
主なドラフト選手
1.ラルー・マーティン

2.ボブ・マカドゥ

10.ポール・ウェストファル

Paul Westphal
出身校:サザンカリフォルニア大学
ポジション:SG / PG
所属チーム:BOS(1972~1975)→PHO(1975~1980)→SEA(1980~1982)→NYK(1982~1983)→PHO(1983~1984)
キャリア平均:15.6PPG、1.9RPG、4.4APG、1.3SPG、.504FG%
ALL TEAM:All-NBA 1st 3回、All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:5回(1977~1981)
卓越した身体能力と高いバスケットボールIQを兼ね備え、変幻自在のプレースタイルと激しいディフェンスで活躍した。
現役引退後はヘッドコーチとしても成功を収め、フェニックス・サンズを選手・監督の両方でNBAファイナルへ導いている。
1972年のNBAドラフトで全体10位指名を受け、名門ボストン・セルティックスに入団。2年目の1973-74シーズンには早くもチャンピオンリングを獲得したが、当時の役割はまだ限定的なものだった。
3年目の1974-75シーズンにはシックスマンとして平均9.8得点を記録。徐々に能力の高さを見せ始めていた一方で、出場時間の少なさに不満を抱くようになっていた。
シーズン終了後、ウェストファルの前に立ちはだかっていたドン・チェイニーがABAへ移籍。セルティックスはチェイニーの穴を埋めるべく、リーグ屈指の得点力を持つチャーリー・スコットを獲得するためにウェストファルをフェニックス・サンズへトレードした。
サンズで待望の先発の座をつかむと、移籍1年目から平均20.4得点、5.4アシスト、2.6スティールを記録。
サンズを6シーズンぶりのプレーオフ進出に導くと、上位チームを次々と破る快進撃を見せ、球団史上初となるNBAファイナルへ進出。古巣セルティックスを相手に2勝4敗で敗退したが、戦力で上回るセルティックスを最後まで苦しめた。
サンズへの移籍を機にスター選手へと変貌を遂げたウェストファルは、翌1976-77シーズンに初のオールスター選出とオールNBA 1stチーム選出を果たす。
オールスターにはこのシーズンから5年連続で選出され、オールNBAチームには4年連続(1st 3回、2nd 1回)で選出されるなど、名実ともにキャリアの絶頂期を迎えた。
1977-78シーズンにはキャリアハイとなる平均25.2得点、5.5アシストを記録。さらにフィールドゴール成功率51.6%という、当時のガードとしては非常に高い数字を残している。
1980年にトレードでシアトル・スーパーソニックスへ移籍。加入1年目にもオールスターに選出されたが、足の疲労骨折によりわずか38試合の出場にとどまった。
その後ニューヨーク・ニックスへ移籍したものの、翌シーズンも長期欠場を余儀なくされる。
ようやく復帰すると、かつての爆発的な身体能力は失われていたものの、高いバスケットボールIQと豊富な経験を武器にチームを支えた。1982-83シーズンには80試合に出場し、ニックスのプレーオフ進出に貢献。この活躍が評価され、NBAカムバック賞を受賞した。
1983-84シーズンにはフリーエージェントとして古巣サンズへ復帰。このシーズンを最後に、12年間の現役生活に幕を下ろした。
引退後、サンズはその功績を称えて、背番号「44」を永久欠番に指定した。
1988年からはアシスタントコーチとしてサンズに復帰。1992-93シーズンからヘッドコーチを務めると、リーグ屈指のオフェンス力を誇るチームを作り上げ、いきなり球団史上最多となる62勝20敗を記録した。
さらに、苦しみながらもプレーオフを勝ち進み、ウェストファルが現役だった1976年以来、実に17年ぶりとなるNBAファイナル進出を果たした。
3連覇を達成したシカゴ・ブルズを相手に2勝4敗で惜しくも王座を逃したものの、マイケル・ジョーダンに「キャリアで最もタフな相手の一つだった」と言わしめ、フェニックスの街を熱狂の渦に巻き込んだ。
2021年、70歳で死去した。
12.ジュリアス・アービング

