
主なドラフト選手
1.ラルフ・サンプソン

Ralph Sampson
出身校:バージニア大学
ポジション:C、PF
所属チーム:HOU(1983~1987)→GSW(1987~1989)→SAC(1989~1991)→WSB(1991~1992)
キャリア平均:15.4PPG、8.8RPG、2.3APG、1.6BPG
個人賞:Rookie of the Year、All-Star Game MVP(1985)
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:4回(1984~1987)
224cmの長身でありながらガードのような機動力と柔軟性を兼ね備え、「未来のセンター」とまで期待された万能型ビッグマン。
大学時代から世代最高の選手として注目を集め、NBAでもデビュー直後からスター選手として活躍したが、度重なる故障によって、その才能を十分に発揮できた期間は短かった。
ヒューストン・ロケッツに全体1位指名で入団すると、1年目から平均21.0得点、11.1リバウンド、2.4ブロックを記録し、新人王を受賞する。
このシーズン、前年14勝に終わっていたロケッツは29勝まで勝ち星を伸ばしたものの、サンプソンの活躍にもかかわらず2年連続でリーグ最下位に沈んだ。
そのため、チームが翌年のドラフト1位指名権獲得を見据えて意図的に成績を抑えたのではないかとの疑惑も囁かれた。
結果としてロケッツは再び全体1位指名権を獲得し、アキーム・オラジュワンを指名。
224cmのサンプソンと213cmのオラジュワンによる「ツインタワー」が誕生し、リーグ屈指のインサイド陣として大きな注目を集めた。
1985-86シーズンにはチームを当時のフランチャイズ最多となる51勝31敗へ導き、プレーオフでは前年王者ロサンゼルス・レイカーズを破る快挙を成し遂げる。
自身も地区決勝第5戦で劇的なブザービーターを決めるなど活躍し、ロケッツは1981年以来2度目となるファイナル進出を果たした。
しかし、ファイナルでは前回同様ボストン・セルティックスの前に敗れ、優勝には届かなかった。
翌1986-87シーズンにはデビュー以来4年連続でオールスターに選出されたが、故障のため出場を辞退。
この頃から膝や背中の故障に悩まされるようになり、以降は全盛期のパフォーマンスを取り戻すことができず、成績は徐々に下降していった。
その後はゴールデンステイト・ウォリアーズ、サクラメント・キングス、ワシントン・ブレッツでもプレーしたが、かつて期待された支配的なビッグマンとして復活することはできず、1992年に現役を引退した。
4.バイロン・スコット

Byron Scott
出身校:アリゾナ州立大学
ポジション:SG、PG
所属チーム:LAL(1983~1993)→IND(1993~1995)→VAN(1995~1996)→LAL(1996~1997)
キャリア平均:14.1PPG、2.8RPG、2.5APG、1.1SPG、.370 3P%
スピードあふれるプレーと正確なアウトサイドシュートを武器としたシューティングガード。
速攻では豪快なダンクを叩き込み、ハーフコートでは高確率のジャンプシュートを決めるなど、1980年代の「ショータイム・レイカーズ」を象徴するフィニッシャーとして活躍した。
ドラフトではロサンゼルス・クリッパーズに指名を受けたが、すぐにノーム・ニクソンとのトレードでロサンゼルス・レイカーズへ移籍する。
強気な性格で知られ、スター選手が揃うチームの中でも臆することなく、1年目から多くの試合で先発を務めた。
2年目には3ポイントシュート成功率43.3%でリーグトップとなるなど優れたシューターとして能力を発揮したほか、走力・跳躍力にも優れ、速攻からのダンクはレイカーズの得点パターンのひとつとなった。
1987-88シーズンには、カリーム・アブドゥル=ジャバーやマジック・ジョンソンを上回るチームトップの平均21.7得点を記録し、リーグ屈指の得点力を誇るガードへと成長した。
デビューから10シーズンをレイカーズで過ごし、3度の優勝に貢献。
1987-88シーズンにはレイカーズの「バック・トゥ・バック(2連覇)」達成の原動力となった。
1993年にレイカーズを離れた後は、インディアナ・ペイサーズ、バンクーバー・グリズリーズを渡り歩き、1996年にレイカーズへ復帰。
1シーズンをプレーした後、1997年に現役を引退した。
引退後は指導者へ転身し、2002年にはニュージャージー・ネッツを2年連続でNBAファイナル進出へ導いたほか、後にニューオーリンズ・ホーネッツやクリーブランド・キャバリアーズ、ロサンゼルス・レイカーズでもヘッドコーチを務めた。
9.デイル・エリス

