1964年 NBAドラフト

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前年のドラフト翌年のドラフトドラフトトップ
 
新人王:ウィリス・リード(Willis Reed)
All Rookie Team
1st:ジム・バーンズ、ウィリス・リード、ウォリ・ジョーンズ、ハワード・コミヴス、ジョー・コールドウェル、ルーク・ジャクソン
 
主なプレイヤー
 
territorial pick:1巡目指名を放棄する代わりに地元選手を獲得出来る制度
※赤字はABA時代のもの・キャリア平均はNBA・ABAの通算平均
territorial pick.マフディ・アブドゥル=ラーマン(Mahdi Abdul-Rahman)
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出身校:カリフォルニア大学ロサンゼルス校
ポジション: PG、SG
所属チーム:LAL(1964~1967)→SEA(1967~1968)→ATL(1968~1971)→BUF(1971~1972)→GSW(1972~1973)→SEA(1973~1974)
キャリア平均:12.6PPG、3.0RPG、4.9APG
オールスター出場:1回(1968)

ウォルター・ハザードとして生まれ、イスラム教への改宗後にマフディ・アブドゥル=ラーマンに改名した。
1964年の東京五輪で金メダルを獲得し、UCLAではゲイル・グッドリッチとともに同校を初のNCAAトーナメント優勝に導くと、地域ドラフト制度でロサンゼルス・レイカーズに指名され入団した。
レイカーズではロールプレイヤーとして3シーズンを過ごす事になったが、1967年にエクスパンション・ドラフトで新設チームのシアトル・スーパーソニックスに移籍すると、移籍1年目にチームトップとなる平均24.0得点、6.2アシストを記録し、ソニックス初のオールスター選手となった。
シーズン終了後にトレードされ、1シーズンのみでソニックスを去る事になったが、その後も平均15得点前後を記録するなど活躍を続けた。
1972-72シーズン、故障の影響で数字を急下降させると、翌シーズンに古巣のソニックスで1シーズンを過ごし、シーズン終了後に現役を引退した。
2011年に心臓疾患により69歳で死去した。
 
1.ジム・バーンズ(Jim Barnes)
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出身校:テキサス大学エルパソ校
ポジション: PF、C
所属チーム:NYK(1964~1965)→BAL(1965~1966)→LAL(1966~1968)→CHI(1968)→BOS(1968~1970)→BAL(1970~1971)
キャリア平均:8.8PPG、6.5RPG、0.8APG

対戦相手に恐れを抱かせる事から「BAD NEWS」のニックネームで呼ばれた。
東京五輪で金メダルを獲得し、ドラフト1位指名でニューヨーク・ニックスに入団する。
203cmの身長ながら(実際には196cm程度と言われた)インサイドで活躍し、1年目に平均15.5得点、9.7リバウンドを記録した。
同期入団のウィリス・リードハワード・コミヴスとともにオールルーキー1stチームに選出され、低迷するニックスに明るい話題をもたらしたが、翌シーズンの序盤にトレードされると、その後は故障の影響で出場時間が激減し、チームを転々とした後、1971年に現役を引退した。
引退後は慈善活動に務め、「“BAD NEWS”はアメリカにとって“GOOD NEWS”だった」と評価を受けた。
2002年に脳卒中により61歳で死去した。
 
2.ジョー・コールドウェル(Joe Caldwell)
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出身校:アリゾナ州立大学
ポジション: SF、SG
所属チーム:DET(1964~1965)→STL-ATL(1965~1970)→ABA(1970~1975)
キャリア平均:16.1PPG、5.3RPG、3.4APG、2.1SPG
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 1回、All-ABA 2nd 1回All-Defensive 1st 1回
オールスター出場:4回(1969~1970、19711973

ずば抜けた身体能力を誇り、デトロイト・ピストンズ入団後にNFLから勧誘を受けた事もあった。
コート中を自由に飛び跳ねる姿から「pogo」、「Jumpin’ Joe」のニックネームを持つ。
1年目に平均10.7得点、6.7リバウンドを記録してオールルーキー1stチームに選出されたが、翌シーズンの途中にセントルイス・ホークスへトレードされた。
ホークス移籍後も着実に成績を伸ばし、本拠地をアトランタへ移転した1968-69シーズンに初めてオールスターに選出される活躍を見せると、翌シーズンにはNBAでのキャリアハイとなる平均21.1得点を記録し、オールディフェンシブ2ndチームにも選出された。
ルー・ハドソンとともにホークスの好成績に貢献したが、契約を巡る問題からチームとの関係が悪化し、シーズン終了後にホークスを退団してNBAからも去る事になった。
その後は一般企業に就職したが、1970年に新興リーグのABAに所属するカロライナ・クーガーズと契約し、再びプロの舞台でプレーを始めた。
ABAでもオールスターに選出されるなど5シーズンにわたって活躍を続け、ABA最大のスター選手であるジュリアス・アービングは、コールドウェルをリーグで最もディフェンスの巧い選手と評価している。
当時禁止されていた代理人交渉を行った選手としても知られ、NBAとABAの両リーグを疲弊させる急激な選手の年俸高騰を招いたが、一方で後のフリーエージェント制度確立に影響を与えるなど選手の地位向上にも一役買う事になった。
 
