
※ Larry Bird(1978 Draft)
主なドラフト選手
1.マジック・ジョンソン

Magic Johnson
出身校:ミシガン州立大学
ポジション:PG、SG、PF
所属チーム:LAL(1979~1991、1996)
キャリア平均:19.5PPG、7.2RPG、11.2APG、1.9SPG、.520FG%
個人賞:MVP3回(1986-1987、1988-1989、1989-1990)、Finals MVP3回(1979-1980、1981-1982、1986-1987)、All-Star Game MVP2回(1990、1992)
ALL TEAM:All-NBA 1st 9回、All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:12回(1980、1982~1992)
本名はアーヴィン・ジョンソン。
206cmの長身でポイントガードを務め、常識外れの視野と創造性あふれるパスでNBAのスタイルを大きく変えた史上最高の司令塔の一人。
「ショータイム・レイカーズ」の象徴として5度の優勝を果たし、ラリー・バードとのライバル関係とともに1980年代のNBA人気を飛躍的に高めた。
「マジック」のニックネームは、高校時代の華麗なプレーを見た新聞記者によって名付けられた。
大学時代にはミシガン州立大学をNCAAトーナメント優勝へ導き、決勝ではラリー・バード率いるインディアナ州立大学を破って全米の注目を集める。
その活躍により1979年のNBAドラフト全体1位で名門ロサンゼルス・レイカーズへ入団した。
1年目から平均18.0得点、7.7リバウンド、7.3アシスト、2.4スティールを記録し、チームも前年から13勝を上積みする60勝22敗と大きく躍進した。
新人王はバードに譲ったものの、ジョンソンは先にファイナル進出を果たし、シリーズ平均21.5得点、11.2リバウンド、8.7アシスト、2.7スティールの活躍でチームを優勝へ導く。
さらに、第6戦では負傷欠場したセンターのカリーム・アブドゥル=ジャバーに代わってセンターとして先発出場し、42得点、15リバウンド、7アシストを記録する伝説的な活躍を見せ、新人として史上初のファイナルMVPを受賞した。
1981-82シーズンには、ハーフコートオフェンスを重視する戦術への不満を口にした直後にヘッドコーチが解任されたことで「コーチ・キラー」と批判を浴びる。
しかし、昇格したパット・ライリーがアップテンポなスタイルを復活させると、ジョンソンを中心とした華麗な速攻は「ショータイム」と呼ばれ、NBAを代表するエンターテインメントへと発展した。
一方、東ではラリー・バード率いるボストン・セルティックスが黄金期を築き、両者のライバル関係は1980年代のNBA人気を支える最大の原動力となった。
ジョンソンはレイカーズを5度の優勝へ導き、シーズンMVPを3度受賞。
1982-83シーズンから9年連続でオールNBA1stチームに選出されるなど、長年にわたりリーグ最高峰の選手として君臨した。
206cmというサイズを生かしたミスマッチと卓越したゲームメイクを武器に4度のアシスト王を獲得し、通算10,000アシストを達成した史上初の選手となっている。
1991年、レイカーズはファイナルでシカゴ・ブルズに敗れ、新時代の到来を予感させたものの、ジョンソン自身は依然としてリーグを代表するスター選手だった。
しかし、その数か月後の1991年11月、自身のHIV感染と現役引退を発表。
世界中に大きな衝撃を与え、HIV/AIDSに対する社会の認識を変えるきっかけにもなった。
1991-92シーズンはプレーしなかったものの、ファン投票でオールスターに選出され、万全の準備でゲームに臨んだジョンソンは見事MVPを受賞。
さらに、ドリームチームの一員としてバルセロナ五輪で金メダルを獲得した。
この成功により、プレーに支障がないと判断したジョンソンはNBA復帰を目指したが、一部の選手の反対もあって断念した。
その後は「マジック・ジョンソン・オールスターズ」を結成して世界各地でエキシビションゲームを開催し、HIVへの理解を広める活動にも尽力した。
世の中のHIVに対する見方が変わってくると、引退から約5年後の1996年、ついにNBA復帰を果たす。
ジョンソンはパワーフォワードとして32試合に出場し、平均14.6得点、5.7リバウンド、6.9アシストを記録したが、チーム内の方向性の違いなどからシーズン終了後に再び現役引退を表明した。
2002年にバスケットボール殿堂入りを果たし、背番号「32」はレイカーズの永久欠番となっている。
3.ビル・カートライト

