1955年 NBAドラフト
1,868 views
前年のドラフト・翌年のドラフト・ドラフトトップ
新人王:モーリス・ストークス(Maurice Stokes)
主なプレイヤー
※territorial pick:1巡目指名を放棄する代わりに地元選手を獲得出来る制度
territorial pick.ディック・ガーメイカー(Dick Garmaker)
出身校:ミネソタ大学
ポジション: SG、PG
所属チーム:MNL(1955~1960)→NYK(1960~1961)
キャリア平均:13.3PPG、4.2RPG、2.6APG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:4回(1957~1960)
ミネアポリス・レイカーズに入団し、1年目は平凡な成績に終わったものの、2年目に平均16.3得点と大きく数字を伸ばす。
このシーズンにオールスターに選出されると、以降4年連続でオールスター出場を果たすなどリーグを代表する選手として活躍を続けた。
レイカーズは1950年代前半に3連覇を達成するなどリーグ屈指の強豪として君臨していたが、ガーメイカーらが活躍した時期に衰退期を迎え、1957-58シーズンはチーム最低となる19勝53敗の成績に終わった。
オフに行われたドラフトでエルジン・ベイラーを獲得し、レイカーズは復活への道筋をつけたが、ガーメイカーは1960年にレイ・フェリックスとのトレードでニューヨーク・ニックスへと移籍した。
1960-61シーズンに平均15.6得点という活躍を見せたが、このシーズンを最後に現役からの引退を表明した。
territorial pick.トム・ゴーラ(Tom Gola)
出身校:ラサール大学
ポジション: SG、SF
所属チーム:PHW-SFW(1955~1956、1957~1962)→NYK(1962~1966)
キャリア平均:11.3PPG、8.0RPG、4.2APG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:5回(1960~1964)
地域ドラフト制度でフィラデルフィア・ウォリアーズに入団し、平均10.8得点、9.1リバウンド、5.9アシストを記録する。
プレーメーカーとして能力を発揮するゴーラの活躍により、前年地区最下位に沈んでいたウォリアーズは一気にリーグ首位へと躍進し、ファイナルをも制して悲願の初優勝を飾った。
ゴーラは兵役に就くため2年目のシーズンを全休し、1957-58シーズンにチームに復帰する。
このシーズンに平均13.8得点、10.8リバウンド、5.5アシストを記録し、オールNBA2ndチームに選出されるなど復帰後もチームの中心選手として活躍した。
1959-60シーズンにはウィルト・チェンバレンが入団し、ゴーラもキャリアハイとなる平均15.0得点を記録して初めてオールスターに選出されるなど、再び優勝を狙える戦力が整っていく。
しかし、ガイ・ロジャースの台頭によりプレーメーカーとしての価値は徐々に失われていき、1962-63シーズンの途中にニューヨーク・ニックスへとトレードされた。
ニックスではウォリアーズ時代ほどの重要な役割は与えられず、4シーズンをプレーした後、1966年に現役を引退した。
2014年に81歳で死去した。
youtube:http://youtu.be/Wzvs8X9mjNU
1.ディック・リケッツ(Dick Ricketts)
出身校:デュケイン大学
ポジション: PF、C
所属チーム:STL(1955~1956)→ROC-CIN(1956~1958)
キャリア平均:9.3PPG、6.3RPG、2.1APG
ドラフト1位でセントルイス・ホークスから指名を受け、同時にMLBのセント・カージナルスからも指名を受けた。
NBAでプレーする事を選択し、1年目のシーズン途中からロチェスター・ロイヤルズでプレーする。
身長201cmながらロイヤルズではセンターを務め、2年目には平均11.2得点、6.1リバンドを記録した。
しかし、3年目のシーズンにチームメイトのモーリス・ストークスが試合中に生命の危機に瀕する重傷を負い、引退を余儀なくされたストークスに対するチームの不誠実な対応に不信感を募らせると、その後のプレーを拒否して現役から引退した。
その後、MLBのカージナルスに加入し、1959年に投手として12試合に登板している。
成績は1勝6敗、防御率5.82だった。
2.モーリス・ストークス(Maurice Stokes)
出身校:聖フランシス大学
ポジション: PF、C
所属チーム:ROC-CIN(1955~1958)
キャリア平均:16.4PPG、17.3RPG、5.3APG
個人賞:Rookie of the Year
ALL TEAM:All-NBA 2nd 3回
オールスター出場:3回(1956~1958)
ロチェスター・ロイヤルズに入団し、1年目から平均16.8得点、16.3リバウンド、4.9アシストを記録して新人王を獲得した。
当時は通算でスタッツリーダーが決められていたため惜しくもリバウンド王のタイトルを逃す事になったが、翌1956-57シーズンには平均17.4リバウンド、通算1,256リバウンドを記録して堂々リバウンド王に輝いている。
本拠地を移転してシンシナティ・ロイヤルズとなった1957-58シーズンにキャリアハイとなる平均16.9得点を記録したほか、リーグ2位となる18.1リバウンド、さらにリーグ3位となる6.4アシストを記録するなど、オールラウンドな能力は高い評価を受けた。
