1953年 NBAドラフト

        1,942 views

前年のドラフト翌年のドラフトドラフトトップ
 
新人王:レイ・フェリックス(Ray Felix)
 
主なプレイヤー
 
territorial pick:1巡目指名を放棄する代わりに地元選手を獲得出来る制度
※赤字はABA時代のもの・キャリア平均はNBA・ABAの通算平均
territorial pick.ウォルター・デュークス(Walter Dukes)
d1

出身校:シートン・ホール大学
ポジション: C
所属チーム:NYK(1955~1956)→MNL(1956~1957)→DET(1957~1963)
キャリア平均:10.4PPG、11.3RPG、1.1APG
オールスター出場:2回(1960~1961)

1953年にニューヨーク・ニックスからドラフト指名を受けた後、すぐには入団せずにハーレム・グローブ・トロッターズで2年間を過ごし、1955年からニックスに合流した。
213cmという長身を武器に大学時代に目覚ましい活躍を見せたデュークスだったが、NBA入り後は膝の故障に見舞われ、成績は振るわずに1シーズンでミネアポリス・レイカーズへトレードされた。
レイカーズでは平均10.1得点、11.2リバウンドとダブルダブルの成績を残したが、またしても1シーズンのみでトレードされ、その後引退するまで在籍する事になるデトロイト・ピストンズへ移籍する。
ピストンズでは主力選手のひとりとして活躍し、移籍3年目の1959-60シーズンに平均15.2得点、13.4リバウンドを記録してオールスターに選出された。
6シーズンをピストンズで過ごし、1962-63シーズン終了後に現役を引退した。
 
1.レイ・フェリックス(Ray Felix)
d2

出身校:ロングアイランド大学
ポジション: C
所属チーム:BLB(1953~1954)→NYK(1955~1959)→MNL-LAL(1959~1962)
キャリア平均:10.9PPG、8.9RPG、0.7APG
個人賞:Rookie of the Year
オールスター出場:1回(1954)

ボルチモア・ブレッツに入団し、1年目に平均17.6得点、13.3リバウンドを記録する。
このシーズンに黒人選手として史上2人目となるオールスターに選出され、シーズン終了後には黒人選手として初めてとなる新人王に選ばれた。
しかし、シーズン終了後にニューヨーク・ニックスへトレードされると、時間当たりの得点ではチームトップとなる数字を残しているにもかかわらず、30分以上の出場時間を与えられる事なく個人成績を後退させた。
1960-61シーズンの途中にミネアポリス・レイカーズへトレードされ、1962年に初めてのファイナルを経験した後に現役を引退した。
 
3.ジャック·モリナス(Jack Molinas)
d3

出身校:コロンビア大学
ポジション: SF
所属チーム:FTW(1953~1954)
キャリア平均:11.6PPG、7.1RPG、1.6APG
オールスター出場:1回(1954)

フォートウェイン・ピストンズに入団し、1年目は32試合の出場で平均11.6得点、7.1リバウンドを記録し、オールスターにも選出されていた。
しかしシーズン中にギャンブルが理由で出場停止を受け、そのままリーグを去る事になった。
1961年に22の大学から37選手もの逮捕者を出した八百長スキャンダルの中心人物として知られ、後に「バスケットボール史上最大のフィクサー」と呼ばれた。
1975年に殺害されている。
 
4.リッチー・リーガン(Richie Regan)
d5

出身校:シートン・ホール大学
ポジション: PG、SG
所属チーム:ROC-CIN(1955~1958)
キャリア平均:8.3PPG、2.6RPG、2.9APG
オールスター出場:1回(1957)

ロチェスター・ロイヤルズに入団し、2年目に平均9.8得点、3.1アシストを記録してオールスターに選出された。
チームの中心選手として3シーズンにわたり活躍を続けたが、1958年にエースのモーリス・ストークスが不慮の事故に見舞われ半身不随となって引退を余儀なくされると、チームに対し不信感を募らせ、多くのチームメイトとともにロイヤルズを去った。
ストークスがプレーオフの移動中に容体を悪化させた際、死を覚悟したストークスに頼まれ、略式の洗礼を授けている。
 
5.フランク・ラムジー(Frank Ramsey)
d6

出身校:ケンタッキー大学
ポジション: SG、SF
所属チーム:BOS(1954~1955、1956~1964)
キャリア平均:13.4PPG、5.5RPG、1.8APG