4.ルーク・ジャクソン(Luke Jackson)

出身校:テキサス大学パンアメリカ校
ポジション: PF、C
所属チーム:PHI(1964~1972)
キャリア平均:9.9PPG、8.8RPG、1.6APG
オールスター出場:1回(1965)

フルネームはルーシャス・ブラウン・ジャクソン。
フィラデルフィア・76ersでは1年目から平均14.8得点、12.9リバウンドを記録し、ウィルト・チェンバレンとともにチームのインサイドを支える活躍を見せると、新人ながらオールスターにも選出された。
チェンバレン移籍後の1968-69シーズンは開幕からその穴を埋めるような活躍を見せていたが、シーズン後半に故障し、残りの試合を全て欠場する事になった。
復帰後は以前のような活躍を見せる事ができず、1972年に現役を引退する事になった。
デビューから引退するまで76ersでプレーし、1967年にチャンピオンリングを獲得している。
 
5.ジェフ・マリンズ(Jeff Mullins)
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出身校:デューク大学
ポジション: SG
所属チーム:STL(1964~1966)→SFW-GSW(1966~1976)
キャリア平均:16.2PPG、4.3RPG、3.8APG
オールスター出場:3回(1969~1971)

東京五輪ではアメリカ代表として金メダルを獲得したが、セントルイス・ホークス入団後は出場時間を得る事ができず、2年目のシーズン終了後にサンフランシスコ・ウォリアーズに移籍した。
ウォリアーズでは移籍後すぐに先発として起用され、移籍2年目にエースのリック・バリーがチームを去ると、その穴を埋めるように平均18.9得点、5.7リバウンド、4.4アシストの活躍を見せた。
さらに翌1968-69シーズンはチームトップの平均22.8得点を記録し、初めてオールスターにも選出されている。
マリンズはこのシーズンから4年連続で平均20得点以上を記録し、ネイト・サーモンドらとともにウォリアーズを牽引した。
1973年にリック・バリーがウォリアーズに復帰してからは数字を下降させ、ジャマール・ウィルクスら若手選手がチームの中核を担うようになってからは控えとして起用される事になったが、1975年のプレイオフでは全試合に出場し、デビュー11シーズン目にして初のチャンピオンリングを獲得した。
翌シーズンは29試合の出場にとどまり、シーズン終了後に現役から引退した。
youtube:http://youtu.be/ZOGRY9YBcPo
 
8.ウィリス・リード(Willis Reed)
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出身校:グラムリング州立大学
ポジション: C、PF
所属チーム:NYK(1964~1974)
キャリア平均:18.7PPG、12.9RPG、1.8APG、1.1BPG
個人賞:Rookie of the Year、MVP1回(1969-1970)、Finals MVP2回(1969-1970、1972-1973)、All-Star Game MVP1回(1970)
ALL TEAM:All-NBA 1st 1回、All-NBA 2nd 4回、All-Defensive 1st 1回
オールスター出場:7回(1965~1971)