Julius Erving
出身校:マサチューセッツ大学アマースト校
ポジション:SF
所属チーム:ABA(1971~1976)→PHI(1976~1987)
キャリア平均:24.2PPG、8.5RPG、4.2APG、2.0SPG、1.7BPG、.506FG%
個人賞:ABA MVP3回(1973-1974、1974-1975、1975-1976)、MVP1回(1980-1981)、All-Star Game MVP2回(1977、1983)
ALL TEAM:All-ABA 1st 4回、All-ABA 2nd 1回、ABA All-Defensive 1st 1回、All-NBA 1st 5回、All-NBA 2nd 2回
オールスター出場:16回(1972~1976、1977~1987)
※赤字はABA時代のもの、キャリア平均はNBA・ABAの通算平均
空中を自在に舞う芸術的なダンクシュートと創造性あふれるプレーで観客を魅了し、後のマイケル・ジョーダンをはじめ数多くの選手に計り知れない影響を与えた。
「ドクターJ(Dr.J)」の愛称で親しまれたアービングは、ABAとNBAの両リーグを代表する伝説的スーパースターであると同時に、品格ある振る舞いでも知られ、薬物問題などでイメージが低迷していたNBAの人気回復にも大きく貢献した。
大学では通算平均26.3得点、20.2リバウンドという圧倒的な記録を残していたが、比較的小さな地方リーグに所属していたこともあり、一般的にはまだ無名に近い存在であった。
また、当時の大学バスケットボール(NCAA)ではダンクシュートがルールで禁止されていたため、アービング最大の魅力である、空中を滑空するようなプレーを披露する機会も限られていた。実際、学生時代のアービングを見た関係者の中には、「プロでもリバウンダーとしてなら通用するだろう」という程度の認識だったという。
1971年、大学3年生を終えたばかりのアービングは、経済的な困窮を理由に大学を中退し、ABAのバージニア・スクワイアーズへ入団する。
当時のNBAには「大学卒業前の選手はドラフトで指名できない」という規定があった。同年に経済的な事情を抱える選手に限って早期のプロ入りを認める「ハードシップ制度」が導入されることになったが、アービングの進路決定には間に合わなかった。
結果として、この決断がバスケットボールの歴史を大きく変えることになる。
当時のNBAがハーフコートオフェンスを中心とした、どちらかといえば玄人好みの保守的なスタイルだったのに対し、ABAは「走るバスケットボール」を掲げ、NBAに先駆けて3ポイントシュートを導入するなど、エンターテインメント性を追求する新しいリーグとして台頭していた。
アービングはABA1年目から平均27.3得点、15.7リバウンド、4.0アシストという圧倒的なスタッツを残し、瞬く間にリーグ最大のスーパースターとなる。
それだけでなく、強烈な跳躍力を生かしたアービングのプレーと、ABAの奔放でスピーディーなスタイルは見事に融合。豪快なダンクや創造性あふれるプレーによって、バスケットボールを単なる競技から、観客を魅了するエンターテインメントへと押し上げる存在となった。
ABAという枠を超えて社会現象ともいえる人気を獲得したアービングを、NBAも無視することはできなかった。やがて彼の存在は、ABAそのものの価値を高め、NBAによるABA吸収・統合を後押しする大きな要因の一つとなっていく。
1972年、ABAでの1年目を終え、大学卒業の年齢となったアービングを、NBAのミルウォーキー・バックスがドラフトで指名する。
アービング本人もNBA入りには前向きだったが、ピート・マラビッチとのプレーを希望してアトランタ・ホークスと契約を結び、シーズン前のトレーニングキャンプにも参加した。
しかし、ABAの所属チームであるバージニア・スクワイアーズもアービングの保有権を主張。バックス、ホークス、スクワイアーズの3チームを巻き込む法廷闘争へと発展した。
最終的にアービングはスクワイアーズへ戻ることになり、ABAでのキャリアを続ける。
その後はニューヨーク・ネッツへ移籍し、ABA最後の5シーズンで得点王3回、MVP3回、優勝2回を達成。圧倒的な個人成績だけでなく、華麗なプレーそのものがABAの魅力を象徴する存在となった。
1976年にABAが消滅すると、アービングが所属していたネッツもNBAへ加盟。しかし、高額な加盟料に加えてニューヨーク・ニックスへの補償金も必要となり、財政難に陥ったネッツは、球団最大のスターだったアービングを放出せざるを得なくなった。
現金との交換でフィラデルフィア・76ersへ移籍することになったアービングは、NBA1年目から平均21.6得点、8.5リバウンドを記録。ABA時代と比べて得点は減少したものの、チームへの適応を優先しながらも76ersをファイナルへ導き、オールスターゲームではMVPを受賞するなど、NBAでもトップスターとしての地位を確立した。
1980-81シーズンには平均24.6得点、8.0リバウンド、4.4アシスト、2.1スティール、1.8ブロック、フィールドゴール成功率52.1%という圧巻の成績を残し、NBAでのキャリアで唯一となるシーズンMVPを受賞する。
チームもボストン・セルティックスと並ぶリーグ最高の62勝20敗を記録し、強豪としての地位を確立した。
しかし、時を同じくしてNBAにはラリー・バードとマジック・ジョンソンという次代を担う歴史的なスターが登場し、アービングの前に立ちはだかった。
バード率いるボストン・セルティックスとは東カンファレンスの頂点を争うライバルとなり、1981年のカンファレンス・ファイナルでは3勝1敗と先行しながら、そこからすべて2点差以内という僅差で3連敗を喫して敗退。セルティックスはそのままNBAチャンピオンに輝いた。
翌1981-82シーズンは再びカンファレンス・ファイナルでセルティックスと第7戦までもつれる激闘を繰り広げ、前年の雪辱を果たしてNBAファイナルへと進む。しかし、今度はマジック・ジョンソン率いるロサンゼルス・レイカーズの前に敗退。あと一歩で優勝を逃す状況が続いた。
ファイナル敗退後の1982年オフ、悲願の優勝に執念を見せる76ersは、前年のMVPだったモーゼス・マローンを獲得する大型補強に打って出る。
マローンとアービングというMVP同士の共闘には「主導権争い」を懸念する声もあった。しかし、マローンは「76ersはドクターのチームだ」と公言し、アービングも後に「勝利のために、オフェンスはマローンを中心に回るべきだと理解していた」と語っているように、2人がエゴを捨てて互いにリスペクトを示し合うと、才能ある選手が揃う76ersは完璧な融合を見せる。
1982-83シーズンが始まると、76ersは65勝17敗という圧倒的な成績を残してプレーオフに進出。プレーオフでもわずか1敗しか喫することなく勝ち進み、ファイナルでは2年連続の対戦となったレイカーズを4勝0敗のスイープで退け、当時の史上最高記録となる勝率92.3%(12勝1敗)という驚異的な数字を残してついにNBAチャンピオンに輝いた。
アービングはシリーズ平均19.0得点、8.5リバウンド、5.0アシストを記録し、マローン、モーリス・チークスらとともにチームを牽引した。ファイナルMVPを獲得したマローンは「ドクターのために勝ち取ったリングだ」と、アービングへの深い敬意を示した。
1984年にアービングのプレースタイルから大きな影響を受けたマイケル・ジョーダンが登場すると、NBAは新たな時代へ突入。バード、マジック、ジョーダンら次世代のスターたちによってリーグは急速に人気を拡大し、やがて世界的なスポーツエンターテインメントへと成長していく。
1986-87シーズン限りで現役引退を表明すると、最後のシーズンにはアウェーの各地でもセレモニーが開催されるなど、リーグ全体がその功績を称えた。
背番号「6」は76ersの永久欠番となり、1993年にはバスケットボール殿堂入りを果たした。
16.ジム・プライス

