「1970年 NBAドラフト」年代別に振り返るNBA選手名鑑

NBA
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主なドラフト選手

1.ボブ・レイニア

01

Bob Lanier

出身校:セント・ボナベンチャー大学

ポジション:C

所属チーム:DET(1970~1980)→MIL(1980~1984)

キャリア平均:20.1PPG、10.1RPG、3.1APG、1.1SPG、1.5BPG、.514FG%

個人賞:All-Star Game MVP1回(1974)

オールスター出場:8回(1972~1975、1977~1979、1982)

211cm、113kgという屈強な体格と巧みなポストプレーを併せ持ち、「柔」と「剛」を兼ね備えた70年代を代表する万能型センター。

デトロイト・ピストンズに入団すると、ルーキーイヤーに平均15.6得点、8.1リバウンドを記録。2年目には平均25.7得点、14.2リバウンドと一気に成績を伸ばし、初のオールスターに選出される。わずか2年でリーグ屈指のセンターへと成長すると、その後も安定して高いレベルの成績を残し続けた。

1972-73シーズンからは7シーズン連続で平均21得点、11リバウンド以上を記録デイブ・ビンとともにピストンズの中心選手としてチームを牽引し、長年にわたってフランチャイズの大黒柱を務めた。

レイニアは211cmというサイズだけに頼らない多彩なオフェンスを持ち味とし、ビッグマンとは思えない柔らかなタッチのミドルレンジ・ジャンパーのほか、左手から放つフックシュートはタイミングを読みにくく、相手ディフェンダーにとって非常に厄介な武器となった。

また、ブロックショットの公式記録が始まった1973-74シーズンには、平均3.0ブロックを記録してリーグ4位に入るなど、守備でも強烈な存在感を発揮。同じシーズンには平均4.2アシストを記録し、チーム内でもビンに次ぐ数字を残した。

「得点とリバウンドを量産する大型センター」という枠を超え、守備とパスでもチームに貢献できる万能型ビッグマンとしてピストンズを支えた。

しかし、1975年にビンがチームを去ると次第に成績が低迷していく。

満身創痍で奮闘を続けていたレイニアは31歳となり、残り少ない現役生活で優勝を狙える強豪チームへの移籍を要求。1980年にミルウォーキー・バックスへトレードされた。

バックスでは5シーズンをプレーし、1984年に現役を引退した。

望んでいた優勝は叶わなかったが、レイニアは頼れるベテランセンターとしてチームの精神的支柱となり、加入後すべてのシーズンでディビジョン優勝を果たした。

1992年にバスケットボール殿堂入りを果たし、背番号「16」はピストンズとバックスの両球団で永久欠番となっている。

2022年に73歳で死去した。

2.ルディ・トムジャノビッチ

02

Rudy Tomjanovich

出身校:ミシガン大学

ポジション:PF / SF

所属チーム:SDR-HOU(1970~1981)

キャリア平均:17.4PPG、8.1RPG、2.0APG、.501FG%

オールスター出場:5回(1974~1977、1979)

通称「Rudy T.(ルディ・T)」。

本名の「Tomjanovich(トムジャノビッチ)」は当時のユニフォームの背中に収まりきらないほど長かったため、特例として「RUDY T.」の表記が認められた。やがてこのユニフォーム表記がそのまま愛称として定着した。

のちにヘッドコーチとしてヒューストン・ロケッツを2度のNBA優勝へ導いた名将として知られているが、現役時代もロケッツ一筋でプレーし、正確無比なジャンプシュートと高いリバウンド能力を兼ね備えた万能型フォワードとして活躍した。

1970年のNBAドラフトでサンディエゴ・ロケッツから全体2位指名を受けて入団。

ルーキーシーズンは平均11.2得点、6.3リバウンドとまずまずの成績だったが、チームがヒューストンへ移転した翌1968-69シーズンには平均15.0得点、11.8リバウンドと大きく成長。得点だけでなくリバウンドでもチームを支える主力選手へと成長した。

その後も着実に成績を伸ばし、1973-74シーズンには平均24.5得点、9.0リバウンド、3.1アシスト、フィールドゴール成功率53.6%を記録。初のオールスターに選出されると、カルビン・マーフィーらとともにロケッツを牽引するリーグ屈指のフォワードとなった。

しかし、1977年1月、キャリアを一変させる悲劇が起こる。

ロサンゼルス・レイカーズ戦で乱闘が発生した際、選手たちを止めようと駆けつけたトムジャノビッチは、カーミット・ワシントンのパンチをまともに受け、強烈な一撃によって頭蓋骨を骨折する重傷を負った。