Dale Ellis
出身校:テネシー大学
ポジション:SF、SG
所属チーム:DAL(1983~1986)→SEA(1986~1991)→MIL(1991~1992)→SAS(1992~1994)→DEN(1994~1997)→SEA(1997~1999)→MIL(1999~2000)→CHH(2000)
キャリア平均:15.7PPG、3.5RPG、1.4APG、.403 3P%
個人賞:Most Improved Player(1986-1987)
ALL TEAM:All-NBA 3rd 1回
オールスター出場:1回(1989)
リーグ屈指のアウトサイドシューターとして活躍し、素早いリリースと高精度の3ポイントシュートを武器に得点を量産した。
長距離砲がまだ主流ではなかった時代に、3ポイントシュートの価値を証明した先駆者のひとりとして知られている。
ダラス・マーベリックスでは3シーズンにわたって控えとしてプレーしたが、大きな活躍を見せることはできず、1986年にシアトル・スーパーソニックスへトレードされた。
移籍後は十分な出場時間を与えられると才能が一気に開花し、1年目に平均24.9得点を記録。
飛躍的な成長が評価され、MIP(最優秀躍進選手賞)を受賞した。
その後もリーグ屈指のシューターとして活躍を続け、1988-89シーズンにはリーグ3位となる平均27.5得点を記録し、初のオールスター出場を果たしている。
1991年にソニックスを離れて以降はシックスマンとして起用される機会も増えたが、先発・控えを問わず安定した得点力を発揮し、2000年まで17シーズンにわたってプレーした。
純粋なシューターとして高く評価され、スリーポイントシュートの通算成功数は後にレジー・ミラーに更新されるまでNBA歴代最多記録だった。
10.ジェフ・マローン

Jeff Malone
出身校:ミシシッピ州立大学
ポジション:SG
所属チーム:WSB(1983~1990)→UTA(1990~1994)→PHI(1994~1996)→MIA(1996)
キャリア平均:19.0PPG、2.6RPG、2.4APG
オールスター出場:2回(1986~1987)
ワシントン・ブレッツに入団すると、正確なミドルレンジシュートと高い得点能力を武器に頭角を現し、3年目の1985-86シーズンには平均22.4得点を記録して初のオールスターに選出された。
以降は5シーズン連続で平均20得点以上を記録し、1989-90シーズンにはキャリアハイとなる平均24.3得点をマーク。
安定した得点力でチームのエースとして活躍し、1988年には2度目のオールスターにも選出されている。
1990年にユタ・ジャズへ移籍すると、ジョン・ストックトンと強力なバックコートを形成し、カール・マローンに次ぐ第2の得点源としてチームを支えた。
正確なジャンプシュートとオフボールでの動きを武器に、ジャズでは4シーズン連続で平均18得点以上を記録し、毎年プレーオフ進出に貢献している。
1994年にフィラデルフィア・76ersへ移籍した後はベテランとして若手を支え、1996年に13シーズンの現役生活を終えた。
通算得点は17,000点を超え、1980年代から90年代前半を代表する純粋なスコアラーのひとりとして知られている。
11.デレク・ハーパー

