
主なドラフト選手
1.パトリック・ユーイング

Patrick Ewing
出身校:ジョージタウン大学
ポジション:C、PF
所属チーム:NYK(1985~2000)→SEA(2000~2001)→ORL(2001~2002)
キャリア平均:21.0PPG、9.8RPG、1.9APG、1.0SPG、2.4BPG
個人賞:Rookie of the Year
ALL TEAM:All-NBA 1st 1回、All-NBA 2nd 6回、All-Defensive 2nd 3回
オールスター出場:11回(1986、1988~1997)
213cmの恵まれたサイズに優れた身体能力と高いシュート技術を兼ね備え、ニューヨーク・ニックスの象徴として15年間にわたりチームを支えたNBA史に残る名センター。
ジャマイカで生まれ、12歳のときに家族とともにアメリカへ移住
その後、驚異的な才能で全米屈指の高校生選手となり、名門ジョージタウン大学へ進学した。
大学ではジョン・トンプソンHCの下で4年間プレーし、1984年にはNCAA制覇を達成するなど、カレッジバスケットボール界最大のスターとして活躍した。
1985年のドラフトでは、前年にアキーム・オラジュワン獲得を巡って「わざと負けるチームが続出した」と批判されたことを受け、この年からドラフト・ロッタリー制度が導入された。
抽選の結果、低迷していた名門ニューヨーク・ニックスが1位指名権を獲得し、ユーイングの入団が決定したが、NBAの人気回復を狙った不正ではないかという「凍った封筒(Frozen Envelope)」陰謀説まで語られるほど、その指名はリーグ全体を揺るがす出来事となった。
期待を一身に背負って迎えたルーキーイヤーは、平均20.0得点、9.0リバウンド、2.1ブロックを記録して新人王を受賞。
しかし、チームは依然として低迷し、自身も「何度優勝できるか楽しみだ」と語っていた期待にはすぐには応えられなかった。
それでも大黒柱としてチームを支え続け、戦力が整うにつれてニックスは徐々に強豪へと成長していく。
1989-90シーズンには平均28.6得点、10.9リバウンド、4.0ブロック、FG成功率55.1%という圧巻の成績を残し、3年連続でオールNBA 1stチームに選ばれていたアキーム・オラジュワンを抑えて初のオールNBA 1stチーム入りを果たした。
1991年にパット・ライリーがヘッドコーチへ就任すると、70年代ニックスを彷彿とさせる激しいディフェンスを軸としたチームへと生まれ変わり、ユーイングはその中心としてチームを優勝候補へ押し上げる。
1992年にはドリームチームの一員としてバルセロナ五輪で金メダルを獲得し、名実ともに世界最高峰のセンターとなった。
しかし、プレーオフでは大学時代からの宿敵アキーム・オラジュワンや、マイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズの前に幾度となく行く手を阻まれた。
1994年にはNBAファイナルまで進出したものの、オラジュワン擁するヒューストン・ロケッツに敗れ、生涯最大の目標だったNBA制覇を果たすことはできなかった。
1997-98シーズン以降は故障に苦しみ、若い選手へとチームの中心が移る中で2000年に15年間過ごしたニックスを退団。
その後はシアトル・スーパーソニックス、オーランド・マジックで2シーズンをプレーし、2002年に現役を引退した。
ニックスでは通算得点、通算リバウンド、通算ブロックなど数多くの球団記録を保持し、背番号「33」は永久欠番となっている。
2008年にバスケットボール殿堂入り。
同年には息子のパトリック・ユーイングJr.もジョージタウン大学からドラフト指名を受け、2010年にNBAデビューを果たした。
2.ウェイマン・ティスデイル

Wayman Tisdale
出身校:オクラホマ大学
ポジション:PF
所属チーム:IND(1985~1989)→SAC(1989~1994)→PHO(1994~1997)
キャリア平均:15.3PPG、6.1RPG、1.3APG、.505FG%
オフェンス能力の高いサウスポーのパワーフォワードとして活躍し、それと同時にNBAの現役時代からプロのジャズ・ベーシストとしても成功を収めた。
インディアナ・ペイサーズでは平均15得点前後、FG成功率50%以上を記録するインサイドの中心選手として活躍した。
1989年にサクラメント・キングスへ移籍すると、1989-90シーズンにはチームトップとなる平均22.3得点を記録し、キャリアの全盛期を迎える。
1994年にフェニックス・サンズへ移籍し、主にシックスマンとして3シーズンをプレーした後に現役を引退した。
引退後は本格派ジャズ・ベーシストとして高い評価を受けるなど音楽家として第二の人生を歩んだが、2007年に骨肉腫(骨がん)と診断され、右足を切断。
その後も音楽活動を続けたものの、2009年に44歳の若さで死去した。
3.ベノイト・ベンジャミン

