「1986年 NBAドラフト」年代別に振り返るNBA選手名鑑

NBA
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主なドラフト選手

1.ブラッド・ドアティ

キャプチャ

Brad Daugherty

出身校:ノースカロライナ大学

ポジション:C

所属チーム:CLE(1986~1994)

キャリア平均:19.0PPG、9.5RPG、3.7APG、.532FG%

ALL TEAM:NBA All-NBA 3rd 1回

オールスター出場:5回(1988~1989、1991~1993)

213cmのサイズを生かした得点力だけでなく、味方を生かすプレーメイクにも長け、1980年代後半から1990年代前半のクリーブランド・キャバリアーズを支えた名ビッグマン。

クリーブランド・キャバリアーズではルーキーイヤーから中心選手として活躍し、恵まれた体格に柔らかなシュートタッチと巧みなポストワークを兼ね備えたセンターとして頭角を現した。

また、ビッグマンとしてはパス能力も非常に高く、1992-93シーズンには司令塔マーク・プライスに次ぐチーム2位となる平均4.4アシストを記録するなど、攻撃の起点としても大きな役割を果たした。

1991-92シーズンには平均21.5得点、10.4リバウンド、FG成功率57.0%を記録し、リーグ屈指のセンターへと成長。

プレーオフでもチームを牽引し、キャバリアーズを球団史上初となるカンファレンス決勝進出へ導く原動力となった。

マーク・プライス、ラリー・ナンスらとともに黄金期のキャバリアーズを築き、オールスターにも5年連続で選出されるなど、リーグを代表するセンターとして高い評価を受けた。

しかし、キャリア絶頂期を迎えようとしていた頃に慢性的な背中の故障が悪化。

満足にプレーできない状態が続き、1994年、わずか28歳という若さで現役引退を余儀なくされた。

短いキャリアながら、その卓越した技術と知性あふれるプレーは高く評価され、背番号「43」はキャバリアーズの永久欠番となっている。

2.レン・バイアス

キャプチャ

Len Bias

出身校:メリーランド大学

ポジション:F

所属チーム:BOS

圧倒的な身体能力と得点力を兼ね備え、マイケル・ジョーダンに匹敵する才能を持つと評されたフォワード。

大学バスケットボール界最高峰のスターとして将来を嘱望され、多くの関係者から「NBAの勢力図を変える存在」と期待されていた。

1986年のNBAドラフトで、前年優勝を果たしたボストン・セルティックスから全体2位で指名を受け、ラリー・バードらを擁する王者の新たな中心選手として大きな期待を集めた。

しかし、ドラフトからわずか2日後、コカインの過剰摂取による心臓発作で急逝。

22歳というあまりにも若すぎる死はアメリカ中に衝撃を与え、「NBA史上最大の悲劇のひとつ」と語り継がれている。

この事件をきっかけにNBAは薬物検査制度を大幅に強化し、アメリカ政府もコカイン対策を厳格化するなど、スポーツ界だけでなく社会全体に大きな影響を及ぼした。

4.チャック・パーソン

キャプチャ

Chuck Person

出身校:オーバン大学

ポジション:SF、PF

所属チーム:IND(1986~1992)→MIN(1992~1994)→SAS(1994~1999)→CHH(1999)→SEA(1999~2000)

キャリア平均:14.7PPG、5.1RPG、2.8APG、.362 3P%

個人賞:Rookie of the Year

元NBA選手でもある俳優チャック・コナーズのファンだった母親によって「チャック」と名付けられ、チャック・コナーズ主演のテレビドラマ『ライフルマン』にちなみ、「ライフルマン」のニックネームで親しまれた。

インディアナ・ペイサーズでは1年目から平均18.8得点、8.3リバウンドを記録し、新人王を受賞する。

ニックネームを体現するように、狙い澄ましたアウトサイドシュートを武器に得点を量産し、3年目の1988-89シーズンにはキャリアハイとなる平均21.6得点を記録した。

デビューから6シーズンを過ごしたペイサーズでは通算平均19.0得点を記録するエースフォワードとして活躍したが、1992年にトレードでチームを去って以降はシックスマンとして起用される機会が増え、ベンチから流れを変えるシューターとしてチームに貢献した。