一時は生命すら危ぶまれる状態に陥ったが、シーズン残りを全休した後、懸命なリハビリによって翌1977-78シーズンに奇跡的な復帰を果たす。

復帰初年度から平均19.0得点を記録すると、ファンからの圧倒的な支持を受け、初めてファン投票によってオールスターに選出された。

その後もロケッツ一筋で13シーズンを戦い抜き、球団史上初となるNBAファイナル進出を果たした1980-81シーズンを最後に現役を引退した。

背番号「45」はロケッツ初の永久欠番となっている。

引退後はロケッツのヘッドコーチを務め、1994年に球団史上初のNBA優勝に導く。

さらに、翌1995年には第6シードという下馬評を覆して2連覇を成し遂げた。試合後のインタビューで、チームを信じなかった批評家たちに向けて放った「Never underestimate the heart of a champion(チャンピオンの心を侮るな)」という言葉は、NBA史に残る名言として語り継がれている。

2020年にコーチ部門でバスケットボール殿堂入りを果たしている。

3.ピート・マラビッチ

03

Pete Maravich

出身校:ルイジアナ州立大学

ポジション:SG

所属チーム:ATL(1970~1974)→NOJ-UTA(1974~1980)→BOS(1980)

キャリア平均:24.2PPG、4.2RPG、5.4APG、1.4SPG、.667 3P%

ALL TEAM:All-NBA 1st 2回、All-NBA 2nd 2回

オールスター出場:4回(1974、1977~1979)

常識にとらわれない華麗なボールハンドリングと、予測不能なアイデアから生み出される創造的なプレーでバスケットボールに新たな魅力をもたらし、そのプレースタイルは後世の多くのスター選手に影響を与えた。

早撃ちガンマンのような素早いリリースからシュートを沈めることから「ピストル・ピート」の愛称で親しまれ、後にマジック・ジョンソンが「彼こそが本物のオリジナルだ」と称賛したように、単に得点を量産する選手ではなく、「バスケットボールはこれほど自由にプレーできる」ということを示した革新者でもあった。

父親が監督を務めるルイジアナ州立大学(LSU)へ進学すると、1年生から圧倒的な得点力を発揮。

当時のNCAAでは1年生の公式戦出場が認められていなかったため、大学での公式戦出場は3年間だったが、それでも通算3,667得点、平均44.2得点という現在も破られていないNCAA記録を打ち立てた

1970年のNBAドラフトでアトランタ・ホークスから全体3位指名を受けてプロ入りすると、ルーキーシーズンから平均23.2得点を記録。

NBAでも独創的なプレースタイルを貫き、華麗な技術と高い得点力を兼ね備えた人気スターとして頭角を現した。

1974年、ニューオリンズ・ジャズへ移籍する。

創設されたばかりのジャズは、フランチャイズの象徴となるスター選手を求め、地元の英雄として絶大な人気を誇っていたマラビッチを大型トレードで獲得した。

しかし、その代償として主力選手と複数のドラフト指名権を放出したため、マラビッチは十分な戦力が整わない新設チームのエースとして、ほぼ一人でオフェンスを背負うことになった。

それでもその期待に応えるように、1975-76シーズンには平均25.9得点、4.8リバウンド、5.4アシストを記録してオールNBA1stチームに選出され、翌1976-77シーズンには平均31.1得点で得点王を獲得。圧倒的な得点力でリーグを代表するスター選手へと上り詰めた。

しかし、長年チームを一人で支え続けた負担から故障が増え始め、ようやく戦力が整い始めた頃には欠場も目立つようになっていた。

1979-80シーズン、ジャズは本拠地をニューオリンズからユタへ移転。

新天地で開幕を迎えたマラビッチだったが、シーズンが始まって間もなくチームを解雇される。

その後ボストン・セルティックスへ加入し、ラリー・バードら若い選手たちとプレーしたものの、シーズン終了後に現役を引退した。

1987年にバスケットボール殿堂入り。

しかし、その翌年、プレイグラウンドでバスケットボールを楽しんでいた最中に心臓発作で倒れ、わずか40歳という若さでこの世を去った。

あまりにも早すぎる死は世界中のバスケットボールファンに衝撃を与えた。

背番号「7」はジャズの永久欠番となったほか、マラビッチが長く活躍したニューオリンズに本拠地を置くペリカンズでも永久欠番となっている。

4.デイブ・コーウェンス

04

Dave Cowens

出身校:フロリダ州立大学

ポジション:C / PF

所属チーム:BOS(1970~1980)、MIL(1982~1983)

キャリア平均:17.6PPG、13.6RPG、3.8APG、1.1SPG

個人賞:Rookie of the Year、MVP1回(1972-1973)、All-Star Game MVP1回(1973)

ALL TEAM:All-NBA 2nd 2回、All-Defensive 1st 1回、All-Defensive 2nd 2回

オールスター出場:8回(1972~1978、1980)

闘志あふれるプレーと豊富な運動量でコートを縦横無尽に駆け回り、ビル・ラッセルの引退によって低迷したボストン・セルティックスを再びNBAの頂点へ導いた。

公称206cmと当時のセンターとしては小柄だったが、サイズの不利を補って余りある運動能力と闘争心を備え、リバウンド、ディフェンス、ルーズボールへの飛び込みなど、チームの勝利に必要な仕事をすべて引き受ける献身的なプレースタイルで絶大な人気を誇った。

