1950年 NBAドラフト

        3,111 views

前年のドラフト翌年のドラフトドラフトトップ
 
主なプレイヤー
 
territorial pick:1巡目指名を放棄する代わりに地元選手を獲得出来る制度
territorial pick.ポール・アリジン(Paul Arizin)
d1

出身校:ビラノバ大学
ポジション: SF
所属チーム:PHW(1950~1952、1954~1962)
キャリア平均:22.8PPG、8.6RPG、2.3APG
個人賞:All-Star Game MVP1回(1952)
ALL TEAM:All-NBA 1st 3回、All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:回(1951~1952、1955~1962)

ツーハンドでのセットシュートが主流だった初期のNBAに登場したアリジンは、ワンハンドでのジャンプシュートで大量得点を叩き出し、バスケットボールの発展に大きな役割を果たした。
地域ドラフト制度でフィラデルフィア・ウォリアーズに入団すると、1年目からリーグ5位となる平均17.2得点、9.8リバウンドを記録し、新人にしてオールスターに選出されたほかチームも前年から14勝も勝ち星を上積みさせた。
翌1951-52シーズンにはさらに平均25.4得点、11.3リバウンドと数字をアップさせ、3年連続で得点王を独占していたジョージ・マイカンから得点王の座を奪い、オールNBA1stチーム入りも果たす。
早くも選手としての絶頂期を迎えたアリジンだったが、1952年から兵役に就くことになり、この貴重な時期を2年間にわたり海兵隊で過ごす事となった。
この空白期間がアリジンから輝きを奪ってしまうのではないかと懸念されたが、復帰した1954-55シーズンに平均21.0得点、9.4リバウンドを記録し、以前と変わらない姿を見せた。
アリジン不在時に低迷してしまったウォリアーズも成績を回復させ、1955-56シーズンにはNBA(BAA)元年以来となる10年ぶりの優勝を果たした。
翌1956-57シーズンには平均25.6得点を記録し、2度目の得点王に返り咲いたが、チームの主力選手が兵役や故障で相次ぎ離脱してしまったため、1958-59シーズンはプレイオフ進出を逃す結果に終わった。
ウォリアーズはこのまま衰退期に入るかに思われたが、1959年にウィルト・チェンバレンが入団すると、再びリーグの強豪として好成績を収める。
インサイドを支配するチェンバレンとジャンプシュートで得点を重ねるアリジンは抜群の相性を見せ、アリジンはチェンバレン加入後も高い得点力を発揮した。
1961-62シーズンに平均21.9得点を記録し、33歳にしていまだリーグトップクラスの得点力を持っていたが、シーズン終了後にチームの本拠地がサンフランシスコへ移転する事になり、幼少時から住み慣れたフィラデルフィアを離れる事を嫌ったアリジンはこのシーズンを最後にNBAから引退する事を決めた。
2006年に78歳で死去した。
youtube:https://youtu.be/1yxQtJ2FIT8
 
1.チャック・シェア(Chuck Share)
d2

出身校:ボーリング・グリーン州立大学
ポジション: C
所属チーム:FTW(1951~1953)→MLH-STL(1953~1960)→MNL(1960)
キャリア平均:8.3PPG、8.4RPG、1.4APG

ドラフトではボストン・セルティックスから指名を受けたが、すぐにはプレーせず、翌1951年にフォートウェイン・ピストンズにトレードされてピストンズでデビューする。
3シーズンを過ごしたピストンズでは目立つ成績を残せなかったが、1953年に移籍したミルウォーキー・ホークスで中心選手のひとりとして活躍を始める。
チームが本拠地を移転してセントルイス・ホークスとなった1955-56シーズンに、キャリアハイとなる平均13.6得点、10.8リバウンドを記録している。
このシーズンから4年連続で全試合に出場し、個人成績はゆるやかに下降させていったものの、1957-58シーズンにはチームキャプテンとしてホークス初の優勝に貢献した。
1959-60シーズンの途中にミネアポリス・レイカーズに移籍し、シーズン終了後に現役を引退した。
 
3.ボブ・クージー(Bob Cousy)
d3

出身校:ザ・ホリー・クロス大学
ポジション: PG
所属チーム:BOS(1950~1960)、CIN(1969~1970)
キャリア平均:18.4PPG、5.2RPG、7.5APG
個人賞:MVP1回(1956-1957)、All-Star Game MVP2回(1954、1957)
ALL TEAM:All-NBA 1st 10回、All-NBA 2nd 2回
オールスター出場:13回(1951~1963)

