1966年 NBAドラフト

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新人王:デイブ・ビン(Dave Bing)
All Rookie Team
1st:デイブ・ビン、ルー・ハドソン、ジャック・マリン、アーウィン・ミュラー、カジー・ラッセル
 
主なプレイヤー
 
※赤字はABA時代のもの・キャリア平均はNBA・ABAの通算平均
1.カジー・ラッセル(Cazzie Russell)
01

出身校:ミシガン大学
ポジション: SF
所属チーム:NYK(1966~1971)→GSW(1971~1974)→LAL(1974~1977)→CHI(1977~1978)
キャリア平均:15.1PPG、3.8RPG、2.2APG
オールスター出場:1回(1972)

ニューヨーク・ニックスでの1年目は控えとしてプレーし、平均11.3得点を記録するにとどまっていたが、順調な成長を見せ、3年目の1968-69シーズンに平均18.3得点を記録した。
ニックスはラッセルが加入したシーズンから毎年プレイオフに進出し、1969-70シーズンに悲願の初優勝を遂げる。
ラッセルはこのニックス黄金期の時期を主にシックスマンとしてプレーした。
1971年に移籍したゴールデンステイト・ウォリアーズでは、先発としてネイト・サーモンドらとともにチームを牽引し、移籍1年目にキャリアハイとなる平均21.4得点を記録している。
ロサンゼルス・レイカーズ移籍後は故障もあって数字を下降させ、1977-78シーズンにシカゴ・ブルズでプレーしたのを最後に現役を引退した。
youtube:http://youtu.be/Nl6rX8Fae7A
 
2.デイブ・ビン(Dave Bing)
02

出身校:シラキュース大学
ポジション: PG、SG
所属チーム:DET(1966~1975)→WSB(1975~1977)→BOS(1977~1978)
キャリア平均:20.3PPG、3.8RPG、6.0APG、1.3SPG
個人賞:Rookie of the Year、All-Star Game MVP1回(1976)
ALL TEAM:All-NBA 1st 2回、All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:7回(1968~1969、1971、1973~1976)

得点能力に優れ、リーグを代表する司令塔としてデトロイト・ピストンズなどで活躍した。
ピストンズ入団後、デビュー戦でフィールドゴールを全て外し、NBAのキャリアは0得点でスタートした。
しかしすぐに本領を発揮し始め、終わってみれば平均20.0得点、4.1アシストというチームをリードする活躍を見せて新人王を受賞した。
2年目には平均27.1得点、6.4アシストとさらに数字を伸ばし、チームを5シーズンぶりのプレイオフに導くと、早くもオールNBA1stチームに選出された。
当時のスタッツリーダーは平均ではなく通算で決められていたため、通算2,142得点を記録したビンは得点王を獲得し、ガードの選手が得点王を獲得するというBAA時代以来の快挙を成し遂げた。
その後もリーグトップクラスの得点力を武器に優れた成績を残し続けていたが、1971-72シーズンの開幕前に行われたプレシーズンマッチの試合で失明の危機に瀕する怪我を負ってしまう。
医師からは現役を続行すれば両目を失明する可能性もあると告げられたが、ビンは警告を無視してシーズン中に復帰し、平均22.6得点、7.0アシストの活躍を見せた。
しかし、シュート成功率は過去最低となる41.4%に終わると、エースの離脱の影響もあってピストンズは26勝56敗と大きく負け越し、視力低下の影響はビンのキャリアに大きな影を落とし始めたかに見えた。
ビンはパフォーマンスの低下をカバーするためにフリースローやディフェンスの猛練習に励み、その成果は翌シーズンに早くも表れる。
一時、チームから選手兼コーチになる事も打診されたビンだったが、平均22.4得点、7.8アシスト、シュート成功率44.8%、フリースロー成功率81.4%という数字を残し、依然として一流の選手である事を証明してみせた。
さらに翌1973-74シーズン、平均18.8得点とキャリアで初めて20得点を下回ったものの、ピストンズはチーム初の50勝以上となる52勝30敗という好成績を収め、ビンは3シーズンぶりにオールNBAチーム入りを果たした。
1975年、故郷でキャリアを終えたいというビンの意向により、ワシントン・ブレッツにトレードされる。
移籍1年目に平均16.2得点、6.0アシストを記録したビンは、このシーズンにキャリア最後となるオールスターに出場し、ベンチからの出場で16得点、4アシストを記録し、チームを勝利に導く活躍を見せて初のオールスターMVPを受賞した。
ブレッツで2シーズンをプレーした後、ボストン・セルティックスで1シーズンを過ごし、1978年に34歳で現役を引退した。
背番号『21』はピストンズの永久欠番となっている。
現役時代、オフの間は銀行や鉄鋼関連の会社に勤めてビジネスに関するノウハウを学び、引退後は実業家として大きな成功を収めた。
2009年からデトロイト市長を務めている。
youtube:http://youtu.be/urjO9NYFLT0
 
