
主なドラフト選手
1.ジョン・ルーカス

John Lucas
出身校:メリーランド大学
ポジション:PG、SG
所属チーム:HOU(1976~1978)→GSW(1978~1981)→WSB(1981~1983)→SAS(1983~1984)→HOU(1984~1986)→MIL(1987~1988)→SEA(1988)→HOU(1988~1990)
キャリア平均:10.7PPG、2.3RPG、7.0APG、1.4SPG
大学時代にバスケットボールとテニスの両方でオールアメリカンに選出された異色の経歴を持ち、高いゲームメイク能力でリーグ屈指のポイントガードとして活躍した。
ヒューストン・ロケッツに入団すると、1年目から主力として活躍し、2年目には平均12.4得点、9.4アシスト、2.0スティールを記録した。
シーズン終了後、リーグを代表するスター選手だったリック・バリーがルーカスとのプレーを希望してロケッツへ加入する。
しかし当時のフリーエージェント制度では、ロケッツはバリーが所属していたゴールデンステイト・ウォリアーズへ補償を行う必要があり、その補償として皮肉にもルーカスがウォリアーズへ移籍することになった。
ウォリアーズでは3年目に平均16.1得点、9.3アシストを記録し、リーグを代表するポイントガードへと成長する。
一方で、NBAデビュー前から抱えていたアルコールと薬物の問題は次第に深刻化し、キャリアにも大きな影響を及ぼしていった。
成績は3年目をピークに下降し、1981年にウォリアーズを放出されると、移籍先のワシントン・ブレッツでも出場時間を減らし、1982-83シーズン途中に解雇された。
翌1983-84シーズン開幕後にサンアントニオ・スパーズと契約すると、シーズン終了後には古巣ロケッツへ復帰。
1985-86シーズンには開幕から先発を務め、平均15.5得点、8.8アシストを記録するなど、全盛期を思わせる活躍を見せた。
しかしリーグが薬物対策を強化する中、依然として問題を克服できず、シーズン終了を待たずにチームから追放処分を受けた。
NBA復帰を目指して本格的なリハビリに取り組んだルーカスは、1987年1月にミルウォーキー・バックスで復帰を果たす。
シーズン後半は強豪バックスの司令塔として活躍し、33歳にしてキャリアハイとなる平均17.5得点を記録するなど、チームの好成績に大きく貢献した。
その後も1990年までプレーを続け、キャリアをスタートさせたロケッツで14シーズンの現役生活を終えた。
引退後は自身が薬物依存を克服した経験を生かし、プロアスリートを対象とした薬物・アルコール依存治療施設を設立。
多くの選手の更生を支援している。
息子のジョン・ルーカス3世も2005年にNBAデビューを果たした。
6.エイドリアン・ダントリー

Adrian Dantley
出身校:ノートルダム大学
ポジション:SF
所属チーム:BUF(1976~1977)→IND(1977)→LAL(1977~1979)→UTA(1979~1986)→DET(1986~1989)→DAL(1989~1990)→MIL(1991)
キャリア平均:24.3PPG、5.7RPG、3.0APG、1.0SPG、.540FG%
個人賞:Rookie of the Year
ALL TEAM:All-NBA 2nd 2回
オールスター出場:6回(1980~1982、1984~1986)
巧みなポストプレーと卓越した得点技術を武器に、圧倒的な得点効率を誇った80年代屈指のスコアラーとして活躍した。
バッファロー・ブレーブスに入団すると、1年目から平均20.3得点、7.3リバウンドを記録し、新人王を受賞した。
1979年にユタ・ジャズへ移籍すると、その得点力にさらに磨きがかかり、移籍1年目に平均28.0得点を記録して初めてオールスターに選出される。
翌シーズンには平均30.7得点で初の得点王に輝き、その後も毎シーズンのように平均30得点前後を記録するリーグ屈指のスコアラーとして活躍した。
一方で、ボールを保持する時間の長いプレースタイルは利己的だと批判されることも多く、ヘッドコーチのフランク・レイデンとの関係も次第に悪化していった。
1985年にカール・マローンが加入すると、チームは若きエースへの影響を懸念し、1986年にダントリーをデトロイト・ピストンズへトレードした。
ピストンズでも2シーズン連続で平均20得点以上を記録したが、優勝目前だった1989年、同じスコアラータイプのマーク・アグワイアとの交換でダラス・マーベリックスへ放出される。
その直後にピストンズはNBA制覇を果たしたため、ダントリーは惜しくも優勝を経験できないまま、1991年に現役を引退した。
ジャズでは7シーズンで平均29.6得点を記録し、この数字は現在もカール・マローンを上回る球団歴代1位の記録となっている。
背番号「4」はジャズで永久欠番となり、2008年にバスケットボール殿堂入りを果たしている。
8.ロバート・パリッシュ