また、リーグ屈指のトラッシュトーカーとしても知られ、ラリー・バードとは互いに挑発し合いながら数々の名勝負を繰り広げた。

非常にタフで負けず嫌いな熱血漢であり、口頭でもフィジカルでも激しくプレッシャーをかけ続けるスタイルで、対戦相手からは最も嫌がられる存在となっていた。

のちにペイサーズの象徴となるレジー・ミラーは、若き日にこのパーソンの「絶対に物怖じしないタフな姿勢」を見て多くを学んだと言われている。

弟のウェズリー・パーソンも1994年にNBAデビューを果たし、フェニックス・サンズなどで活躍している。

5.ケニー・ウォーカー

キャプチャ

Kenny Walker

出身校:ケンタッキー大学

ポジション:SF、PF

所属チーム:NYK(1986~1991)、WSB(1993~1995)

キャリア平均:7.0PPG、4.0RPG、0.7APG

「スカイ・ウォーカー」の異名を持つダンクの名手として知られ、1989年のスラムダンクコンテストで優勝を果たした。

ニューヨーク・ニックスに入団すると、1年目から先発フォワードとして平均10.4得点を記録したが、これがキャリアハイの成績となった。

抜群の身体能力を活かしたトランジションでのフィニッシュや、豪快なブロックショット、リバウンドで貢献するフォワードだったが、慢性的な膝の故障に悩まされ、爆発的なジャンプ力は徐々に失われていった。

さらに、チームの戦術変更なども重なり、出場時間の減少とともに成績も下降していった。

NBAでは期待されたほどの活躍はできなかったものの、チームを盛り上げる豪快なプレーで人気を集めた。

その後はイタリアやスペイン、日本など海外リーグでもプレーを続け、日本では日本プロバスケットボールリーグの本田技研工業レッドファルコンズなどで活躍した。

7.ロイ・タープリー

キャプチャ

Roy Tarpley

出身校:ミシガン大学

ポジション:PF、C

所属チーム:DAL(1986~1991、1994~1995)

キャリア平均:12.6PPG、10.0RPG、1.0APG、1.1SPG、1.2BPG

個人賞:Sixth Man of the Year(1987-1988)

恵まれたサイズと高い運動能力を兼ね備えたインサイドプレーヤーとして期待され、ダラス・マーベリックスに入団した。

2年目となる1987-88シーズンには控えでプレーしながら平均13.5得点、11.8リバウンドを記録し、シックスマン賞を受賞。

プレーオフでもチームの快進撃を支え、カンファレンス決勝進出に大きく貢献した。

その後も平均15得点、11リバウンド以上を記録するなどリーグ屈指のビッグマンとして活躍したが、薬物問題を繰り返し、1991年にコカイン使用によりリーグから追放処分を受ける。

海外リーグでプレーした後、1994年にマーベリックスへ復帰したものの、更生プログラム期間中の飲酒が規定違反と判断され、永久追放処分を受けてNBAを去った。

その後はギリシャリーグなど海外で現役を続けたが、2015年に50歳で死去した。

8.ロン・ハーパー

キャプチャ

Ron Harper

出身校:マイアミ大学

ポジション:SG、PG

所属チーム:CLE(1986~1989)→LAC(1989~1994)→CHI(1994~1999)→LAL(1999~2001)

キャリア平均:13.8PPG、4.3RPG、3.9APG、1.7SPG

恵まれた身体能力と高いディフェンス力を兼ね備え、若い頃はリーグ屈指のスコアラーとして、晩年は優勝請負人として活躍したオールラウンドガード。

キャリアの途中でプレースタイルを大きく変化させ、シカゴ・ブルズとロサンゼルス・レイカーズという2つの王朝を支えた。

クリーブランド・キャバリアーズに入団すると、1年目から平均22.9得点、4.8リバウンド、4.8アシスト、2.5スティールという新人離れした成績を記録した。

チーム成績の差もあって新人王はチャック・パーソンに譲ったものの、攻守に高い能力を発揮し、豪快なダンクも披露するハーパーは「お金のないチームのマイケル・ジョーダン」とも評された。

