ロン・ハーパー player profile⑪

NBAネタ
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シカゴ・ブルズではディフェンスのスペシャリストとして後期3連覇に貢献し、

キャリア晩年を過ごしたロサンゼルス・レイカーズでも、トライアングル・オフェンスを機能させるキー・パーソンとして活躍しました。

ファッションセンスの良さでも有名で、その人望の厚さと相まって大人の雰囲気に魅了される日本のファンも多かったハーパーですが、

若い頃は点取り屋として活躍し、「ハリウッド・ハーパー」の名で呼ばれるエキサイティングなプレイヤーとして高い人気を誇っていました。

チームの中心プレイヤーからロールプレイヤーへと役割が変わり、5度の優勝という輝かしいキャリアをおさめたハーパーですが、その変化はNBAから消えかかるほどの激しいアップダウンを伴うものでした。

今回はそんなロン・ハーパーを、昔読んだ雑誌やインタビューなどの曖昧な記憶をたよりに無責任さ全開で紹介したいと思います。

Ron・Harper(ロン・ハーパー)

誕生日 1964年1月20日
デビュー 1986年(クリーブランド・キャバリアーズ)
引退 2001年(ロサンゼルス・レイカーズ)
ポジション ポイントガード/シューティングガード
身長・体重 198cm・95kg
キャリア通算平均 13.8PPG、4.3RPG、3.9APG、1.7SPG

学生時代

ロン・ハーパーは1964年、オハイオ州はデイトンに生まれました。

地元カイザー高校でプレーし、その頃には州を代表するプレイヤーとして全米にその名が知られる存在となっていました。

しかし、いくら有名になっても、ハーパーはコート上で感情をあらわにすることはなく、スター選手には似つかわしくないほどに黙々とプレーしていました。

それはコートを離れても変わることはありませんでした。

ハーパーは当時の事を振り返り、高校時代は挨拶程度の言葉しか口にしなかったと語っていますが、

彼の家族や親友以外はハーパーが何かを話す事自体、まともに聞いたことがなかったそうです。

それは、長く彼を悩ませてきた吃音症が原因でした。

小さい頃から“どもり”をからかわれていたハーパーは、いつしか親しい人の前以外では口を開かなくなっていました。

ハーパーを苦しめる問題は他にもありました。

ハーパーは読解力に難があり、それは有名大学が勧誘を躊躇する原因となっていました。

高校での活躍にもかかわらず、ハーパーの元には有名大学から誘いの声がかかる事はなかったのです。

そんなハーパーに救いの手を差し伸べたのはマイアミ大学でした。

マイアミ大はハーパーにバスケットボールをプレーさせるだけでなく、ハーパーが抱える問題に対して時間をかけて向き合い、社会に出ていく一人の大人としての成長も手助けします。

少しづつ症状に改善が見られ始めたハーパーは、バスケットボール選手としてもさらなる成長を遂げます。

大学での4年間をチームの中心選手として活躍し続け、最終学年時にはAP通信が選ぶオール・アメリカンの2ndチームに選出されました。

こうしてプロのスカウトも注目する選手となったハーパーは、1986年のNBAドラフトでクリーブランド・キャバリアーズから1巡目8位で指名を受けて入団します。

スター選手として

ハーパーが入団したキャバリアーズは当時、再建期の真っただ中にありました。

大黒柱となる選手が存在しない中、ハーパーら新人選手に多くのチャンスが回ってきます。

このシーズン、キャバリアーズには一挙に何人もの有望新人が入団していました。

8位指名のハーパーのほかに、1位指名のブラッド・ドアティ、29位指名のジョニー・ニューマン、そしてダラス・マーベリックスから25位で指名を受けたマーク・プライスもドラフト直後にトレードによってキャバリアーズに加入していました。

前年にドラフトされていたジョン・“ホットロッド”・ウィリアムズも、このシーズンからプレーを始めています。

ハーパーはチームでただ一人、82試合全てに先発で出場し、チームトップとなる平均22.9得点を記録します。

さらに平均4.8リバウンド、4.8アシストとオールラウンドな活躍を見せ、スティールではリーグで3位となる平均2.5本を記録するなど、攻守両面で強いインパクトを残しました。

