1958年 NBAドラフト

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新人王:エルジン・ベイラー(Elgin Baylor)
 
主なプレイヤー
 
territorial pick:1巡目指名を放棄する代わりに地元選手を獲得出来る制度
※赤字はABA時代のもの・キャリア平均はNBA・ABAの通算平均
territorial pick.ガイ・ロジャース(Guy Rodgers)
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出身校:テンプル大学
ポジション: PG、SG
所属チーム:PHW-SFW(1958~1966)→CHI(1966~1967)→CIN(1967~1968)→MIL(1968~1970)
キャリア平均:11.7PPG、4.3RPG、7.8APG
オールスター出場:4回(1963~1964、1966~1967)

キャリアの大半をフィラデルフィア/サンフランシスコ・ウォリアーズで過ごし、アシスト王に2回輝いた経歴を持つ。
テンプル大学で活躍し、地域ドラフト指名を受けてフィラデルフィア・ウォリアーズに入団する。
1年目から司令塔としてプレーし、平均10.7得点、5.8アシスト、6.2リバウンドを記録した。
翌1959-60シーズンにはウィルト・チェンバレンが入団し、強力なフィニッシャーを得たロジャースのアシスト数も飛躍的に上昇していく。
1961-62シーズン、チェンバレンが100得点という大記録を達成した試合では、ロジャースが20アシストを記録して援護している。
ウォリアーズが本拠地をサンフランシスコへ移転した翌1962-63シーズン、ロジャースは平均13.9得点、10.4アシスト(通算825本)を記録し、これまでボブ・クージーの後塵を拝してきたアシスト部門で初めてリーグトップとなった。(当時のスタッツリーダーは平均ではなく通算で決められていた)
このシーズン中、当時のNBA記録となる1試合28アシストも記録している。
1964年にチェンバレンがチームを去ってからは得点面でも数字を上昇させ、1965-66シーズンにキャリアハイとなる平均18.6得点を記録する。
しかし、ウォリアーズは若手を主体にチーム改革を進め、30歳を迎えていたロジャースはシーズン終了後に8シーズンを過ごしたウォリアーズを去る事になった。
エクスパンション・ドラフトで新設チームのシカゴ・ブルズに移籍すると、唯一の30代というベテランながら司令塔としてチームを牽引し、平均18.0得点、11.2アシストを記録して自身2度目のアシスト王に輝いた。
通算908アシストは当時のNBA記録となり、新加入チームが苦戦するのが当たり前という中、ブルズを創部1年目にしてプレイオフ進出に導いた。
しかし、翌シーズン開幕直後にシンシナティ・ロイヤルズへとトレードされると、オスカー・ロバートソンの控えとして起用される事になり、出場時間が大幅に減少する中でキャリア最低の成績に終わった。
シーズン終了後に新設チームのミルウォーキー・バックスへと移籍し、控えとして起用されながらも平均10.3得点、6.9アシストとキャリアを復活させたが、翌シーズンは再び出場機会が減少し、シーズンが終了すると現役から引退した。
youtube:http://youtu.be/RnUgD4JmFRE
 
1.エルジン・ベイラー(Elgin Baylor)
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出身校:シアトル大学
ポジション: SF
所属チーム:MNL-LAL(1958~1972)
キャリア平均:27.4PPG、13.5RPG、4.3APG
個人賞:Rookie of the Year、All-Star Game MVP1回(1959)
ALL TEAM:All-NBA 1st 10回
オールスター出場:11回(1959~1965、1967~1970)