Jim Price
出身校:ルイビル大学
ポジション:PG
所属チーム:LAL(1972~1974)→MIL(1974~1976)→BUF(1976)→DEN(1976~1978)→DET(1978)→LAL(1978~1979)
キャリア平均:10.0PPG、3.1RPG、3.7APG、1.6SPG
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 1回
オールスター出場:1回(1975)
ロサンゼルス・レイカーズに入団すると、2年目の1973-74シーズンにエースのジェリー・ウェストの故障によって先発の座をつかみ、平均15.4得点、4.5アシスト、1.9スティールを記録。オールディフェンシブ2ndチームにも選出され、相手のエースガードを封じ込める守備力を武器に、一躍期待の若手として注目を集めた。
シーズン終了後、ウェストが現役を引退。次代の司令塔として期待されたプライスだったが、翌シーズンが始まるとわずか9試合でミルウォーキー・バックスへトレードされた。
それでもバックスで存在感を発揮し、シーズン全体で平均16.1得点、5.7アシスト、2.2スティールを記録。初のオールスター選出を果たした。バックスではカリーム・アブドゥル=ジャバー、ボブ・ダンドリッジとともに球団史上初となる3人のオールスター選手の一人にもなっている。
堅実なゲームメークに加えて高い守備力を備え、必要な場面では自ら得点もできる万能型ガードとして評価されたが、その利便性の高さゆえにトレードの交換材料として多くのチームを渡り歩くことにもなった。
1976年からわずか2年の間に5つのチームを転々とし、最後は古巣レイカーズに戻って1979年に現役を引退した。
31.ロイド・ニール