ドリブルやパスの分野で革新的な技術をもたらし、後世に多大な影響を与えたポイントガードとして知られている。
ドラフトではトライシティ・ブラックホークスに指名を受けたが、トレードやチームの解散など紆余曲折を経てボストン・セルティックスに辿りつく。
1年目からリーグ4位となる平均4.9アシストを記録するなどゲームメーカーとして非凡さを見せ、さらに翌年にはリーグ3位となる平均21.7得点を記録するなど得点面でもチームをリードした。
3年目には平均7.7アシストの記録で初のアシスト王に輝き、以降、8シーズンに渡ってリーグトップの座を独占し続けた。
一方、チームはクージーを中心に速攻主体のスタイルで勝率5割を超す成績を残していたが、プレイオフを勝ち進む事ができず、優勝に近づけないシーズンが続いていた。
しかし、トム・ヘインソーンビル・ラッセルの入団を機に課題となっていたディフェンスが劇的に改善され、堅守速攻を武器にセルティックスはリーグ屈指のチームへと変貌を遂げる。
1956-57シーズン、セルティックスは44勝28敗の好成績を残し、平均20.6得点、7.5アシストを記録したクージーがシーズンMVPを受賞。
プレイオフでは初めてファイナルに進出し、セントルイス・ホークスを破って初優勝を成し遂げた。
1958-59シーズンに2度目の優勝を果たすと、セルティックスはこのシーズンから前人未到の連覇記録をスタートさせる。
この間、クージーは1963年までの5連覇に中心選手として貢献した。
1962-63シーズン終了後に現役を引退したが、1969年からシンシナティ・ロイヤルズのヘッドコーチを務め、短期間ながら選手としても復帰を果たしている。
背番号『14』はセルティックスの永久欠番となっている。
youtube:https://youtu.be/5QCP6mMMH2Q
 
5.ラリー・フォウスト(Larry Foust)
d4

出身校:ラ・サール大学
ポジション: C
所属チーム:FTW(1950~1957)→MNL(1957~1960)→STL(1960~1962)
キャリア平均:13.7PPG、9.8RPG、1.7APG
ALL TEAM:All-NBA 1st 1回、All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:8回(1951~1956、1958~1959)

ドラフトではシカゴ・スタッグズから指名を受けたが、その後すぐにスタッグズが解散してしまったため、フォートウェイン・ピストンズでプロのキャリアをスタートさせる。
ピストンズでは1年目から平均13.5得点、10.0リバウンドを記録し、チームの中心選手として活躍した。
オールスターには1年目から6年連続で選出され、1年目から5年連続でシーズン・ダブルダブルを記録している。
1954-55シーズンにはキャリアハイとなる平均17.0得点を記録し、チームも43勝29敗の好成績を残すと、初めてオールNBA1stチームに選出された。
ピストンズはこのシーズンから2年連続でファイナル進出を果たしたが、どちらも優勝を逃してしまい、この時期をピークに衰退期へ入っていく。
フォウストは1957年に7シーズンを過ごしたピストンズを去り、ミネアポリス・レイカーズへ移籍した。
レイカーズでは個人成績を後退させたが、若手選手のサポート役としてチームを支え、1959年のファイナル進出に貢献している。
1959-60シーズン中にはセントルイス・ホークスに移籍し、ここでも2度のファイナル進出を経験したが、レイカーズ時代と同じくボストン・セルティックスの前に敗退し、ついに優勝を果たせないまま1962年に現役を引退した。
 
7.ジョージ・ヤードリー(George Yardley)
d1

出身校:スタンフォード大学
ポジション: SF
所属チーム:FTW-DET(1953~1959)→SYR(1959~1960)
キャリア平均:19.2PPG、8.9RPG、1.7APG
ALL TEAM:All-NBA 1st 1回、All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:6回(1955~1960)

フォートウェイン・ピストンズに入団し、2年目に平均17.3得点、9.9リバウンドを記録してオールスターに選出されると、以降、引退するまで6年連続でオールスターに選出された。
ピストンズは1955年、1956年と2年連続でファイナル進出を果たしたが、この時期をピークにチームは衰退期へと突入する。
ヤードリーは低迷するチームの中でエースとして活躍し、1957-58シーズンには平均27.8得点、10.7リバウンドを記録してオールNBA1stチーム入りしている。
また、このシーズンに通算2,001得点を記録し、史上初のシーズン2,000得点超えとなった。
しかし、チームは低迷から抜け出す事ができず、ヤードリーも1959年にシラキュース・ナショナルズへと移籍する。
1959-60シーズン、31歳となったヤードリーは平均20.2得点と堂々の数字を残していたが、「子供が学齢に達したらバスケットを辞める」という妻との約束を守り、シーズン終了後に現役を引退した。
2004年に75歳で死去した。
youtube:https://youtu.be/_ODsodsXNVk
 