Robert Parish
出身校:セントナリー・ルイジアナ大学
ポジション:C
所属チーム:GSW(1976~1980)→BOS(1980~1994)→CHH(1994~1996)→CHI(1996~1997)
キャリア平均:14.5PPG、9.1RPG、1.4APG、1.5BPG、.537FG%
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回、All-NBA 3rd 1回
オールスター出場:9回(1981~1987、1990~1991)
映画『カッコーの巣の上で』の登場人物に似ていたことから、「ザ・チーフ(酋長)」のニックネームで親しまれた。
215cmの長身を生かした堅実なプレーと抜群の耐久力を誇り、NBA史に残る名センターとしてボストン・セルティックスの黄金期を支えた。
ゴールデンステイト・ウォリアーズでは2シーズン連続で平均17得点、10リバウンド以上を記録し、将来を嘱望されるセンターとして頭角を現す。
1980年、ドラフト1位指名権との交換でボストン・セルティックスへトレードされると、ラリー・バード、ケビン・マクヘイルとともにセルティックスの黄金時代を築いた。
移籍2年目の1981-82シーズンには平均19.9得点、10.8リバウンド、2.4ブロックを記録し、初めてオールNBA 2ndチームに選出された。
パリッシュ、バード、マクヘイルの3人が形成するフロントコートはリーグ最強と称され、1980年代に3度の優勝を果たす原動力となった。
21シーズンに及ぶ長い現役生活を送り、現役最後となった1996-97シーズンにはシカゴ・ブルズで自身4個目のチャンピオンリングを獲得した。
故障による長期離脱がほとんどなく、通算1,611試合出場は現在もNBA歴代最多記録となっている。
2003年にバスケットボール殿堂入りし、背番号「00」はセルティックスの永久欠番となっている。
23.アレックス・イングリッシュ

Alex English
出身校:サウスカロライナ大学
ポジション:SF
所属チーム:MIL(1976~1978)→IND(1978~1980)→DEN(1980~1990)→DAL(1990~1991)
キャリア平均:21.5PPG、5.5RPG、3.6APG、.507FG%
ALL TEAM:All-NBA 2nd 3回
オールスター出場:8回(1982~1989)
80年代を代表するスコアラーとして活躍し、滑らかで無駄のないシュートモーションとエレガントなプレースタイルから「The Blade」の異名で親しまれた。
NBAデビュー当初は目立った成績を残せず、2年目のシーズン終了後にフリーエージェントとしてインディアナ・ペイサーズへ移籍する。
ペイサーズで平均16.0得点、8.1リバウンドと大きく成績を伸ばすと、翌シーズン途中にオールスター選手のジョージ・マクギニスとのトレードでデンバー・ナゲッツへ移籍した。
ナゲッツではすぐに平均20得点を超えるエースとして活躍し始め、移籍3年目の1981-82シーズンには平均25.4得点、6.8リバウンド、5.3アシスト、1.5ブロック、FG成功率55.1%を記録。
初めてオールスターに選出され、このシーズンから8年連続で出場を果たした。
さらに、このシーズンから8年連続で平均25得点以上、シーズン通算2,000得点以上を記録。
1982-83シーズンには平均28.4得点で初の得点王に輝き、1985-86シーズンにはキャリアハイとなる平均29.8得点を記録した。
得点力だけでなく、味方を生かすパスセンスにも優れたチームプレイヤーとしてナゲッツを支え、チームはイングリッシュが退団する1990年まで9年連続でプレーオフへ進出した。
ナゲッツでは通算試合出場数や通算得点など数々の球団記録を樹立し、背番号「2」はナゲッツの永久欠番となっている。
1997年にバスケットボール殿堂入りを果たしている。
29.デニス・ジョンソン

Dennis Johnson
出身校:ペパーダイン大学
ポジション:PG、SG
所属チーム:SEA(1976~1980)→PHO(1980~1983)→BOS(1983~1990)
キャリア平均:14.1PPG、3.9RPG、5.0APG、1.3SPG、BPG、FG%、3P%、FT%
個人賞:Finals MVP1回(1978-1979)
ALL TEAM:All-NBA 1st 1回、All-NBA 2nd 1回、All-Defensive 1st 6回、All-Defensive 2nd 3回
オールスター出場:5回(1979~1982、1985)
NBA屈指のディフェンダーとして知られ、勝負どころで得点を決める勝負強さも兼ね備えたガードとして、80年代のボストン・セルティックス黄金期を支えた。
ドラフトでは下位指名だったが、入団したシアトル・スーパーソニックスでは1年目から積極的に起用され、3年目の1978-79シーズンに平均15.9得点を記録して初めてオールスターに選出された。
このシーズン、ソニックスはプレーオフを勝ち進んでファイナルへ進出し、ジョンソンは平均22.6得点、6.0アシスト、1.8スティール、2.2ブロックと攻守に圧倒的な活躍を見せ、チームを初優勝へ導く。
自身もファイナルMVPを受賞し、翌シーズンは名実ともにチームの中心選手として活躍した。
しかし、自己中心的なプレーがチーム内で問題視され、ヘッドコーチのレニー・ウィルケンズから「チームの癌」と批判されるなど関係が悪化し、シーズン終了後にフェニックス・サンズへトレードされた。
サンズでは1981-82シーズンにキャリアハイとなる平均19.5得点を記録するなど活躍し、1983年には以前からディフェンス力を高く評価していたボストン・セルティックスへ移籍する。
セルティックスではゲームメイクとディフェンスでチームを支える一方、試合終盤には勝負強いシュートで何度もチームを救い、ラリー・バード、ケビン・マクヘイル、ロバート・パリッシュらとともに2度の優勝に貢献した。
チームメイトのラリー・バードは、「一緒にプレーした中で最高の選手」とジョンソンを称えている。
背番号「3」はセルティックスの永久欠番となっている。
2007年、心臓発作により52歳で死去した。
2010年にバスケットボール殿堂入りを果たしている。
99.マイク・ダンリービー