Lloyd Neal
出身校:テネシー州立大学
ポジション:PF / C
所属チーム:POR(1972~1979)
キャリア平均:11.1PPG、7.7RPG、1.5APG
201cmとインサイドプレイヤーとしては小柄ながら、タフで闘志あふれるハードワークを持ち味とした。7シーズンという短いキャリアをポートランド・トレイルブレイザーズ一筋で過ごし、リバウンドやディフェンスでチームを支えるブルーワーカーとしてファンから深く愛された。
1972年のNBAドラフトでは、ブレイザーズから3巡目全体31位で指名を受けて入団。当初は大きな期待を寄せられていた選手ではなかった。
しかし、同期のドラフト1位指名選手ラルー・マーティンを押しのけて全82試合に出場すると、平均13.4得点、11.8リバウンドを記録。新人王投票ではボブ・マカドゥに次ぐ2位の得票数を獲得し、下位指名ながら早くもチームの中心選手へと成長した。
4年目の1975-76シーズンにはキャリアハイとなる平均15.5得点を記録する。
しかし、翌1976-77シーズンに状況が一変する。
新たにヘッドコーチに就任した名将ジャック・ラムジーは、チームに加入したリーグ有数のパワーフォワードであるモーリス・ルーカスを先発に据え、開幕前に左膝の手術を受けていたニールを控えとした。
これまで中心選手として活躍してきたニールだったが、チームの勝利のためにプライドを捨ててシックスマンとしての役割を受け入れた。その献身的な姿勢はチームの結束を高め、ブレイザーズはエースのビル・ウォルトンを中心に快進撃を続け、プレーオフを勝ち進んで球団初のNBAチャンピオンに輝いた。
当時のラムジー監督も、ニールがベンチからの役割を受け入れたことをチームの大きな転機として評価している。
一方でニール自身は、毎試合のように膝をアイシングしていたことから「アイス」というニックネームが付くほど度重なる膝の故障に苦しみ、1979年に28歳という若さで現役を引退した。
7シーズンという短いキャリアで、オールスターに選ばれるような華やかな実績を残したわけではない。
それでも、ブレイザーズの弱小時代を支え、自らの役割を変えてまでチームの初優勝に貢献したニールを、ポートランドのファンは深く愛した。その功績を称え、引退した1979年には早くもセレモニーが開催され、背番号「36」は球団初の永久欠番に指定された。
引退後は大学へ戻って学位を取得し、ポートランドのアメリカ合衆国内国歳入庁(IRS)で職員として働いた。
34.ドン・ブージー

Don Buse
出身校:エバンズビル大学
ポジション:PG
所属チーム:ABA(1972~1976)→IND(1976~1977)→PHO(1977~1980)→IND(1980~1983)→POR(1983)→KCK(1983~1985)
キャリア平均:7.1PPG、2.7RPG、4.6APG、2.0SPG
ALL TEAM:All-ABA 2nd 1回、ABA All-Defensive 1st 2回、All-Defensive 1st 4回
オールスター出場:2回(1976、1977)
優れたディフェンス力とゲームメイクを武器に活躍し、ABAとNBAをまたいで2年連続でアシスト王とスティール王の2冠を達成した名ポイントガード。
1972年のNBAドラフトでは3巡目全体34位でフェニックス・サンズから指名を受ける。しかし、ブージーが選択したのは地元インディアナに本拠地を置くABAのインディアナ・ペイサーズだった。
入団当初は目立った成績を残せなかったが、着実に出場時間を増やしていくと、4年目の1975-76シーズンに先発に定着。平均12.5得点、8.2アシスト、4.1スティールを記録してアシスト王とスティール王の2冠を獲得した。
このシーズン終了後、財政難に陥っていたABAが消滅し、ペイサーズを含む4球団がNBAへ加入する形でリーグが事実上統合されることになる。
NBAへ舞台を移しても、ブージーは変わらずペイサーズの司令塔として活躍し、NBA加入1年目に平均8.5アシスト、3.5スティールを記録。リーグをまたいで2年連続でのアシスト王とスティール王の2冠を達成した。
このシーズンのオールスターゲームにはヘッドコーチによる推薦投票で選出されているが、平均得点はわずか8.0点しかなく、圧倒的なディフェンス力と司令塔としての能力がいかに対戦チームのコーチから評価されていたのかがうかがえる。
1977年にトレードでいったんペイサーズを離れた後も、リーグ屈指のディフェンシブガードとして活躍。NBA加入1年目から4年連続でオールディフェンシブ1stチームに選出されるなど、守備面で圧倒的な存在感を放った。
1980年に再びトレードでペイサーズへ復帰。その後はポートランド・トレイルブレイザーズやカンザスシティ・キングスでプレーし、1985年に現役を引退した。
39.ケビン・ポーター

