1996年、シャーロット・ホーネッツのデル・カリーが開幕からスターターとしてプレーする事になり、果たしてどれくらい得点アベレージを伸ばすのかと話題になりました。
結局シーズン中にベンチスタートへと戻り、アベレージは例年と変わらない数字で終了しましたが、
デル・カリーは短い時間で得点を量産し、ゲームの流れを変える事のできるシックスマンとして長くNBAで活躍しました。

Dell Curry(デル・カリー)
| 誕生日 | 1964年6月25日 |
| デビュー | 1986年(ユタ・ジャズ) |
| 引退 | 2002年(トロント・ラプターズ) |
| ポジション | シューティングガード |
| 身長・体重 | 193cm・90.5kg |
| キャリア通算平均 | 11.7PPG、2.4RPG、1.8APG、.402 3P% |
学生時代
1964年、バージニア州ハリソンバーグに生まれたワーデル・ステファン・カリーは、野球とバスケットボールに熱中する少年時代を過ごします。
高校では野球とバスケットボールの両方でチームを州のチャンピオンに導き、1982年のMLBドラフトでテキサス・レンジャーズから指名を受けるなど、その才能をマルチに発揮していました。
地元のバージニア工科大学へ進学したカリーは、大学最終学年でAP通信が選ぶオール・アメリカン2ndチームに選出されます。
野球では投手としても活躍していたカリーは、再び1985年のMLBドラフトで指名を受けていますが、バスケットボールの道に進む事を決断し、1986年NBAドラフトにエントリー。
1巡目15位で指名を受けてユタ・ジャズへと入団しました。
NBAデビュー
当時からシュート力に定評のあったカリーでしたが、課題とされていたディフェンス面での問題が改善されず、出場時間を勝ち取れないまま1年目のシーズンが終了すると、あっさりとクリーブランド・キャバリアーズへと放出されてしまいました。
キャバリアーズでも控えとしてプレーしていましたが、出場時間はジャズ時代から倍増し、平均得点も前年の倍となる10.0得点を記録しました。
2年目のシーズンが終了すると、カリーは創設されたばかりのシャーロット・ホーネッツからエクスパンション・ドラフトで指名され、新設チームへと移籍します。
ホーネッツ元年となった1988-89シーズン、チームは先発を固定できずに試行錯誤を繰り返しますが、
カリーは故障でシーズンの半分近くを欠場したこともあり、先発として起用される事は一度もなく、出場時間も移籍前に比べて減少してしまいます。
しかし、シーズン終盤になると、カリーは20分強の出場時間の中で高得点を連発し、短い時間の中で試合の流れを変えるシックスマンとしての能力を発揮し始めます。
シックスマンとして
翌1989-90シーズン、コートのどこからでも得点できるシュート力は相手チームの脅威となっていました。
シーズンの大半を控えとして過ごしながら、得点力ではチーム3位となる平均16.0得点を記録しました。
新規参入チームのホーネッツは出だしこそ苦しんだものの、ドラフトでは次々と将来有望な選手を指名し、ケンドール・ギル、ラリー・ジョンソン、アロンゾ・モーニングらを擁するようになると、当時リーグを支配していたシカゴ・ブルズになぞらえて「フューチャー・ブルズ」と呼ばれるようになっていました。
この間、カリーはチームの成長を支えるリーグ有数のシックスマンとして活躍し続け、キャリアハイとなる平均16.3得点を記録した1993-94シーズンに初めてシックスマン賞を受賞しています。
カリーはこのシーズンに82試合全てで控えとして起用され、カリーの残した平均16.3得点という数字は、現在に至るまで82試合全てに控えとして出場した選手の中で歴代最高の数字となっています。
1994-95シーズンに初めて50勝に到達し、着実な成長を見せていたホーネッツでしたが、翌1995-96シーズンが開幕する直前、突如、大黒柱のアロンゾ・モーニングがトレードでチームを去ります。
これ以降、チームの顔ぶれは急激に変化していく事になるのですが、選手の出入りが激しくなっていく中、カリーは状況によって先発・控えを問わずにプレーし、どんな時もチームの貴重な得点源として活躍を続けました。
1997-98シーズン、チーム創設時のメンバーはカリーとマグジー・ボーグスのみとなり、ボーグスがシーズン途中にトレードで放出されると、カリーもシーズン終了後にミルウォーキー・バックスへと移籍しました。
カリー、34歳。
故障も目立ち始め、通常であれば引退を考える時期に差し掛かっていましたが、移籍1年目にリーグトップとなるスリーポイントシュート成功率47.6%を記録するなど、依然として危険なシューターであることを示していました。
さらに1999年にトロント・ラプターズに移籍すると、チャールズ・オークリーらとともにリーグ最年長クラスの大ベテランとして常に存在感を発揮し続け、ヴィンス・カーターやトレイシー・マグレィディら若手を中心に上昇気流に乗りつつあったチームに貴重な経験をもたらしました。
カリーが移籍して初めて臨んだシーズン、ラプターズは創設5年目にして初めてプレイオフ進出を果たしています。
カリーはラプターズで3シーズンを過ごし、37歳となった2002年に現役を引退しました。
16シーズンのキャリアで出場した試合数は1,083試合、うち先発出場は99試合のみでした。
カリーがホーネッツ時代に残した701試合出場と通算9,839得点という数字は、現在もチーム記録として残っています。(2014年2月時点)
ひとつの武器で長くNBAを生き抜いた職人カリー。
現在、ワーデル・ステファン・カリー2世ことゴールデンステイト・ウォリアーズのステファン・カリーは、父譲りのシュート力でスリーポイントのNBA新記録を樹立し、アメリカ代表やオールスターに選出される活躍を見せています。
そして弟のセス・カリーも名門デューク大学でプレーするなど、その才能はしっかりと息子たちに受け継がれたようです。



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