Benoit Benjamin
出身校:クレイトン大学
ポジション:C
所属チーム:LAC(1985~1991)→SEA(1991~1993)→LAL(1993)→NJN(1993~1995)→VAN(1995)→MIL(1995~1996)→TOR(1996)→PHI(1998~1999)→CLE(1999)
キャリア平均:11.4PPG、7.5RPG、1.3APG、2.0BPG
213cmの長身に長いリーチを生かしたショットブロックが最大の魅力のセンター。
素材としてはオールスタークラスと言われながら、コンディション管理や練習態度を巡ってコーチ陣としばしば衝突するなど精神面のムラを指摘されることもあり、キャリア後半は多くのチームを転々とするジャーニーマンとなった。
ロサンゼルス・クリッパーズではデビューから毎シーズン2桁得点を記録し続け、1988-89シーズンにはキャリアハイとなる平均16.4得点、8.8リバウンド、2.8ブロックを記録した。
クリッパーズを去ってからは故障などの影響で成績を下降させたものの、インサイドの補強を求める多くのチームから声がかかり、バックアップセンターとして15シーズンにわたってNBAでプレーを続けた。
クリッパーズでの6シーズンで記録した1試合平均2.8ブロックは、現在も歴代1位のチーム記録となっている。
4.ゼイビア・マクダニエル

Xavier McDaniel
出身校:ウィチタ州立大学
ポジション:SF、PF
所属チーム:SEA(1985~1990)→PHO(1990~1991)→NYK(1991~1992)→BOS(1992~1995)、NJN(1996~1998)
キャリア平均:15.6PPG、6.1RPG、2.0APG
オールスター出場:1回(1988)
ニックネームは「X‐MAN」。
より威圧的に見えるよう大学時代から髪の毛と眉毛を剃り上げるなど、闘争心を全面に押し出すスタイルで活躍した。
シアトル・スーパーソニックスでは1年目から平均17.1得点、8.0リバウンドを記録し、新人王投票ではパトリック・ユーイングに次ぐ得票を集めた。
翌シーズンには平均23.0得点を記録し、トム・チェンバース、デイル・エリスとともに、それぞれが平均23得点以上をあげるハイスコアリングトリオを形成する。
4年目の1988-89シーズンにはシックスマンとしてプレーしながら平均20.5得点を記録するなど、先発・控えを問わず高い得点力を発揮した。
1990年にソニックスを去ってからは得点力こそ下降したものの、1991年に移籍したニューヨーク・ニックスではタフなプレースタイルがチームカラーにマッチし、プレーオフでは2連覇を目指すシカゴ・ブルズを激しく苦しめた。
シリーズには敗れたものの、ブルズにとっては最も過酷な戦いのひとつとなり、マクダニエルは強烈な存在感を示した。
7.クリス・マリン

