
主なドラフト選手
1.マーク・アグワイア

Mark Aguirre
出身校:デポール大学
ポジション:SF
所属チーム:DAL(1981~1989)→DET(1989~1993)→LAC(1993~1994)
キャリア平均:20.0PPG、5.0RPG、3.1APG
オールスター出場:3回(1984、1987~1988)
卓越した1対1の得点能力を武器に80年代を代表するスコアラーとして活躍。
恵まれた体格を生かしたポストプレーと、フォワードながらガードのようなボールハンドリングを兼ね備え、高い得点力を誇った。
一方で、優勝を目指すために自ら役割を変えたことでも知られる。
1981年のドラフト全体1位でダラス・マーベリックスに入団すると、2年目に平均24.4得点、3年目にはリーグ2位となる平均29.5得点を記録し、一躍リーグ屈指のスコアラーへと成長した。
エースとして創設間もないマーベリックスを強豪へと押し上げ、1987-88シーズンにはチーム史上初のカンファレンス決勝進出に大きく貢献している。
しかし、チームメイトとの関係やプレースタイルを巡る問題もあり、1989年にデトロイト・ピストンズへトレードされる。
ピストンズでは親友のアイザイア・トーマスらが率いる”バッドボーイズ”の一員となり、それまでのエースから献身的な脇役へと役割を変更。
得点は減少したもののチームに順応し、1989年と1990年のNBA連覇に大きく貢献した。
その後はロサンゼルス・クリッパーズでもプレーし、1994年に現役を引退。
2002年にはマーベリックスで背番号「24」が永久欠番となり、チーム史を築いた功績が称えられている。
2.アイザイア・トーマス

Isiah Thomas
出身校:インディアナ大学
ポジション:PG
所属チーム:DET(1981~1994)
キャリア平均:19.2PPG、3.6RPG、9.3APG、1.9SPG
個人賞:All-Star Game MVP2回(1984、1986)、Finals MVP(1989-1990)
ALL TEAM:All-NBA 1st 3回、All-NBA 2nd 2回
オールスター出場:12回(1982~1993)
「ジーク」の愛称で親しまれた、NBA史上屈指のポイントガード。
卓越したボールハンドリングと勝負強さ、そして誰よりも強い闘争心を武器に、デトロイト・ピストンズを球団史上初の黄金時代へ導いた。
コートでは笑顔を絶やさない一方で、勝利のためには一切の妥協を許さない姿勢から、味方には絶大な信頼を、ライバルには恐れと反感を抱かせた。
80年代後半、「バッドボーイズ」と呼ばれたピストンズの象徴であり、マジック・ジョンソンやラリー・バード、そしてマイケル・ジョーダンら歴史的スターたちと渡り合った名司令塔である。
2年生でインディアナ大をNCAAトーナメント優勝に導くと、大学生活を2年残してドラフトにエントリーし、低迷を続けるデトロイト・ピストンズに全体2位で指名された。
弱小球団への入団には消極的だったものの、ルーキーイヤーからオールスターに選出される活躍を見せ、チームも前年より18勝も勝ち星を増やした。
しかしプレーオフ進出は果たせず、シーズン終了後には自らNBAファイナルを観戦し、「勝つために何が必要か」を学ぼうとするなど、勝利への執念を強めていく。
その姿勢はチームを成長させる原動力となる一方で、ライバルからは「笑顔で人を殺せる男」と評されるほど、勝利への執着心としたたかさでも知られるようになった。
1983-84シーズン、チャック・デイリーのヘッドコーチ就任を機にピストンズは飛躍を遂げ、7シーズンぶりのプレーオフ進出を果たす。
トーマスも3年目に平均21.3得点、11.1アシスト、2.5スティールを記録し、その後4年連続で平均20得点・10アシスト以上をマークするなど、リーグ最高峰のポイントガードへと成長した。
徹底したフィジカルディフェンスで相手を圧倒するピストンズは「バッドボーイズ」と呼ばれ、リーグ中から嫌われる存在となったが、トーマスを中心に着実に優勝へ近づいていく。
1988年には長年行く手を阻んできたボストン・セルティックスを破り、球団史上初のファイナル進出を果たす。
しかし、2連覇を狙うロサンゼルス・レイカーズとの第6戦でトーマスは足首を骨折。
それでもプレーを続け、第4クォーターだけで25得点を叩き出す伝説的な活躍を見せたが、あと一歩及ばず1点差で敗戦。
第7戦にも強行出場したものの、3点差で優勝を逃した。
それでも、このシリーズはセルティックスとレイカーズによる2強時代の終焉を印象づけるものとなった。
翌1989年、再びファイナルへ進出したピストンズはレイカーズを4戦全勝で破り、球団初優勝を達成。
さらに1990年にはポートランド・トレイルブレイザーズを下して2連覇を成し遂げ、シリーズ平均27.6得点、7.0アシストを記録したトーマスがファイナルMVPに輝いた。
しかし、セルティックスを乗り越えたピストンズの前に、今度はマイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズが立ちはだかる。
1991年のカンファレンス決勝ではブルズに4連敗を喫し、敗戦が決まった第4戦では、試合終了前にトーマスら主力選手が握手を交わさずコートを去るという行動が大きな批判を呼んだ。
この出来事は、翌1992年のドリームチームにトーマスが選出されなかった大きな理由の一つと考えられている。
その後はチームも下降線をたどり、故障の影響もあって1993-94シーズン限りで現役を引退。
ピストンズ一筋で13シーズンを戦い抜き、球団の主要記録を数多く更新した。
背番号「11」はピストンズの永久欠番となり、2000年にバスケットボール殿堂入りを果たしている。
3.バック・ウィリアムズ

