの上から叩きこんだ『ザ・ダンク』は、チーム史に残る名シーンとして今なお語り継がれるプレーとなっている。
翌シーズンには平均19.0得点、5.9アシストとキャリア最高のシーズンをおくり、オールスターにも初出場を果たしている。
1996年にアラン・ヒューストンが加入してからは控えとなったが、平均13.8得点を記録し、シックスマン賞を受賞する活躍を見せた。
1999年、ラトレル・スプリーウェルとのトレードで古巣のウォリアーズへ移籍し、ブルズ、ユタ・ジャズと渡り歩いて2002年に引退した。
ニックスでのスリーポイントシュートの成功数は、2014年現在、チーム歴代1位となっている。
youtube:http://youtu.be/tEELp8kr_n4
 
ドラフト外.エイブリー・ジョンソン (Avery Johnson)
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出身校:サザン大学
ポジション: PG
所属チーム:SEA(1988~1990)→DEN(1990)→SAS(1991)→HOU(1992)→SAS(1992~1993)→GSW(1993~1994)→SAS(1994~2001)→DEN(2001~2002)→DAL(2002~2003)→GSW(2003~2004)
キャリア平均:8.4PPG、1.7RPG、5.5APG、1.0SPG

1988年に大学を卒業し、この年のドラフトではNBAのチームから指名を受ける事ができなかったため、独立リーグUSBLへ進む。
1988-89シーズンにシアトル・スーパーソニックスと契約を交わしてNBAデビューを果たしたものの、チームに定着する事ができず、解雇、移籍を繰り返すシーズンが続いた。
1994年、この年からサンアントニオ・スパーズのGMに就任したグレッグ・ポポビッチは、以前から目をつけていたジョンソンをスパーズに加入させる。
1994-95シーズン、ジョンソンは82試合全てに先発出場を果たし、平均13.4得点、8.2アシスト、1.4スティールの活躍を見せてポポビッチの期待に見事応えてみせた。
ようやくチームに定着できたジョンソンは、スパーズのエースであるデビッド・ロビンソンの「The Admiral(提督)」に対して「The Little General(小さな将軍)」と呼ばれ、強力なリーダーシップでチームを牽引した。
1999年にスパーズはファイナルに進出し、ジョンソンは優勝が決まった第5戦で勝利を決定づけるシュートを沈めるなど、チーム初の優勝に大きく貢献した。
2001年に7シーズンを過ごしたスパーズを去り、その後はチームを渡り歩きながら選手とコーチを兼任するシーズンを送る。
2004年にダラス・マーベリックスに移籍したが、コーチに専念するためにプレーする事なく現役を引退し、ヘッドコーチとして初めてフルシーズン指揮を執った2004-05シーズンに早くも最優秀コーチ賞を受賞した。
スパーズ時代につけていた背番号『6』が同チームの永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/o6Yq96phu4I
 

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