大学時代、八百長疑惑に端を発した一大スキャンダルに巻き込まれ、ラムジーのチームメイトが容疑を認めたためにケンタッキー大学は出場停止処分という最も重い罰を受ける事になった。
4年生のシーズンを棒にふる事になったラムジーとクリフ・ヘイガンは、卒業後に揃ってボストン・セルティックスからドラフト指名を受けたが、すぐにNBA入りせずに、失ったシーズンを取り戻すために大学院生となってケンタッキー大学に戻った。
ケンタッキー大学は25戦全勝という成績を残し、AP通信のランキングで全米1位にランキングされたが、NCAAトーナメントへの大学院生の出場が認めれていなかったためトーナメントへの参加を辞退した。
ラムジーは1954年にセルティックスに合流したが、1年目のシーズン終了後、兵役に就くため1シーズン半にわたりチームを離れる。
1956-57シーズンの中盤から復帰すると、ヘッドコーチのレッド・アワーバックは得点力の高いラムジーをあえてシックスマンとして起用し、これが功を奏してセルティックスはプレーオフを勝ち進み、ファイナルではクリフ・ヘイガンが所属するセントルイス・ホークスを破ってチーム初となる優勝を果たした。
翌1957-58シーズンにキャリアハイとなる平均16.5得点、7.3リバウンドを記録し、以降、5シーズン連続で15得点以上を記録するなど、1964年に現役を引退するまで合計7個のチャンピオンリング獲得に貢献している。
ラムジーは「切り札」としてシックスマンの役割を担い、これまで「6番目に優秀な選手」という見方をされていたシックスマンの概念を大きく変える活躍を見せた。
ラムジー引退後、その役割はジョン・ハブリチェックに受け継がれ、その後もセルティックスの伝統として、ポール・サイラスケビン・マクヘイルなど優秀な選手がシックスマンを務めている。
背番号『23』はセルティックスの永久欠番となっている。
 
Round 3.クリフ・ヘイガン(Cliff Hagan)
d1

出身校:ケンタッキー大学
ポジション: SF
所属チーム:STL(1956~1966)、ABA(1967~1970)
キャリア平均:17.7PPG、6.6RPG、3.2APG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 2回
オールスター出場:6回(1958~1962、1968

大学時代に八百長スキャンダルに巻き込まれ、大学が出場停止処分という重い罰を受ける事になったため、1951-52シーズンを棒に振る事になった。
1953年にボストン・セルティックスからドラフト指名を受けたが、フランク・ラムジーらとともに大学院生として大学に残り、失われたシーズンを取り戻すために1953-54シーズンを大学で過ごした。
大学での生活を終えると、1954年から2年間兵役に就き、1956年にNBA入りする。
ボストン・セルティックスはビル・ラッセルを獲得するために、ヘイガンをエド・マコーレーとともにセントルイス・ホークスへとトレードする。
ホークスでの1年目は出場時間を得られずに平均5.5得点という成績に終わったが、プレーオフに入ると平均17.0得点を記録する活躍を見せ、ファイナルまで進む快進撃の原動力となった。
翌1957-58シーズンは平均19.9得点、10.1リバウンドを記録し、オールスター選出、オールNBA2ndチーム選出と、リーグを代表するフォワードへと成長する。
プレーオフではエースのボブ・ペティットを上回る平均27.7得点を記録し、前年に続きファイナルに進出すると、2年連続となったボストン・セルティックスとのシリーズを最終戦までもつれ込む激戦の末に制し、悲願の初優勝を遂げた。
翌1958-59シーズンからは4シーズン連続で平均20得点以上を記録し、1959-60シーズンにはキャリアハイとなる平均24.8得点を記録している。
ヘイガンとペティット、そしてクライド・ラブレットを加えた3人は「アンタッチャブル」と評され、ホークスは優勝後も強豪として好成績を残し続けた。
しかし、時代はセルティックスの黄金時代に突入しており、1960年と1961年にファイナルに進出するもセルティックスの前に敗退を喫する事になった。
30歳を過ぎてからは若い選手にチームの主役の座を譲るようになり、1965-66シーズンを最後にホークスを去った。
その後、1967年から新しく誕生したプロリーグABAに参加し、選手兼ヘッドコーチとして3シーズンをプレーしている。
youtube:http://youtu.be/Q5rYmIq4MVY
 
Other Picks.ジャック·ジョージ(Jack George)
d2

出身校:ラ・サール大学
ポジション: PG、SG
所属チーム:PHW(1953~1959)→NYK(1959~1960)
キャリア平均:10.2PPG、4.2RPG、4.3APG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:2回(1956~1957)

フィラデルフィア・ウォリアーズに入団し、1年目から司令塔として平均9.5得点、5.4リバウンド、4.4アシストの成績を残す。
3年目の1955-56シーズンには、リーグトップとなる平均39.4分に出場し、平均13.9得点、4.3リバウンド、6.3アシストを記録してオールスターに選出されている。
ウォリアーズはこのシーズンに45勝27敗の好成績を残し、プレイオフを勝ち抜いて優勝を果たしている。
しかし、プレーメーカーとしての役割はトム・ゴーラが担うようになり、数字を下降させていくジョージは1958-59シーズンの途中でニューヨーク・ニックスへトレードされた。
ニックスではさらに出場時間が減少し、1960年に解雇され現役を引退する事になった。
 

- PR -