Derek Harper
出身校:イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校
ポジション:PG、SG
所属チーム:DAL(1983~1994)→NYK(1994~1996)→DAL(1996~1997)→ORL(1997~1999)→LAL(1999)
キャリア平均:13.3PPG、2.4RPG、5.5APG、1.6SPG
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 2回
デビューから11シーズンをダラス・マーベリックスで過ごし、先発に定着した4年目の1986-87シーズンには平均17.3得点、8.6アシスト、2.4スティールを記録。
以降はチーム不動の司令塔として活躍し、マーク・アグワイアやローランド・ブラックマンとともにマーベリックス黄金期を支えた。
粘り強いマンツーマンディフェンスで高い評価を受け、デビューから7シーズン連続で平均2.0スティール以上を記録。
1986-87シーズンと1989-90シーズンにはオールディフェンシブ2ndチームに選出されるなど、攻守両面でリーグ屈指のポイントガードとして存在感を放った。
1990-91シーズンにはキャリアハイとなる平均19.7得点、7.1アシストを記録。
しかし実績に反してオールスターには一度も選出されることはなく、「オールスター未選出では最高クラスの選手」と評されることも多かった。
1993-94シーズン途中にトレードで長年過ごしたダラスを離れ、ニューヨーク・ニックスへ移籍。
得点面では数字を減少させたものの、卓越したゲームメイクとディフェンスでチームを支え、1994年のファイナル進出に大きく貢献した。
その後はオーランド・マジック、ロサンゼルス・レイカーズでもベテランガードとしてプレーし、1999年に現役を引退。
マーベリックスで残した通算15,000点以上、6,000アシスト以上はいずれも長年チーム史上屈指の記録として残り、背番号「12」はマーベリックスの永久欠番となっている。
14.クライド・ドレクスラー

Clyde Drexler
出身校:ヒューストン大学
ポジション:SG、SF
所属チーム:POR(1983~1995)→HOU(1995~1998)
キャリア平均:20.4PPG、6.1RPG、5.6APG、2.0SPG
ALL TEAM:All-NBA 1st 1回、All-NBA 2nd 2回、All-NBA 3rd 2回
オールスター出場:10回(1986、1988~1994、1996~1997)
空中を滑空するような優雅なダンクから「クライド・ザ・グライド」の愛称で親しまれた、80~90年代を代表するオールラウンドプレイヤー。
優れた得点力に加え、リバウンド、アシスト、スティールでも高い数字を残し、攻守両面で試合を支配した。
同世代で同じポジションのマイケル・ジョーダンと比較されることも多く、ジョーダン時代を代表するスーパースターのひとりとして知られている。
ヒューストン大学では、豪快なダンクで人気を博した「ファイ・スラマ・ジャマ」の一員として全米の注目を集めた。
しかし、ポートランド・トレイルブレイザーズ入団当初は「ダンクしかできない選手」と酷評されることもあった。
当時のブレイザーズはキキ・ヴァンダウェイやジム・パクソンが中心だったが、着実に実力を伸ばしたドレクスラーを軸に世代交代が進み、やがてチームの絶対的エースへと成長する。
1988-89シーズンには平均27.2得点、7.9リバウンド、5.8アシスト、2.7スティールを記録し、リーグ屈指のオールラウンドプレイヤーとしての地位を確立。
ブレイザーズも優勝候補に数えられる強豪へと成長し、1990年と1992年にはファイナル進出を果たした。
しかし、2度のファイナルではいずれも優勝には届かず、チームは次第に下降線をたどっていく。
1994-95シーズン途中、12年間チームを支えてきたドレクスラーは、地元でもあるヒューストン・ロケッツへ電撃移籍する。
当時はすでに全盛期を過ぎたと見られていたことから補強を疑問視する声もあったが、ドレクスラーは停滞していた前年王者に勢いを取り戻し、大学時代のチームメイトであるアキーム・オラジュワンとともにプレーオフを勝ち抜き、自身初のNBA優勝を果たした。
この頃から、優勝経験のないスター選手がキャリア終盤に優勝候補へ移籍するケースが相次ぎ、その象徴的な例として「ドレクスラー・シンドローム」という言葉も生まれている。
1997-98シーズンには35歳ながらチームトップとなる平均18.4得点を記録したが、シーズン開幕前に表明していた通り、その年限りで現役を引退した。
キャリア通算で20,000得点、6,000リバウンド、6,000アシストを達成した史上3人目の選手となり、背番号「22」はブレイザーズとロケッツの両チームで永久欠番となっている。
2004年にバスケットボール殿堂入りを果たした。
19.ジョン・パクソン

