1957年 NBAドラフト

        1,807 views

前年のドラフト翌年のドラフトドラフトトップ
 
新人王:ウッディ・ソウルズベリー(Woody Sauldsberry)
 
主なプレイヤー
 
1.ロッド・ハンドリー(Rod Hundley)
d1

出身校:ウェストバージニア大学
ポジション: SG、PG
所属チーム:MNL-LAL(1957~1963)
キャリア平均:8.4PPG、3.3RPG、3.4APG
オールスター出場:2回(1960~1961)

通称「ホット・ロッド」。
ミネアポリス・レイカーズに入団し、本拠地をロサンゼルスに移転してからもレイカーズ一筋のキャリアを送った。
当初は控えとしてプレーしていたが、3年目のシーズンに出場時間が増加し、平均12.8得点、5.3リバウンド、4.6アシストを記録してオールスターに初めて選出された。
翌年も続けてオールスターに出場したが、1961-62シーズンからは出場時間が減少し、1963年に現役を引退した。
引退後はユタ・ジャズの名物アナウンサーとして活躍した。
youtube:http://youtu.be/7R95bfFT1i8
 
8.サム・ジョーンズ(Sam Jones)
d2

出身校:ノースカロライナ・セントラル大学
ポジション: SG、SF、PG
所属チーム:BOS(1957~1969)
キャリア平均:17.7PPG、4.9RPG、2.5APG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 3回
オールスター出場:5回(1962、1964~1966、1968)

ボストン・セルティックスの黄金時代の中心選手であり、勝負強いプレーから「ミスタークラッチ」と呼ばれた。
無名大学の無名選手としてセルティックスに入団し、ボブ・クージービル・シャーマンというリーグ屈指のバックコートコンビの控えを務めながら技術を磨いていった。
セルティックスはジョーンズ入団2年目の優勝から連覇をスタートさせ、ジョーンズはシャーマンが引退した1961年から主力としてセルティックスの連覇を支える。
1961-62シーズンに平均18.4得点を記録して初めてオールスターに選出され、プレイオフ地区決勝でウィルト・チェンバレン擁するフィラデルフィア・ウォリアーズとの対戦を迎えると、最終戦の終了間際にチェンバレンをかわして決勝シュートを沈め、試合後にチェンバレンから「最高の選手」と称賛された。
1963年にクージーが引退してからはK.C.ジョーンズとともに「ジョーンズ・ボーイズ」と呼ばれるバックコートを形成し、セルティックスの連覇が継続されていく原動力となった。
ジョーンズは正確なバンクショットを武器にチームの得点源として活躍を続け、1964-65シーズンにはキャリアハイとなる平均25.9得点を記録している。
連覇記録は1967年に8回で途切れる事になったが、翌年には早くも王座に返り咲き、チーム最年長のジョーンズもプレイオフ平均20得点を超える活躍で優勝に貢献した。
翌1968-69シーズン、12年のキャリアで10度目のファイナルに進出し、前年に続いて長年のライバルであるロサンゼルス・レイカーズと対戦する。
悲願の優勝に執念を燃やすレイカーズはシリーズを優位に進めたが、ジョーンズは負ければ1勝3敗と王手をかけられる第4戦で逆転シュートをブザービーターで決め、シリーズの流れを引き戻す重要な働きを見せた。
セルティックスは第7戦に勝利してシリーズを制し、ジョーンズはビル・ラッセルの11回に次ぐ10回目の優勝を果たすと、有終の美をもって選手生活に幕を下ろした。
背番号『24』はセルティックスの永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/50E9NLzGGt8
 
60.ウッディ・ソウルズベリー(Woody Sauldsberry)
d3

出身校:テキサス・サザン大学
ポジション: PF、C
所属チーム:PHW(1957~1960)→STL(1960~1961)→CHP-CHZ(1961~1963)→STL(1963)、BOS(1965~1966)
キャリア平均:10.7PPG、7.8RPG、1.1APG
個人賞:Rookie of the Year
オールスター出場:1回(1959)

大学時代に恋人の妊娠により出産・結婚費用が必要となったが、当時のNBAではアーリーエントリーが認められていなかったため、12000ドルの契約でハーレム・グローブ・トロッターズに入団した。
2年間で80カ国を巡業し、この頃に大学卒業を控えるビル・ラッセルとも出会っている。
卒業後の進路を迷い、トロッターズに気持ちが傾きかけていたラッセルに対し、ソウルズベリーはNBAに進む事を強く勧めた。
1956年にラッセルがNBA入りすると、自身も翌1957年にNBAドラフトにエントリーし、フィラデルフィア・ウォリアーズに入団する。
指名順位は8巡目5位という低い評価になったが、スター選手が揃う強豪チームで1年目から主力として活躍し、平均12.8得点、10.3リバウンドを記録して新人王を獲得した。
2年目になると平均15.4得点、11.5リバウンドとさらに数字を伸ばし、オールスター出場も果たしている。
しかし、1959年にウィルト・チェンバレンが入団すると、ソウルズベリーの数字は一気に下降し、契約の問題も抱えていた事もあってシーズン終了後にセントルイス・ホークスへとトレードされる。
その後はチームメイトやヘッドコーチとの確執などトラブルが続き、短い期間で移籍を繰り返した後、1963年に解雇されたのを機にNBAから去った。
バスケットから身を引いて民間企業で働くソウルズベリーだったが、ビル・ラッセルの尽力により1965年にボストン・セルティックスと契約し、3シーズンぶりにNBAに復帰する。
往年のプレーは見せられず、プレイオフでもコートに立つ事はできなかったが、セルティックスはこのシーズンに前人未到の8連覇を達成し、ソウルズベリーは伝説的なチームの一員として初の優勝を経験した。
ソウルズベリーはこのシーズン限りで完全に現役から引退している。
2007年に73歳で死去した。
 

- PR -