Chris Mullin
出身校:セントジョンズ大学
ポジション:SF、SG
所属チーム:GSW(1985~1997)→IND(1997~2000)→GSW(2000~2001)
キャリア平均:18.2PPG、4.1RPG、3.5APG、1.6SPG、.509FG%、.384 3P%
ALL TEAM:All-NBA 1st 1回、All-NBA 2nd 2回、All-NBA 3rd 1回
オールスター出場:5回(1989~1993)
卓越したシュート力と高いバスケットボールIQを武器に活躍したスコアラー。
派手な身体能力に頼らず、巧みな駆け引きと正確無比な左手のシュートで得点を量産し、1980年代後半から1990年代前半を代表するフォワードのひとりとなった。
大学時代から全米屈指のスター選手として知られ、1984年のロサンゼルス五輪ではマイケル・ジョーダンやパトリック・ユーイングらとともに金メダルを獲得。
1985年のドラフトでゴールデンステイト・ウォリアーズに入団した。
入団当初はアルコール依存症に苦しみ、本来の実力を発揮できない時期が続いたが、3年目のシーズン中にリハビリプログラムを受けて問題を克服すると、これを機に選手として大きく飛躍した。
翌1988-89シーズンには平均26.5得点、5.9リバウンド、5.1アシスト、2.1スティールを記録し、一躍リーグ屈指のスター選手へと成長する。
このシーズンから5年連続で平均25得点以上かつFG成功率50%以上を達成し、同期間には5年連続でオールスターにも選出された。
身体能力は決して高い部類ではなかったが、絶妙なフットワークやタイミングでいとも簡単にディフェンダーをかわし、その姿は「特殊能力を使う宇宙人」とも評された。
特に左手から放たれるシュートは芸術的な精度を誇り、チームメイトのティム・ハーダウェイは「マリンにボールを渡せばアシストになる」と語り、マジック・ジョンソンもそのシュート力を「神の左手」と称賛している。
1992年には再びドリームチームの一員としてバルセロナ五輪で金メダルを獲得。
しかし、その頃から故障に悩まされるようになり、全盛期ほどのパフォーマンスを維持することが難しくなっていった。
1997年にインディアナ・ペイサーズへトレードされると、ベテランとしてチームを支え、2000年にはNBAファイナル進出にも貢献。
その後、2000-01シーズンに古巣ウォリアーズへ復帰し、シーズン終了後に現役を引退した。
ウォリアーズでは13シーズンをプレーし、背番号「17」はチームの永久欠番となっている。
2011年にバスケットボール殿堂入りを果たしている。
8.デトレフ・シュレンプ

Detlef Schrempf
出身校:ワシントン大学
ポジション:SF、PF
所属チーム:DAL(1985~1989)→IND(1989~1993)→SEA(1993~1999)→POR(1999~2001)
キャリア平均:13.9PPG、6.2RPG、3.4APG、.384 3P%
個人賞:Sixth Man of the Year2回(1990-1991、1991-1992)
ALL TEAM:All-NBA 3rd 1回
オールスター出場:3回(1993、1995、1997)
NBAにおける国際派プレイヤーの偉大な先駆者であり、208cmの長身にガード並みのスキルを備えた万能フォワード。
ベンチから試合の流れを変える歴代最高峰のシックスマンの一人としても知られている。
西ドイツに生まれ育ち、高校時代にアメリカへ移住する。
インディアナ・ペイサーズで頭角を現し、1990-91シーズンに平均16.1得点、8.0リバウンド、3.7アシストを記録してシックスマン賞を受賞すると、翌シーズンも2年連続で同賞に輝いた。
1992-93シーズンには主に先発として起用され、平均19.1得点、9.5リバウンド、6.0アシストというオールラウンドな成績を残し、初めてオールスターに選出される。
シーズン終了後にシアトル・スーパーソニックスへ移籍すると、1994-95シーズンには32歳にしてキャリアハイとなる平均19.2得点を記録し、オールNBA 3rdチームに選出される活躍でチームの好成績に大きく貢献した。
シアトルでは1996年のファイナル進出に貢献し、その後はポートランド・トレイルブレイザーズでもベテランとしてプレーを続け、2001年に現役を引退した。
トレードマークの角刈り(フラットトップ)のヘアスタイルと、コート上での冷静沈着なプレー、そしてここ一番での勝負強さは、ファンやチームメイトから絶大な信頼を得ていた。
9.チャールズ・オークリー