デビュー前から優れたリバウンダーとして評価され、ビル・ラッセルの引退によって世代交代が進められていたセルティックスにドラフト指名を受けて入団する。

そして、、ルーキーシーズンに平均17.0得点、15.0リバウンドを記録し、ポートランド・トレイルブレイザーズのジェフ・ペトリーとともに新人王を受賞すると、早くもラッセルの後継者として期待されるようになった。

コーウェンスの加入によって、セルティックスはそれまで弱点となっていたリバウンドとインサイドのディフェンスが劇的に改善。ジョン・ハブリチェックら実力者を擁するセルティックスは堅守速攻を武器に名門復活を遂げた。

1972-73シーズンに平均20.5得点、16.2リバウンド、4.1アシストを記録。セルティックスを68勝14敗という球団史上最高勝率へ導くと、攻守両面でチームの中心となったコーウェンスはキャリア唯一となるシーズンMVPを受賞した。

プレーオフではカンファレンス決勝で宿敵ニューヨーク・ニックスに敗れ、優勝を逃したものの、翌1973-74シーズンにはその雪辱を果たす。

カンファレンス決勝でニックスを破ってファイナルへ進出すると、ミルウォーキー・バックスとの最終第7戦までもつれる大激戦を制し、ラッセル時代以来となるNBA優勝を果たした。

ファイナルMVPはハブリチェックに譲ったものの、優勝を決めた第7戦では、ゲームハイとなる28得点、14リバウンドを記録した。

コーウェンスはその後もセルティックスの新たな黄金時代を支え、1976年にも2度目の優勝を達成する。

しかしこの優勝後、親友でありチームに欠かせない存在だったポール・サイラスがトレードされたことに大きなショックを受け、それまでチームのために全力を注いできたコーウェンスのモチベーションにも変化が生じると、成績は徐々に下降していった。

ハブリチェックら主力選手の引退もあり、セルティックスは1978-79シーズンに29勝53敗と大きく低迷し、地区最下位に沈んだ。

翌1979-80シーズン、ラリー・バードの加入によってセルティックスは61勝21敗と劇的な復活を遂げ、新時代の到来を見届けたコーウェンスはシーズン終了後に現役を引退した。

その2年後、元チームメイトのドン・ネルソンの要請を受け、1982-83シーズンにミルウォーキー・バックスで40試合に出場し、再びNBAのコートに立って最後のシーズンを戦った。

コーウェンスが着用した背番号「18」は、もともと8連覇時代に活躍したジム・ロスカトフの永久欠番となる予定だった。

しかし、ロスカトフ本人が永久欠番入りを辞退したため、コーウェンスが現役時代に着用し、その後、コーウェンスの功績を称える永久欠番として制定された。

1991年にバスケットボール殿堂入りを果たしている。

5.サム・レイシー

05

Sam Lacey

出身校:ニューメキシコ州立大学

ポジション:C

所属チーム:CIN-KCO-KCK(1970~1981)→NJN(1981~1982)→CLE(1982~1983)

キャリア平均:10.3PPG、9.7RPG、3.7APG、1.3SPG、1.5BPG

オールスター出場:1回(1975)

208cmの長身と屈強なフィジカルを生かし、リバウンドとブロックで強さを見せた一方、卓越したパスセンスも兼ね備えたビッグマン。

大学時代に豪快なダンクとブロックを連発し、「スラミン・サム(Slammin’ Sam)」の異名を取ったように、若い頃からインサイドでの強さには定評があった。

しかし、NBAでは単なるパワー型センターにとどまらず、13年のキャリアでシーズン平均5アシスト以上を3度も記録するなど、味方を生かすパスでも存在感を発揮した。

シンシナティ・ロイヤルズに入団すると、ルーキーシーズンから平均13.5得点、11.3リバウンドを記録。主力センターとして同期入団のタイニー・アーチボルドらとともにチームを支えた。

その後、ロイヤルズがカンザスシティ・オマハ・キングス、さらにカンザスシティ・キングスへと名称を変えていく中でも、レイシーは一貫してインサイドの柱として活躍した。

1974-75シーズンには平均11.5得点、1.7スティール、2.1ブロックに加え、リーグ3位となる14.2リバウンド、センターとしては高水準の5.3アシストを記録し、初めてオールスターに選出される。

得点だけでなく、ポストプレーから味方に合わせるパスでも存在感を発揮し、攻撃の起点としても機能するセンターとして重宝された。

また、スティールとブロックの公式記録が始まった1973-74シーズンから7年連続で100スティール・100ブロック以上を達成するなど、高い守備力と機動力を兼ね備えたセンターとしても高い評価を受けた。

シンシナティ時代から数えて12シーズンにわたり、名称を変え続けるフランチャイズを支えたが、1981-82シーズン途中にニュージャージー・ネッツへトレードされる。

その後はクリーブランド・キャバリアーズでもプレーし、1983年に現役を引退した。

背番号「44」は現サクラメント・キングスの永久欠番となっており、出場試合数、通算リバウンド、通算ブロック、通算スティールの4部門で現在も球団記録を保持している。

2014年、66歳で死去した。

7.ジョン・ジョンソン

06

John Johnson

出身校:アイオワ大学

ポジション:SF

所属チーム:CLE(1970~1973)→POR(1973~1975)→HOU(1975~1977)→SEA(1977~1982)