デビューから3年連続でオールNBA2ndチームに選ばれ、またオールスターにも3年連続で選ばれるなどリーグを代表する選手として活躍していたが、3年目のシーズン最終戦で頭を強打していたストークスは、体の違和感を感じながらもその後のプレーオフに強行出場し、これが原因となって昏睡状態に陥いると、意識が戻らないまま事実上の引退へと追い込まれた。
ストークスに対するチームの対応に多くのチームメイトが不信感を募らせロイヤルズを離れていったが、高校時代からの友人であるジャック・トゥワイマンはチームに残り、ストークスに代わってエースとして活躍する傍ら、チームに見放されたストークスの支援を続けた。
ストークスはその後、昏睡から目覚め、半身不随となったものの周囲が驚く回復を見せた。
1970年に心臓発作に襲われ、36歳で死去した。
背番号『12』はロイヤルズ(現サクラメント・キングス)の永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/DneEfLfgXGc
3.ジム・ロスカトフ(Jim Loscutoff)
出身校:オレゴン大学
ポジション: SF
所属チーム:BOS(1955~1964)
キャリア平均:6.2PPG、5.6RPG、0.7APG
ボストン・セルティックスに入団し、2年目に平均10.6得点、10.4リバウンドのダブルダブルを記録した。
セルティックスはこのシーズンに初優勝を飾ると、今後10年以上続くボストン王朝が幕を開ける事になった。
ロスカトフは2年目の成績がキャリアハイとなり、以降、ベンチプレイヤーとして目立った数字を残す事はなかったが、荒々しくパワフルなディフェンスでチームの中核を担い、9年の選手生活で7個のチャンピオンリングを獲得した。
ロスカトフはセルティックスの一員のまま1964年に現役を引退する。
引退後、セルティックスはロスカトフの背番号『18』を永久欠番にしようとしたが、ロスカトフは今後も選手が着用できるように、18番を永久欠番にしないように求めた。
その代わりに、セルティックスはロスカトフの愛称である「LOSCY」を綴ったバナーをホームアリーナ―に掲げ、その功績を讃えた。
なお、18番はその後、1970年に入団したデイブ・コーウェンスに引き継がれ、コーウェンスの名で永久欠番に指定された。
4.ケニー・シアーズ(Kenny Sears)
出身校:サンタクラ大学
ポジション: PF、SF
所属チーム:NYK(1955~1961、1962~1962)→SFW(1962~1964)
キャリア平均:13.9PPG、7.8RPG、1.6APG
オールスター出場:2回(1958~1959)
ニューヨーク・ニックスに入団し、3年目に平均18.6得点、10.9リバウンドを記録してオールスターに選出され、チームの中心選手へと成長した。
翌1958-59シーズンにはキャリアハイとなる平均21.0得点、リーグトップとなるFG成功率49.0%を記録している。
翌1959-60シーズンにも2年連続となるFG成功率リーグ1位に輝き、平均13.7リバウンドを記録するなどリーグトップクラスの選手として活躍を続けたが、1961年から1シーズンのみ地方リーグのABLに籍を移すと、NBA復帰後は以前のレベルでのプレーを見せる事はできなかった。
1962-63シーズン途中にニックスからサンフランシスコ・ウォリアーズに移籍し、翌1963-64シーズンにキャリア初のファイナルを経験した後、シーズン終了後に現役を引退した。
8.ジャック・トゥワイマン(Jack Twyman)
出身校:シンシナティ大学
ポジション: SF、SG
所属チーム:ROC-CIN(1955~1966)
キャリア平均:19.2PPG、6.6RPG、2.3APG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 2回
オールスター出場:6回(1957~1960、1962~1963)
ロチェスター・ロイヤルズに入団し、1年目から平均14.4得点、6.5リバウンドの活躍を見せると、高校時代からの友人であるモーリス・ストークスとともにチームを牽引する存在となった。
2年目の1956-57シーズンには早くもオールスターに選出され、チームが本拠地を移転してシンシナティ・ロイヤルズとなった翌1957-58シーズンにはリーグトップとなるFG成功率45.2%という数字を残した。
ロイヤルズはトゥワイマンとストークスを中心に順調な成長を見せていたが、3年目のシーズン最終戦で不慮の事故に襲われたストークスが半身不随となって引退を余儀なくされると、将来を嘱望されていたチームは瞬く間に瓦解していく事になった。
多くのチームメイトがロイヤルズを去っていく中、トゥワイマンはチームに残り、ストークスに代わって新たなエースとして孤軍奮闘を始める。
1958-59シーズン、平均25.8得点、9.1リバウンドと飛躍的に数字をアップさせると、翌1959-60シーズンには平均31.2得点を記録し、このシーズンに得点王となったウィルト・チェンバレンとともに平均30得点を超えたNBA初の選手となった。
ロイヤルズはこの間、2年連続で19勝に終わるなど低迷を極めたが、1960年にオスカー・ロバートソンが入団して以降、強豪チームとして成績を上昇させていく。
トゥワイマンはエースの座を若いロバートソンに譲る事になったが、チームの重要なプレイヤーとして活躍を続け、1966年まで11シーズンにわたりロイヤルズ一筋でプレーした。
背番号『27』はロイヤルズ(現サクラメント・キングス)の永久欠番となっている。
トゥワイマンは現役時代からコート外でもビジネスを展開するなど昼夜を問わず働き続け、高額な医療費が必要となったストークスの支援を続けた。
2012年に78歳で死去した。
youtube:http://youtu.be/7zvCjzoxL1s