史上最も偉大なフォワードと語られる選手であり、重力を無視したようなアクロバティックなプレーは後の多くの選手に多大な影響を与えた。
シアトル大から低迷するミネアポリス・レイカーズに入団すると、1年目から平均24.9得点、15.0リバウンド、4.1アシストという大活躍を見せ、新人王を獲得したほか、新人でただ一人出場したオールスターゲームでは24得点を叩き出して見事にMVPを受賞した。
チームは33勝39敗と勝ち越す事はできなかったものの、前年から14勝も勝ち星を上積みし、プレイオフでは勢いに乗ってファイナルまで勝ち上がる。
ファイナルでは盤石の布陣を敷くボストン・セルティックスの前に1勝もできずに完敗し、セルティックスの8年にわたる連覇記録をスタートさせるとともに、ベイラーにとってセルティックスに敗退し続けるキャリアの始まりとなった。
レイカーズは1960年に本拠地を移転してロサンゼルス・レイカーズとなり、この年にともにチームの顔として活躍するジェリー・ウェストが入団する。
移転2年目、ベイラーは兵役により試合に出場できるのは週末だけとなったが、48試合の出場で38.3得点、18.6リバウンド、4.6アシストのハイアベレージを残し、ベイラーの不在時にエースとして大きく成長したウェストとともにチームを再びファイナルへと導く。
ファイナルの相手は前回と同じくセルティックスとなったが、なすすべなく敗れ去った3年前と違い、シリーズは一進一退の攻防で進んだ。
2勝2敗のタイで迎えた第5戦、ベイラーは61得点、22リバウンドという驚異的なパフォーマンスを見せ、王手をかける貴重な勝利をもたらす。
しかし第6戦で再びタイに戻されると、延長戦までもつれた最終戦を3点差で落とし、セルティックスの4連覇を見届ける事となった。
レイカーズはその後も何度となくファイナルに進出したが、その度にセルティックスが立ちはだかった。
打倒セルティックスに燃えるレイカーズは、リーグ最高のセンターであるウィルト・チェンバレンを獲得し、1969年に7度目となるセルティックスとのファイナルを迎える。
レイカーズはシリーズを優位に進めたが、セルティックスに盛り返されて最終戦へと突入し、最後は2点差で優勝を逃した。
セルティックスはビル・ラッセルの引退によって王朝終焉を迎え、レイカーズには優勝の大きなチャンスが巡ってきたかに思われたが、1970年のファイナルでは20代半ばの選手が揃うニューヨーク・ニックスの前に敗退し、ベイラーにとって8度目のファイナルもついに優勝に届く事はなかった。
翌1970-71シーズン、膝に慢性的な故障を抱えていたベイラーは2試合の出場にとどまる。
続く1971-72シーズン、故障をおして強行出場をしたものの状態は回復せず、シーズン途中に現役からの引退を表明した。
長くチームを支えてきた大黒柱の突然の引退発表はチームを結束させ、ベイラー引退の発表翌日からレイカーズはNBA記録、また北米プロスポーツ史上最長となる33連勝を記録し、勢いそのままにプレイオフを勝ち進んで悲願の優勝を果たした。
背番号『22』はレイカーズの永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/c1HniaYY2BE
 
5.コニー・ディアーキング(Connie Dierking)
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出身校:シンシナティ大学
ポジション: C
所属チーム:SYR-PHI(1958~1960、1963~1965)→SFW(1965)→CIN(1965~1970)→PHI(1970~1971)
キャリア平均:10.0PPG、6.7RPG、1.5APG

シラキュース・ナショナルズに入団し、目立った数字を残せないまま2シーズンが終了すると、NBAから離れ、短期間ながら誕生したばかりのプロリーグABLでプレーしている。
1963年、フィラデルフィア・76ersと改称した古巣へ4シーズンぶりに復帰したが、1964-65シーズンの途中にウィルト・チェンバレンを獲得するためのトレード要員のひとりとしてサンフランシスコ・ウォリアーズに移籍し、シーズン終了後に再びシンシナティ・ロイヤルズへとトレードされた。
大学時代を過ごしたシンシナティに戻ってからは徐々に出場時間が増加し、1967-68シーズンに平均16.4得点、9.5リバウンドの活躍を見せる。
以降、3シーズンにわたり同様の成績を残し、大学時代のチームメイトでもあるオスカー・ロバートソンらとともにチームの中核を担った。
1970-71シーズン、ロイヤルズで1試合に出場した後、古巣の76ersへトレードされ、シーズン終了後に現役を引退した。
youtube:http://youtu.be/-AIS3Ze1JrA
 