その後もキャバリアーズの中心選手として活躍していたが、1989年に膝に重傷を負い、ロサンゼルス・クリッパーズへトレードされる。

故障を乗り越えると再び高い得点能力を発揮し、ファンからは「ハリウッド・ハーパー」の愛称で親しまれた。

1994年にシカゴ・ブルズへ移籍すると、故障の影響やチームシステムの違いもあり個人成績は大きく低下した。

しかし、得点よりもディフェンスやゲームメイクに徹する役割へと転身し、マイケル・ジョーダンやスコッティ・ピッペンを支える先発ガードとして、1996年からの3連覇に大きく貢献した。

その後は、ロサンゼルス・レイカーズのヘッドコーチに就任したフィル・ジャクソンの要望でレイカーズへ移籍する。

トライアングル・オフェンスを熟知するキープレーヤーとしてチームを支え、シャキール・オニールコビー・ブライアントらとともに2度の優勝を経験した。

若き日のエースから王朝を支える名脇役へと見事に役割を変え、5個のチャンピオンリングを手にした名ガードとして知られている。

11.ジョン・サリー

キャプチャ

John Salley

出身校:ジョージア工科大学

ポジション:PF、C

所属チーム:DET(1986~1992)→MIA(1992~1995)→TOR(1995~1996)→CHI(1996)、LAL(1999~2000)

キャリア平均:7.0PPG、4.5RPG、1.2APG、1.3BPG、.506FG%

長い手足から「スパイダー」の異名を持ち、デトロイト・ピストンズではベンチから登場してリバウンドやブロックショットでチームに貢献した。

派手なプレーこそ多くはなかったが、機動力を生かしたディフェンスと献身的な働きで、「バッドボーイズ」と呼ばれたピストンズに欠かせないロールプレイヤーとして1989年、1990年の2連覇に貢献している。

その後はマイアミ・ヒート、トロント・ラプターズなどを経て、1996年にシカゴ・ブルズへ移籍し、マイケル・ジョーダンらとともに自身3度目の優勝を経験。

さらにキャリア晩年にはロサンゼルス・レイカーズでシャキール・オニールコビー・ブライアントらとともに2000年の優勝を果たした。

ピストンズ、シカゴ・ブルズ、ロサンゼルス・レイカーズで合計4度の優勝を経験し、異なる3つのチームでチャンピオンリングを獲得したNBA史上初の選手となった。

引退後は俳優やテレビ番組の司会者としても活動し、歯に衣着せぬ発言で人気を集めている。

15.デル・カリー

キャプチャ

Dell Curry

出身校:バージニア工科大学

ポジション:SG

所属チーム:UTA(1986~1987)→CLE(1987~1988)→CHH(1988~1999)→MIL(1999)→TOR(1999~2002)

キャリア平均:11.7PPG、2.4RPG、1.8APG、.402 3P%

個人賞:Sixth Man of the Year(1993-1994)

スリーポイントシュートはキャリア通算で4割以上の成功率を誇り、長くリーグ屈指のシックスマンとして活躍した。

シャーロット・ホーネッツでは10シーズンにわたってプレーし、1993-94シーズンには82試合すべてをベンチから出場しながら平均16.3得点を記録。

この数字は当時、全試合を控えとして出場した選手では歴代最高の平均得点だった。

安定したアウトサイドシュートを武器にホーネッツの得点源として活躍し、球団創設期を支えた功績から、通算得点は長く球団記録として残り、背番号「30」はホーネッツの永久欠番となっている。

息子のステフィン・カリーはリーグを代表するスーパースターとなり、もう一人の息子であるセス・カリーもNBA選手として活躍している。

22.スコット・スカイルズ

キャプチャ

Scott Skiles

出身校:ミシガン州立大学

ポジション:PG

所属チーム:MIL(1986~1987)→IND(1987~1989)→ORL(1989~1994)→WSB(1994~1995)→PHI(1995~1996)

キャリア平均:11.1PPG、2.5RPG、6.5APG、.379 3P%

個人賞:Most Improved Player(1990-1991)

