
主なドラフト選手
1.ビル・マクギル

Bill McGill
出身校:ユタ大学
ポジション:C
所属チーム:CHZ-BAL(1962~1963)→NYK(1963~1964)→STL(1964~1965)→LAL(1965)、ABA(1968~1970)
キャリア平均:10.5PPG、4.4RPG、1.1APG、.514FG%
※赤字はABA時代のもの、キャリア平均はNBA・ABAの通算平均
206cmの身長から繰り出す滑らかなターンアラウンド・ジャンプフックを武器に、「ビリー・ヒル」の愛称で親しまれたマクギルは、カレッジバスケットボール界屈指の攻撃的センターとして活躍した。
1962年にシカゴ・ゼファーズ(現ウィザーズ)から全体1位指名を受け期待を集めたが、そのプロキャリアは順風満帆とはいかなかった。
大学時代から痛めていた膝の怪我がプロ入り後に悪化し、本来の跳躍力や俊敏性を失ってしまう。
2年目のシーズン途中にニューヨーク・ニックスへ移籍すると、一時的に平均16.0得点を記録して才能の片鱗を見せたものの、ディフェンス面で課題を抱えていたこともあり、安定して先発の座を確保するまでには至らなかった。
NBAでは本来の能力を発揮しきれないまま、1964-65シーズンを最後に、わずか3シーズンでリーグを離れることとなった。
その後、1968年からABAで2シーズンにわたってプレーした。
引退後、当時は選手の年金制度が未成熟だったため経済的に困窮し、一時はホームレスになるなど「最も悲しいドラフト1位」とメディアに報じられたこともあるが、スポーツライターらの支援によって生活を立て直し、のちに回顧録を出版している。
2014年、74歳で死去した。
3.ゼルモ・ビーティ

Zelmo Beaty
出身校:プレーリー・ビューA&M大学
ポジション:C / PF
所属チーム:STL-ATL(1962~1969)、ABA(1970~1974)→LAL(1974~1975)
キャリア平均:17.1PPG、10.9RPG、1.5APG
ALL TEAM:All-ABA 2nd 2回
オールスター出場:5回(1966、1968、1971~1973)
※赤字はABA時代のもの、キャリア平均はNBA・ABAの通算平均
ボブ・ペティット時代の終焉後、セントルイス・ホークスの新たな中心選手として台頭し、NBAとABAの両リーグでオールスター選出と優勝を経験した数少ない選手の一人。
身長206cmと当時のセンターとしては決して大型ではなかったものの、1962年のドラフトでセントルイス・ホークスから指名を受けると、ルーキーイヤーから平均10.2得点、8.3リバウンドを記録し、即戦力として活躍する。
当時のホークスにはボブ・ペティットというリーグを代表するスターが在籍していたが、ビーティは着実に成長を続け、ペティットの後を担うチームの新たな柱へと成長していった。
4年目の1965-66シーズンには、平均20.7得点、13.6リバウンドを記録。いずれもチームトップとなる成績を残し、初のオールスター選出を果たした。
1968年、チームは本拠地を移転してアトランタ・ホークスへと生まれ変わる。
ビーティはアトランタで迎えた最初のシーズンにキャリアハイとなる平均21.5得点を記録し、選手として最も充実した時期を迎えた。
しかし、その後は契約問題を巡って球団との関係が悪化。1968-69シーズン終了後、ビーティはNBAを離れ、ABAのユタ・スターズへ移籍することとなった。
新天地となったABAでは、再びリーグを代表するセンターとして活躍する。
4シーズンで3度のオールスター選出を果たし、1970-71シーズンにはユタ・スターズを優勝へ導くとともに、プレーオフMVPを受賞した。
NBAでは優勝に届かなかったビーティだったが、ABAではエースとして頂点に立ち、自身の価値を改めて証明することになった。
1974年にNBAへ復帰し、1974-75シーズンをロサンゼルス・レイカーズで過ごした後、現役を引退した。
2013年に73歳で死去した。
2016年にバスケットボール殿堂入りを果たしている。
4.デイブ・ディバッシャー

Dave DeBusschere