Buck Williams
出身校:メリーランド大学
ポジション:PF
所属チーム:NJN(1981~1989)→POR(1989~1996)→NYK(1996~1998)
キャリア平均:12.8PPG、10.0RPG、1.3APG、.549FG%
個人賞:Rookie of the Year
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回、All-Defensive 1st 2回、All-Defensive 2nd 2回
オールスター出場:3回(1982~1983、1986)
堅実なリバウンド、献身的なディフェンス、高いシュート成功率を武器に、長年にわたりチームを支えた実力派パワーフォワード。
攻守両面で安定した働きを見せる勝利請負人として高く評価され、移籍先のチームを次々と上位へ押し上げた。
ニュージャージー・ネッツに入団すると、ルーキーイヤーから平均15.5得点、12.3リバウンドを記録。
チームを前年から20勝も上積みする躍進へ導き、新人王を受賞した。
その後もデビューから6シーズン連続で平均15得点、12リバウンド以上という安定した成績を残し、この間に3度のオールスター選出を果たすなど、リーグを代表するパワーフォワードへと成長した。
1989年、8シーズンを過ごしたネッツを離れ、才能ある選手を揃えながら結果を残せずにいたポートランド・トレイルブレイザーズへ移籍する。
個人成績こそやや落としたものの、持ち前の守備力とリーダーシップでチームを大きく変貌させる。
移籍1年目にはオールディフェンシブ1stチームに選出される活躍を見せ、ブレイザーズは前年を20勝も上回る59勝23敗を記録。
以降は3年連続でカンファレンス決勝へ進出し、そのうち2度はNBAファイナルまで勝ち進むなど、チーム黄金期の礎を築いた。
惜しくも優勝には届かなかったものの、その後もベテランとして息の長い活躍を続け、現役最後の2シーズンはニューヨーク・ニックスでプレー。
1998年に17シーズンに及ぶ現役生活に幕を下ろした。
背番号「52」はネッツの永久欠番となっている。
また、通算16,000得点、13,000リバウンドを超える成績を残し、NBA史に残る名パワーフォワードの一人として評価されている。
6.オーランド・ウーリッジ

Orlando Woolridge
出身校:ノートルダム大学
ポジション:SF
所属チーム:CHI(1981~1986)→NJN(1986~1988)→LAL(1988~1990)→DEN(1990~1991)→DET(1991~1993)→MIL(1993)→PHI(1993~1994)
キャリア平均:16.0PPG、4.3RPG、1.9APG、.513FG%
リーグ屈指の身体能力を誇るスラムダンカーとして人気を集め、豪快なダンクと高い得点力で活躍したフォワード。
爆発力のあるオフェンスを武器に、シカゴ・ブルズではエースとしてチームを牽引し、マイケル・ジョーダンが入団する前後のブルズを支えた。
その一方で薬物問題などによりキャリアは順風満帆とはいかず、才能を十分に発揮し切れなかった選手としても知られている。
シカゴ・ブルズに入団すると、年々得点力を伸ばし、4年目の1984-85シーズンには新人マイケル・ジョーダンとともにチームの中心選手として活躍。
自身もキャリアハイとなる平均22.9得点を記録し、FG成功率50%以上を維持するなど、リーグ屈指のスコアラーへと成長した。
しかし、その後ブルズはジョーダンを中心としたチーム作りへと舵を切り、1986年にニュージャージー・ネッツへ移籍。
移籍後は薬物問題などの影響もあり、本来の実力を発揮できないシーズンが続いた。
その後ロサンゼルス・レイカーズへ移籍すると、シックスマンとしてショータイム・バスケットを支え、速攻のフィニッシャーとして豪快なダンクを連発。
ベンチスタートながら観客を沸かせる存在となった。
さらにデンバー・ナゲッツへ移籍した1990-91シーズンには、平均25.1得点、6.8リバウンドを記録し、一時は失われたかに見えた得点能力を見事によみがえらせた。
現役最後となった1993-94シーズンはフィラデルフィア・76ersで控えとしてプレーしながらも平均12.7得点を記録。
シーズン終了後に現役を引退した。
従兄にはNBA殿堂入り選手のウィリス・リードがおり、2005年にはバスケットボール殿堂入りを果たしたウィリス・リードのプレゼンターを務めている。
2012年、52歳の若さで心臓疾患のため死去した。
8.トム・チェンバース

