トゥワイマンとストークス player profile⑬

NBAネタ
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2012-13シーズンに「トゥワイマン-ストークス・チームメイト・オブ・ザ・イヤー」が新設され、

1年目にチャウンシー・ビラップスが、2年目にシェーン・バティエが受賞しました。

この賞はNBAの選手によって投票され、「理想的なチームメイト」に対して贈られます。

私はこの賞で初めて賞の名称となっているジャック・トゥワイマンとモーリス・ストークスという選手の名前を聞いたので、この機会にちょこっと調べてみる事にしました。

Maurice Stokes(モーリス・ストークス)

誕生日 1933年6月17日
デビュー 1955年(ロチェスター・ロイヤルズ)
引退 1958年(シンシナティ・ロイヤルズ)
ポジション パワーフォワード/センター
身長・体重 201cm・105kg
キャリア通算平均 16.4PPG、17.3RPG、5.3APG

Jack Twyman(ジャック・トゥワイマン)

誕生日 1934年5月21日
デビュー 1955年(ロチェスター・ロイヤルズ)
引退 1966年(シンシナティ・ロイヤルズ)
ポジション スモールフォワード
身長・体重 198cm・95kg
キャリア通算平均 19.2PPG、6.6RPG、2.3APG

出会い

1933年、ペンシルベニア州ランキンに生まれたモーリス・ストークスは、高校生になるとバスケットボール選手として頭角を現し、チームを市のチャンピオンに導く活躍を見せます。

その活躍はあまりに凄まじく、彼のチームは地元で対戦相手を見つけられなくなってしまうほどでした。

より強い相手を求めたストークスは、プロ選手も集るピッツバーグ市のメロン公園に通い詰めるようになり、ここで生涯の友となるジャック・トゥワイマンと出会います。

トゥワイマンは1934年にペンシルベニア州ピッツバーグに生まれ、高校では最初の3年間はバスケットボールチームに入る事もできませんでしたが、4年生になって急激な上達を見せ、最後の一年で優秀なシューターとして名をあげていました。

ストークスとトゥワイマンはここで貴重な時間を過ごし交友を深めていきます。

ストークスはセントフランシス大学へ、トゥワイマンはシンシナティ大学に進学し、二人はそれぞれの大学で成功を収めます。

そして1955年のNBAドラフトではストークスが全体2位、トゥワイマンが全体8位で指名を受け、そろってロチェスター・ロイヤルズ(現在のサクラメント・キングス)に入団する事になりました。

NBAデビュー

この頃はまだ人種に対する差別が横行し、NBAでも1950年にチャック・クーパーが黒人初のドラフト指名を受け、アール・ロイドが黒人初の公式戦出場を果たしていましたが、黒人選手の人数はまだとても少ないものでした。

大学で活躍した黒人選手は、ハーレム・グローブトロッターズへと進む道も選択肢のひとつでしたが、

バスケで貧困から脱出する事を目標としていたストークスはNBAへ進む事を決意します。

ストークスはデビュー戦から前評判以上の大活躍を見せますが、一方では顔を蹴られるなどの不当なラフプレーも受け続けました。

それでも身体を張ってプレーしたストークスは、平均16.8得点、16.3リバウンド、4.9アシストという新人離れした数字を残し、見事に新人王を獲得します。

リバウンドではリーグ1位、得点とアシストもそれぞれ10位、4位と、早くもリーグを代表する選手として強烈な存在感を発揮していました。

そしてトゥワイマンもチーム2位となる平均14.4得点を記録し、低迷していたロイヤルズはこの2人の新人によって牽引されていく事になります。

突然の引退

1年目からオールスターに出場していたストークスに続き、トゥワイマンも2年目にして早くもオールスターに選出されます。

1957年、二人がNBAに入って3年目にロイヤルズはフランチャイズをシンシナティに移転します。

迎えた1957-58シーズン、ストークスは平均16.9得点、18.1リバウンド、6.4アシストを記録し、チームも3年ぶりのプレーオフ進出が決定するなど、移転1年目にして最高のシーズンを過ごしていました。

ところが、レギュラーシーズンの最終戦、すでに消化試合のひとつとなっていた一戦で、ストークスに悲劇が襲いかかります。

リバウンド争いで相手プレイヤーともつれてコートに叩きつけられたストークスは、頭に強い衝撃を受けて気絶してしまいます。

気付け薬を与えられて意識を戻したストークスは、そのまま試合に復帰してゲームハイとなる24得点を叩き出し、何事もなかったかのようにレギュラーシーズンは終了します。

そして迎えたデトロイト・ピストンズとのプレイオフ第一戦、ストークスは試合直前に身体の変調を感じますが、本人も周囲もそれが危険な兆しであることに気付かないまま試合に強行出場しました。