出身校:デトロイト・マーシー大学
ポジション:PF / SF
所属チーム:DET(1962~1968)→NYK(1968~1974)
キャリア平均:16.1PPG、11.0RPG、2.9APG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回、All-Defensive 1st 6回
オールスター出場:8回(1966~1968、1970~1974)
「Big D」の愛称で知られた、NBA史上屈指のディフェンダー。頑強な肉体、高いバスケットボールIQ、そして勝利のために自身を犠牲にする献身的なプレースタイルを武器に、ニューヨーク・ニックスの黄金時代を支え、2度のNBA制覇へ導いた。
名前のイニシャル「D・D」と、ディフェンスを意味する「D」を掛け合わせた「Big D」という愛称は、彼のプレースタイルを象徴するものだった。
ディバッシャーは地域ドラフト制度を利用して、地元球団であるデトロイト・ピストンズから指名を受けてNBA入りする。
それと同時に、MLBからもドラフト指名を受け、投手としてシカゴ・ホワイトソックスにも入団した。
MLBでは2年間で完封勝利を含む3勝、防御率2.90を記録し、マイナーリーグでは通算25勝を挙げるなど、プロ野球選手としても一定の成功を収めている。
一方、ピストンズでは1年目から平均12.7得点、8.7リバウンドを記録したものの、2年目は骨折の影響で15試合の出場にとどまり、前年まで14年連続でプレーオフに進出していたチームも大きく負け越した。
翌シーズン、ピストンズのオーナーは当時まだ24歳だったディバッシャーを選手兼ヘッドコーチに抜擢するという大胆な決断を下す。
若くしてチーム再建という重責を担ったディバッシャーは、このシーズンを最後に野球との二足のわらじに終止符を打ち、バスケットボールに専念。選手としては平均16.7得点、11.1リバウンド、3.2アシストを記録するなど、リーグ屈指の万能フォワードとして成長した。
しかし、選手兼コーチとして5シーズンを過ごしたピストンズ時代は、限られた戦力の中で苦闘が続き、プレーオフ進出はわずか1度に終わった。
それでも限られた戦力の中でチームを支え続けたディバッシャーの評価は高まる一方で、とりわけニューヨーク・ニックスは執拗なまでに獲得を熱望し続けた。
ピストンズにとってもディバッシャーは不可欠な存在だったが、新戦力を必要としていたこともあり、1968年、ウォルト・ベラミーとハワード・コミヴスを獲得する見返りとして、ディバッシャーをニックスへ放出した。
すでにウィリス・リードやウォルト・フレイジャーらを擁し、長い低迷から抜け出しつつあったニックスは、ディバッシャーの加入によってさらに大きく飛躍する。
移籍1年目には、新設されたばかりのオールディフェンシブチームの初代1stチームに選出された。
その激しい守備で相手エースを封じる姿はニックスの象徴となり、ホームアリーナのマディソン・スクエア・ガーデンでは、彼のディフェンスを称える歓声が毎試合のように響いた。
また、かつて選手兼コーチとして培った経験を活かし、チームメイトに個人よりもチームの勝利を優先する姿勢を説き、ニックスに強固なチーム文化をもたらした。
1969-70シーズン、ニックスは球団史上最高勝率となる60勝22敗を記録。プレーオフではレイカーズとの激闘を制し、球団史上初となるNBA優勝を達成した。
1973年には再びレイカーズを破って2度目の優勝を果たし、ディバッシャーは自身2個目のチャンピオンリングを獲得する。
1973-74シーズンには、キャリア晩年ながら平均18.1得点、10.7リバウンド、3.6アシストを記録。6年連続でオールディフェンシブ1stチームに選出され、最後までリーグ最高峰のディフェンダーであり続けた。
引退後はABAのニューヨーク・ネッツでGMを務めた後、ABAコミッショナーに就任し、経営難に陥っていたABAとNBAの合併実現に大きな役割を果たした。
1983年にバスケットボール殿堂入り。
2003年、心臓発作により62歳で死去した。
背番号「22」は、ニューヨーク・ニックスの永久欠番となっている。