キャリア平均:12.9PPG、5.5RPG、3.8APG

オールスター出場:2回(1971~1972)

201cmのタフなスモールフォワードでありながら、卓越したパスセンスと広い視野を持ち、現代でいう「ポイントフォワード」の先駆者として知られた万能型プレーヤー。

得点だけでなく、リバウンドやアシストでもチームに貢献し、とくにフォワードの位置からゲームを組み立てる能力は当時としては異彩を放った。

1970年のNBAドラフトでは、新設されたばかりのクリーブランド・キャバリアーズから全体7位で指名され、球団史上初のドラフト指名選手となる。

さらに、ルーキーシーズンから平均16.6得点、6.8リバウンド、4.8アシストの活躍を見せ、新人ながら球団史上初のオールスター選手ともなった。

2年目にはキャリアハイとなる平均17.0得点、7.7リバウンド、5.1アシストとさらに成績を伸ばし、リーグ屈指の万能型フォワードへと成長。

自ら得点するだけでなく、リバウンドを奪ってそのままボールを運び、味方のチャンスを作り出すなど、フォワードでありながら司令塔のような役割も担った。

1973年にポートランド・トレイルブレイザーズへ移籍すると、引き続き主要な得点源としてチームを支えたが、若手選手の台頭に伴って徐々に出場時間が減少していく。

ヒューストン・ロケッツへ移籍した頃には平均得点も2桁を下回り、キャリアのピークを過ぎた選手と見られるようになっていた。

シーズン開幕直後にシアトル・スーパーソニックスへトレードされると、当初はベンチを温める時間が続いた。

しかし、シーズン途中にヘッドコーチに就任したレニー・ウィルケンズは、キャバリアーズ時代の元チームメイトでもあったジョンソンの経験と能力を高く評価。先発に抜擢すると、ジョンソンは若いチームを支える精神的支柱として存在感を発揮した。

ウィルケンズのヘッドコーチ就任をきっかけにソニックスは快進撃を開始。

ジョンソンも豊富な経験を生かして攻守両面でチームを支え、球団史上初となるNBAファイナル進出に貢献した。

ファイナルではワシントン・ブレッツに敗れて優勝を逃したものの、ソニックスは翌1978-79シーズンに再びファイナルへ進出。

前年と同じブレッツとの対戦となったが、今度はソニックスが雪辱を果たし、球団史上初となるNBA優勝を成し遂げた。

ジョンソンもこのシリーズでチーム最多のアシストを記録するなど、ベテランながら攻撃の司令塔として重要な役割を担った。

その後もソニックスでプレーを続け、1978-79シーズンから2年連続でチームトップのアシストを記録。全盛期を過ぎた後も、自ら得点を量産するのではなく、味方を生かしてチーム全体の攻撃を機能させることで価値を発揮した。

1982年に現役を引退。

ジョンソンが切り開いた「フォワードがゲームを組み立てる」というスタイルは、その後、スコッティ・ピッペンやレブロン・ジャームズといった後世の偉大なオールラウンダーたちへと受け継がれていくことになった。

8.ジェフ·ペトリー

01

Geoff Petrie

出身校:プリンストン大学

ポジション:SG / PG

所属チーム:POR(1970~1976)

キャリア平均:21.8PPG、2.8RPG、4.6APG、1.1SPG

個人賞:Rookie of the Year

オールスター出場:2回(1971、1974)

ポートランド・トレイルブレイザーズの球団史において、最初に誕生した生え抜きのスーパースター。

3ポイントラインがまだ存在しなかった時代に、現在の3ポイントエリアよりもさらに遠い位置から、美しいフォームでジャンプシュートを次々と沈めた天才的なスコアラーとして知られているが、度重なる膝の故障によってわずか6シーズンで現役生活を終えることになった「悲運の天才」でもあった。

1970年のNBAドラフトで全体8位指名を受け、創設されたばかりのブレイザーズへ入団。

1年目に叩き出した平均24.8得点は、大学バスケ界の伝説的な点取り屋だったピート・マラビッチの平均23.2得点を上回る新人トップの数字となり、ボストン・セルティックスのデイブ・コーウェンスとともに新人王を同時受賞した。

その後もチームのエースとして得点を量産し続けると、1971年にシドニー・ウィックス、1974年にビル・ウォルトンが加入し、ブレイザーズは着実に戦力を充実させていった。

しかし、ウォルトンが故障に苦しみ続けたこともあり、ペトリーの活躍にもかかわらずチームはプレーオフの舞台へたどり着くことができないシーズンが続いた。

やがてペトリー自身も深刻な膝の故障に悩まされるようになると、1975-76シーズンには出場機会が大幅に減少し、シーズン終了後にアトランタ・ホークスへトレードされた。

