ビル・カートライト player profile ⑯

NBAネタ
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シカゴ・ブルズが最初の三連覇を達成した当時、先発センターはビル・カートライトが務めていました。

あの不自然なフリースローのシュートフォームを懐かしく思う人も多いのではないでしょうか。

目立つ事無く必要な仕事をこなす、職人というより古武士のようなたたずまいのカートライトですが、

そのキャリアの幕開けは意外に華やかなものでした。

Bill Cartwright(ビル・カートライト)

誕生日 1957年6月30日
デビュー 1979年(ニューヨーク・ニックス)
引退 1995年(シアトル・スーパーソニックス)
ポジション センター
身長・体重 216cm・111kg
キャリア通算平均 17.6PPG、5.9RPG、1.4APG

新時代を担う期待の選手

本名はジェィムス・ウィリアム・カートライト。

通称、ミスター・ビル。

サンフランシスコ大学で活躍し、4年生時にはAP通信が選ぶオール・アメリカン1stチームに選出。

1979年のNBAドラフトでは、1巡目3位という高い評価を受けてニューヨーク・ニックスに入団します。

この年、マジック・ジョンソンラリー・バードが揃ってデビューし、NBAは歴史的な転換期を迎えていました。

当時のNBAは暴力とドラッグという負のイメージがつきまとい、NBAファイナルですら深夜の時間帯に録画放送されるなど人気低迷にあえぐ時期にありましたが、

カレッジバスケ界を熱狂させたマジックとバードの登場により、NBAには多くのカレッジバスケファンが流入する事になりました。

ロサンゼルス・レイカーズとボストン・セルティックスという東西の名門チームに入団したマジックとバードは、新人時代からリーグ全体を牽引する原動力として活躍し、NBAにかつてない繁栄をもたらします。

二人の活躍が注目される一方で、カートライトも新人トップとなる平均21.7得点を記録するなど、低迷にあえぐ伝統球団を浮上させる活躍を見せていました。

マジックとバードは新人として揃ってオールスターゲームに出場しますが、カートライトもまた期待の新人としてオールスターに選出されていました。

故障、そしてユーイング登場

デビューから2シーズン連続で全試合出場と平均20得点以上という数字を残し、1980-81シーズンにはニックスの中心選手として3シーズンぶりのプレイオフ進出に導く活躍を見せました。

1982年にはリーグを代表するスコアラーのバーナード・キングも加入し、1973年以来となる優勝に向けて戦力が整っていきました。

ところが、チームの支柱であるカートライトが左足骨折という重傷を負って1984-85シーズンを全休すると、チームはリーグワースト3位という成績に沈みます。

この低迷が1985年のNBAドラフトパトリック・ユーイングを獲得するという幸運につながるのですが、それはカートライトのポジションを脅かされる事を意味していました。

前評判通りの活躍で新人王を獲得したユーイングの陰で、いまだ故障から回復できずにいたカートライトはわずか2試合の出場にとどまっていました。

しかし、ユーイングの活躍も虚しく低迷を続けるチーム状況と、この当時、リーグを席巻していたヒューストン・ロケッツの活躍がカートライトにチャンスをもたらす事になります。

ロケッツではラルフ・サンプソンアキーム・オラジュワンという二人のビッグマンを同時に起用し、この猛威を振るうツインタワーの活躍でファイナル進出まで果たしていました。

低迷からの脱却を図るニックスは、ようやく怪我から回復したカートライトをセンターに据えたまま、ユーイングをパワーフォワードとして起用し、ニックス版のツインタワーを誕生させます。

こうして迎えた1986-87シーズン、怪我からの回復を不安視されていたカートライトは、平均17.5得点を記録するなど故障前と同じ水準のプレーを披露します。

しかし、期待のツインタワーが機能する事はありませんでした。

またしても24勝58敗という成績に終わったニックスは、ようやく腹を据えてユーイングを中心としたチーム作りを本格化させます。

そして、ユーイングのバックアップとしてプレーする事になったカートライトは出場時間を激減させていきました。

ニックスはユーイングをサポートできるパワーフォワードを探し始めましたが、同じ頃、シカゴ・ブルズがセンター獲得を目指して動き出していました。

シカゴ・ブルズへ

ブルズにはリーグ屈指のパワーフォワードとして活躍するチャールズ・オークリーが在籍していましたが、

若手のホーレス・グラントが将来性を感じさせるプレーを見せていた事もあり、オークリーをトレードに利用してチームに必要なビッグマンの獲得を狙っていました。

ブルズはニックスで出場機会を失っていたカートライトに狙いを定め、1988年にオークリーとカートライトのトレードが実現します。

ブルズの重要選手であるオークリーと、控えで故障持ちのカートライトとのトレードにファンやメディアは驚きを隠せませんでした。

寝耳に水だったのはブルズの選手も同様で、とくに休暇中にこのトレードを知ったマイケル・ジョーダンは激怒したと伝えられました。

ジョーダンにとってオークリーは優秀な選手であるとともに親友であり、またコート内外で自身を守ってくれる警官役として大きな助けになっていました。

ジョーダンが新加入のカートライトに対して冷たく接し、味方に対してカートライトにパスしないように指示していると噂され、

またカートライトもジョーダンに対して怯むことなく、練習中に「バスケのできない体にしてやろうか」と迫ったなど、2人の緊張関係を表すような噂がいくつも流れました。

一方で、当時アシスタント・コーチだったフィル・ジャクソンは「ジョーダンはカートライトの必要性を早くから理解していた」と語り、カートライトは優勝のための最後のワンピースとしてチームに変化をもたらす事になります。