Tom Chambers
出身校:ユタ大学
ポジション:PF
所属チーム:SDC(1981~1983)→SEA(1983~1988)→PHO(1988~1993)→UTA(1993~1995)、CHH(1997)→PHI(1997)
キャリア平均:18.1PPG、6.1RPG、2.1APG
個人賞:All-Star Game MVP(1987)
ALL TEAM:All-NBA 2nd 2回
オールスター出場:4回(1987、1989~1991)
身長208cm、優れた走力と跳躍力を持つフォワード。
白人選手としては珍しい高い身体能力と得点力を武器に、長年にわたりリーグ屈指のスコアラーとして活躍した。
サンディエゴ・クリッパーズに入団すると、1年目からチームトップとなる平均17.2得点を記録し、若くしてチームのリーディングスコアラーとなる活躍を見せる。
1983年にシアトル・スーパーソニックスへ移籍すると、安定して平均20得点以上を記録する主力選手へと成長。
1987年には初のオールスター選出を果たし、先発出場したオールスターゲームでは両チーム最多となる34得点を記録してMVPに輝いた。
1988年にフェニックス・サンズへ移籍すると、チェンバースはキャリアの最盛期を迎える。
前年途中に加入したケビン・ジョンソンとともにチームを牽引し、前年28勝54敗に終わったサンズを一気に強豪へと押し上げ、プレイオフ・カンファレンス決勝進出へ導いた。
翌1988-89シーズンにはキャリアハイとなる平均27.2得点を記録し、2年連続でプレイオフ・カンファレンス決勝進出に貢献。リーグを代表するフォワードとして評価を確立した。
1992年にチャールズ・バークリーが加入すると、チーム事情から控え役へと回ったが、シックスマンとして新たな役割を受け入れ、サンズのファイナル進出を支える重要な存在となった。
その後はユタ・ジャズやイスラエルのプロリーグでもプレーを続け、1997年にフィラデルフィア・76ersで1試合に出場した後、長い選手生活に幕を下ろした。
背番号「24」はフェニックス・サンズの永久欠番となっている。
9.ローランド・ブラックマン

Rolando Blackman
出身校:カンザス州立大学
ポジション:SG
所属チーム:DAL(1981~1992)→NYK(1992~1994)
キャリア平均:18.0PPG、3.3RPG、3.0APG
オールスター出場:4回(1985~1987、1990)
パナマ生まれ、ニューヨーク育ち。
高い得点力と安定したシュート力を武器に、1980年代のダラス・マーベリックスを支えたスコアリングガード。
ドラフトでマーベリックスに指名されると、1年目から控えながら平均13.3得点を記録し、即戦力として活躍する。
その後、マーク・アグワイアら若手選手とともにチームの中心となり、マーベリックスは西地区屈指の強豪へと成長していった。
3年目の1983-84シーズンにはキャリアハイとなる平均22.4得点、FG成功率54.6%を記録し、翌1984-85シーズンには初のオールスター選出を果たす。
以降も安定して20得点前後を記録し続け、長期間にわたってチームを支える頼れるエースとして活躍した。
マーベリックスでは11シーズンを過ごし、1980年代後半にはプレーオフ常連となったチームの中心選手として数多くの勝利に貢献している。
キャリア最後の2シーズンは地元ニューヨークのニックスでプレーし、1994年に現役を引退した。
マーベリックスでの通算得点はダーク・ノビツキーに次ぐ歴代2位の記録となっており、背番号「22」は同チームの永久欠番となっている。
12.ケリー・トリピューカ