再起を目指したものの、一度もコートに立つことができず、そのまま現役引退を決断した。

皮肉にも、ペトリーが引退した翌1976-77シーズン、ブレイザーズはビル・ウォルトンが健康を取り戻したことで球団史上初のプレーオフ進出を果たす。

勢いそのままに快進撃を続け、球団初優勝という快挙を成し遂げた。

ペトリーはその栄光をコートの外から見届けることになったが、フランチャイズの礎を築いた人物の一人として、背番号「45」はブレイザーズの永久欠番となった。

引退後はビジネスの世界を経てNBAのフロントへ転身すると、サクラメント・キングスの球団運営に携わり、のちにプレジデントへ就任。

クリス・ウェバージェイソン・ウィリアムスブラディ・ディバッツらを次々と獲得し、2000年代初頭には華麗なパスワークと創造的なオフェンスでリーグ屈指の人気を誇るチームを作り上げた。

このフロントとしての手腕が高く評価され、NBA最優秀役員賞(エグゼクティブ・オブ・ザ・イヤー)を2度受賞している。

また、オレゴン州(ポートランド)を拠点とするナイキ(NIKE)社が、創業間もない1972年、地元チームのスターだったペトリーに自社のシューズを提供。これが「NBA選手がコートでナイキを履いた最初」とされている。

18.カルビン・マーフィー

03

Calvin Murphy

出身校:ナイアガラ大学

ポジション:PG / SG

所属チーム:SDR-HOU(1970~1983)

キャリア平均:17.9PPG、2.1RPG、4.4APG、1.5SPG

オールスター出場:1回(1979)

身長175cmというサイズのハンデをものともせず、爆発的な瞬発力と正確無比なジャンプショットを武器に、ヒューストン・ロケッツ不動のスコアリング・ガードとして活躍した。

少年時代はバトントワリングの世界的な選手として知られ、高校時代になるとバスケットボールでも頭角を現した。

ナイアガラ大学では後にユタ・ジャズのヘッドコーチとなるフランク・レイデンの下で活躍したが、175cmという身長から評価は伸びず、1970年のNBAドラフトでは2巡目まで指名を待つことになった。

サンディエゴ・ロケッツに入団すると、1年目から先発の座をつかみ、高い評価を受けていた同期のルディ・トムジャノビッチを上回る平均15.8得点、4.0アシストを記録。その低い評価を覆してみせた。

本拠地をヒューストンへ移転してからは、トムジャノビッチとともにロケッツを牽引する中心選手へと成長。1973-74シーズンには平均20.4得点、7.4アシスト、1.9スティール、FG成功率52.2%を記録した。

コートを縦横無尽に駆け回りながら、通算フリースロー成功率89.2%という優れたシュート技術を持ち、とくにトップスピードから急停止して放つ「ストップ&ポップ」はマーフィーの代名詞となった。

1976-77シーズンにはジョン・ルーカスモーゼス・マローンの加入もあり、ロケッツは49勝33敗と球団最多勝利数を更新。さらなる飛躍が期待された。

しかし、翌シーズンにトムジャノビッチが試合中の乱闘に巻き込まれ、シーズンの残りを全休するほどの重症を負う。

エースが抜けた穴を埋めるべく、マーフィーは本来のポイントガードからシューティングガードへコンバートされ、より得点に専念することでキャリアハイとなる平均25.6得点を記録した。

リーグ屈指のスコアラーとしての地位を確立した一方で、トムジャノビッチを欠いた影響は大きく、チームは成績を大きく下降させた。

その後、モーゼス・マローンがエースとして成長し、トムジャノビッチも復帰すると、ロケッツは再び上昇する。

1980-81シーズンには球団史上2度目となるNBAファイナルへ進出。マーフィーもプレーオフで持ち前の得点力を発揮し、ロケッツの快進撃を支えた。

80年代に入ると若手の台頭で出場時間は減少し、1983年に現役を引退。13年にわたるロケッツ一筋のキャリアに幕を下ろした。

ロケッツで通算17,949得点を記録し、1,002試合に出場。

これは、アキーム・オラジュワンに抜かれるまでロケッツの歴代最多記録だった。

そのほか、多くの部門でチーム歴代上位の記録を保持しており、その功績を讃えて、背番号「23」はトムジャノビッチに続いてロケッツ二人目の永久欠番に指定された。

また、NBA屈指のフリースローシューターとして1980-81シーズンに95.8%という成功率を記録。これは、2008-09シーズンにホセ・カルデロンが更新するまでリーグ記録として残り続けた。

1993年にバスケットボール殿堂入りを果たしている。

19.ネイト・“タイニー”・アーチボルド

04

Nate Tiny Archibald

出身校:テキサス大学エルパソ校

ポジション:PG

所属チーム:CIN-KCO-KCK(1970~1976)→NYN(1976~1977)→BOS(1978~1983)→MIL(1983~1984)

