ボブ・ラブ player profile⑮

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ボブ・ラブは初期のシカゴ・ブルズで活躍し、背番号『10』はブルズの永久欠番となっています。
私がNBAを観始めた頃、ブルズの10番はB.J.アームストロングの番号でした。
雑誌か何かでアームストロングが永久欠番を着けてプレーする現役選手だという事を知り、同時にボブ・ラブという名前も初めて知る事になりました。
アームストロングの入団後にラブの永久欠番が決まり、アームストロングは許可を得て番号を変更する事なくプレーしていたそうです。
ボブ・ラブについてはその程度の知識しかなかったのですが、印象的な名前が長いこと頭の片隅に居座り続けていましたので、今になって何となく調べてみようかなと思い立ちました。
ブルズの歴史の中で、マイケル・ジョーダンが登場するまで最高の選手として知られていたラブですが、そのキャリアは平たんなものではなかったようです。
 
blBob Love(ボブ・ラブ)

誕生日 1942年1月28日
デビュー 1966年(シンシナティ・ロイヤルズ)
引退 1977年(シアトル・スーパーソニックス)
ポジション パワーフォワード/センター
身長・体重 203cm・98kg
キャリア通算平均 17.6PPG、5.9RPG、1.4APG

 
 

生い立ち

ラブの少年時代は黒人への差別と貧困にまみれ、幼いラブにとって靴下を丸めて作ったバスケットボールが唯一の遊び道具でした。
8年生(日本の中学2年生に相当)になってようやく本物のボールを手に入れると、ラブは重度の吃音症を抱えていた事もあり、言葉を発してくても済むバスケットコートでのプレーに熱中していきます。
栄養失調で倒れてしまう事もありましたが、高校時代は持ち前の高い身体能力を発揮し、周囲の援助もあってバスケットボールとフットボールで活躍する選手へと成長しました。
奨学金を得て大学に進学し、カレッジバスケ界のスター選手として自信を深めていくと、吃音症に苦労しながらもキャンパスライフの中で少しづつ社交性も身につけていきました。
そして大学卒業後、1965年のNBAドラフトにエントリーします。
 

NBA

ドラフトではシンシナティ・ロイヤルズから指名を受けましたが、無名大学出身という事もあって4巡目全体33位と評価は低く、結局、契約を結ぶまでには至りませんでした。
マイナーリーグで1シーズンを過ごしたラブは、ロイヤルズに入団するために翌1966年にトライアウトを受け、ここでようやく契約にこぎつけます。
念願のNBAデビューを果たしたラブでしたが、ロイヤルズでは活躍の場を与えられる事はなく、僅かな時間をプレーする控え選手として2シーズンを過ごした後、1968年にエクスパンション・ドラフトで新設チームのミルウォーキー・バックスに移籍しました。
絶対的な選手のいないエクスパンション・チームでのプレーは大きなチャンスでしたが、結果を残せないままシーズン序盤にシカゴ・ブルズへとトレードされます。
ブルズ移籍後はさらに出場時間が減少し、ラブのNBAプレイヤーとしてのキャリアは早くも終わりを迎えようとしていました。
しかし翌1969-70シーズン、ディック・モッタのヘッドコーチ就任が風前の灯となったラブの状況を一変させます。
 
モッタはオールスター選手として活躍するボブ・ブーザーをトレードで放出し、その後釜として、これまで目立った活躍を見せた事のないラブを先発に抜擢しました。
この起用はラブの才能を一気に開花させ、このシーズンにいきなり平均21.0得点、8.7リバウンドという大活躍を見せます。
一躍ブルズのエースプレイヤーとなったラブは、その活躍が偶然ではなかった事を証明するように、翌1970-71シーズンは平均25.2得点とさらに数字を伸ばし、初めてオールスターに選出されました。
翌1971-72シーズンにはキャリアハイとなる平均25.8得点を記録し、オールNBA2ndチーム、オールディフェンシブ2ndチームに同時選出されています。
ブルズにはリーグ屈指のディフェンダーとして活躍するジェリー・スローンも在籍し、ラブとスローンを中心に強固なディフェンス力を誇るチームとなったブルズは、4シーズン連続で50勝以上を記録するなど最初の黄金期を迎えました。
 
1969-70シーズン以降、6シーズン連続で20得点以上を記録し、無名の控え選手からリーグを代表するフォワードへと成長したラブでしたが、その活躍の一方でブルズはラブの吃音症がファンに与える影響を不安視し、テレビのインタビューやCM出演を極力控えさせていました。
ラブが自分を表現できるのはコート上しかなく、その活躍にも関わらず自尊心が満たされる事はありませんでした。
ラブは中心選手として長くブルズを支えてきましたが、キャリア晩年は背中の故障に悩まされ、個人成績を急降下させた1976-77シーズンに9シーズンを過ごしたブルズを去る事になりました。
ニューヨーク・ニックス移籍後すぐに解雇され、シアトル・スーパーソニックスで残りのシーズンを過ごしたラブは、シーズン終了後に現役からの引退を決断しました。
ラブがブルズで残した通算12,623得点は、引退した時点でブルズ歴代1位の記録となり、2014年現在の時点でマイケル・ジョーダン、スコッティ・ピッペンに次ぐ歴代3位の記録となっています。
 

引退後

ラブはブルズの歴史に大きな足跡を刻みましたが、その後の人生には過酷な試練が待ちかまえていました。
引退の原因となった背中の故障はさらに症状が悪化し、医師が「歩行は困難になるかもしれない」と診断すると、ラブの妻は「吃音症でさらに身体障害者とは結婚したくなかった」と言い残してラブの元を去ってしまいました。
手術と懸命なリハビリによって辛うじて歩行できるようになったものの、ラブを悩ませていた吃音症は再就職の大きな障壁となり、定職に就く事ができないまま現役時代に築いた財産もなくなってしまいます。
NBAという華やかな舞台から一転、多くのものを失う事になったラブは、シアトルの百貨店のフードサービス部門で給仕をこなし、わずかな時給で何とか食いつなぐ日々を送っていました。
そこにはかつてスター選手として活躍した面影はどこにもありませんでした。
しかし、ラブは虚勢を張ることなく目の前の仕事に向き合い、その懸命な姿に周囲は救いの手を差し伸べました。
職場の上司はラブの状況を好転させようと、彼を長年苦しめる吃音症を改善させるために言語療法士を紹介します。
45歳となっていたラブは、大変な苦労を味わいながらも治療に取り組み、それは確かな成果となって改善を見せていきました。
1987年、ラブにイリノイ州の高校生700人の前でスピーチする機会を与えられます。
ここで吃音症が人生にどのような影響をもたらしたのかを語り終えると、会場にはスタンディングオベーションが沸き起こり、ラブはその光景に涙を浮かべました。
1993年にはシカゴ・ブルズの広報活動部門のディレクターに就任し、ブルズの一員として新たな活躍を始めました。
53歳の誕生日を迎えた1995年12月8日には、ブルズのホームゲームでのハーフタイム中にシアトル時代に知り合った女性と結婚式を挙げています。
NBAの舞台にカムバックを果たしたラブは、現在、全米屈指のスピーチの達人として知られ、年200~300もの公演をおこなっているそうです。
 

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