6.ジェリー・ルーカス

Jerry Lucas
出身校:オハイオ州立大学
ポジション:PF / C
所属チーム:CIN(1963~1969)→SFW(1969~1971)→NYK(1971~1974)
キャリア平均:17.0PPG、15.6RPG、3.3APG
個人賞:Rookie of the Year(1963-1964)、All-Star Game MVP1回(1965)
ALL TEAM:All-NBA 1st 2回、All-NBA 2nd 2回
オールスター出場:7回(1964~1969、1971)
身長203cmと当時としても並外れて大柄ではなかったものの、「シュートが外れたらボールがどこに落ちるか」を瞬時に計算する分析力と記憶力に優れ、1試合で40リバウンドを記録したこともあるリーグ屈指のインサイドプレイヤーとして活躍した。
キャリア通算ではNBA歴代4位となる平均15.6リバウンドを記録している。
高校時代にはウィルト・チェンバレンの通算得点記録を更新。
大学では3年連続でNCAAトーナメント決勝に進出し、1960年には優勝を達成した。
同年のローマ五輪では、チーム最年少ながらアメリカ代表に選出され、オスカー・ロバートソンらとともに金メダルを獲得している。
あらゆるカテゴリーで成功を収めたルーカスは、1962年にNBAのシンシナティ・ロイヤルズから地域ドラフト制度(1巡目指名を放棄する代わりに地元選手を獲得出来る制度)による指名を受ける。
しかし、当時のルーカスはプロバスケットボールへの関心がそれほど高くなく、学業やビジネスへの興味から、試合数の少ないABL(アメリカン・バスケットボール・リーグ)のクリーブランド・パイパーズと契約した。
NBAはカレッジバスケットボール界最大のスター選手だったルーカスの獲得を諦められず、パイパーズをNBAへ加盟させる構想まで進めた。
しかし、パイパーズの離脱はABL全体の存続を揺るがす問題となり、最終的にNBA参入は実現しないままチームは解散。さらにABL自体も消滅することとなった。
プレーする場を失ったルーカスは、指名権を保有していたロイヤルズと契約し、1963-64シーズンにNBAデビューを果たす。
すると、1年目から平均17.7得点、17.4リバウンド、リーグトップとなるFG成功率52.7%を記録して新人王を受賞した。
翌シーズンには平均21.4得点、20.0リバウンドを記録。NBA史上でもわずか4人しか達成していないシーズン平均20得点、20リバウンド以上を達成した。
この記録を達成した選手は、ほかにボブ・ペティット、ウィルト・チェンバレン、ネイト・サーモンドのみとなっている。
ルーカスはオスカー・ロバートソンとともにロイヤルズを強豪へと押し上げたが、プレーオフではボストン・セルティックスの壁を越えることができなかった。
1967-68シーズンには7シーズンぶりにプレーオフ進出を逃すなど低迷した。
一方、ルーカスはサイドビジネスで成功を収めるなどコート外でも活躍したが、そのことが一部のファンから「バスケットボールに専念していない」と批判されることもあった。
1969年、往年の名選手ボブ・クージーがヘッドコーチに就任すると、チーム再編の一環としてルーカスはシーズン開幕直後にトレードでサンフランシスコ・ウォリアーズへ放出される。
ウォリアーズでは移籍2年目の1970-71シーズンに平均19.2得点、15.8リバウンドを記録。同じくシーズン1,000リバウンド以上を達成したネイト・サーモンドとともに、リーグ屈指のフロントコートを形成した。
1971年には、ウィリス・リードやデイブ・ディバッシャーを擁するニューヨーク・ニックスへ移籍。
当初はリードのバックアップとして期待されていたが、リードの故障もあって長時間の出場を任され、チーム2位の平均16.7得点、チームトップの13.1リバウンド、チーム2位の4.1アシストを記録し、ニックスのファイナル進出に大きく貢献した。
翌1972-73シーズンには完全復活したリードが先発に復帰したことで控えに回ったものの、ベンチから安定した働きを見せ、球団史上2度目、自身としては初となるチャンピオンリングを獲得した。