Charles Oakley
出身校:バージニア・ユニオン大学
ポジション:PF、C
所属チーム:CHI(1985~1988)→NYK(1988~1998)→TOR(1998~2001)→CHI(2001~2002)→WAS(2002~2004)→HOU(2004)
キャリア平均:9.7PPG、9.5RPG、2.5APG、1.1SPG
オールスター出場:1回(1994)
愛称の「オーク」は、硬く耐久性に優れた木材「Oak(カシの木)」も意味する。
タフな肉体を武器にチームの汚れ役を一手に引き受ける「究極のブルーワーカー」として高い評価を受けた一方で、ダーティーなプレーも辞さないスタイルは相手チームから最も恐れられる存在となった。
ドラフトでは地元のクリーブランド・キャバリアーズから指名を受けたが、直後にシカゴ・ブルズへとトレードされる。
1年目からディフェンスとリバウンドでチームに貢献し、2年目には平均14.5得点、リーグ2位となる13.1リバウンドを記録するなど主力選手として活躍した。
また、チームメイトに対するラフプレーには猛然と立ち向かい、チームの「警官役」としてエースのマイケル・ジョーダンからも厚い信頼を寄せられていた。
しかし、ホーレス・グラントの成長に加え、フロントがセンターの補強を必要としていたことから、ニューヨーク・ニックスで出場機会を失いつつあったビル・カートライトを獲得するため、オークリーはトレードで放出される。
このトレードにはジョーダンも激怒したと噂されたが、オークリーは腐ることなくニックスをタフな強豪チームへと成長させ、古巣ブルズの前に強大なライバルとして立ちはだかった。
ニックスの「ハート&ソウル」としてファンから絶大な人気を集め、1998年にトロント・ラプターズへトレードされた際には、ニューヨークのメディアやファンの間で大きな議論が巻き起こった。
その後はチームを渡り歩きながらも、頼れるベテランとしてディフェンスとリバウンドでチームに貢献し、2004年に現役を引退した。
13.カール・マローン

Karl Malone
出身校:ルイジアナ工科大学
ポジション:PF
所属チーム:UTA(1985~2003)→LAL(2003~2004)
キャリア平均:25.0PPG、10.1RPG、3.6APG、1.4SPG、.516FG%
個人賞:All-Star Game MVP2回(1988-1989、1992-1993)、MVP2回(1996-1997、1998-1999)
ALL TEAM:All-NBA 1st 11回、All-NBA 2nd 2回、All-NBA 3rd 1回、All-Defensive 1st 3回、All-Defensive 2nd 1回
オールスター出場:14回(1988~1998、2000~2002)
屈強な肉体と驚異的な身体能力を兼ね揃え、毎晩のように力強いプレーで得点を積み重ねる姿から「メイルマン(郵便配達人)」の愛称で親しまれた。
史上最高クラスのパワーフォワードのひとりであり、ユタ・ジャズ黄金時代の象徴でもある。
ユタ・ジャズではルーキーイヤーから先発を務め、2年目には平均21.7得点を記録すると、その後17シーズン連続で平均20得点以上をマーク。驚異的な安定感で毎年リーグ屈指の得点源として活躍した。
デビュー当初は恵まれた身体能力を生かした豪快なプレーが持ち味だったが、努力を重ねることで弱点だったフリースローを克服。
デビュー当初は50%にも届かなかった成功率は4年目以降ほぼ毎年80%前後まで向上し、さらにミドルレンジからのジャンプショットも年々精度を増したことで、リーグ屈指の万能スコアラーへと成長した。
控えだったジョン・ストックトンが先発に定着すると、二人はNBA史に残る名コンビとなる。
とりわけストックトンとのピック&ロールは「来ると分かっていても止められない」と評されるほど完成度が高く、ジャズ最大の武器として長年リーグを席巻した。
マイケル・ジョーダンの存在もあって得点王にはあと一歩届かなかったものの、毎年のように得点ランキング上位に名を連ね続けた。
1989-90シーズンには平均31.0得点、11.0リバウンド、FG成功率56.2%という圧倒的な成績を残し、前年から1998-99シーズンまで11年連続でオールNBA 1stチームに選出される偉業を達成している。
また、1997年と1999年にはシーズンMVPにも輝いた。
ストックトンとのコンビを中心にジャズは長年にわたりリーグ屈指の強豪として君臨したが、「万年優勝候補」と呼ばれながらあと一歩で頂点に届かなかった。
1997年、1998年には2年連続でNBAファイナルへ進出したものの、いずれもマイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズに惜敗し、悲願の優勝を逃している。
2003年、ストックトンの引退を機に優勝を求めてロサンゼルス・レイカーズへ移籍。
同時にゲイリー・ペイトンも加入し、シャキール・オニール、コビー・ブライアントとともに史上屈指の豪華メンバーが結成された。
大きな期待を背負ってファイナルまで勝ち進んだものの、スター不在と言われたデトロイト・ピストンズの前に敗れ、ついに悲願のチャンピオンリングを手にすることはできなかった。
シーズン終了後はどのチームとも契約せず、2005年に現役引退を表明。
ジャズで過ごした18シーズンでは欠場わずか10試合という驚異的なタフネスを誇り、40歳でプレーしたレイカーズ時代を含めても故障に強い選手として知られた。
通算得点36,928点は引退当時NBA歴代2位(現在も歴代上位)を誇り、ジャズでは数多くの球団記録を保持。
背番号「32」はチームの永久欠番となっている。
2010年にバスケットボール殿堂入りを果たした。
16.ビル・ウェニントン

