エルジン・ベイラー player profile① 

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マイケル・ジョーダンがNBAに登場するよりもはるか昔、
空中を遊泳するかのようなプレーでファンを魅了し、後のジュリアス・アービングらダンクアーティストと呼ばれるプレイヤー達に多大な影響を与えた人物がいました。
その名は「エルジン・ベイラー」。
史上最も偉大なスモールフォワードと称賛され、バスケットボールを変えてしまったとも言われるプレイヤーです。
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Ergin・Baylor(エルジン・ベイラー)

誕生日 1934年9月16日
デビュー 1958年(ミネアポリス・レイカーズ)
引退 1971年(ロサンゼルス・レイカーズ)
ポジション スモールフォワード
身長・体重 196cm・102kg
キャリア通算平均 27.4PPG、13.5RPG、4.3APG

 

NBAまでの道のり

ベイラーは貧しい家庭に生まれ、まだ人種差別が色濃い時代に少年時代を過ごしました。
10代になってバスケットボールを始め、すぐに優れたプレイヤーとして頭角を現したものの、学業面や経済的な理由から高校・大学を中退するなど、そのキャリアは順調とは言い難いものでした。
しかし、それでもバスケットボールを続けていたベイラーの姿がスカウトの目に留まり、1956年にシアトル大に編入するという大きなチャンスに恵まれます。
シアトル大では2年間プレーし、ここでプロのスカウトからも注目を浴びるほどの活躍を見せる事になります。
1958年、この年のNBAドラフトで古豪ミネアポリス・レイカーズから1位指名を受けたベイラーは、大学に残ってプレーする事に未練を残しつつも、レイカーズの熱心な誘いに折れてNBAに進む事を決意しました。
 

NBAデビュー

ベイラーが入団したレイカーズはNBA創成期からリーグを支配していた有力チームでしたが、この頃は低迷期にあり、フランチャイズ崩壊の危機に陥っているような状況でした。
しかし、この大型新人の入団を機にレイカーズの成績は回復の兆しを見せ始め、レギュラーシーズンが終わってみれば、数年ぶりのプレイオフへの進出を決めるなど見事に強豪チームへと返り咲いていました。
その原動力となったのは、間違いなく新人ベイラーでした。
レギュラーシーズンでは平均24.9得点、4.1アシスト、さらに196cmという身長では考えられない15.0リバウンドという成績を残して新人王を受賞し、
さらに新人としてただ一人出場したオールスターゲームでは、リーグのスーパースターであるボブ・ペティットとともにMVPを同時受賞していました。
チームを復活させ、圧巻の個人成績を残したベイラーでしたが、それ以上にファンを熱狂させたのは、ベイラーの見せる重力を無視したようなプレースタイルでした。
ファンは初めて見るプレーに酔いしれ、その人気は当時のレイカーズオーナーが「ベイラーを獲得できていなかったらクラブは破産していた」と語るほどでした。
ベイラーの登場はチームを救っただけでなく、平面的な2次元のスポーツであったバスケットボールを3次元へと進化させ、後の多くの選手に影響力を与えるなど競技そのものを大きく前進させる事になりました。
ベイラーがデビューした翌年にはウィルト・チェンバレンが、さらにその翌1960年にはオスカー・ロバートソンジェリー・ウェストらが続々と登場し、きら星のように輝くスター選手達の出現にNBAはかつてない繁栄期を迎える事になります。
 

セルティックスの壁

久しぶりのプレイオフに進んだレイカーズの快進撃はさらに続き、勢い衰えぬままファイナルまでたどり着きます。
ここでレイカーズ、そしてベイラーを待ち構えていたのは、その後、何年にもわたってベイラーの優勝を阻み続ける事になるボストン・セルティックスでした。
現在に至るまで宿敵と位置付けられているレイカーズとセルティックス、この2チームがファイナルで初めて顔を合わせたのがこの年でした。
しかし、当時はまだライバルと呼べるほどの力関係はなく、後に殿堂入りする選手をこれでもかと抱えるセルティックスに対し、ベイラーのワンマンチームでしかなかったレイカーズは成す術なく4連敗であえなく敗退しました。
 
1960年、レイカーズはフランチャイズを大都市ロサンゼルスへと移し、この年のドラフトで後にNBAのロゴにもなるジェリー・ウェストを獲得するなど、チームにとって大きな転換期を迎えました。
ベイラーはこの頃、兵役によって試合の出場は週末だけに限定されてしまいますが、ウェストの活躍やチームメイトのフォローによってレイカーズは移籍1年目を好調に過ごし、新しいファンやハリウッドスターの心を掴む事に成功します。
翌1961-62シーズン、兵役の続くベイラーは48試合の出場にとどまったものの、シーズン平均38.3得点、18.6リバウンドという成績を残し、
いよいよ頭角を現してきたウェストも平均30.8得点を記録するなど、ベイラーとウェストのコンビは対戦チームの大きな脅威となっていました。
レイカーズは2枚看板の活躍で過去最高の54勝26敗を記録し、プレイオフも順調に勝ち上がって3年ぶりのファイナルへと進出します。
対戦相手となったのは、前人未到の4連覇をかけてファイナルへ勝ち上がってきたセルティックスでした。
まるで歯が立たなかった前回のファイナルとは違い、レイカーズはセルティックスと互角以上に渡り合います。
2勝2敗のタイで迎えた第5戦、ベイラーは61得点、22リバウンドという脅威なパフォーマンスでチームを勝利に導き、優勝まであと1勝と迫ります。
しかし、地元ロサンゼルスでの試合を落としてしまい、敵地ボストンで行われた最終戦でオーバータイムへともつれこむ熱戦を演じましたが、最後は3点差で優勝を逃す結果に終わりました。
王者セルティックスとの力の差はほとんどないように見えたレイカーズでしたが、この後も何度もファイナルへと進みながら、そのたびにセルティックスの厚い壁に跳ね返されるシーズンが続きました。
 