1973-74シーズンもニックスでプレーし、このシーズン限りで現役を引退した。
1980年にバスケットボール殿堂入りを果たした。
リーグ史に残るリバウンダーとしてその名を刻んだルーカスだが、圧倒的な身体能力に頼るのではなく、最大の特徴は「映像記憶能力(フォトグラフィック・メモリー)」という超人的な記憶力にあった。
後年、「NBAの全チームの全プレイヤーの名前、特徴、そしてチームの戦術(プレイブック)をすべて暗記していた」と語り、試合中に相手がこれから何を仕掛けてくるかを事前に察知し、味方に指示を出してディフェンスを成功させていたという。
引退後は記憶術の権威としても活躍し、ハリー・ロレインとの共著『The Memory Book』は数百万部の大ベストセラーとなった。
出演したテレビ番組でも驚異的な記憶力を披露し、「ドクター・メモリー」という異名でも知られている。
8.リロイ・エリス

Leroy Ellis
出身校:セントジョンズ大学
ポジション:C / PF
所属チーム:LAL(1962~1966)→BAL(1966~1970)→POR(1970~1971)→LAL(1971~1972)→PHI(1972~1976)
キャリア平均:9.7PPG、8.3RPG、1.3APG
リバウンドとタフなディフェンス、そして堅実なミドルレンジのシュートを武器にしたインサイドプレイヤー。14年間のキャリアで大きな故障に悩まされることがほとんどなく、安定した働きを続けたことから、どのチームでも信頼されるビッグマンとして重宝された。
ロサンゼルス・レイカーズに入団すると、デビューから4シーズンをロールプレーヤーとして過ごし、着実に実力を伸ばしていく。
1965-66シーズンには平均12.2得点、9.2リバウンドを記録し、シーズン通算735リバウンドはチームトップの数字となった。
レイカーズはこのシーズンにNBAファイナルへ進出したものの、宿敵ボストン・セルティックスの前に惜敗する。
チームはセルティックスの強力なインサイド陣に対抗するため、1964年ドラフト全体1位のジム・バーンズ獲得を決断し、その交換要員としてエリスはボルティモア・ブレッツへトレードされた。
一方のブレッツは、ガード陣と連携しながらプレーできる機動力のあるビッグマンを求めており、エリスのプレースタイルはまさに補強ポイントと一致していた。
その期待に応えるように、移籍1年目の1966-67シーズンには平均14.9得点、12.0リバウンドを記録し、自身初のシーズン・ダブルダブルを達成。
バーンズがレイカーズで期待された活躍を見せられなかったのとは対照的に、エリスはブレッツの主力としてチームの成長を支えた。
1970年、エクスパンション・ドラフトによって創設されたばかりのポートランド・トレイルブレイザーズへ移籍。
新球団では初代中心選手の一人となり、1970-71シーズンにはキャリアハイとなる平均15.9得点、12.3リバウンド、3.2アシストを記録するなど、インサイドの柱として存在感を示した。
翌1971-72シーズンには古巣レイカーズへ復帰し、ウィルト・チェンバレンやハッピー・ハーストンのバックアップとしてプレーする。
限られた出場時間の中で個人成績は大きく下降したものの、レイカーズはアメリカのプロスポーツ史上最長となる33連勝を記録し、当時のNBA史上最高となる69勝13敗でシーズンを終えた。
エリスもその歴史的チームの一員として、自身初となるチャンピオンリングを獲得した。
しかし、その翌1972-73シーズン序盤にフィラデルフィア・76ersへトレードされると状況は一変する。
76ersはこのシーズンに9勝73敗という当時のNBAワースト記録を残し、エリスはわずか1年の間にNBA史に残る最高勝率チームと最低勝率チームの両方を経験した数少ない選手となった。
低迷する76ersでは再び先発として起用され、シーズン・ダブルダブルを達成するなど健闘を見せたが、年齢を重ねるにつれて徐々に成績は下降していく。
チームが久々にプレーオフ進出を果たした1975-76シーズンを最後に現役を引退した。
2012年に72歳で死去した。