全盛期のような活躍を見せる事はなかったものの、カートライトが先発センターのポジションに収まった事でスターティングファイブが固定されたブルズは、「ジョーダンと他4人」と呼ばれたワンマンチームからの脱却が始まります。

殿堂入りする事になる名選手を多く抱えていたレイカーズやセルティックスなどに比べ、ブルズで同様の選手と言えばジョーダンとスコッティ・ピッペンの2人ぐらいしかいませんでしたが、

ブルズはチームとして抜群のバランスの良さを見せるようになり、1991年についに悲願の初優勝を果たします。

そしてチームとして完成度を高めていくブルズは、その後もリーグの中心として君臨し続け、1960年代のセルティックス以来となる3連覇という偉業を成し遂げました。

この間、カートライトはチャンピオンチームの正センターとして、また信頼の厚いチームキャプテンとしてブルズを支えていました。

カートライトは故障の多さから「メディカル・ビル(医療費)」という不名誉なニックネームを持っていましたが、カートライトの特徴でもあったヒジを開いて振り回すプレーにより、何人もの相手選手が病院送りにされた事でも知られています。

ヒューストン・ロケッツのアキーム・オラジュワンは頬骨の骨折で長期欠場に追い込まれていますが、

意図しているわけではないこのヒジは味方にも飛んでくるため、ブルズの選手はカートライトのヒジを「スカッドミサイル」と呼んで恐れていたそうです。

ジョーダン引退後

1993年、これまでブルズ、そしてNBAを牽引してきたジョーダンが電撃的な引退を表明します。

スポーツの枠を超えて世界がこのニュースに騒然としましたが、しばらくして落ち着くと、誰がポスト・ジョーダンとしてリーグを支配するのかが話題となりました。

ブルズは早くも過去のチームとして扱われる事になりましたが、低迷するという周囲の予想を裏切るように55勝27敗という好成績を残し、4連覇の可能性も十分に残してプレイオフに突入しました。

ブルズはプレイオフ初戦でクリーブランド・キャバリアーズに完勝すると、続くカンファレンス準決勝でカートライトの古巣、ニューヨーク・ニックスと激突します。

ジョーダンの引退により優勝候補の筆頭に躍り出たニックスは、これまで何度も辛酸を味わされてきたブルズ打倒に執念を燃やし、ホームでの2連戦に勝利してシリーズを優位に進めます。

ブルズは負ければ後がなくなる第3戦で粘りを見せましたが、勝利を目前にした残り1.8秒でユーイングに同点ショットをねじ込まれ、102対102の同点で最後の局面を迎えました。

ブルズはタイムアウトを取り、最後のオフェンスのための作戦が指示が出されましたが、ここで事件が起きました。

フィル・ジャクソンHCは最後のショットを託す選手にトニー・クーコッチを指名し、これに腹を立てたスコッティ・ピッペンがコートに戻る事を拒否したのです。

ジョーダンの影に隠れ、ナンバー2と囁かれ続けたピッペンは、このシーズンにリーグ最高峰の選手のひとりである事を証明し、その評価を一段と高めていました。

一方で、チームとは契約を巡って悪化した関係が続き、シーズン中にトレードを要求するなど大きなストレスを抱えて過ごしたシーズンでもありました。

あらゆる面でチームを牽引してきたピッペンにとって、契約問題と因縁浅からぬクーコッチがラストショットを任された事に、これまでの不満を爆発せずにはいられませんでした。

クーコッチは終了のブザーと同時に決勝シュートを決め、劇的な勝利にチームメイトはクーコッチに駆け寄りましたが、フィル・ジャクソンは険しい表情のまま笑顔を見せる事はありませんでした。

試合後のロッカールームには勝利チームとは思えない重苦しい空気が流れ、誰もが口を開く事のできない中でカートライトが涙ながらにピッペンを批難しました。

「ジョーダン抜きで優勝するチャンスじゃないのか、チームの力を証明する時じゃないのか」

カートライトの訴えに対し、ピッペンは自身の行動を反省し、チームメイト全員に対して謝罪しました。

ピッペンはチームに対する不満もチームメイトに伝え、これまで何度も逆転を許してきた試合終盤に集中力を持って臨んで欲しいという事も求めました。

それぞれの思いを吐き出したブルズは続く第4戦に快勝し、シリーズを2勝2敗のタイに戻します。

ブルズは最終戦までにもつれ込む激戦のすえに3勝4敗で惜敗する事になりましたが、物議を醸した疑惑の判定での敗戦もあり、ファイナルに進出する事になるニックスと互角以上に渡り合った実力が誰もが認めるところとなりました。

シーズン終了後、カートライトはフリーエージェントとしてシアトル・スーパーソニックスに移籍し、1994-95シーズンを最後に現役を引退しました。

引退後はフィル・ジャクソンのもとでブルズのアシスタント・コーチを務め、2001年にヘッドコーチに昇格しました。

2013年からは1シーズン限りですが、日本bjリーグの大阪エヴェッサのヘッドコーチも務めています。

野球でもバスケットボールでも海外では個性的なフォームの選手が多いなと感じていましたが、カートライトのフリースローを見て、コーチした人はよくこの個性を潰さなかったなと思います。

とかく型にはめがちなこの日本で、カートライトがどんなコーチをするのか興味がありましたが、観戦できないまま終わってしまいました…残念…

この記事を書いた人
TANA

バスケ初心者でありながらバスケサークルを立ち上げる。
2025年までの代表。
初心者ならではの視点でバスケを見つめ、「もっと楽な道」がないかを常に探求し続ける。

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