Bill Wennington
出身校:セントジョンズ大学
ポジション:C
所属チーム:DAL(1985~1990)→SAC(1990~1991)、CHI(1993~1999)→SAC(1999~2000)
キャリア平均:4.6PPG、3.0RPG、0.6APG
カナダ出身。
セント・ジョンズ大学時代にクリス・マリンやマーク・ジャクソンらとプレーし、NCAAトーナメントでは大学史上2度目となるファイナル・フォー(全米ベスト4)進出を果たしている。
キャリア初期は目立った活躍を見せることができず、NBAで6シーズンを過ごした後、プレーの場をイタリアへ移した。
この頃、トニー・クーコッチの視察のためにイタリアを訪れていたシカゴ・ブルズ関係者の目に留まり、クーコッチとともに1993年からブルズでプレーすることになった。
ブルズではウィル・パデューやルーク・ロングリーのバックアップセンターとしてプレーし、213cmの長身ながらインサイド一辺倒ではなく、ミドルレンジからのジャンプショットを得意とした。
1996年からのブルズ3連覇に貢献し、優勝時にはシカゴのマクドナルドでウェニントンの名前をもじった「ビーフ・ウェニントン」という限定メニューが販売されるなど、地元ファンからも親しまれた。
明るく社交的な性格で、ロッカールームではムードメーカーとしてチームを支える存在でもあった。
18.ジョー・デュマース

Joe Dumars
出身校:マクニーズ州立大学
ポジション:SG、PG
所属チーム:DET(1985~1999)
キャリア平均:16.1PPG、2.2RPG、4.5APG、.382 3P%
個人賞:Finals MVP(1988-1989)
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回、All-NBA 3rd 2回、All-Defensive 1st 4回、All-Defensive 2nd 1回
オールスター出場:6回(1990~1993、1995、1997)
優れたディフェンスと高いシュート力を兼ね備えた名シューティングガード。
「バッドボーイズ」と呼ばれたデトロイト・ピストンズの中で唯一の紳士とも評された人格者としても知られている。
デトロイト・ピストンズではルーキーイヤーからシーズンの半分以上で先発を務め、平均9.4得点を記録した。
オフェンスでは目立った数字を残せなかったものの、ディフェンスでは新人とは思えない完成度を見せ、守備を重視するチームにおいて欠かせない存在となった。
当時得点王を独占していたマイケル・ジョーダンは、デュマースを「これまで対戦したディフェンダーの中で最も優れた選手」と高く評価しており、その守備力はリーグ最高峰と認められていた。
一方でオフェンス面も毎年のように成長を続け、1988-89シーズンには平均17.2得点、5.7アシストを記録。
この年のNBAファイナルでは、前年に敗れたロサンゼルス・レイカーズを相手にシリーズ平均27.3得点という圧巻の活躍を見せ、球団史上初優勝の立役者としてファイナルMVPを受賞した。
翌シーズンもチームの主力として2連覇に大きく貢献。
ピストンズは「バッドボーイズ」の異名で恐れられ、過激なフィジカルプレーによってリーグ中から嫌われる存在だったが、その中でデュマースだけは常にフェアで礼節を重んじるプレーを貫き、敵味方を問わず多くの選手から尊敬を集めた。
1992-93シーズンにはキャリアハイとなる平均23.5得点を記録。
1994年にはカナダで開催された世界選手権で、NBAを代表する選手として「ドリームチームⅡ」のメンバーにも選出されている。
1999年に現役を引退し、その後はピストンズの球団社長としてチーム再建に尽力。
2004年にはGMとしてチームをNBAチャンピオンへ導いた。
背番号「4」はピストンズの永久欠番となっている。
2006年にバスケットボール殿堂入りを果たしている。
23.A.C.グリーン