プレー中の表情が似ていることから、人気ホラー映画「チャイルド・プレイ」の主人公にちなみ「チャッキー」のニックネームで親しまれた。

NBAデビューからしばらくは目立った成績を残せなかったが、エクスパンションドラフトで新設されたばかりのオーランド・マジックへ移籍すると先発ポイントガードに定着し、移籍2年目には平均17.2得点、8.4アシストを記録した。

このシーズンには1990年12月30日のデンバー・ナゲッツ戦で、NBA歴代最多となる1試合30アシストという記録を樹立。

この活躍により最も成長した選手に贈られるMIPを受賞している。

卓越したゲームメイクと勝負強さで若いマジックを牽引したが、1993年にアンファニー・ハーダウェイが入団すると徐々に出場時間を減らし、司令塔の座を譲る一方で、ハーダウェイの良き手本として経験を伝え、両者が同時にコートへ立つ場面も多く見られた。

引退後は指導者へ転身し、フェニックス・サンズ、シカゴ・ブルズ、オーランド・マジックなどでヘッドコーチを務めている。

24.アルビダス・サボニス

キャプチャ

Arvydas Sabonis

ポジション:C

所属チーム:POR(1995~2001、2002~2003)

キャリア平均:12.0PPG、7.3RPG、2.1APG、1.1BPG、.500FG%

ヨーロッパ史上最高のセンターとの呼び声高く、卓越したパスセンスとシュート力、インサイドの強さを兼ね備えた万能型ビッグマンとして世界的な評価を受けた。

ソウル五輪ではデビッド・ロビンソンダニー・マニングら後にNBAで活躍する選手を擁したアメリカ代表を破り、ソビエト連邦代表の中心選手として金メダル獲得に大きく貢献している。

1986年にポートランド・トレイルブレイザーズからドラフト指名を受けたものの、ソビエト連邦の事情やアキレス腱など度重なる故障もあってNBA入りは実現せず、ヨーロッパで数々のタイトルを獲得しながら世界最高クラスのセンターとして活躍を続けた。

ドラフト指名から9年後、30歳となった1995年にようやくブレイザーズへ入団し、故障や体重増加の影響から全盛期の姿からは程遠い状態にあったものの、広いシュートレンジとセンター離れしたパス能力、巧みなポストプレーで異彩を放ち、NBAでもリーグ屈指の技巧派ビッグマンとして高く評価された。

1997-98シーズンにはキャリアハイとなる平均16.0得点、10.0リバウンド、3.0アシストを記録し、チームの主力としてプレーオフ進出にも貢献している。

2001年に一度引退した後、母国リトアニアへ戻ってプレーしたのち、2002年に再びブレイザーズへ復帰。

1シーズンをベンチプレーヤーとして過ごして現役生活に幕を下ろした。

もし全盛期にNBAでプレーしていれば歴代屈指のセンターになっていたとも評され、後のヨーロッパ出身ビッグマンたちに大きな影響を与えた存在として知られている。

2011年にバスケットボール殿堂入りを果たした。

息子のドマンタス・サボニスもNBAでプレーしている。

25.マーク・プライス

キャプチャ

Mark Price

出身校:ジョージア工科大学

ポジション:PG

所属チーム:CLE(1986~1995)→WSB(1995~1996)→GSW(1996~1997)→ORL(1997~1998)

キャリア平均:15.2PPG、2.6RPG、6.7APG、1.2SPG、.402 3P%

ALL TEAM:All-NBA 1st 1回、All-NBA 3rd 3回

オールスター出場:4回(1989、1992~1994)

リーグ屈指のシュート力を持ったポイントガードであり、NBA選手間ではチームメイトの能力を引き上げる司令塔としても高く評価された。

80年代後半から90年代前半にかけてた。

ドラフトではダラス・マーベリックスから指名を受け、直後に将来のドラフト指名権とのトレードでクリーブランド・キャバリアーズへ移籍する。

同期のチームメイトの多くが活躍を見せる中、控えのプライスは目立った成績を残すことができず、チームは翌年のドラフトでケビン・ジョンソンを指名する。

期待の新人ポイントガードの加入に発奮するかのように、2年目を迎えたプライスは平均16.0得点、6.0アシストという好成績を残し、ジョンソンをトレードへと追いやった。