Bill Cartwright
出身校:サンフランシスコ大学
ポジション:C
所属チーム:NYK(1979~1988)→CHI(1988~1994)→SEA(1994~1995)
キャリア平均:13.2PPG、6.3RPG、1.4APG、.525FG%
オールスター出場:1回(1980)
本名はジェームス・ウィリアム・カートライト。
ニューヨーク・ニックスでは216cmの本格派センターとして1年目から活躍し、平均21.7得点、8.9リバウンドを記録。
マジック・ジョンソンやラリー・バードとともに新人ながらオールスターに選出されるなど、将来を期待される存在となった。
以降もニックスのインサイドの中心選手として活躍を続けたが、1984-85シーズンを左脚骨折によって全休すると、翌シーズンもわずか2試合の出場に終わり、長期離脱を余儀なくされた。
1986-87シーズンには58試合に出場して平均17.5得点を記録するまで復活し、前年に新人王を獲得したパトリック・ユーイングとともにツインタワーを形成した。
しかし、二人の共存は期待されたほどチーム成績に結びつかず、翌シーズンにはユーイングを正センターに固定。カートライトは控えとしての役割を担うことになった。
出場時間が減少する中、サイズのあるセンターを求めていたシカゴ・ブルズと、ユーイングを支えるインサイドプレイヤーを求めていたニックスの思惑が一致し、1988年にチャールズ・オークリーとのトレードでブルズへ移籍する。
オークリーの親友だったマイケル・ジョーダンとは当初関係が良くなかったという噂もあったが、カートライトはブルズに欠けていたサイズとインサイドの安定感をもたらし、優勝に必要な最後のピースとなった。
スターティングファイブが固まったブルズは、1991年から3年連続でNBA制覇を達成している。
故障が多かったことから「メディカル・ビル(医療費)」という皮肉な愛称で呼ばれる一方、プレーでは強烈なフィジカルを武器にし、肘を大きく振るうスタイルで相手選手を苦しめた。
1995年に現役を引退。
その後は指導者の道へ進み、シカゴ・ブルズでヘッドコーチを務めたほか、日本のbjリーグでもコーチとして活動した。
5.シドニー・モンクリーフ

Sidney Moncrief
出身校:アーカンソー大学
ポジション:SG、PG
所属チーム:MIL(1979~1989)、ATL(1990~1991)
キャリア平均:15.6PPG、4.7RPG、3.6APG、1.2SPG、.502FG%
個人賞:Defensive Player of the Year2回(1982-1983、1983-1984)
ALL TEAM:All-NBA 1st 1回、All-NBA 2nd 4回、All-Defensive 1st 4回、All-Defensive 2nd 1回
オールスター出場:5回(1982~1986)
ニックネームは「サー・シド」。
東の強豪ミルウォーキー・バックスの主力として活躍し、激しいマンツーマンディフェンスと豊富な運動量で相手エースを封じ込めるNBA屈指のディフェンダーとして知られた。
バックスに入団して3年目の1981-82シーズンに平均19.8得点、6.7リバウンド、4.8アシストを記録。
初めてオールスターに選出されたほか、このシーズンから新設された最優秀守備選手賞の初代受賞者となり、翌シーズンも同賞を受賞した。
4年目から4シーズン連続で平均20得点以上を記録するなど、攻守にわたりリーグを代表するガードとして活躍したが、1986-87シーズンに故障で39試合の出場にとどまると、以降は全盛期のような成績を残すことができなかった。
バックス一筋で10シーズンを過ごし、1989年に現役を引退したが、翌1990年にアトランタ・ホークスで復帰し、控えとして1シーズンをプレーした。
背番号「4」はバックスの永久欠番となり、2019年にバスケットボール殿堂入りを果たしている。
7.ビニー・ジョンソン

Vinnie Johnson
出身校:ベイラー大学
ポジション:SG、PG
所属チーム:SEA(1979~1981)→DET(1981~1991)→SAS(1991~1992)
キャリア平均:12.0PPG、3.2RPG、3.3APG
ベンチから流れを一変させる爆発的な得点力を武器に、NBA屈指のシックスマンとしてデトロイト・ピストンズの黄金期を支えた。
短時間で試合を温める活躍ぶりから、電子レンジになぞらえて「マイクロ・ウェーブ」の愛称で親しまれた。
シアトル・スーパーソニックスに入団し、2年目のシーズンに平均13.0得点、4.5リバウンド、4.2アシストを記録した。
しかし翌シーズンに契約問題でチームを離れていたガス・ウィリアムスが復帰すると、出場時間を失ったジョンソンはシーズン序盤にデトロイト・ピストンズへトレードされた。
移籍後は先発としてプレーしていたが、得点力の高い選手が揃っていたチーム事情から控えへ回り、ベンチの層を厚くするシックスマンとして存在感を発揮する。
1986-87シーズンには控えながら平均15.7得点を記録。
1990年のNBAファイナル第5戦では優勝を決める決勝シュートを沈めるなど、ピストンズの2連覇に大きく貢献した。
ピストンズで10シーズンを過ごし、背番号「15」は永久欠番となっている。
弟のエリック・ジョンソンもNBAで1シーズンプレーした。
8.カルビン・ナット