13.ハル・グリア(Hal Greer)
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出身校:マーシャル大学
ポジション: SG、PG
所属チーム:SYR-PHI(1958~1973)
キャリア平均:19.2PPG、5.0RPG、4.0APG
個人賞:All-Star Game MVP1回(1968)
ALL TEAM:All-NBA 2nd 7回
オールスター出場:10回(1961~1970)

前身のシラキュース・ナショナルズ時代からフィラデルフィア・76ers一筋でプレーし、188cmという身長ながら高い成功率を誇ったシュート力を武器に活躍した。
NBAが誕生して以来、常に優勝争いを演じてきた強豪ナショナルズに入団すると、錚々たるメンバーが揃う中、1年目から一定の出場時間を与えられ、平均11.1得点と2桁得点を記録した。
次第にチームの主力へと成長していくと、3年目の1960-61シーズンには大黒柱ドルフ・シェイズに次ぐ平均19.6得点を記録する活躍を見せて初めてオールスターに選出され、以降10年連続でオールスターに選出されるリーグ屈指の選手となった。
翌1961-62シーズンからは衰えが見え始めたシェイズに代わってチームのトップスコアラーとなったが、ナショナルズは毎シーズンのようにプレイオフに進出するものの、優勝には届かないシーズンが続いた。
1963年にチームが本拠地をフィラデルフィアに移転し、フィラデルフィア・76ersと改称する。
新しいチームとなって迎えた1963-64シーズン、76ersはプレイオフに進出したものの、過去最低の34勝46敗の成績に終わり、3年連続となるプレイオフ初戦敗退を喫するなど、プレイオフを勝ち進む力を失っていた。
しかし、翌シーズン途中にウィルト・チェンバレンが加入すると、シーズン中には劇的な変化は見られなかったものの、プレイオフでは4シーズンぶりに初戦を突破し、さらに地区決勝では6連覇中の王者ボストン・セルティックスと最終戦までもつれ込む激戦を見せた。
グリアはこのシリーズで平均22.4得点を記録する活躍を見せていたが、第7戦では1点差を追う試合終了直前に痛恨のターンオーバーを犯し、失意のうちにシーズン終了を迎える事になった。
翌シーズンは55勝と成績を大きく改善させてプレイオフを迎えたが、またしてもセルティックスの前に敗退すると、76ersはチェンバレンに集中していた得点機会を分散させる方針をとり、チェンバレンとグリアに次ぐ選手の成長が促された。
1966-67シーズン、ビリー・カニンガムチェット・ウォーカーらが大きな成長を見せ、チェンバレンがチームプレイヤーとしてプレーを変化させると、76ersは当時のNBA記録となる68勝13敗という好成績を残す。
プレイオフでは地区決勝で宿敵セルティックスと対戦し、連覇記録に終止符を打つ歴史的な勝利を収めた。
グリアはこのシリーズで平均29.2得点と爆発力を見せて2年前の雪辱を果たし、続くサンフランシスコ・ウォリアーズとのファイナルでも平均26.0得点、8.0リバウンド、6.2アシストというオールラウンドな活躍でチームを牽引し、自身初のチャンピオンリングを獲得した。
翌1967-68シーズンには31歳にしてキャリアハイとなる平均24.1得点を記録し、さらにオールスターでMVPを獲得するなどキャリアの絶頂期を迎える。
しかし、プレイオフで優勝を逃すと、シーズン終了後にチェンバレンはチームを去り、76ersはその後も3年連続でプレイオフに進出したが、グリアの衰えと共に成績を下降させていった。
1972-73シーズン終了後、76ers一筋の15シーズンというキャリアに幕を下ろした。
通算出場試合数や通算得点は76ers歴代1位の記録となっており、背番号『15』は同チームの永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/W_IC72BPTE8
 