息子のレロン・エリスもNBAでセンターとしてプレーし、孫のペリー・エリスは日本のBリーグでも活躍するなど、現在もバスケットボール一家としてその名が受け継がれている。
9.ジョン・ハブリチェック

John Havlicek
出身校:オハイオ州立大学
ポジション:SF / SG
所属チーム:BOS(1962~1978)
キャリア平均:20.8PPG、6.3RPG、4.8APG、1.2SPG
個人賞:Finals MVP1回(1973-1974)
ALL TEAM:All-NBA 1st 4回、All-NBA 2nd 7回、All-Defensive 1st 5回、All-Defensive 2nd 3回
オールスター出場:13回(1966~1978)
ジョン・ウェイン主演映画にちなみ、「ホンド(Hondo)」の愛称で親しまれたセルティックス史上屈指の名選手。
無尽蔵のスタミナを武器に攻守両面でコートを駆け回り、シックスマンとして王朝を支えた時代から、エースとして新たな黄金時代を築くまで、16年間にわたってボストン・セルティックスの象徴であり続けた。
高校時代はアメリカンフットボールでも活躍し、大学ではバスケットボールに専念していたにもかかわらず、卒業時にはNFLからもドラフト指名を受けた。
連覇を続けるボストン・セルティックスに入団すると、控えとして起用された1年目から平均14.3得点、6.7リバウンドを記録し、新人ながらチームの5連覇達成に大きく貢献する。
その後もシックスマンとしてプレーしながらチーム最長の出場時間を任されるなど絶対的な存在となり、1967年まで続くNBA史上空前の8連覇を主力選手として支えた。
なかでも1965年、フィラデルフィア・76ersとのプレーオフ地区決勝第7戦で見せた、試合終了間際の決勝スティールはNBA史を代表する名場面として知られている。
1969年、ビル・ラッセルの引退によって10年以上続いたセルティックス王朝は終焉を迎え、NBAは群雄割拠の時代へと突入する。
1969-70シーズンからはチームのエースとして先発を務め、それぞれチームトップとなる平均24.2得点、7.8リバウンド、6.8アシストを記録した。
セルティックスは20シーズンぶりにプレーオフ進出を逃したものの、翌年のドラフトでデイブ・コーウェンスを獲得すると急速に再建が進む。
1970-71シーズンにはリーグ2位となる平均28.9得点、9.0リバウンド、リーグ4位の7.5アシストを記録し、初のオールNBA1stチームに選出されるなど、リーグ屈指のオールラウンドプレーヤーとして全盛期を迎えた。
セルティックスは再びリーグを代表する強豪となり、1974年にはラッセル引退以来初となるファイナルへ進出。
カリーム・アブドゥル=ジャバーを擁するミルウォーキー・バックスとの激戦を制し、5年ぶりの優勝を果たした。
ハブリチェックはシリーズ平均26.4得点、7.7リバウンド、4.7アシストを記録し、ファイナルMVPを受賞している。
さらに1976年にも優勝を果たし、自身8個目のチャンピオンリングを獲得した。
1977-78シーズン、37歳となっていたハブリチェックはチーム3位となる平均16.1得点を記録したが、セルティックスは大きく負け越し、シーズン終了後に現役引退を表明した。
16年間の現役生活をすべてセルティックスで過ごし、8度のNBA制覇、13年連続オールスター出場、11度のオールNBA選出、さらに8度のオールディフェンシブチーム選出を果たすなど、攻守両面でリーグ最高峰の活躍を続けた。
ハブリチェック最大の武器は、試合開始から終了まで全くスピードが落ちない超人的なスタミナにあった。常にコート上を全力疾走し続け、相手ディフェンスを疲弊させた。
その常軌を逸したスタミナは医学チームの研究対象となり、アスリートの中でも特別に大きい心臓と肺を持っていること、限界まで鍛え上げられたマラソン選手並みの回復力があるという検査結果が報告された。
1983年にバスケットボール殿堂入りを果たす。
2019年に79歳で死去した。
背番号「17」はセルティックスの永久欠番となっており、通算26,395得点は現在もセルティックス歴代最多記録となっている。