新人王はわずかな差でチャック・パーソンに譲る事になりましたが、これはチーム成績が大きく考慮されたとも言われ、ハーパーの残した数字は新人の中ではとび抜けたものでした。

オールルーキー1stチームには、ハーパーのほかにキャバリアーズからドアティとウィリアムズが選出され、出遅れた感のあったプライスも翌シーズンにブレイクを果たします。

さらにシーズン途中にオールスター選手のラリー・ナンスも加わり、一躍期待のチームへと変貌を遂げたキャバリアーズは、あのマジック・ジョンソンから「90年代を代表するチームになる」と評されるまでになっていました。

ジャンプ力に優れ、高い身体能力でクリエイティブなプレーを披露するハーパーは、同じポジションでプレーするマイケル・ジョーダンとも比較され、「お金のないチームのジョーダン」とも呼ばれていました。

しかし、将来有望なチームでプレーするハーパーの前に立ちはだかったのは、そのマイケル・ジョーダンを擁するシカゴ・ブルズでした。

1988-89シーズン、キャバリアーズは57勝25敗という好成績を収め、プレイオフに進出します。

その初戦、キャバリアーズはシカゴ・ブルズと激突し、後々まで語り継がれる名勝負を演じる事になります。

互いに譲らぬ激闘を繰り広げ、このシリーズは最終戦へともつれ込みました。

ハーパーはシリーズ全5試合でチームトップとなる平均19.6得点、FG成功率56.5%、2.2スティールを記録していましたが、終了のブザーと同時にジョーダンが劇的なクラッチショットを沈め、痛恨の敗退を喫してしまいます。

ハーパーは失意のオフを迎える事になりましたが、チームには確かな勢いがあり、来シーズン以降のさらなる飛躍が期待されていました。

ところが、新たなシーズンが始まった矢先、ハーパーは何の前触れもなくトレードでチームを去る事になります。

向かった先は、最下位に沈むロサンゼルス・クリッパーズでした。

トレードと怪我

ハーパーはのちにこのトレードについて、「マイケルのあのショットがなければキャバリアーズを去ることはなかったと思う」と語っています。

57勝という記録を残しながらのプレイオフ初戦敗退、それも2年連続でブルズの前に破れたことがチームの方針転換の要因になったとも言われていましたが、

トレードの直接のきっかけとなったのは、ハーパーやキャバリアーズとは別の所で起きた「ある出来事」が原因でした。

この年、1989年のNBAドラフトダニー・フェリーという選手がクリッパーズから2位で指名を受けていました。

ラリー・バード2世とも呼ばれたこの大型新人は、常に最下位を争うクリッパーズへの入団を拒否し、イタリアのプロリーグでプレーするという実力行使に出ていました。

紆余曲折の末、クリッパーズはフェリーの獲得を諦め、フェリーの権利はキャバリアーズへトレードされます。

ハーパーはその見返りとして、クリッパーズへと放出される事になったのです。

新人が断固として入団を拒否するほどのチームはプレイオフとは無縁の低迷を続けながら、経営陣からチームを改善しようとする意志が感じられず、まさに何の希望も見出せない状況にありました。

『牢獄』と呼ばれ、契約が終了すれば誰もが去っていくチームにあって、ハーパーは腐ることなくプレーを続けます。

いつものように開幕から底辺を彷徨っていたクリッパーズは、ハーパーの加入後に持ち直し、シーズン中盤を過ぎて勝率5割前後を推移するところまで成績を改善させます。

前身のバッフォロー・ブレーブス時代以来となるプレイオフ進出も夢ではないと思われた矢先、奮闘するハーパーをアクシデントが襲いました。

前十字靭帯断裂という選手生命を脅かすほどの大怪我を負い、チームを離脱してしまったのです。

ハーパーを失ったクリッパーズは急ブレーキがかかり、結局プレイオフに進出できずにシーズンを終了。

怪我の回復に丸一年かかる事になったハーパーは、翌1990-91シーズン中盤になってようやく復帰しますが、膝の怪我はハーパーからスピードとジャンプ力を奪っていました。