Kevin Porter
出身校:セントフランシス大学
ポジション:PG
所属チーム:BAL-CAP-WSB(1972~1975)→DET(1975~1977)→NJN(1977~1978)→DET(1978~1979)→WSB(1979~1983)
キャリア平均:11.6PPG、1.8RPG、8.1APG、1.4SPG
183cmと小柄ながら、優れたスピードと抜群のコートビジョンを持ち、ゲームを自在にコントロールした正統派ポイントガード。NBA史上初めて、1シーズンで1,000アシストを突破した選手としても知られている。
3巡目全体39位という下位指名でボルティモア・ブレッツに入団。3年目の1974-75シーズンに平均11.6得点、8.0アシストを記録し、初のアシスト王を獲得すると、その後は移籍を繰り返しながらも、異なるチームで計4度のアシスト王に輝くなど、リーグ屈指の司令塔として活躍した。
1978-79シーズンにはキャリアハイとなる平均15.4得点、13.4アシストを記録。2年連続、通算4度目となるアシスト王に輝くとともに、シーズン通算1,098アシストを記録し、NBA史上初めて1,000アシストの大台を突破した。
また、このシーズンの一戦で、1試合29アシストという当時のNBA記録も樹立している。
1979年に古巣ブレッツへ復帰すると、その後も3シーズンにわたってプレー。1983年に現役を引退した。
これだけのアシスト記録を残したにもかかわらず、キャリアを通じて一度もオールスターに選出されることがなかった。
「アシストだけの選手」という地味な印象を持たれがちだが、実際はポイントガードとしては珍しく、リーグ最多となるファウル数を記録したシーズンもあるなど、闘争心をむき出しにして戦う激しいファイターとして知られていた。
「リトル・ドラマー」という異名を持ち、これはドリブルを刻むリズム(音)に由来するものだったが、同時に、自分のビートを刻むように我が道を突き進むという、ポーターの強烈なパーソナリティも表していた。
58.ヘンリー・ビビー

Henry Bibby
出身校:カリフォルニア大学ロサンゼルス校
ポジション:PG
所属チーム:NYK(1972~1975)→NOJ(1975~1976)→PHI(1976~1980)→SDC(1980~1981)
キャリア平均:8.6PPG、2.3RPG、3.3APG
ドラフトでは4巡目全体58位という低い評価だったが、同ラウンドで指名された選手の多くがNBAでプレーすることなく姿を消していく中、限られた出場機会を着実につかみ取り、堅実なポイントガードとして9シーズンにわたる現役生活を送った。
1972年にニューヨーク・ニックスへ入団すると、1年目(1972-73シーズン)にいきなりNBAチャンピオンを経験する。
その後、ニューオーリンズ・ジャズを経て、1976年からフィラデルフィア・76ersでプレー。先発ポイントガードを務め、堅実なゲームメークとディフェンスでチームを支えた。
1978-79シーズンにはキャリアハイとなる平均12.2得点を記録している。
引退後は指導者の道へ進み、大学やNBAでコーチを歴任。選手としての経験を生かし、若手選手を育てる指導者としても評価された。
また、ビビー家はスポーツ一家としても知られ、兄のジム・ビビーはメジャーリーグで活躍した投手で、1973年にはテキサス・レンジャーズを相手にノーヒットノーランを達成。息子のマイク・ビビーもNBAで活躍したポイントガードで、父と息子がともにNBA選手となった。
ヘンリーが指導者としてのキャリアに没頭するあまり家族を顧みず、妻と離婚。マイクとも絶縁状態が続いていたが、マイクのNBA入り後に和解している。
チーム名の略称
【BAL】ボルティモア・ブレッツ(現ワシントン・ウィザーズ)
【BOS】ボストン・セルティックス
【BUF】バッファロー・ブレイブス(現ロサンゼルス・クリッパーズ)
【CAP】キャピタル・ブレッツ(現ワシントン・ウィザーズ)
【DEN】デンバー・ナゲッツ
【DET】デトロイト・ピストンズ
【IND】インディアナ・ペイサーズ
【KCK】カンザスシティ・キングス(現サクラメント・キングス)
【LAL】ロサンゼルス・レイカーズ
【MIL】ミルウォーキー・バックス
【NJN】ニュージャージ・ネッツ(現ブルックリン・ネッツ)
【NOJ】ニューオリンズ・ジャズ(現ユタ・ジャズ)
【NYK】ニューヨーク・ニックス
【PHI】フィラデルフィア・76ers
【PHO】フェニックス・サンズ
【POR】ポートランド・トレイルブレイザーズ
【SDC】サンディエゴ・クリッパーズ(現ロサンゼルス・クリッパーズ)
【SEA】シアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)
【WSB】ワシントン・ブレッツ(現ワシントン・ウィザーズ)



COMMENT