A.C. Green
出身校:オレゴン州立大学
ポジション:PF、SF
所属チーム:LAL(1985~1993)→PHO(1993~1996)→DAL(1996~1999)→LAL(1999~2000)→MIA(2000~2001)
キャリア平均:9.6PPG、7.4RPG、1.1APG
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 1回
オールスター出場:1回(1990)
優れたリバウンダーとして活躍し、80年代後半のロサンゼルス・レイカーズの2連覇に大きく貢献した。
1991-92シーズンにはキャリアハイとなる平均13.6得点、9.3リバウンドを記録し、攻守にわたってチームを支える存在となる。
故障に強い選手として「Iron Man(鉄人)」の異名で知られ、NBA歴代屈指となる1,192試合連続出場という大記録を樹立した。
16シーズンのキャリアで欠場したのはわずか3試合のみだったが、その3試合も2年目にヘッドコーチの判断で欠場したもので、故障による欠場は一度もなかった。
また、1996-97シーズンはシーズン途中のトレードにより、NBA史上でも珍しいシーズン83試合出場を記録している。
1999-2000シーズンにはパワーフォワードの補強を求めていた古巣レイカーズに復帰し、自身3個目となるチャンピオンリングを獲得した。
敬虔なクリスチャンとしても知られ、39歳で結婚するまで貞操を守り続けたことでも大きな話題となった。
24.テリー・ポーター

Terry Porter
出身校:ウィスコンシン大学スティーブンスポイント校
ポジション:PG
所属チーム:POR(1985~1995)→MIN(1995~1998)→MIA(1999)→SAS(1999~2002)
キャリア平均:12.2PPG、3.0RPG、5.6APG、1.2SPG、.386 3P%
オールスター出場:2回(1991、1993)
ゲームコントロール、パスセンス、ディフェンス、そしてシュート力のすべてを高いレベルで兼ね備える、弱点のない「極めて堅実でタフな」司令塔として評価された。
ブレイザーズでは2年目から先発ポイントガードに定着し、バックコートでコンビを組むクライド・ドレクスラーとともにチームをリーグ屈指の強豪へと導いていく。
1990-91シーズンには平均17.0得点、8.0アシストを記録し、初めてオールスターに選出された。
チームも毎年のように優勝争いに加わり、1990年と1992年にファイナル進出を果たしている。
キャリア後半は若手へ出場時間を譲るようになったが、ベテランとして豊富な経験を生かし、チームを支える役割も果たした。
NBA歴代上位となる通算アシスト数を残し、2002年に現役を引退。
背番号「30」はブレイザーズの永久欠番となっている。
31.マヌート・ボル

Manute Bol
出身校:ブリッジポート大学
ポジション:C
所属チーム:WSB(1985~1988)→GSW(1988~1990)→PHI(1990~1993)→MIA(1993~1994)→WSB(1994)→PHI(1994)→GSW(1994~1995)
キャリア平均:2.6PPG、4.2RPG、0.3APG、3.3BPG
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 1回
南部スーダンのディンカ族の酋長の息子として生まれ、アメリカの大学コーチの目に留まり、18歳の時に渡米する。
当時のNBA史上最高身長となる231cmに、約259cmという圧倒的なウイングスパン(両手を広げた長さ)を誇りながら、体重は約90kgと針金のように細く、その体格でNBAで通用するかは疑問視されていた。
ワシントン・ブレッツに入団すると、大方の予想どおりオフェンスではほとんど貢献できなかった。
一方でブロックでは1年目から平均5.0本という驚異的な数字を記録し、その守備力で存在感を示した。
キャリアを通して出場時間は決して長くなかったが、出場時間当たりのブロック数は歴代屈指を誇り、ゴールデンステイト・ウォリアーズ移籍後にはスリーポイントシュートにも積極的に挑戦するなど、ユニークなプレースタイルでも人気を集めた。
キャリア通算では、平均ブロック数が平均得点を上回るNBA史上唯一の選手であり、通算2,086ブロックという数字は通算フィールドゴール成功数1,599本をも上回っている。
引退後は内戦で苦しむ母国スーダンへの支援活動に尽力し、多額の私財を投じて学校や医療施設の整備などの慈善活動を続けた。
2010年、腎臓障害とスティーブンス・ジョンソン症候群の合併症により47歳で死去した。
息子のボル・ボルもNBAでプレーしている。
45.ホット ロッド ・ウィリアムズ