それでも献身的なプレーでチームに尽くし、個人成績の面では以前とほぼ変わらない数字を残していました。

1991-92シーズン、中盤になって負けが混み始め、またしてもプレイオフが遠のきかけたところで、ヘッドコーチにラリー・ブラウンが就任します。

ブラウンが指揮を執り始めたクリッパーズは生まれ変わったかのように連勝を重ね、最終的に47勝35敗という成績を残して、クリッパーズとして初となる念願のプレイオフ進出を果たします。

翌1992-93シーズンも続けてプレイオフに進出すると、ロサンゼルスのファンは、怪我から復活してチームの中心選手として活躍するハーパーを「ハリウッド・ハーパー」と呼んで称賛しました。

ところが、1993年、シーズン終了後にラリー・ブラウンが突然ヘッドコーチを辞任してしまいます。

すると、チームは翌1993-94シーズンからあっさりとドアマットチームへと逆戻りしてしまい、ハーパーはまたしても『牢獄』と呼ばれる事になったチームでの奮闘を余儀なくされます。

この頃、シカゴ・ブルズのスコッティ・ピッペンは契約問題でチームに不満を募らせ、親友のハーパーがいるクリッパーズへ移籍したいと公言していましたが、ハーパーはチーム状態の悪さからピッペンに移籍をおもいとどまるように説得しています。

1994年、晴れてフリーエージェントとなったハーパーは、そのピッペンの誘いもあってシカゴ・ブルズへと移籍します。

ハーパーに期待された役割は、前年に引退したスーパースター、マイケル・ジョーダンの穴を埋めることでした。

ロールプレイヤーへ

ジョーダンの代わりとなれるプレイヤーを求めていたブルズにとって、シューティングガードとして高い得点能力を誇り、守備力にも優れたハーパーはまさにうってつけの人材でした。

しかし、シーズンが始まると、ブルズの採用していたトライアングル・オフェンスにハーパーは苦しむ事になります。

難解な事で知られるこのオフェンス・システムはハーパーを混乱に陥れ、ハーパーは徐々にコート上で存在感を失っていきました。

前シーズンに平均20.1得点を記録していたオフェンス力は、このシーズンに平均6.9得点まで急降下します。

そして、得点力以上にヘッドコーチのフィル・ジャクソンを愕然とさせたのは、横の動きについていく事ができないハーパーのディフェンス力の低下でした。

攻守両面でチームの期待を裏切ることになったハーパーは出場機会を減少させ、シーズン後半にはとうとう先発を外されてしまいます。

契約が高額だったこともあって、ハーパーの獲得は完全に失敗だったと考えられるようになり、ジェネラル・マネージャーとピッペンの間で獲得の責任をなすり付け合う言い争いも起こりました。

さらに追い打ちをかけたのは、シーズン終盤に実現したマイケル・ジョーダンの電撃復帰でした。

ジョーダンの復帰以降、ハーパーの出場時間は数分程度となり、最後の数試合は登録を抹消されてしまいます。

プレイオフの途中から復帰しますが、戦力として扱われる事はありませんでした。

ジョーダンの代わりとなる事を求められたものの期待に応えることができず、さらにジョーダン本人の復帰により居場所は完全になくなり、ハーパーはこのままNBAから消えていくものと思われていました。

1994年プレイオフ、ブルズは若く才能あふれるオーランド・マジックの前に敗れ去ります。

この敗戦はブルズにチーム改革の必要を迫ることになり、ブルズは問題児のデニス・ロドマンを獲得するなど大胆な補強に打って出ます。

その補強策の一環として、チームの起用法に不満を持っていた先発ポイントガードB.J.アームストロングが放出されます。

これがハーパーにとって生き残る道を切り開く転換点となりました。

ポイントガードのポジションに空きができたことで、ハーパーは従来のシューティングガードからポイントガードへとコンバートされます。

迎えた1995-96シーズン、ハーパーはポイントガードとして先発に名を連ねていました。

トライアングル・オフェンスでは全員でボールを回すため、ポイントガードは従来通りのイメージのようにボールを長く持ってゲームをコントロールする必要はありませんでした。