3年目にはオールスターに初選出され、チームも57勝25敗という好成績を収めると、マジック・ジョンソンはキャバリアーズを「90年代を代表するチームになる」と高く評価した。

その言葉通り、キャバリアーズは地区を代表する強豪チームへと成長し、プライスもオールスターの常連となるなどリーグ屈指の司令塔へと飛躍した。

正確無比なジャンプシュートとフリースローを武器に、NBA史上でも数少ない「50-40-90クラブ」(フィールドゴール成功率50%+スリーポイント成功率40%+フリースロー成功率90%)を達成するなど、シュート力では歴代屈指の評価を受けている。

しかし、チームとしての全盛期にシカゴ・ブルズが圧倒的な強さでリーグを支配し始め、プレーオフではブルズの前に敗退するシーズンが続いた。

1993年、マイケル・ジョーダンの引退によって新たなチャンピオンチームが生まれる可能性が高まったが、主力に故障者が相次いでいたキャバリアーズに優勝を争う力はすでになく、プライス自身も故障が目立ち始めるようになり、1995年にチームを去ることになった。

その後はワシントン・ブレッツなどでプレーを続け、ブレッツでは弟のブレント・プライスとチームメイトになっている。

背番号「25」は、球団黄金期を支えた功績を称えられ、キャバリアーズの永久欠番となっている。

27.デニス・ロドマン 

キャプチャ

Dennis Rodman

出身校:サザンオクラホマ州立大学

ポジション:PF

所属チーム:DET(1986~1993)→SAS(1993~1995)→CHI(1995~1999)→LAL(1999)→DAL(2000)

キャリア平均:7.3PPG、13.1RPG、1.8APG、.521FG%

個人賞:Defensive Player of the Year2回(1989-1990、1990-1991)

ALL TEAM:All-NBA 3rd 2回、All-Defensive 1st 7回、All-Defensive 2nd 1回

オールスター出場:2回(1990、1992)

常識では測れない個性と、NBA史上最高クラスのリバウンド・ディフェンス能力を兼ね備えた異色のスーパースター。

得点にはほとんど執着せず、勝利のために泥臭い仕事を徹底するプレースタイルで5度のNBA制覇を成し遂げ、「史上最高のロールプレイヤー」とも称されている。

80年代後半から90年代にかけてリーグ屈指のリバウンダー、ディフェンダーとして活躍し、どんな密集地帯でもくぐり抜けてリバウンドを奪い取る姿から「ワーム」の愛称で親しまれた。

高校卒業後はホームレス生活を経験するなど、「殺人以外のことは何でもやった」と振り返るほど荒れた時期を過ごす。

その後、知人の勧めでNAIA所属のサザンオクラホマ大学へ進学すると、3年間で平均25.7得点、15.7リバウンドという圧倒的な成績を残し、無名校の選手ながらNBAスカウトから注目される存在となった。