Hot Rod Williams
出身校:テュレーン大学
ポジション:C、PF
所属チーム:CLE(1986~1995)→PHO(1995~1998)→DAL(1998~1999)
キャリア平均:11.0PPG、6.8RPG、1.8APG、1.6BPG
本名はジョン・ウィリアムズ。
「ホットロッド」は高性能エンジンを意味し、赤ん坊の頃にエンジンのような唸り声をあげていたことから家族に名付けられた。
NBAでは疲れ知らずのタフなプレーぶりから、「ホットロッド」の愛称が広く親しまれた。
ドラフトではクリーブランド・キャバリアーズから指名を受けたが、大学時代にスポーツ賭博を巡る「試合操作(ポイントシェービング)疑惑」の騒動に巻き込まれたため、1年目はNBAでプレーすることができなかった。
最終的に無罪となり、翌1986年からキャバリアーズに合流すると、先発パワーフォワードとして平均14.6得点、7.9リバウンド、2.1ブロックを記録し、チームメイトのブラッド・ドアティ、ロン・ハーパーとともにオールルーキー1stチームに選出された。
翌シーズン途中にラリー・ナンスが加入してからは、ドアティとナンスを支えるインサイドのバックアップとしてプレーし、ベンチから試合の流れを変えるシックスマンとしてチームを支えた。
1989-90シーズンは全82試合に出場し、大半の試合でベンチからスタートしながら、キャリアハイとなる平均16.8得点のほか、8.1リバウンド、2.0ブロックを記録している。
シーズン終了後、フリーエージェントとなったウィリアムズに対してマイアミ・ヒートが破格のオファーを提示し、手放すことを惜しんだキャバリアーズがこの条件をマッチ(同額での引き留め)したことで、非オールスターの控え選手でありながら、当時のマイケル・ジョーダンの2倍の金額を稼ぐリーグ最高額の選手となった。
大きな期待と注目を集めたウィリアムズだったが、直後に重い怪我を負い、その後は全盛期ほどの成績を残すことができなかった。
それでも優先順をよりディフェンスへシフトしたことで、頼れるインサイドの職人として重宝され、フェニックス・サンズやダラス・マーベリックスなどで1999年までプレーを続けた。
2015年に53歳という若さで前立腺ガンのため死去した。
47.ジェラルド・ウィルキンス

Gerald Wilkins
出身校:テネシー大学チャタヌーガ校
ポジション:SG、SF
所属チーム:NYK(1985~1992)→CLE(1992~1995)→VAN(1995~1996)→ORL(1996~1999)
キャリア平均:13.0PPG、2.9RPG、3.0APG、1.0SPG
スター選手として活躍したドミニク・ウィルキンスの弟として知られ、兄譲りの豪快なダンクに加え、相手チームのエーススコアラーを執拗にマークするディフェンスでも高い評価を受けた。
とくにマイケル・ジョーダンとの激しいマッチアップから、「ジョーダン・ストッパー」とも呼ばれた。
下位指名ながらニューヨーク・ニックスでは1年目から多くの出場時間を与えられ、同期入団のパトリック・ユーイングとともに新人ながらチームを支える活躍を見せる。
2年目にはシーズンの大半で先発を務め、平均19.1得点を記録した。
ニックスで7シーズンを過ごした後、1992年にクリーブランド・キャバリアーズへ移籍。
チームは好成績を収めたものの、プレーオフではシカゴ・ブルズの前に敗退し、ウィルキンスにとってはニックス時代の1991年から4シーズン連続でブルズに苦杯をなめることとなった。
兄ドミニクと同じ1999年に現役を引退。
息子のダミアン・ウィルキンスはドラフト外から2004年にNBAデビューを果たしている。
66.マイケル・アダムズ