キャリア平均:18.8PPG、2.3RPG、7.4APG、1.1SPG

個人賞:All-Star Game MVP1回(1981)

ALL TEAM:All-NBA 1st 3回、All-NBA 2nd 2回

オールスター出場:6回(1973、1975~1976、1980~1982)

185cm、68kgという小柄な体で200cmを超える大男たちがひしめくNBAを席巻し、NBA史上唯一となる得点王とアシスト王の同時受賞を成し遂げた。

幼い頃に父親から付けられた「ちっぽけな」を意味する「Tiny(タイニー)」の愛称は、後に、大柄な選手たちを相手に自在に得点を重ねる姿を象徴するニックネームとして広く親しまれた。

シンシナティ・ロイヤルズに入団した当初は控えとして起用される予定だったが、主力選手の契約問題によって思わぬ形で先発のチャンスを掴むと、平均16.0得点、5.5アシストを記録して結果を残した。

2年目には平均28.2得点、9.2アシストと大きく飛躍し、一気にリーグ屈指のガードへと変貌を遂げる。

チームがカンザスシティ・オマハ・キングスとなった1972-73シーズンには、平均34.0得点、11.4アシストを記録し、NBA史上唯一となる得点王とアシスト王の2冠を同時に達成。オールNBA1stチームにも選出され、リーグ最高峰の選手として評価を確立した。

一方で、ディフェンスやターンオーバーの多さを指摘されることもあり、圧倒的な個人成績がチームの勝利に結びつかないシーズンが続いた。

それでも1974-75シーズンにチームを8年ぶりのプレーオフ進出へ導くなど奮闘を続けたが、「いつか地元ニューヨークでプレーしたい」という希望を公言し、1976年にトレードでニューヨーク・ネッツ(現ブルックリン・ネッツ)へ移籍する。

ライバルリーグだったABAの吸収合併(NBAと統合)に伴い、ABAの強豪だったネッツもこの年からNBAへ参入。チームにはABA最大のスターだったジュリアス・アービングが在籍していた。

アーチボルドの加入は「夢の最強デュオ誕生」と騒がれ、「Dr.J & Tiny A」という特製Tシャツまで作られるほど街は熱狂した。

ところが、NBA参入のための加入金がチーム財政を圧迫し、ネッツは新シーズン開幕直前にアービングをフィラデルフィア・76ersへ「現金」でトレードしてしまう。

残されたアーチボルドは孤軍奮闘を強いられることになったが、わずか34試合を消化した時点でアキレス腱断裂という重傷を負い、翌シーズンも全休を余儀なくされるなど1年半にわたって戦線を離脱することになった。

結局、1シーズンでネッツを去ることになり、ボストン・セルティックス移籍後も全盛期のプレーを取り戻すことができないまま、1978-79シーズンはキャリア最低の平均11.0得点、4.7アシストに終わる。

「終わった選手」とまで囁かれたアーチボルドだったが、ビル・フィッチをヘッドコーチに迎え、新体制となった翌1979-80シーズンに劇的な変化を遂げる。

それまでのように自ら得点を量産するスタイルから、ゲームメイクを優先する司令塔へとモデルチェンジし、平均14.1得点、リーグ2位の8.4アシストを記録。セルティックスは61勝21敗というリーグ最高クラスの成績を残し、アーチボルドも名門復活を支える重要なピースとなった。

そして翌1980-81シーズン、ラリー・バードら若い才能とベテランのアーチボルドが融合したセルティックスはNBAファイナルへ進出。ヒューストン・ロケッツを破って優勝を果たし、ついに自身初となるチャンピオンリングを手にした。

さらにこの年に開催されたオールスターゲームにも出場し、ベンチからの登場で9得点・9アシストを記録。

数字としては控えめだったが、相手守備をズタズタに切り裂き、周囲のスター選手を輝かせ、さらに試合終盤のペースを完全にコントロールして接戦を制した姿が強烈な印象となり、見事オールスターMVPに輝いた。

この受賞は、かつて「1試合平均34得点」を叩き出していた爆発的なスコアラーが、アキレス腱断裂という選手生命に関わる大怪我を乗り越え、「チームを勝たせる純粋なポイントガード」として完全復活を遂げた象徴的な瞬間でもあった。

1984年に現役を引退し、1991年にバスケットボール殿堂入り。

アーチボルドがキャリア前半を過ごしたキングスは本拠地をサクラメントに移転し、アーチボルドが着用した背番号「1」はチームの永久欠番となっている。

引退後は故郷ニューヨークで地域活動にも力を注ぎ、貧困地区の子どもたちへの教育支援などに取り組んでいる。

79.ジョージ・ジョンソン

01

George Johnson

出身校:ディラード大学

ポジション:C

所属チーム:GSW(1972~1977)→BUF(1977)→NJN(1977~1980)→SAS(1980~1982)→ATL(1982~1983)、NJN(1984~1985)→SEA(1985~1986)