Kelly Tripucka
出身校:ノートルダム大学
ポジション:SF
所属チーム:DET(1981~1986)→UTA(1986~1988)→CHH(1988~1991)
キャリア平均:17.2PPG、3.8RPG、3.0APG、.361 3P%
オールスター出場:2回(1982、1984)
デトロイト・ピストンズに入団すると、1年目から82試合すべてに先発出場し、平均21.6得点を記録。
同期入団のアイザイア・トーマスとともに、新人ながらオールスターに選出される活躍を見せた。
2年目の1982-83シーズンにはリーグ3位となる平均26.5得点を記録し、さらにリーグトップの平均38.8分出場と、リーグを代表するスコアラーへと成長する。
その後もピストンズのエースとして得点を重ね、チームの中心選手として活躍を続けた。
1986年にユタ・ジャズへ移籍すると、それまでのような得点力を発揮できず数字を落としたが、1988年、創設されたばかりのシャーロット・ホーネッツへ加入すると見事に復活。
球団創設初年度のエースとして平均22.6得点を記録し、チーム初代得点王となった。
しかし、チームがラリー・ジョンソンら若手中心へと世代交代を進める中で先発の座を譲ることになり、ホーネッツ3年目のシーズンはキャリア最低となる平均7.0得点に終わる。
シーズン終了後、そのままNBAでの現役生活に幕を下ろした。
4度のオールスター出場を果たし、1980年代を代表する白人スコアラーの一人として活躍した。
13.ダニー・シェイズ

Danny Schayes
出身校:シラキュース大学
ポジション:C、PF
所属チーム:UTA(1981~1983)→DEN(1983~1990)→MIL(1990~1994)→LAL(1994)→PHO(1994~1995)→MIA(1995~1996)→ORL(1996~1999)
キャリア平均:7.7PPG、5.0RPG、1.1APG、.806FT%
211cmのビッグマンで、NBA黎明期を代表する名センター、ドルフ・シェイズを父に持つ。
ユタ・ジャズに入団すると、1年目は控えとして82試合すべてに出場。
2年目には先発に抜擢され、シーズン途中まで平均12.4得点、9.0リバウンド、3.3アシスト、1.4ブロックを記録するなど着実な成長を見せた。
しかし、このシーズンに新人マーク・イートンが急速に頭角を現したことでチーム事情が変化し、シーズン途中にデンバー・ナゲッツへトレードされる。
移籍直後は出場時間が大きく減少し、それに伴って成績も落ち込んだが、徐々に信頼を勝ち取り、1987-88シーズンには先発へ返り咲いた。
このシーズンにはキャリアハイとなる平均13.9得点、8.2リバウンドを記録。
さらにプレーオフでは11試合で平均16.4得点、FG成功率62.5%と、レギュラーシーズンを上回る活躍を見せ、チームの快進撃を支えた。
その後は再び控えとしてプレーする機会が増えたものの、高いバスケットボールIQと安定したプレーで貴重なインサイドプレーヤーとして重宝され、18シーズンにわたる息の長い現役生活を送った。
20.ラリー・ナンス

Larry Nance
出身校:クレムゾン大学
ポジション:PF
所属チーム:PHO(1981~1988)→CLE(1988~1994)
キャリア平均:17.1PPG、8.0RPG、2.6APG、2.2BPG、.546FG%
ALL TEAM:All-Defensive 1st 1回、All-Defensive 2nd 2回
オールスター出場:3回(1985、1989、1993)
208cmの長身に1mを超える驚異的な跳躍力と長いリーチを兼ね備え、ダンク、リバウンド、ブロックで存在感を発揮した1980年代屈指のオールラウンドフォワード。
フェニックス・サンズでは1年目こそ出場機会に恵まれなかったが、2年目には82試合すべてに先発出場し、平均16.7得点、8.7リバウンド、2.6ブロックを記録。
豪快なダンクと優れた守備力を武器に、リーグを代表するフォワードへと成長した。
1984年に初めて開催されたオールスター・スラムダンクコンテストでは、ジュリアス・アービングを破って初代チャンピオンに輝く。
翌1985年にはオールスターゲームにも初出場を果たし、1986-87シーズンにはキャリアハイとなる平均22.5得点を記録した。
リーグ屈指のフォワードとして活躍していたが、1988年、サンズを揺るがせたドラッグ・スキャンダルの影響もあり、ケビン・ジョンソンらとの交換でクリーブランド・キャバリアーズへトレードされる。
キャバリアーズではブラッド・ドアティ、ホットロッド・ウィリアムズらと強力なフロントコートを形成し、攻守の要としてチーム躍進に大きく貢献。移籍後もオールスターに選出されるなど、リーグを代表するビッグマンとして第一線で活躍を続けた。
1993-94シーズンは平均14.7得点、9.0リバウンド、2.2ブロックを記録し、なお高い実力を示したが、故障による欠場が増えたことからシーズン終了後に現役を引退した。
背番号「22」はキャバリアーズの永久欠番となっている。
息子のラリー・ナンス・ジュニアもNBAでプレーし、キャバリアーズに在籍していたときは父の永久欠番「22」を着用した。
29.エディ・ジョンソン