Michael Adams
出身校:ボストン大学
ポジション:PG
所属チーム:SAC(1985)→WSB(1986~1987)→DEN(1987~1991)→WSB(1991~1994)→CHH(1994~1996)
キャリア平均:14.7PPG、2.9RPG、6.4APG、1.7SPG
オールスター出場:1回(1992)
身長178cmという小柄な体格ながら、「カタパルト(投石機)」と形容された独特なシュートフォームから放つクイックリリースのスリーで得点を量産し、デンバー・ナゲッツの高速オフェンスを牽引するスコアリングガードとして活躍した。
NBAデビュー当初は目立った成績を残せず、一度は解雇も経験したが、デンバー・ナゲッツへの加入を機に才能が開花する。
ラン&ガンを徹底するチームスタイルに見事に適応したアダムズは、ナゲッツの司令塔として数シーズンにわたり平均15得点前後、6アシスト以上を記録する活躍を見せた。
この頃、スリーポイントシュートを79試合連続で成功させるNBA記録を樹立し、この記録は大学の後輩でもあるダナ・バロスに更新されるまで破られなかった。
1990-91シーズンには、ナゲッツがさらにオフェンス偏重のスタイルを徹底したことで、アダムズはアーリーオフェンスの中心として平均26.5得点、10.5アシスト、2.2スティールを記録。
リーグ屈指の攻撃型ポイントガードとして初めてオールスターにも選出された。
翌シーズンにワシントン・ブレッツへ移籍すると成績はやや下降したものの、移籍1年目にも平均18.1得点、7.6アシストを記録し、3シーズンにわたってチームの司令塔を務めた。
87.スパッド・ウェブ

Spud Webb
出身校:ノースカロライナ州立大学
ポジション:PG
所属チーム:ATL(1985~1991)→SAC(1991~1995)→ATL(1995~1996)→MIN(1996)、ORL(1998)
キャリア平均:9.9PPG、2.1RPG、5.3APG、1.1SPG
身長170cmという小柄な体格ながら驚異的なジャンプ力を武器に、1986年のスラムダンク・コンテストで優勝を果たし、日本でも「小さかったら高く跳べ」のキャッチコピーで人気を集めた。
本名はアンソニー・ジェローム・ウェブ。
「スパッド」のニックネームは、ソビエト連邦が打ち上げた世界初の人工衛星「スプートニク」に由来するとされている。
ドラフトではデトロイト・ピストンズから指名を受けたが、プレーする機会を与えられないまま解雇される。
その後、アトランタ・ホークスと契約してNBAデビューを果たすと、1年目から控えとして平均7.8得点、4.3アシストを記録し、エネルギッシュなプレーでチームの人気者となった。
1986年のスラムダンク・コンテストでは、ホークスのチームメイトであり、歴代屈指のダンカーとして知られるドミニク・ウィルキンスを決勝で破って優勝し、小柄な選手でも豪快なダンクができることを証明した伝説的な大会として現在でも語り継がれている。
1995年にサクラメント・キングスへ移籍すると先発ポイントガードとして起用され、移籍1年目にキャリアハイとなる平均16.0得点、7.1アシストを記録した。
1998年にNBAを離れた後はイタリアでもプレーを続け、2001年に現役を引退した。
160.マリオ・エリー

Mario Elie
出身校:アメリカン・インターナショナル大学
ポジション:SF、SG
所属チーム:PHI(1990~1991)→GSW(1991~1992)→POR(1992~1993)→HOU(1993~1999)→SAS(1999~2000)→PHO(2000~2001)
キャリア平均:8.6PPG、2.8RPG、2.6APG、.365 3P%
ドラフトではミルウォーキー・バックスから指名を受けたが、直後に解雇され、海外リーグや独立リーグを渡り歩いた。
1990年にフィラデルフィア・76ersと契約して念願のNBAデビューを果たすものの、わずか3試合の出場で再び解雇される。
その後、ゴールデンステイト・ウォリアーズと10日間契約を結び、ベンチから平均7.0得点を記録すると、この活躍が評価されてシーズン終了までの契約を勝ち取った。
1993年にヒューストン・ロケッツへ移籍すると、優れたディフェンスと勝負どころでのシュートを武器に、チームの2連覇に大きく貢献する。
とくに1995年のプレーオフでは、フェニックス・サンズとのカンファレンス準決勝第7戦で試合を決定づける逆転スリーポイントを沈め、エリーはサンズのベンチに向かって「投げキッス」をする挑発的なパフォーマンスを披露。
この一撃は「Kiss of Death(死の接吻)」としてNBA史に残る名場面となった。
1996-97シーズンは先発に定着し、キャリアハイとなる平均11.7得点、4.0アシスト、3ポイント成功率42.0%を記録した。
1998-99シーズンにサンアントニオ・スパーズへ移籍すると、ファイナルではティム・ダンカンとデビッド・ロビンソンにマークが集中する中、勝利を引き寄せる重要な3ポイントシュートを決め、自身3個目のチャンピオンリングを獲得している。
大舞台で幾度も勝負強さを発揮したことから、「スーパーマリオ」のニックネームで親しまれた。



COMMENT