キャリア平均:4.8PPG、6.5RPG、1.0APG、2.5BPG

ALL TEAM:All-Defensive 2nd 1回

211cmの長身と長い腕を生かし、豪快なブロックショットで相手のシュートを次々と叩き落とした、1970~80年代を代表するリムプロテクター。キャリアで3度のブロック王に輝き、得点力には乏しかったものの、守備とリバウンドでチームに貢献する「守備職人」として長くNBAで活躍した。

ドラフトではシカゴ・ブルズから指名を受けたものの、出場機会を与えられないまま解雇され、1972年にゴールデンステイト・ウォリアーズと契約してようやくNBAデビューを果たすと、長身と身体能力を生かしたディフェンスで徐々に存在感を高めていった。

2年目の1973-74シーズンにウォリアーズはNBAファイナルへ進出する。ジョンソンは控え選手だったものの、平均2.8ブロックを記録するなど守備面でチームを支え、ファイナルではワシントン・ブレッツを破って自身初のNBAチャンピオンリングを手にした。

1977年にニュージャージー・ネッツへ移籍すると、先発センターとして大きく飛躍する。移籍1年目には平均8.7得点、9.6リバウンド、3.4ブロックを記録し、初のブロック王を獲得。以降はリーグ屈指のショットブロッカーとして評価を高め、5シーズン連続で平均3.0ブロック以上を記録するなど、ペイントエリアに強固な壁を築いた。

また、1978年3月26日のワシントン・ブレッツ戦でNBAの公式記録史上初となる「ファイブ・バイ・ファイブ」(主要5部門すべてで5以上を記録する)を達成。15得点、18リバウンド、5アシスト、5スティール、7ブロックを記録した。

その後も複数のチームを渡り歩きながらNBAでプレーを続け、13シーズンにわたってリーグに在籍。1986年、37歳で現役を引退した。

デビュー1年目にはフリースロー成功率41.2%とシュートを苦手としていたが、チームメイトのリック・バリーの影響を受けてアンダーハンドシュートを習得し、5年目以降はほとんどのシーズンで成功率70%以上を記録するまでに改善した。

1984-85シーズンにはフリースロー成功率81.5%を記録している。

106.チャーリー・スコット

02

Charlie Scott

出身校:ノースカロライナ大学

ポジション:SG / PG

所属チーム:ABA(1970~1972)→PHO(1972~1975)→BOS(1975~1977)→LAL(1977~1978)→DEN(1978~1980)

キャリア平均:20.7PPG、4.0RPG、4.9APG、1.3SPG

個人賞:ABA Rookie of the Year

ALL TEAM:All-ABA 1st 1回All-ABA 2nd 1回

オールスター出場:5回(1971~1972、1973~1975)

赤字はABA時代のもの、キャリア平均はNBA・ABAの通算平均

ニューヨーク・ハーレムのストリートで培ったタフさと、滑らかで美しいジャンプシュートを武器に、1970年代のABAとNBAで活躍したスコアリングガード。

ノースカロライナ大学(UNC)では同校史上初の黒人奨学金アスリートとなり、当時まだ人種差別が色濃く残っていたアメリカ南部のアトランティック・コースト・カンファレンス(ACC)に、黒人選手として初めて本格的に参入した。

コート上で圧倒的な存在感を示す一方、人種差別や周囲からの激しいプレッシャーとも戦いながらチームを2度のファイナルフォーへ導き、大学バスケットボール界に大きな足跡を残した。

しかし、1970年のNBAドラフトでは、ボストン・セルティックスから7巡目全体106位という極めて低い順位で指名される。

すでにABA入りが噂されていたことから、セルティックス側が保有権を確保する意味合いもあったとされ、この評価に不満を抱いたスコットは、NBAを大きく上回る条件を提示したABAのバージニア・スクワイアーズでプロとしてのキャリアをスタートさせることを選択した。

すると、さっそく平均27.1得点という大活躍を見せ、ケンタッキー・カーネルズのダン・イッセルとともに新人王を受賞。

さらに2年目の1971-72シーズンには平均34.6得点を記録し、当時のABAにおけるシーズン平均得点記録を更新した。

ところが、そのシーズン終盤にスコットは突如としてABAを離脱し、NBAのフェニックス・サンズへの移籍を決断する。

この移籍をめぐってはABA側が訴訟を起こしたほか、NBAでもドラフト指名権を持つボストン・セルティックスがスコットの保有権を主張するなど、複雑な争いへと発展した。

最終的に連邦地裁の判断によってNBAでのプレーが認められ、サンズがポール・サイラスをセルティックスへ放出することでようやく決着。スコットは1972-73シーズン途中から、念願のNBAデビューを果たした。

サンズでは平均25.3得点、6.1アシストを記録し、実力が本物であることを即座に証明すると、以降3シーズンにわたってエースとして活躍した。

1975年にはポール・ウェストファルとのトレードで、因縁浅からぬボストン・セルティックスへ移籍する。

移籍1年目は平均17.6得点と個人成績こそ落ちたものの、セルティックスのチームバスケットに適応し、得点だけでなくディフェンスやリバウンドでも献身的なプレーを見せた。