John Paxson
出身校:ノートルダム大学
ポジション:PG
所属チーム:SAS(1983~1985)→CHI(1985~1994)
キャリア平均:7.2PPG、1.2RPG、3.6APG
サンアントニオ・スパーズでは控えとしてプレーしていたが、シカゴ・ブルズ移籍後は先発で起用される機会が増え、1986-87シーズンには正確なシュートを武器に平均11.3得点、5.7アシストを記録した。
バックコートでコンビを組むマイケル・ジョーダンから絶大な信頼を寄せられ、B. J. アームストロングが成長してからも、ジョーダンはパクソンの先発起用を支持していた。
1990年代前半、ブルズ黄金時代の司令塔として3連覇に貢献。
1992-93シーズンは故障の影響で控えとしてプレーする機会が増えたものの、フェニックス・サンズとのファイナル第6戦では、試合終了間際に逆転の決勝3ポイントシュートを沈め、チームを3連覇へ導く歴史的な一投を決めた。
1994年に現役を引退した後はブルズのフロント入りし、ゼネラルマネージャーとしてチーム再建に携わった。
兄はオールスター出場経験を持つジム・パクソン。
父親のジム・パクソン・シニアもNBAで2シーズンをプレーした。
31.ドック・リバース

Doc Rivers
出身校:マーケット大学
ポジション:PG
所属チーム:ATL(1983~1991)→LAC(1991~1992)→NYK(1992~1994)→SAS(1994~1996)
キャリア平均:10.9PPG、3.0RPG、5.7APG、1.8SPG
オールスター出場:1回(1988)
本名はグレン・アントン・リバース。
ニックネームの「ドック(Doc)」は、「ドクターJ」の愛称で知られる ジュリアス・アービングのTシャツを着てプレーしていたことから付けられた。
アトランタ・ホークスに入団すると、ドラフト下位指名ながら1年目から多くの試合で先発を務め、闘志あふれるプレーとリーダーシップで頭角を現した。
1986-87シーズンには平均12.8得点、リーグ4位となる10.0アシストを記録し、翌1987-88シーズンには平均14.2得点、9.3アシストの活躍でオールスターに初選出されている。
1991年にロサンゼルス・クリッパーズへ移籍すると、長年低迷していたチームの精神的支柱として奮闘し、1992-93シーズンには平均14.9得点、7.8アシストを記録した。
その後はニューヨーク・ニックス、サンアントニオ・スパーズでもプレーし、1996年に13シーズンの現役生活を終えた。
引退後は指導者として大きな成功を収め、1999-2000シーズンにはオーランド・マジックで最優秀ヘッドコーチ賞を受賞。
2008年にはボストン・セルティックスを22年ぶりのNBA制覇へ導き、その後もロサンゼルス・クリッパーズやフィラデルフィア・76ersなどでヘッドコーチを務め、リーグを代表する指揮官として活躍している。
伯父は元NBA選手のジム・ブリュワー。
息子のオースティン・リバースも2012年にNBAデビューを果たした。
48.クレイグ・イーロー

Craig Ehlo
出身校:ワシントン州立大学
ポジション:SG
所属チーム:HOU(1983~1986)→CLE(1987~1993)→ATL(1993~1996)→SEA(1996~1997)
キャリア平均:8.6PPG、3.6RPG、2.8APG、1.1SPG、.369 3P%
ヒューストン・ロケッツでは目立った成績を残せないまま3年目のシーズン終了後に解雇される。
その後契約を結んだクリーブランド・キャバリアーズで、複数のポジションをこなせるユーティリティプレイヤーとして徐々に出場時間を増やし、先発に定着した1989-90シーズンには平均13.6得点、5.4リバウンド、4.6アシストを記録。
「ミスター・エブリシング」と呼ばれるオールラウンドな活躍でチームを支えた。
キャバリアーズではブラッド・ドアティ、ラリー・ナンス、マーク・プライスらとともに90年代初頭の黄金期を築き、攻守両面で欠かせない存在となる。
1991-92シーズンには平均15.5得点、5.3リバウンド、3.6アシストを記録し、チームのイースタン・カンファレンス決勝進出に大きく貢献した。
一方で、1989年のプレーオフ1回戦第5戦、マイケル・ジョーダンに決勝ブザービーターを決められた場面は「The Shot」としてNBA史に残る名場面となり、ジョーダンを必死にマークしていた選手としても広く知られている。
1993年にキャバリアーズを離れた後はアトランタ・ホークスで2シーズンを過ごし、1995年に現役を引退した。



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