Mike Dunleavy
出身校:サウスカロライナ大学
ポジション:PG、SG
所属チーム:PHI(1976~1978)→HOU(1978~1982)→SAS(1982~1984)→MIL(1984~1985、1988~1990)
キャリア平均:8.0PPG、1.6RPG、3.9APG
キャリアを通して主にバックアップガードとしてプレーし、1982-83シーズンには平均7.8得点、5.5アシストを記録した。
また、このシーズンはスリーポイントシュートで試投数(194本)、成功数(67本)、成功率(34.5%)のすべてでリーグトップの数字を残している。
現役引退後はヘッドコーチへ転身し、ロサンゼルス・レイカーズ、ポートランド・トレイルブレイザーズ、ロサンゼルス・クリッパーズなどを率いた。
とくにブレイザーズでは2度のファイナル進出、クリッパーズでは長年低迷していたチームをプレーオフ常連へと押し上げるなど、NBAを代表する名将の一人として高く評価されている。
息子のマイク・ダンリービーJr.も2002年からNBAでプレーしている。
ドラフト外.モーゼス・マローン

Moses Malone
出身校:ピーターズバーグ高校
ポジション:C、PF
所属チーム:ABA(1974~1976)→BUF(1976)→HOU(1976~1982)→PHI(1982~1986)→WSB(1986~1988)→ATL(1988~1991)→MIL(1991~1993)→PHI(1993~1994)→SAS(1994~1995)
キャリア平均:20.3PPG、12.3RPG、1.3APG、1.3BPG
個人賞:MVP 3回(1978-1979、1981-1982、1982-1983)、Finals MVP1回(1982-1983)
ALL TEAM:All-NBA 1st 4回、All-NBA 2nd 4回、All-Defensive 1st 1回、All-Defensive 2nd 1回
オールスター出場:13回(1975、1978~1989)
※赤字はABA時代のもの、キャリア平均はNBA・ABAの通算平均
高校卒業後に大学へ進学せずプロ入りした先駆者の一人で、圧倒的なリバウンド力と泥臭いプレーを武器に3度のシーズンMVPを受賞した名センター。
オフェンスリバウンドの名手として知られ、努力と執念でゴール下を支配するプレースタイルは、多くの選手から史上最高のリバウンダーの一人と評価されている。
1974年、高校卒業と同時にABAのユタ・スターズへ入団。
オールスター選手として活躍した後、1976年のABA消滅に伴ってNBAへ移り、バッファロー・ブレーブス入団直後にヒューストン・ロケッツへ移籍した。
ロケッツでは当初、リバウンドを中心にチームへ貢献していたが、1977-78シーズンにエースのルディ・トムジャノビッチが負傷離脱すると攻守の柱へ成長。
翌1978-79シーズンには平均24.8得点、17.6リバウンドを記録し、初のシーズンMVPに輝いた。
1981年にはロケッツを球団史上初のファイナル進出へ導き、翌1981-82シーズンには平均31.1得点、14.7リバウンドを記録して2度目のシーズンMVPを受賞した。
シーズン終了後、優勝まであと一歩届かない状況が続いていた東の強豪フィラデルフィア・76ersへ移籍。
ジュリアス・アービング、モーリス・チークス、アンドリュー・トニーらを擁するチームの最後のピースとして、大きな期待を背負った。
1982-83シーズン、76ersは65勝17敗の好成績でリーグを制し、マローンは2年連続3度目のシーズンMVPを受賞。
プレーオフ開幕前には「フォー、フォー、フォー」とだけ答え、全ラウンド4戦全勝で優勝すると宣言した。
実際には1敗を喫したため宣言通りとはならなかったものの、12勝1敗という圧倒的な成績で優勝を果たし、シリーズ平均25.8得点、18.0リバウンドを記録したマローンはファイナルMVPにも選ばれた。
その後もワシントン・ブレッツなどで活躍を続けたが、1990年代に入ると年齢とともに成績は下降。
1995年に現役引退を表明し、NBA19シーズン、ABAを含めると21シーズンに及ぶ長い選手生活を終えた。
2001年にバスケットボール殿堂入り。
背番号「2」がロケッツで、背番号「24」が76ersで永久欠番となっている。
2015年に60歳で死去した。



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