ウィルト・チェンバレンカリーム・アブドゥル=ジャバーら身長213cmを超えるセブンフッターが支配力を見せた時代に、身長206cmながらリーグ屈指のセンターとして活躍し、群雄割拠する70年代にニューヨーク・ニックスを2度の優勝に導いた。
リード入団前のニックスは長い低迷期にあり、ドラフトでは毎年のように上位の指名権を得ながら、指名する選手はことごとく期待外れに終わっていた。
リードはそのような状況の中、平均19.5得点、14.7リバウンドを記録して新人王を受賞し、1年目からオールスター出場を果たすなどニューヨークのファンの希望の星となる活躍を見せた。
3年目からは5シーズン連続で平均20得点、13リバウンド以上を記録し、ニックスはリードを中心にチーム作りを進めていく。
リードの周りにウォルト・フレイジャーら高い能力を持つ選手が揃い、ニックスは地区を代表する強豪チームへと成長していった。
1969-70シーズンにはチーム記録となる60勝の好成績を残し、プレイオフを勝ち進んでファイナルへと進出する。
1953年以来となったファイナルでは、ともに大都市に本拠地を置くロサンゼルス・レイカーズとの対戦となり、優勝に飢える両チームの激突は大きな注目を集めた。
ニックスは2勝2敗のタイで迎えた第5戦に勝利し、優勝に王手をかけたが、この一戦で右太ももに重傷を負ったリードは第6戦を欠場し、シリーズは再びタイに戻され最終戦を迎える事になった。
リードの離脱でニックスの優勝は絶望的だと見られたが、リードは第7戦の舞台となったマディソン・スクウェア・ガーデンのコートに立ち、ニューヨークのファンを驚かせ、さらにレイカーズの選手を動揺させた。
リードはプレーできる状態ではなかったが、最初の2本のシュートを決め、その勇姿に鼓舞されたニックスはレイカーズに完勝してチーム初の優勝を遂げた。
リードはファイナルMVPの栄冠に輝き、同一シーズンでシーズンMVP、オールスターMVP、ファイナルMVPを獲得した初の選手となった。
キャリア最後の3年間は故障に苦しんだが、1972-73シーズンに再びレイカーズとのファイナルを制して2度目の優勝を果たし、ファイナルMVPを獲得している。
翌シーズンの終了後、現役を引退し、ニックス一筋で過ごした10シーズンの選手生活に幕を下ろした。
背番号『19』はニックスの永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/y6FcXCQRYPM
 
10.ポール・サイラス(Paul Silas)
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出身校:クレイトン大学
ポジション: PF
所属チーム:STL-ATL(1964~1969)→PHO(1969~1972)→BOS(1972~1976)→DEN(1976~1977)→SEA(1977~1980)
キャリア平均:9.4PPG、9.9RPG、2.1APG
ALL TEAM:All-Defensive 1st 2回、All-Defensive 2nd 3回
オールスター出場:2回(1972、1975)

ゴール下のディフェンスやリバウンドで能力を発揮し、チームのレベルを引き上げた名選手として知られている。
セントルイス・ホークス入団後、出場機会に恵まれず、一時チームを離れてマイナーリーグでプレーした時期もあった。
4年目の1967-68シーズン、主力選手の故障によってようやくチャンスを掴み、平均13.4得点、11.7リバウンドを記録する活躍を見せた。
翌シーズン終了後にフェニックス・サンズに移籍すると、前年16勝に終わっていたサンズはサイラス加入後にプレイオフ進出を果たし、移籍3年目の1971-72シーズンには平均17.5得点、11.9リバウンド、4.3アシストの活躍で初めてオールスターに選出された。
翌シーズンはボストン・セルティックスに移籍し、ここでもチームディフェンスを改善させる影響力を見せると、セルティックスはサイラス加入1年目にチーム記録となる68勝という好成績を収めた。
プレイオフではライバルチームのニューヨーク・ニックスの前に惜敗したものの、翌シーズンはニックスに雪辱を果たしてファイナルへと進出し、ミルウォーキー・バックスとのファイナルを制して1969年以来の優勝を遂げた。
1976年にも古巣のサンズを破って2個目のチャンピオンリングを獲得したが、シーズン終了後にトレードでセルティックスを去り、その後1977年にホークス時代のチームメイト、レニー・ウィルケンズがヘッドコーチを務めるシアトル・スーパーソニックスに移籍した。
若い選手を中心としたソニックスは有名な童謡に例えられて「ゴルディロックスと3匹のくま」と呼ばれ、ベテランのサイラスは「Papa Bear」の愛称でファンやチームメイトから慕われた。
ソニックスはサイラスが加入したシーズンから2年連続でファイナルに進出し、1979年にはチーム初、サイラスにとって3度目となる優勝を果たした。
1979-80シーズン終了後、サンディエゴ・クリッパーズから選手兼コーチのオファーを受けたが、コーチ業に専念するためにこのシーズンを最後に現役から引退した。
 
13.ハワード・コミヴス(Howard Komives)
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出身校:ボーリング・グリーン州立大学
ポジション: PG
所属チーム:NYK(1964~1968)→DET(1968~1972)→BUF(1972~1973)→KCO(1973~1974)
キャリア平均:10.2PPG、2.4RPG、4.0APG