故障

ベイラーは毎シーズンのように平均30得点前後を記録するハイパフォーマンスを見せていましたが、そのプレーを生む膝への負担は大きく、1965年についに大きな故障を負ってしまいます。
その症状は診断した医師がベイラーにキャリアが終わった事を伝えなければならないほどのものでしたが、復帰に執念を見せるベイラーは翌シーズンに奇跡的な復活を果たします。
しかし、その姿は全盛期から程遠いものとなり、1965-66シーズンはデビュー以来最低となる平均16.6得点の成績に終わりました。
それでもベイラーの存在はチームに活力を与え、ベイラーに代わってエースへと成長したウェストや、後に殿堂入りするゲイル・グッドリッチらの活躍によってレイカーズはプレイオフを勝ち進み、ファイナルへと駒を進めます。
不本意なシーズンを過ごしたベイラーでしたが、このファイナルでは満身創痍ながらも高得点を連発するなど奮闘し、最終戦へとセルティックスを追い詰めます。
しかし、最後はわずか2点差でセルティックスが優勝を勝ち取り、ベイラーは8連覇という偉業が達成される瞬間を目の前で見届ける事になりました。
 
32歳を迎えるベテラン選手であり、さらに故障を抱えるベイラーが以前のような活躍を見せる事は難しいと思われましたが、1966-67シーズンが始まると、ベイラーは前年の不調が嘘だったかのように平均26.6得点という数字を記録し、見事に一流選手へと返り咲きます。
そしてレイカーズは悲願の優勝に向けて執念を見せ、1968年にリーグ最高のセンターとして活躍するウィルト・チェンバレンを獲得するという大きな賭けに打って出ます。
我の強いチェンバレンの獲得はチーム内部に大きな波紋をもたらす事になりましたが、それでもベイラー、ウェスト、チェンバレンという歴史的なBIG3を擁するレイカーズは周囲を寄せ付けずにプレイオフを勝ち上がり、ベイラー入団後7回目となるファイナル、そして7回目となるセルティックスとの決戦を迎えました。
レイカーズのBIG3はそれぞれ故障を抱えながらも強行出場し、セルティックスに対してシリーズを優位に進めましたが、セルティックスの反撃にあって最終戦へともつれこみ、最後はウェストの大活躍も虚しく惜敗という結果に終わりました。
セルティックスはシーズン終了後にチームの支柱ビル・ラッセルが引退し、セルティックス王朝の幕を自身の手で下ろしたのを合図に、時代は軍雄割拠の70年代へと突入していきます。
 

ベイラーの終焉とレイカーズの奇跡

セルティックスの1強時代が終わり、リーグは世代交代により勢力図を大きく変えていきます。
一方で、レイカーズの中心は依然としてBIG3らベテラン選手が担っていました。
1969-70シーズン、故障がちなBIG3の影響もあり、レイカーズは前年を大きく下回る46勝36敗という成績に終わりますが、プレイオフでは新たに台頭してきた若い世代のチームを相手に奮戦し、3年連続となるファイナル進出を果たします。
シリーズはセルティックスに代わって東地区を制覇した若いニューヨーク・ニックスとの対戦となりましたが、ウィリス・リードの勇気ある行動に鼓舞されたニックスが最終戦に勝利し、レイカーズはまたしても優勝を手にする事はできませんでした。
そして、ベイラーにとってこれが自身最後のファイナルとなりました。
1970-71シーズン、これまで酷使され続けてきたベイラーの膝は限界に達し、このシーズンは2試合の出場に終わります。
翌1971-72シーズン、ベイラーは復活をかけて強行出場に踏み切ったものの、状態は回復を見せず、ついにシーズン序盤で現役からの引退を表明しました。
ベイラーの電撃的な引退表明を自宅のテレビで知る事になったレイカーズの面々は、これまでなかった強力な結束力を見せるようになり、ベイラー引退の翌日から怒涛の快進撃をスタートさせると、NBA記録、そして北米プロスポーツ史上最長記録となる33連勝という歴史的な記録を打ち立てました。
勢いの止まらないレイカーズはプレイオフでも他チームを寄せ付けず、ついにミネアポリス時代以来となる悲願の優勝を果たす事となりました。
 
優勝メンバーとしてキャリアを終える事ができなかったベイラーですが、敵味方問わず、彼と同時代をプレーした多くの選手が「史上、最も偉大なフォワード」と語り、その功績はNBAの歴史に大きく刻み込まれる事になりました。
ベイラーの活躍はコート内だけにとどまらず、当時蔓延していた人種差別に対して毅然とした態度で立ち向かったことでも知られています。
レイカーズがメンバーの故郷であるチャールストンへエキシビジョンゲームのために訪れたとき、ベイラーを含む黒人プレイヤーはホテルへの宿泊やレストランでの食事を拒否されました。
このことが原因でゲームへの出場を拒否したベイラーに対し、チームメイトは故郷の非礼を詫びてベイラーに出場を懇願します。
ベイラーは「我々はショーのために檻から出される動物ではない。私たちは同じ人間なんだ。」と訴え、最後までゲームへの出場を拒みました。
チャールストン市長はこの事を謝罪し、その後この地で開催されたオールスターゲームにベイラーが出場した際、ベイラーはかつて彼を拒否したホテルに宿泊し、彼を拒否したレストランで食事したそうです。
NBAにおける黒人の立場はアール・ロイドによって切り開かれ、ビル・ラッセルによって絶対的なものとなりました。
ベイラーもまた、黒人プレイヤーの地位向上に大きく貢献し、現在に至るまでプレー同様高い評価を受けています。

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