Round 2.チャック・クーパー(Chuck Cooper)
d2

出身校:デュケイン大学
ポジション: SF
所属チーム:BOS(1950~1954)→MLH-STL(1954~1956)→FTW(1956)
キャリア平均:6.7PPG、5.9RPG、1.8APG

NBAドラフト史上初めて指名を受けた黒人選手として知られている。
大学卒業後はハーレム・グローブ・トロッターズと契約し、1950年のNBAドラフトでボストン・セルティックスに指名を受ける。
NBA入り後も差別的な扱いを受ける事があったが、セルティックスのヘッドコーチ、レッド・アワーバックは人種に頓着せず、1年目から積極的に起用されて平均9.3得点、8.5リバウンドの数字を残した。
クーパーの成功により、セルティックスはその後も黒人選手をチームに取り入れ、後に前人未到の8連覇を達成する。
一方、クーパーはその後、セルティックスの看板となったアップテンポなプレースタイルに適応できずに数字を落とし、1954年にチームを去ってからは2シーズンをプレーした後に現役を引退した。
引退後は出身地のピッツバーグに戻って差別・貧困の撲滅運動に取り組み、同市の様々な役職を歴任した。
1984年に肝癌で死去した。
youtube:https://youtu.be/RXnvD6GIGX8
 
Round 2.ビル・シャーマン(Bill Sharman)
d3

出身校:サザンカリフォルニア大学
ポジション: SG
所属チーム:WSC(1950~1951)→BOS(1951~1961)
キャリア平均:17.8PPG、3.9RPG、3.0APG
個人賞:All-Star Game MVP1回(1955)
ALL TEAM:All-NBA 1st 4回、All-NBA 2nd 3回
オールスター出場:8回(1953~1960)

ワシントン・キャピタルズで1シーズンを過ごした後、ボストン・セルティックスへと移籍する。
移籍2年目の1951-52シーズンからボブ・クージーとバックコートでコンビを組み、平均16.2得点を記録してオールスターに選出された。
11年のキャリアで7度フリースローの成功率でリーグトップになるなどシュート力に優れ、チーム1、2の得点力を持つシャーマンとクージーのバックコートは相手チームの脅威となった。
セルティックスはリーグトップのオフェンス力を武器に勝率5割を超える成績を残していたが、一方でディフェンスはリーグワーストという状況にあり、プレイオフを勝ち進む事ができないシーズンが続いていた。
しかし、1956年にトム・ヘインソーンビル・ラッセルが入団すると、課題だったディフェンスが改善され、セルティックスはプレイオフを勝ち進んで念願の初優勝を成し遂げる。
ディフェンスの向上はオフェンスにも好影響を及ぼし、シャーマンは優勝したシーズンから3年連続で平均20得点以上を記録した。
セルティックスは1959年の優勝を皮切りに前人未到の連覇記録をスタートさせたが、シャーマンは3連覇を達成した1960-61シーズン終了後に現役を引退した。
背番号『21』はセルティックスの永久欠番となっている。
引退後、現役時代にライバル関係にあったロサンゼルス・レイカーズのヘッドコーチを務め、就任1年目に優勝を果たしている。
2013年、87歳で死去した。
youtube:https://youtu.be/SjJVabaSHXM
 
Round 9.アール・ロイド(Earl Lloyd)
d4

出身校:ウェストバージニア大学
ポジション: SF
所属チーム:WSC(1950~1951)、SYR(1952~1958)→DET(1958~1960)
キャリア平均:8.4PPG、6.4RPG、1.4APG

大学卒業後、ワシントン・キャピトルズから指名を受け、同年に指名を受けたチャック・クーパー、ナサニエル・クリフトンと共にNBA史上初の黒人選手となった。
ロイドは3人の中で最初に公式戦デビューを果たし、NBA史上初めて公式戦に出場した黒人選手となっている。
しかし、キャピトルズがシーズン中に解散してしまったため、ロイドの1年目はわずか7試合のみとなり、その後は軍隊に入隊してNBAから一時離れる事になった。
1952-53シーズンにNBAに復帰し、シラキュース・ナショナルズに加入する。
1954-55シーズンには中心選手として初優勝に貢献し、このシーズンにキャリアハイとなる平均10.2得点、7.7リバウンドも記録している。
1958年からはデトロイト・ピストンズでプレーし、2シーズンを過ごして現役から引退した。
youtube:https://youtu.be/3mVAnqqj484
 

- PR -