愛称は「ブッチ」。
ニューヨーク・ニックスに入団して1年目に平均12.2得点を記録すると、ジム・バーンズウィリス・リードとともにオールルーキー1stチームに選出された。
3年目には平均15.7得点、6.2アシストを記録し、チームの中心選手のひとりとして活躍したが、翌シーズンにウォルト・フレイジャーが入団してからは出場時間が減少し、1968年にデトロイト・ピストンズへトレードされた。
ピストンズではデイブ・ビンの控えを務める事になったが、チームの主要選手のひとりとして長い時間をプレーし、一桁までに落ち込んだ得点力も二桁を超えるまでに回復させている。
1972年にトレードでピストンズを去り、その後2シーズンをプレーして1974年に現役を引退した。
2009年に67歳で死去した。
 
18.ウォリ・ジョーンズ(Wali Jones)

出身校:ビラノバ大学
ポジション: PG、SG
所属チーム:BAL(1964~1965)→PHI(1965~1971)→MIL(1971~1973)、ABA(1974~1975)→DET(1975~1976)→PHI(1976)
キャリア平均:9.8PPG、2.2RPG、3.1APG

ボルチモア・ブレッツでの1年目は活躍できずに終わり、シーズン終了後にフィラデルフィア・76ersへトレードされた。
移籍2年目の1966-67シーズンに平均13.2得点を記録するなど主力選手として活躍し、76ersはこのシーズンに68勝13敗という当時のNBA記録となる成績を残した。
サンフランシスコ・ウォリアーズとのファイナルではシリーズ平均20.2得点、5.3アシストという活躍を見せ、1955年のシラキュース・ナショナルズ時代以来となる優勝に大きく貢献している。
76ersで6シーズンを過ごし、故障で41試合の出場にとどまった1970-71シーズンを最後にチームを去った。
その後も以前のような活躍を見せる事はできず、ABAなどでプレーした後、1976年に古巣の76ersに復帰して16試合に出場し、シーズン終了後に現役を引退した。
 
25.ジョン・トンプソン(John Thompson)
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出身校:プロビデンス大学
ポジション: C、PF
所属チーム:BOS(1964~1966)
キャリア平均:3.5PPG、3.5RPG、0.3APG

ボストン・セルティックスに入団し、ビル・ラッセルの控えとしてプレーしたが、わずか2年で現役続行を断念した。
引退後、高校のコーチを経て1972年にジョージタウン大学のヘッドコーチに就任すると、同校を全米屈指の強豪へと成長させ、1984年にはパトリック・ユーイングを擁してNCAAトーナメント優勝を果たしている。
輝かしい実績のほかに、孤児院に育ち偏見の目を向けられる事もあったアロンゾ・モーニングを受け入れ、暴力事件に巻き込まれバスケの道を閉ざされかけたアレン・アイバーソンにチャンスを与えるなど、不遇な環境に置かれた能力のある黒人選手に手を差し伸べた事でも知られている。
 
33.ハッピー・ハーストン(Happy Hairston)
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出身校:ニューヨーク大学
ポジション: PF、SF
所属チーム:CIN(1964~1968)→DET(1968~1969)→LAL(1969~1975)
キャリア平均:14.8PPG、10.3RPG、1.6APG

本名ハロルド・ハーストン。
シンシナティ・ロイヤルズに入団し、2年目に前シーズンの倍となる出場時間を得て平均14.1得点、7.6リバウンドを記録した。
4年目となる1967-68シーズンの途中にデトロイト・ピストンズに移籍し、翌シーズンに平均18.1得点、11.8リバウンドの成績で初のシーズン・ダブルダブルを達成すると、その後も引退するまで7シーズン連続でシーズン・ダブルダブルを記録し続けた。
ピストンズでの3年目となった1969-70シーズンはヘッドコーチの交代により出場機会が激減してしまったが、シーズン中にロサンゼルス・レイカーズにトレードされると、移籍後に平均20.6得点、12.5リバウンドを記録し、主力の故障で苦戦を続けていたチームを救う活躍を見せた。
1971-72シーズンになると、レイカーズはウィルト・チェンバレンの負担を軽減するためにハーストンをリバウンドに専念させ、過去最高となる平均13.1リバウンドを記録する。
レイカーズは33連勝を達成する歴史的なシーズンを送り、プレイオフでも圧倒的な強さを見せて、ミネアポリス・レイカーズ時代以来となる優勝を果たした。
ハーストンはその後も3シーズンにわたりレイカーズでプレーを続け、1975年に現役を引退した。
引退後は俳優としても活動し、「刑事コロンボ」のシリーズにも出演している。
2001年に前立腺癌の合併症により58歳で死去した。
 

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