また、要所での得点やゲームメイクはジョーダンやピペンが中心となり、ハーパーはディフェンスに力を注ぎ込むことで存在感を発揮できるようになっていました。

依然として膝に故障を抱えたままでしたが、ポイントガードとしては大柄な体格と長い手足を活かしてマークマンを封じ込め、堅守から速攻へと良い流れが生まれるようになったブルズは開幕から快進撃を見せます。

まるで負ける事を忘れてしまったかのように勝ち続けたブルズは72勝10敗という歴史的な記録を残し、

プレイオフも制して1993年以来の優勝を遂げ、ハーパーは自身初となるチャンピオンリングを獲得します。

ジョーダンは「ハーパーはこのチームのグローブ(ディフェンスの名手、ゲイリー・ペイトンのニックネーム)だ。」と称賛し、そのディフェンス力は優勝に大きく貢献する事になりました。

ブルズのリーグ支配はその後も続き、1996年から1998年までの3連覇を達成します。

ハーパーはこの間、膝を手術するなど万全の体調ではなかったものの、3年間で欠場は6試合のみとフル稼働しています。

1998年、ジョーダンが2回目の引退を正式に表明すると、経営陣との確執から、コーチ陣と主力選手の多くがブルズを去る事になりました。

1998-99シーズン、ハーパーは大きく戦力を低下させたチームに残って奮闘しましたが、これまで酷使されてきた膝の調子は思わしくなく、シーズンの半分以上を欠場しています。

ハーパーは引退も検討したそうですが、ロサンゼルス・レイカーズのヘッドコーチに招聘されたフィル・ジャクソンに誘われ、1999年にレイカーズへ移籍します。

かつて「ハリウッド・ハーパー」と呼ばれていた男は、再びロサンゼルスへと向かいます。

ハリウッド再び

レイカーズのヘッドコーチに就任したフィル・ジャクソンは、ブルズ時代と同じようにトライアングル・オフェンスを採用しました。

ハーパーはブルズ時代と同様にポイントガードとして先発し、トライアングル・オフェンスを熟知するコート上のコーチとしての役割も果たします。

また、ハーパーはチームの2大スターであるシャキール・オニールコービー・ブライアントにも遠慮することなくアドバイスを送りました。

派手なプレーを好むブライアントがゲームと関係のないところで個人技を連発すれば、「大切なのはチームとして勝つことだ」とブライアントをたしなめました。

ハーパーはレイカーズのメンバーに対して、

「自分たちはハリウッドにいるけど全員が主役になれるわけじゃない。個々の役割をしっかり受け入れ、チームというコンセプトで戦うことを理解することが大切なんだ。」と伝え続けたそうです。

それまで優秀なタレントを抱えながら優勝に近づくことのできなかったレイカーズは、このシーズンに67勝15敗という圧倒的な成績をおさめ、プレイオフでは苦しみながらも優勝を達成します。

この優勝に、自分の役割を受け入れてチームを支えたかつての「ハリウッド」の貢献が大きかったのは言うまでもありません。

レイカーズは翌2000-01シーズンも優勝し2連覇を達成しますが、欠場が目立つようになっていたハーパーはこのシーズンを最後に現役からの引退を決断します。

翌2002年、3連覇のかかるレイカーズはガード陣が手薄だったため、フィル・ジャクソンはプレイオフだけでも復帰しないかとハーパーに打診しますが、ハーパーは迷った末にこれを断り、そのままキャリアを終えました。

マイケル・ジョーダンとコービー・ブライアントというNBA史に残るスーパースターとバックコートコンビを組んだハーパーは、主役を引き立てる名脇役として助演男優賞がふさわしいのかもしれません。

しかし、そのキャリアはまさに「ハリウッド」らしく、激しいアップダウンの中で演じられました。

怪我や出場機会の減少という困難を乗り越え、5度の優勝というハッピーエンドでキャリアに幕を下したハーパー。

現在、彼は家族との時間を大切にして過ごしているそうです。

この記事を書いた人
TANA

バスケ初心者でありながらバスケサークルを立ち上げる。
2025年までの代表。
初心者ならではの視点でバスケを見つめ、「もっと楽な道」がないかを常に探求し続ける。

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