セルティックスはプレーオフを勝ち進み、ファイナルに進出。その前に立ちはだかったのはスコットの古巣フェニックス・サンズであり、絶対的エースとしてチームを率いていたのはトレード相手となったポール・ウェストファルだった。

第5戦はNBAファイナル史に残る激闘となり、トリプル・オーバータイムの末にセルティックスが劇的勝利を収め、優勝に王手をかける。

迎えた第6戦、スコットが25得点、11リバウンド、5スティールという大活躍を見せ、見事に自身最初で最後となるNBAチャンピオンリングを勝ち取った。

その後、1977年にトレードでセルティックスを離れ、1980年に現役を引退した。

2018年にバスケットボール殿堂入りを果たしている。

122.ダン・イッセル

03

Dan Issel

出身校:ケンタッキー大学

ポジション:C / PF

所属チーム:ABA(1970~1976)→DEN(1976~1985)

キャリア平均:22.6PPG、9.1RPG、2.4APG、1.0SPG

個人賞:ABA Rookie of the YearAll-Star Game MVP1回(1972)

ALL TEAM:All-ABA 1st 1回All-ABA 2nd 4回

オールスター出場:7回(1970~1976、1977)

赤字はABA時代のもの、キャリア平均はNBA・ABAの通算平均

抜群の耐久性と高いバスケIQ、ディフェンスを翻弄するシュート技術を武器に、ABAとNBAの両リーグで活躍したビッグマン。

15年間の現役生活でわずか24試合しか欠場しなかったことから「The Horse(馬)」の愛称で親しまれ、通算27,482得点という歴代屈指の数字を残した

大学時代から得点力の高さで注目され、NBAとABAの両リーグからドラフト指名を受ける。より高い評価を与えたABAのケンタッキー・カーネルズに入団すると、1年目から平均29.9得点、13.2リバウンドという圧倒的な成績を記録。新人にして得点王に輝き、バージニア・スクワイアーズのチャーリー・スコットとともに新人王を同時受賞した。

その後もABAを代表するスター選手として活躍を続け、1975年にはデンバー・ナゲッツへ移籍。ここでデビッド・トンプソンらと強力なチームを形成し、ABA最後の時代を代表する強豪の中心選手となった。

1976年、ABAがNBAに吸収合併されると、イッセルもそのままナゲッツの一員としてNBAへ移行する。当時は「ABA出身チームがNBAで通用するのか」という見方もあったが、ナゲッツは加入1年目から地区優勝を果たし、周囲の予想を覆した。

イッセルも平均22.3得点、8.8リバウンドを記録し、NBAでも十分に通用することを証明。以降も1985年に引退するまで、ほぼ毎年のように平均20得点前後を記録し、ナゲッツの大黒柱として安定した活躍を続けた。

身体能力だけを見れば、圧倒的なスピードや跳躍力を持つ選手ではなかったが、相手の動きを読む能力に優れ、とくに大きな体を使ったヘッドフェイクでディフェンダーを浮かせ、そこからドライブやジャンプシュートへつなげるプレーを得意とした。また、当時のビッグマンとしては珍く、外角からも安定して得点することができた。

1985年に現役を引退。

引退後は指導者の道へ進み、古巣デンバー・ナゲッツのヘッドコーチに就任。1993-94シーズンには、第8シードのナゲッツを率いて、プレーオフ1回戦で第1シードのシアトル・スーパーソニックスを撃破する歴史的なアップセットを演出した。これはNBAプレーオフ史上初めて、第8シードが第1シードを破った出来事として現在も語り継がれている。

1993年にバスケットボール殿堂入り。

背番号「44」はナゲッツの永久欠番となっている。

チーム名の略称

【ATL】アトランタ・ホークス

【BOS】ボストン・セルティックス

【BUF】バッファロー・ブレイブス(現ロサンゼルス・クリッパーズ)

【CIN】シンシナティ・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)

【CLE】クリーブランド・キャバリアーズ

【DEN】デンバー・ナゲッツ

【DET】デトロイト・ピストンズ

【GSW】ゴールデンステイト・ウォリアーズ

【HOU】ヒューストン・ロケッツ

【KCK】カンザスシティ・キングス(現サクラメント・キングス)

【KCO】カンザスシティ=オマハ・キングス(現サクラメント・キングス)

【LAL】ロサンゼルス・レイカーズ

【MIL】ミルウォーキー・バックス

【NJN】ニュージャージ・ネッツ(現ブルックリン・ネッツ)

【NOJ】ニューオリンズ・ジャズ(現ユタ・ジャズ)

【NYN】ニューヨーク・ネッツ(現ブルックリン・ネッツ)

【PHO】フェニックス・サンズ

【POR】ポートランド・トレイルブレイザーズ

【SAS】サンアントニオ・スパーズ

【SDR】サンディエゴ・ロケッツ(現ヒューストン・ロケッツ)

【SEA】シアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)

【UTA】ユタ・ジャズ

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