10.テリー・ディッシンガー

Terry Dischinger
出身校:パデュー大学
ポジション:SF / SG
所属チーム:CHZ-BAL(1962~1964)→DET(1964~1965、1967~1972)→POR(1972~1973)
キャリア平均:13.8PPG、5.6RPG、1.8APG、.506FG%
個人賞:Rookie of the Year
オールスター出場:3回(1963~1965)
ルーキーイヤーからスター選手として脚光を浴びながらも、兵役によって全盛期を失った「悲運のオールスター」。
バスケットボールでの輝かしい功績(新人王やオリンピック金メダル)だけでなく、高校・大学では極めて優秀な学業成績を収め、プロ引退後に著名な歯科医師(歯列矯正医)となった異色のキャリアでも知られている。
若い選手が多かったシカゴ・ゼファーズに入団すると、1年目から平均25.5得点、8.0リバウンドを記録。新人で唯一オールスターに選出され、シーズン終了後には新人王を受賞するなど、鮮烈なデビューを飾った。
このシーズン、パデュー大学の化学工学の学位を取得するために平日は大学に通い、週末だけNBAの試合に出場するというパートタイム契約で学業とプロを両立させていた。57試合の出場にとどまりながら圧倒的なスタッツを残したため、周囲からは「まともにフルシーズン戦っていたらどうなっていたのか」と驚愕された。
1964年にデトロイト・ピストンズへ移籍すると成績はやや下降したものの、依然としてチームの中心選手として活躍し、移籍1年目もオールスターに選出。
デビューから3年連続でオールスター出場を果たし、リーグを代表するフォワードの一人として確固たる地位を築いた。
しかし、シーズン終了後に2年間の兵役に就くためチームを離れることになる。
全盛期の真っただ中での離脱はキャリアに大きな影響を与え、1967年に復帰した頃にはチームの顔は若きエース、デイブ・ビンへと移っていた。
復帰後はオールスター級の得点源からロールプレーヤーへと役割を変えたものの、高精度のシュートを武器にチームへ貢献。1968-69シーズンからは、当時のフォワードとしては異例となるFG成功率50%以上を4シーズン連続で記録し、効率の良い得点力を発揮した。
1972-73シーズンにポートランド・トレイルブレイザーズへ移籍し、1シーズンをプレーした後に現役を引退した。
引退後、医学への道を志してテネシー大学の歯学部へ進学し、主席で卒業した。
その後、矯正歯科のクリニックを開業。数々の新しい歯列矯正器具を発明して国際特許を取得し、世界中でその技術を教えるために飛び回るなど、「アメリカの矯正歯科界で過去40年間で最も影響力のある医師の1人」と称されるほどの世界的権威となった。
2023年に82歳で死去した。
13.ケビン・ローアリー

Kevin Loughery
出身校:セントジョンズ大学
ポジション:SG / PG
所属チーム:DET(1962~1963)→BAL(1963~1971)→PHI(1971~1973)
キャリア平均:15.3PPG、3.0RPG、3.7APG
デビュー当初こそ目立った成績を残せなかったものの、2年目のシーズン途中にボルティモア・ブレッツへ移籍したことが大きな転機となる。
ブレッツではすぐに主力へ定着し、1964-65シーズンには球団史上初となるプレーオフ進出に貢献。その後も安定した得点力でチームを支え続けた。
1968-69シーズンにはキャリアハイとなる平均22.6得点を記録し、チームも当時の球団記録となる57勝25敗をマーク。ウェス・アンセルドやアール・モンローらとともにチームの躍進を支えた。
ブレッツでは1963年から1971年までのおよそ8年間にわたってチームの中心選手として活躍し、1970-71シーズンのファイナル進出にも大きく貢献した。
フィラデルフィア・76ersで2シーズンをプレーした後、現役を引退。
現役最後のシーズン、76ersは開幕から負け続け、シーズン途中で「4勝47敗(勝率わずか7.8%)」という、スポーツ史上に残る大惨事の真っ只中にあった。