22.ウェイン・エンブリー(Wayne Embry)
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出身校:マイアミ大学
ポジション: C
所属チーム:CIN(1958~1966)→BOS(1966~1968)→MIL(1968~1969)
キャリア平均:12.5PPG、9.1RPG、1.4APG
オールスター出場:5回(1961~1965)

ドラフトではセントルイス・ホークスから指名を受けたが、モリース・ストークスの不慮の事故により多くの選手を失う事になったシンシナティ・ロイヤルズへ無償譲渡された。
ロイヤルズでは1年目から平均11.4得点、9.0リバウンドの活躍を見せたが、1960年にオスカー・ロバートソンが入団すると、チームの成長とともにエンブリーも個人成績を上昇させる。
1960-61シーズンに平均14.4得点、10.9リバウンドを記録してオールスターに出場すると、以降も5年連続で選出された。
1961-62シーズンにはキャリアハイとなる平均19.8得点、13.0リバウンドを記録している。
しかし、徐々に役割が若い選手へと譲られるようになり、1966年にデビューから8シーズンを過ごしたロイヤルズを去る事になり、ボストン・セルティックスへと移籍した。
エンブリーの出場時間はさらに減少し、個人成績は大きく下降する事になったが、移籍2年目に初めてチャンピオンリングを獲得している。
翌1968-69シーズンはミルウォーキー・バックスで過ごし、1シーズンをプレーした後に現役を引退した。
引退後、バックスで黒人初のGMに就任し、元チームメイトのオスカー・ロバートソンのバックス移籍に尽力している。
また、80年代半ばから生まれ故郷に近いクリーブランド・キャバリアーズでGMを務め、1994年には黒人初の球団社長となった。
 
36.ドン・オール(Don Ohl)
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出身校:イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校
ポジション: SG、PG
所属チーム:DET(1960~1964)→BAL(1964~1968)→STL-ATL(1968~1970)
キャリア平均:15.9PPG、3.0RPG、3.1APG
オールスター出場:5回(1963~1967)

デトロイト・ピストンズに入団し、1年目に13.3得点を記録すると、その後も順調な成長を見せ、3年目の1962-63シーズンに平均19.3得点の活躍で初めてオールスターに選出された。
1964年にボルチモア・ブレッツに移籍してからも変わらず活躍を続け、1965-66シーズンにキャリアハイとなる平均20.6得点を記録している。
しかし、1967年にアール・モンローが入団すると、オールの出場機会は減少し、シーズン途中にセントルイス・ホークスへとトレードされた。
ホークスでは控えとしてプレーして平均2桁得点を記録したが、1969-70シーズンは数字が一気に後退し、このシーズン限りで現役から引退する事になった。
 
85.エイドリアン・スミス(Adrian Smith)
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出身校:ケンタッキー大学
ポジション: SG
所属チーム:CIN(1961~1969)→SFW(1969~1971)→ABA(1971~1972)
キャリア平均:11.3PPG、2.1RPG、2.3APG
個人賞:All-Star Game MVP1回(1966)
オールスター出場:1回(1966)

1958年にシンシナティ・ロイヤルズからドラフト指名を受けたが、すぐに入団せずに陸軍のバスケットボールチームでプレーし、1960年のローマ五輪で金メダルを獲得した。
1961年になってロイヤルズに加入し、オスカー・ロバートソンらのバックアップとしてプレーする。
1964-65シーズンからはロバートソンとともにバックコートで先発を務め、平均15.1得点を記録すると、翌1965-66シーズンは平均18.4得点とさらに数字をアップさせ、初めてオールスターにも選出された。
スミスのキャリアでオールスター出場はこのときの1回のみとなったが、26分の出場で24得点を叩き出し、見事にMVPに輝いている。
デビューから9シーズンにわたりロイヤルズでプレーし、1971-72シーズンをABAのバージニア・スクワイアーズで過ごした後、現役を引退した。
 

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