3.クライド・リー(Clyde Lee)
03

出身校:ヴァンダービルト大学
ポジション: C、PF
所属チーム:SFW-GSW(1966~1974)→ATL(1974)→PHI(1974~1976)
キャリア平均:7.7PPG、10.3RPG、1.1APG
オールスター出場:1回(1968)

サンフランシスコ・ウォリアーズに入団し、2年目に平均11.9得点、13.9リバウンドを記録してオールスターに選出されるなど活躍を見せた。
デビューから8シーズンをウォリアーズで過ごし、チームの重要なインサイドプレイヤーとして活躍を続けた。
本拠地移転によりチームがゴールデンステイト・ウォリアーズとなった1971-72シーズンにキャリアハイとなる平均14.5リバウンドを記録している。
1974年にウォリアーズを去ると、2シーズンをプレーした後に現役を引退した。
ウォリアーズの通算リバウンドでチーム歴代4位となる数字を残した。
 
4.ルー・ハドソン(Lou Hudson)
04

出身校:ミネソタ大学
ポジション: SG、SF
所属チーム:STL-ATL(1966~1977)→LAL(1977~1979)
キャリア平均:20.2PPG、4.4RPG、2.7APG、1.4SPG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:6回(1969~1974)

「スウィート・ルー」、または「スーパー・ルー」と呼ばれ、ホークスの中心選手として活躍した。
セントルイス・ホークスに入団し、1年目からチームトップとなる平均18.4得点を記録する。
2年目は軍の召集によりシーズンの大半を欠場したが、チームが本拠地をアトランタへと移転した翌シーズンには平均21.9得点を記録してオールスターに選出され、本格的にスコアラーとして頭角を現した。
オールスターに6シーズン連続で出場し、1972-73シーズンにはキャリアハイとなる平均27.1得点を記録している。
キャリア後半は故障や若手の台頭により数字が除々に下降し、1977年からロサンゼルス・レイカーズで2シーズンをプレーした後に現役を引退した。
ホークスでの通算得点はドミニク・ウィルキンスボブ・ペティットに次ぐチーム歴代3位となっており、背番号『23』はチームの永久欠番となっている。
2014年に脳卒中により69歳で死去した。
youtube:http://youtu.be/xMg7wqJp7xw
 
5.ジャック・マリン(Jack Marin)
05

出身校:デューク大学
ポジション: SF
所属チーム:BAL(1966~1972)→HOU(1972~1974)→BUF(1974~1975)→CHI(1975~1977)
キャリア平均:14.8PPG、5.2RPG、2.1APG
オールスター出場:2回(1972~1973)

ボルチモア・ブレッツに入団し、1年目に控えとして平均9.6得点を記録すると、除々にチームの主力として成長し、アール・モンローウェス・アンセルドらとともにブレッツの躍進を支えた。
1971-72シーズンにキャリアハイとなる平均22.3得点、リーグトップとなるフリースロー成功率89.4%を記録し、初のオールスターに選出されたが、シーズン終了後にヒューストン・ロケッツのエルビン・ヘイズを獲得するためのトレードで放出された。
ロケッツでは移籍1年目にオールスターに選出される活躍を見せたものの、翌シーズン途中に再びトレードで放出され、その後は全盛期のような活躍を見せる事ができないまま1977年に現役を引退した。
引退後は法学の博士号を取得し、全米バスケットボール退職者協会の顧問弁護士も務めた。
 
14.ディック・スナイダー(Dick Snyder)
06

出身校:ダビッドソン大学
ポジション: SG、SF
所属チーム:STL(1966~1968)→PHO(1968~1969)→SEA(1969~1974)→CLE(1974~1978)→SEA(1978~1979)
キャリア平均:12.2PPG、2.8RPG、2.9APG