前任のヘッドコーチが更迭されると、ローアリーはこの絶望的な状況を引き受け、選手兼任のままヘッドコーチに就任。残りのシーズンを5勝26敗で乗り切った(最終的なチーム成績はNBA史上最低勝率となる9勝73敗に終わる)。
翌シーズンからはABAのニューヨーク・ネッツ(現ブルックリン・ネッツ)のヘッドコーチに就任し、ジュリアス・アービングを擁して2度のABAチャンピオンに導いている。
また、1983年からはNBAシカゴ・ブルズのヘッドコーチを務め、1984年に入団したマイケル・ジョーダンの最初の監督となっている。
ローアリーはジョーダンに古いシステムを押し付けず、自由にのびのびとプレーさせた。この方針が、ジョーダンが平均28.2得点を記録して新人王を獲得する大きな後押しとなり、その後のジョーダン人気の加熱に繋がった。
さらに、のちにヘッドコーチとしてブルズやレイカーズで計11度の優勝を飾るフィル・ジャクソンを最初にNBAのコーチングスタッフ(アシスタントコーチ)として雇い、指導者のイロハを教えたのがニュージャージー・ネッツ時代のローアリーだった。
ブレッツ(現ワシントン・ウィザーズ)の歴代上位となる通算10,602得点という記録を残すなど、現役時代は泥臭いスコアラーとして活躍。
指導者としては若き天才たちの才能開花に一役買った、愛情深く柔軟なコーチとして歴代のスーパースターたちから敬愛されている。
14.チェット・ウォーカー

Chet Walker
出身校:ブラッドリー大学
ポジション:SF
所属チーム:SYR-PHI(1962~1969)→CHI(1969~1975)
キャリア平均:18.2PPG、7.1RPG、2.1APG
オールスター出場:7回(1964、1966~1967、1970~1971、1973~1974)
当時、リーグ最高峰と称された1対1(アイソレーション)を得意とし、ディフェンダーを空中に跳ばせる絶妙なポンプフェイクからファウルを誘って得点を重ねた。
フィラデルフィア・76ersでの歴史的な優勝(1967年)に貢献し、シカゴ・ブルズ黎明期をエースとして支えたことでも知られている。
シラキュース・ナショナルズに入団すると、ルーキーイヤーから平均12.3得点、7.2リバウンドを記録し、オールルーキー1stチームに選出された。
シーズン終了後、チームは本拠地を移転してフィラデルフィア・76ersとなり、ウォーカーは新チームの主力として平均17.3得点、10.3リバウンドを記録。初のオールスターにも選出されるなど、リーグ屈指の若手フォワードへと成長した。
しかし翌1964-65シーズンにウィルト・チェンバレンが加入するとチームのオフェンスはチェンバレン中心となり、ウォーカーの得点機会は減少。個人成績も大きく落とすこととなった。
それでも76ersはチェンバレンを擁する強豪として毎年優勝候補に挙げられたが、ボストン・セルティックスの壁を越えられないシーズンが続いた。
転機となったのは1966年、名将アレックス・ハナムの就任だった。
ハナムはチェンバレン一辺倒だったオフェンスを改め、チーム全体で得点を分散させるシステムを構築。その結果、ウォーカーは平均19.3得点、8.1リバウンドまで数字を回復し、本来の得点力を取り戻した。
攻守のバランスを手に入れた76ersは当時のNBA記録となる68勝を挙げ、チェンバレン、ウォーカー、ビリー・カニンガムによるフロントラインはリーグ最強と評された。
プレーオフでは宿敵セルティックスを破って8連覇で終止符を打ち、NBAファイナルではサンフランシスコ・ウォリアーズを下して優勝を達成。ウォーカー自身もファイナルで平均23.3得点、8.8リバウンドを記録し、自身初となるチャンピオンリング獲得に大きく貢献した。
その後も76ersの中心選手として活躍を続けたが、チームは徐々に優勝時の勢いを失い、1969年にシカゴ・ブルズへトレードされる。
突然の放出に大きな衝撃を受けたものの、ブルズではボブ・ラブやジェリー・スローンとともにチームを牽引し、1970-71シーズンから4年連続で50勝以上を記録するブルズの中心選手として活躍した。