惜しくも試合に敗れたロイヤルズは、第二戦が行われるシンシナティへ向かうため飛行機に乗り込みます。

そして、離陸後しばらくして、ストークスは死を意識させるほどの激しい吐気に襲われ、シンシナティ到着時に意識を失ってしまいました。

ストークスはそのまま入院することになりますが、意識が戻ることなく昏睡状態へ陥ります。

チームメイトやファンはストークスの早い回復を願いましたが、ストークスは復帰どころか24時間の介護なしでは生きていくことができない状態となってしまいます。

ロイヤルズは選手としての復帰の見込みがなくなったストークスに対して契約を解消し、本人は引退宣告された事も理解することができないまま、裸同然でリーグから放り出されることになりました。

年金も医療保険もなかった当時、ストークスの家族には介護にかかる莫大な費用を払うあてはどこにもありませんでした。

友の支援

絶望的な状態にあったストークスに手を差し伸べたのは、チームメイトであり、少年時代からの親友トゥワイマンでした。

トゥワイマンはいまだ目覚めることのないストークスのため、合法的に保護者となって医療費を支払うことを決断します。

この頃ロイヤルズでは、ストークスに対するチームの対応に批判が巻き起こり、不信感を募らせた多くの選手がチームを去っていきました。

このような状況の中、チームに残ることを選択したトゥワイマンはチームの新しいエースとなるべく孤軍奮闘を始めます。

1958-59シーズン、中心選手の多くを失ったロイヤルズはチーム史上最低勝率を記録するなど低迷を極めますが、トゥワイマン個人は平均25.8得点、9.1リバウンドと飛躍的に成績を伸ばします。

さらに翌シーズンにはリーグ2位となる平均31.2得点を記録するまでになります。

得点王の座は脅威の新人ウィルト・チェンバレンに譲りましたが、チェンバレンとともにシーズン平均得点が30得点を超えたNBA初の選手となりました。

リーグを代表する選手となったトゥワイマンはチームトップの高給取りとなりますが、それでもストークスの医療費を支払うには足りず、寄付金を募るために昼夜を問わず働き続けました。

エースとしてチームを牽引する傍ら、通常のゲームとは別にエキシビジョンゲームも開催し、またコートの外ではビジネスで利益をあげました。

1958年から1年ごとに開催されたチャリティー・ゲームには、ビル・ラッセルやチェンバレンら多くの大物選手が参加し、多額の寄付金が集まりました。

こうしてトゥワイマンらが援助を続ける中、ストークスはようやく昏睡状態から目覚めます。

その後

ストークスが昏睡状態から目覚め、リハビリの日々を送るようなると、トゥワイマンは毎日のように病室に訪れました。

半身不随となったストークスは暫くは言葉を発することもできませんでしたが、瞬きによってコミュニケーションをとり、熱心にリハビリに取り組んでいきます。

ストークスは周囲も驚く回復を見せ、持ち前のユーモアで見舞客や医師をよく笑わせていたそうです。

トゥワイマンは引退後もストークスの支援を続けましたが、ストークスは1970年に心臓発作により36歳という若さでこの世を去りました。

ストークスの背番号『12』と、トゥワイマンの背番号『27』はそれぞれサクラメント・キングスの永久欠番となり、1983年にトゥワイマンが、2014年にストークスが殿堂入りしています。

トゥワイマンは11シーズンの現役生活をロイヤルズ一筋でプレーし、通算出場試合数や通算得点など各カテゴリーで現在もキングスのチーム記録上位にランクされています。

ストークスは3シーズンという短い選手生活でしたが、そのあまりに早い引退には多くの惜しむ声があがりました。

身長201cmのストークスは当時としては恵まれた体格を誇り、インサイドを支配してみせた一方でポイントガードのようにボールを扱う、前例のない才能を持っていました。

カール・マローンをさらに巧みにしたような選手だった」(ボブ・クージー

マジック・ジョンソンが現れる前のマジック・ジョンソンだった」(レッド・アワーバック)

同年代をプレーした選手やコーチ達がこう評価するように、万能選手の奔りとして、ストークスはその短いキャリアで強烈なインパクトを残しました。

白人のトゥワイマンと黒人のストークスの関係は人種の壁を超えた友情として、後に映画化されるなど多くの人に感動を与えました。

1958年から始まったチャリティー・ゲームは、ストークスの死後、貧困に苦しむ元NBA選手を救済するためにその後も継続され、現在も多くのスター選手が参加しています。

トゥワイマンは2012年に78歳で亡くなり、2012-13シーズンに「トゥワイマン-ストークス・チームメイト・オブ・ザ・イヤー」が新設されました。

そのトロフィーには、ストークスと、ストークスを助けるトゥワイマンの姿がデザインされています。

この記事を書いた人
TANA

バスケ初心者でありながらバスケサークルを立ち上げる。
2025年までの代表。
初心者ならではの視点でバスケを見つめ、「もっと楽な道」がないかを常に探求し続ける。

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