Calvin Natt
出身校:ルイジアナ大学
ポジション:SF、PF
所属チーム:NJN(1979~1980)→POR(1980~1984)→DEN(1984~1989)→SAS(1989)→IND(1989~1990)
キャリア平均:17.2PPG、6.8RPG、2.2APG、.528FG%
オールスター出場:1回(1985)
鍛え上げられた肉体を武器に激しいコンタクトをものともせず得点を重ねた、フィジカルの強さが持ち味のフォワードとして活躍した。
1年目のシーズン途中にニュージャージ・ネッツからポートランド・トレイルブレイザーズへトレードされると、平均19.9得点、8.9リバウンドを記録し、オールルーキー1stチームに選出された。
その後も平均20得点前後を記録するリーグ屈指のスコアラーへと成長し、1984年にキキ・ヴァンダウェイとのトレードで、ファット・リーバーらとともにデンバー・ナゲッツへ移籍する。
ナゲッツではアレックス・イングリッシュと強力な得点コンビを形成し、移籍1年目に平均23.2得点を記録して初めてオールスターに選出された。
チームは52勝30敗の好成績を収め、プレーオフではカンファレンス決勝まで進出したが、1986-87シーズン以降は故障に苦しみ、満足に出場できないシーズンが続いた。
最後まで健康を取り戻すことはできず、1990年に現役を引退した。
弟のケニー・ナットもNBAで3シーズンプレーしている。
12.ジム・パクソン

Jim Paxson
出身校:デイトン大学
ポジション:SG、PG
所属チーム:POR(1979~1988)→BOS(1988~1990)
キャリア平均:14.3PPG、2.0RPG、2.9APG、1.2SPG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:2回(1983~1984)
ポートランド・トレイルブレイザーズに入団し、1年目は目立った成績を残せなかったが、先発に抜擢された2年目のシーズンに平均17.1得点を記録し、才能を開花させる。
以降、チームの中心選手として活躍を続け、1982-83シーズンには平均21.7得点を記録して初のオールスター選出を果たす。
翌シーズンにはオールNBA 2ndチームにも選出されたが、1983年に入団したクライド・ドレクスラーの成長に伴ってチーム内での役割が徐々に変化し、出場時間も次第に減少していった。
1988年にはボストン・セルティックスへトレードされ、ブレイザーズでの長いキャリアに終止符を打つことになる。
ブレイザーズではデビューから9シーズンを過ごし、チームを去った時点で通算得点は球団歴代トップの記録となっていた。
ドレクスラー登場以前のブレイザーズを支えたエースとして、球団史に名を残す存在となっている。
父親のジム・パクソン・シニアもNBAで2シーズンプレーした元選手で、弟のジョン・パクソンはシカゴ・ブルズなどで活躍した。
43.ジョニー・ムーア

Johnny Moore
出身校:テキサス大学オースティン校
ポジション:PG
所属チーム:SAS(1980~1987)→NJN(1987)、SAS(1989~1990)
キャリア平均:9.4PPG、3.0RPG、7.4APG、2.0SPG
ドラフトではシアトル・スーパーソニックスから指名を受けたものの、直後にサンアントニオ・スパーズへ権利を譲渡され、開幕前に解雇されるという厳しいスタートを切った。
しかし1980年にフリーエージェントとしてスパーズと契約を結ぶと、先発に定着した2年目のシーズンに平均9.4得点、9.6アシストを記録し、予想を大きく上回る活躍でアシスト王に輝いた。
以降、スパーズの司令塔として長くチームを支え、5シーズン連続で平均9アシスト以上を記録するなど、リーグ屈指のパス能力を持つポイントガードへと成長した。
得点面でも着実に成長を続け、1984-85シーズンには平均12.8得点、10.0アシストを記録してシーズン・ダブルダブルを達成。
ジョージ・ガーヴィンらとともに、80年代前半のスパーズを支える重要な存在となった。
しかし、翌シーズン以降は故障の影響で成績を落とし、1987年にトレードでスパーズを離れることになる。
その後はCBAなどでもプレーを続け、1989年に古巣へ復帰して1シーズンを過ごした後、スペインへ渡った。
卓越したパスセンスでスパーズの攻撃を支えたムーアは、チーム史に残るポイントガードのひとりとして評価され、背番号「00」はスパーズの永久欠番となっている。
65.ビル・レインビア