Eddie Johnson
出身校:イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校
ポジション:SF、SG
所属チーム:KCK-SAC(1981~1987)→PHO(1987~1990)→SEA(1990~1993)→CHH(1993~1994)、IND(1995~1997)→HOU(1997~1999)
キャリア平均:16.0PPG、4.0RPG、2.1APG
個人賞:Sixth Man of the Year(1988-1989)
カンザスシティ・キングスに入団すると、下位指名ながら1年目から一定の出場時間を与えられ、その得点能力の高さを評価される。
2年目には82試合すべてに先発出場し、平均19.8得点を記録して若きエースとしてチームの得点源を担った。
1984-85シーズンにはキャリアハイとなる平均22.9得点を記録し、リーグ屈指のスコアラーへと成長する。
しかし、本拠地移転によってチームがサクラメント・キングスとなった翌1985-86シーズンからは控えへ回ることになった。
それでも高精度のミドルシュートと勝負強い得点力は衰えず、ベンチから試合の流れを変えるシックスマンとして高い評価を獲得。
1987年にフェニックス・サンズへ移籍すると、その才能はいよいよ開花し、1988-89シーズンには平均21.5得点を記録してNBAシックスマン賞を受賞した。
1994年にはNBAを離れてギリシャで1シーズンをプレーし、卓越したシュート力で高い人気を集める。
翌1995年にNBAへ復帰すると、ベテランとなってからも勝負どころで決勝シュートを沈めるなど勝負強さを発揮し、1999年まで18シーズンにわたる息の長い現役生活を送った。
通算19,202得点を記録しながら、一度もオールスターに選出されなかった名選手として知られ、この通算得点はオールスター未選出選手では歴代最多となっている。
キャリア晩年には、1970年代後半から1980年代にかけてアトランタ・ホークスで活躍した同姓同名のエディ・ジョンソンが強姦事件で逮捕され、一部メディアで別人であるジョンソンと混同される騒動に巻き込まれた。
31.ダニー・エインジ

Danny Ainge
出身校:ブリガムヤング大学
ポジション:SG、PG
所属チーム:BOS(1981~1989)→SAC(1989~1990)→POR(1990~1992)→PHO(1992~1995)
キャリア平均:11.5PPG、2.7RPG、4.0APG、1.1SPG、.378 3P%
オールスター出場:1回(1988)
強気なプレーと高精度のシュートを武器に、ボストン・セルティックス黄金時代のバックコートを支えたコンボガード。
高校時代にはバスケットボール、野球、アメリカンフットボールの3競技すべてでオールアメリカンに選出された唯一の選手として知られ、大学時代には学生生活を送りながらMLBのトロント・ブルージェイズで3シーズンをプレーした。
NBAとMLBの両リーグで公式戦に出場した数少ない選手のひとりである。
セルティックス入団当初は出場機会が限られていたが、持ち前の闘争心と勝負強さで徐々に主力へ成長した。
1987-88シーズンには平均15.7得点、6.2アシストを記録して初のオールスターに選出され、ラリー・バードらとともにリーグ屈指の強豪を支えた。
セルティックスでは8シーズンを過ごし、1984年と1986年の2度のNBA優勝に貢献した。
1992年にポートランド・トレイルブレイザーズへ移籍すると、同年のNBAファイナル進出に貢献。
翌1993年にはフェニックス・サンズへ移籍し、2年連続でファイナルの舞台に立ったが、いずれもマイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズの前にあと一歩及ばなかった。
現役引退後は指導者やフロントとしても高い評価を受け、フェニックス・サンズではヘッドコーチを務めたほか、ボストン・セルティックスではゼネラルマネージャーとして2008年の優勝チームを築き上げた。
その後はユタ・ジャズでも球団運営の責任者を務めている。
171.岡山 恭崇

yasutaka okayama
Did not play
八村塁以前にNBAドラフトで指名を受けた唯一の日本人選手であり、1981年のドラフトでゴールデンステイト・ウォリアーズから10巡目171位で指名を受けたが、NBAでプレーすることはなかった。
日本リーグでは230cmの長身を生かしたプレーを武器に活躍し、得点王やリバウンド王など数多くの個人タイトルを獲得した。



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