デビューからしばらくは控えとしてプレーしていたが、1969-70シーズンの途中に移籍したシアトル・スーパーソニックスで才能が大きく開花する。
移籍2年目の1970-71シーズン、先発で起用されると平均19.4得点、4.3アシストを記録する活躍を見せ、さらにFG成功率53.1%、フリースロー成功率83.7%はいずれもリーグ5位以内に入る好記録となった。
その後もソニックスの主力として活躍を続けたが、チームは若手を主体とした補強を進め、30歳を迎える1974年にドラフト指名権との交換でクリーブランド・キャバリアーズへトレードされた。
移籍直後は先発としてプレーしたものの次第に出場時間は減少し、移籍4年目の1977-78シーズンにはごくわずかの出場機会しか与えられなかった。
シーズン終了後、着実に成績を向上させていた古巣のソニックスは、優勝への最後の決め手としてベテラン選手のスナイダーを呼び戻す。
スナイダーの活躍は限定的だったものの、ソニックスはチーム初の優勝を果たし、スナイダーはこのシーズンを最後に有終の美を持って引退することを決意した。
 
20.アーウィン・ミュラー(Erwin Mueller)

出身校:サンフランシスコ大学
ポジション: PF、C
所属チーム:CHI(1966~1968)→LAL(1968)→CHI(1968~1969)→SEA(1969)→DET(1969~1972)→ABA(1972~1973)
キャリア平均:7.4PPG、4.7RPG、2.0APG

シカゴ・ブルズに入団し、1年目から平均12.7得点、6.2リバウンドを記録してオールルーキー1stチームに選出される活躍を見せた。
しかし2年目以降は移籍を繰り返し、新人の年に残した数字を超えることはできなかった。
1972年にNBAを去り、その後はABAでプレーした。
 
27.ジョン·ブロック(John Block)

出身校:サザンカリフォルニア大学
ポジション: PF、C
所属チーム:LAL(1966~1967)→SDR(1967~1971)→MIL(1971~1972)→PHI(1972~1973)→KCO(1973~1974)→NOJ(1974)→CHI(1974~1976)
キャリア平均:11.9PPG、6.6RPG、1.3APG
オールスター出場:1回(1973)

ロサンゼルス・レイカーズに入団し、1年目は22試合の出場で平均2.9得点に終わる。
シーズン終了後に新設されたばかりのサンディエゴ・ロケッツに移籍すると、平均20.2得点、11.0リバウンドと飛躍的な成長を遂げた。
その後、ロケッツで4シーズンを過ごし、チームの創生期を主力として支えていたが、若手選手の台頭により出場時間が減少し、1971年にトレードでチームを去る事になった。
1972-73シーズンはフィラデルフィア・76ersでプレーし、シーズン前半に平均17.9得点、9.2リバウンドを記録してオールスターに選出される活躍を見せたが、オールスター後にトレードされるとその後は数字を急下降させていった。
 
37.アーチー・クラーク(Archie Clark)

出身校:ミネソタ大学
ポジション: PG、SG
所属チーム:LAL(1966~1968)→PHI(1968~1971)→BAL-CAP(1971~1974)→SEA(1974~1975)→DET(1975~1976)
キャリア平均:16.3PPG、3.3RPG、4.8APG、1.1SPG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:2回(1968、1972)

高校卒業後にアメリカ陸軍に入隊したが、軍でバスケットボールをプレーするクラークにミネソタ大関係者が目を付け、この人物の推薦により同大学への進学が決まった。
その後、プロのスカウトが注目する選手へと成長し、大学を卒業して25歳でロサンゼルス・レイカーズに入団した。
ドラフト37位指名と評価は低かったが、1年目からローテーション入りを果たすと、2年目に平均19.9得点を記録してオールスターにも選出され、大きな飛躍を遂げた。
シーズン終了後、ウィルト・チェンバレン獲得のためのトレードに組みこまれ、フィラデルフィア・76ersに移籍する。
移籍1年目こそ数字を落としたものの、その後は平均20得点前後を記録する司令塔として活躍し、1971-72シーズンに開幕してすぐにボルチモア・ブレッツにトレードで移籍すると、キャリアハイとなる平均25.2得点、8.0アシストを記録してオールNBA2ndチームに選出された。
その後、4シーズンをプレーした後に現役を引退した。
 

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