Bill Laimbeer
出身校:ノートルダム大学
ポジション:C
所属チーム:CLE(1980~1982)→DET(1982~1993)
キャリア平均:12.9PPG、9.7RPG、2.0APG
オールスター出場:4回(1983~1985、1987)
ドラフトではクリーブランド・キャバリアーズから指名を受けたが、1年目はイタリアのプロリーグでプレーし、1980年にNBAデビューを果たした。
ルーキーイヤーから平均9.8得点、8.6リバウンドを記録し、インサイドで存在感を発揮したが、2年目のシーズン途中にデトロイト・ピストンズへトレードされる。
ピストンズ移籍後、レインビアは大きく成長を遂げ、1982-83シーズンには平均13.6得点、12.1リバウンド、3.2アシスト、1.4ブロックを記録して初のオールスターに選出された。
翌シーズンには平均17.3得点を記録するなど、攻守両面でチームの中心選手へと成長していった。
1983年にチャック・デイリーがヘッドコーチに就任すると、ピストンズは徐々に強豪へと変貌を遂げ、レインビアは1985-86シーズンに平均13.1リバウンドを記録してリバウンド王に輝くなど、リーグを代表するセンターとして活躍した。
身体能力に恵まれた選手ではなかったものの、優れた状況判断とポジショニングでリバウンドを量産し、さらに当時のセンターとしては珍しく広いシュートレンジを持ち、スリーポイントシュートも積極的に狙う異色のビッグマンだった。
一方で、激しいプレースタイルで知られる「バッドボーイズ」の中でも特に相手から嫌われる存在であり、度を超えたラフプレーは多くの選手から批判を受けた。
しかし、その強烈な個性と勝利への執念は、ピストンズの強さを象徴するものでもあった。
アイザイア・トーマスらとともにピストンズを東地区屈指の強豪へと押し上げ、1989年からの2連覇では中心選手のひとりとして大きく貢献した。
14年目を迎えた1993-94シーズン、開幕から約1か月が経過した時点で突然の引退を表明。
ピストンズで記録した通算9,430リバウンドは現在もチーム記録として残っており、背番号「40」は同チームの永久欠番となっている。
また、レインビアは非常に耐久性の高い選手としても知られ、現役最後のシーズンを除けば、13年間のキャリアで欠場した試合はわずか8試合。
そのうち6シーズン連続で全試合出場を達成するなど、長期間にわたって安定した活躍を続けた。
73.ジェームズ・ドナルドソン

James Donaldson
出身校:ワシントン州立大学
ポジション:C
所属チーム:SEA(1980~1983)→SDC-LAC(1983~1985)→DAL(1985~1992)→NYK(1992)→UTA(1993~1995)
キャリア平均:8.6PPG、7.8RPG、0.8APG、1.3BPG、.571FG%
オールスター出場:1回(1988)
イギリス出身、身長218cmのビッグマン。
ドラフトで指名を受けた後、イタリアのプロリーグで1シーズンを過ごし、1980年にシアトル・スーパーソニックスへ加入してNBAデビューを果たした。
入団当初は控えセンターとして起用されていたが、着実に成長を続け、徐々に出場時間を増やしていく。
1985年にダラス・マーベリックスへ移籍すると、1986-87シーズンには平均10.8得点、11.9リバウンドを記録し、初のシーズン・ダブルダブルを達成した。
翌シーズンは個人成績こそやや低下したものの、マーベリックスは好調なシーズンを送り、ドナルドソンはマーク・アグワイアとともにオールスターに選出されるという評価を受けた。
派手な得点力を持つ選手ではなかったが、218cmの長身を生かしたインサイドプレーと高いシュート精度を武器に安定した活躍を見せ、1984-85シーズンにはFG成功率63.7%を記録してリーグトップに輝いている。
また、ドナルドソンはアウトサイドシュートをほとんど試みなかった伝統的なセンターであり、14シーズンのNBAキャリアで957試合に出場したものの、スリーポイントシュートを1本も放たなかった選手としても知られている。



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