1970-71シーズンにはキャリアハイとなる平均22.0得点を記録し、34歳となった1974-75シーズンも平均19.2得点、FG成功率48.7%をマーク。膝の故障を抱えながらも高いパフォーマンスを維持し、球団史上初のディビジョン優勝に貢献した。
しかし、契約を巡ってチームとの関係が悪化し、なお衰えを見せないまま、このシーズン限りで現役引退を決意した。
13年間のプロキャリアにおいて、所属したすべてのチームが毎年プレーオフに進出し、自身も生涯で1度もプレーオフの試合を欠場しなかった。
レギュラーシーズンを含めても「1シーズンに6試合以上休んだことがない」という抜群の耐久性(タフネス)の持ち主だった。
ウォーカーの加入によってブルズは常勝軍団となったが、ウォーカーの引退した翌年はプレーオフを逃しており、その存在感が証明されている。
引退後の第2のキャリアとして、演劇や映像の世界へ飛び込み、映画プロデューサー・脚本家として成功を収めている。
NBAスターであるアイザイア・トーマス(元ピストンズ)の母親の半生を描いたテレビ映画『A Mother’s Courage: The Mary Thomas Story』(1989年)を共同プロデュースし、テレビ界の最高峰である「プライムタイム・エミー賞」を受賞している。
2024年に84歳で死去した。
19.ドン・ネルソン

Don Nelson
出身校:アイオワ大学
ポジション:SF / PF
所属チーム:CHZ(1962~1963)→LAL(1963~1965)→BOS(1965~1976)
キャリア平均:10.3PPG、4.9RPG、1.4APG
選手としてはボストン・セルティックス黄金時代を支えた極めて勝負強いシックスマンとして活躍し、ヘッドコーチとしては長らくNBA歴代最多勝利記録を保持した名将であり、独創的な発想と革新的な戦術によって現代バスケットボールの発展に大きな影響を与えた。
デビューからしばらく目立った成績を残すことができなかったが、1965年に移籍したボストン・セルティックスではベンチから登場するシックスマンとして活躍し、1976年の引退までに5度の優勝に貢献した。
非常に効率の良いプレーをする頭脳明晰な選手として知られ、優れたシュート力と状況判断を武器に、限られた出場時間でも在籍したほとんどのシーズンで平均2桁得点を記録した。
ビル・ラッセルの引退後、出場時間が増加した1969-70シーズンにキャリアハイとなる平均15.4得点、7.3リバウンドを記録した。
1974-75シーズンには34歳ながらベンチスタートで平均14.0得点を挙げ、リーグトップとなるFG成功率53.9%を記録している。
翌1975-76シーズン終了後に現役を引退した。
引退後はヘッドコーチやゼネラルマネージャーとして活躍し、攻撃的かつ革新的な戦術によって数々のチームを成功へ導いた。
2012年にはヘッドコーチとして通算1,335勝を達成し、当時のNBA歴代最多勝利記録を樹立した。
また、無名選手や海外出身選手を積極的に起用して才能を見出す手腕にも優れ、NBA史に残る名将の一人として高く評価されている。
背番号「19」はセルティックスの永久欠番となっている。
2026年、86歳で死去。
チーム名の略称
【BAL】ボルティモア・ブレッツ(現ワシントン・ウィザーズ)
【BOS】ボストン・セルティックス
【CHI】シカゴ・ブルズ
【CHZ】シカゴ・ゼファーズ(現ワシントン・ウィザーズ)
【CIN】シンシナティ・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)
【DET】デトロイト・ピストンズ
【LAL】ロサンゼルス・レイカーズ
【NYK】ニューヨーク・ニックス
【PHI】フィラデルフィア・76ers
【POR】ポートランド・トレイルブレイザーズ
【SFW】サンフランシスコ・ウォリアーズ(現ゴールデンステイト・ウォリアーズ)
【STL】セントルイス・ホークス(現アトランタ・ホークス)
【SYR】シラキュース・ナショナルズ(現フィラデルフィア・76ers)



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