25歳でNBAデビューを果たしたロドマンは、「父親のような存在」と慕うチャック・デイリーの指導のもと、デトロイト・ピストンズで守備のスペシャリストへと成長する。

ハードなディフェンスで「バッドボーイズ」と恐れられたチームの中心選手として、1989年からの2連覇に大きく貢献した。

1990年には初めて最優秀守備選手賞を受賞し、リーグ最高のディフェンダーとして認められると、授賞式では感極まって涙を流した。

翌年も2年連続で同賞を受賞したが、長年ライバル関係にあったシカゴ・ブルズに敗れるようになると、ピストンズは徐々に衰退していく。

この頃からロドマンはリバウンドへの執念をさらに強め、1991-92シーズンには平均18.7リバウンドという近代NBAでは異例の数字を記録。

その後も7年連続でリバウンド王に輝き、狂気とも言える執念でボールを奪い続けた。

一方で、精神的な支えでもあったチャック・デイリーがチームを去ってからは、それまでのヒール役とは異なる奇行が目立つようになる。

1993年にサンアントニオ・スパーズへ移籍すると、全身にタトゥーを入れ、髪を派手な色に染めるなど、当時としては前例のないファッションで世間を驚かせた。

さらに練習への遅刻やタイムアウト中のハドルに加わらないなど問題行動も増え、チームとの関係は次第に悪化していく。

1995年、ロドマンは事実上放出同然の形でシカゴ・ブルズへ移籍する。

ブルズはかつての宿敵であり、スコッティ・ピッペンには過去に大怪我を負わせた因縁もあったため、リーグ屈指の問題児を迎え入れることに不安の声も少なくなかった。

その一方で、マイケル・ジョーダンとピッペンは球団から「チャールズ・バークリーかロドマンのどちらかを獲得できる」と相談された際、迷うことなくロドマンを希望したと言われている。

1995-96シーズン、ロドマンは期待どおりリバウンドとディフェンスで圧倒的な存在感を示しただけでなく、難解とされるトライアングル・オフェンスにも素早く順応。

ヘッドコーチのフィル・ジャクソンに敬意を払い、ジョーダンやピッペンを公の場で称賛するなど、意外な一面も見せた。

抜群のケミストリーを築いたブルズは72勝10敗という当時NBA史上最高勝率を記録し、3シーズンぶりの優勝を達成。

ロドマン自身にとっても6シーズンぶり3度目のチャンピオンリングとなった。

シーズン終了後に出版した自伝はベストセラーとなり、その強烈な個性は社会現象となるほどの人気を集めた。

「ロドマニア」という言葉まで生まれ、NBAを代表するカリスマの一人となっていく。

ブルズではその後も3連覇を達成し、王朝の重要な一員として歴史に名を刻んだ。

王朝解体後はロサンゼルス・レイカーズ、ダラス・マーベリックスでプレーし、2000年にNBAを離れた後も独立リーグなどでプレーを続けた。

通算7度のリバウンド王、2度の最優秀守備選手賞、そして5度のNBA優勝という輝かしい実績を残し、背番号「10」はピストンズの永久欠番となっている。

なお、ブルズでは「10」がすでに永久欠番だったため、緊急通報番号「911」にちなみ、「チームを救う存在」という意味を込めて背番号「91」を着用したことでも知られている。

2011年にバスケットボール殿堂入りを果たした。

30.ネイト・マクミラン

キャプチャ

Nate McMillan

出身校:ノースカロライナ州立大学

ポジション:PG、SG

所属チーム:SEA(1986~1998)

キャリア平均:5.9PPG、4.0RPG、6.1APG、1.9SPG

ALL TEAM:All-Defensive 2nd 2回

ドラフトでは下位での指名となったが、入団したシアトル・スーパーソニックスでは1年目から司令塔として活躍し、新人ながら1試合25アシストをマークするなど平均8.2アシストを記録して高い評価を受けた。

ゲイリー・ペイトンの入団後に控えとしてプレーすることになったが、チームからの信頼は揺るがず、その後もシックスマンとして先発と変わらない出場時間を与えられ、勝負どころでは必ずコートに立つ存在となった。

卓越したディフェンス能力とゲームコントロールに定評があり、1993-94シーズンにはシックスマンながらリーグトップとなる平均3.0スティールを記録している。

派手な得点よりも守備やゲームメイク、リーダーシップでチームを支える名脇役として知られた。

1996年のシカゴ・ブルズとのファイナルでは故障によりシリーズ前半を欠場し、その間にチームは3連敗を喫したが、第4戦から強行出場すると、マイケル・ジョーダンに対して執拗なディフェンスを見せ、ソニックスはシリーズ敗退寸前から2連勝する粘りを見せた。

デビュー以来ソニックス一筋でプレーを続け、献身的なプレースタイルと高い人格からファンやチームメイトの信頼は厚く、「ミスター・ソニック」の称号を与えられるなど球団を象徴する存在となった。

引退後はソニックスのヘッドコーチに就任し、その後もポートランド・トレイルブレイザーズ、インディアナ・ペイサーズ、アトランタ・ホークスなどでヘッドコーチを務めている。

背番号「10」はソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)の永久欠番となっている。

33.ケビン・ダックワース

キャプチャ

Kevin Duckworth

出身校:イースタンイリノイ大学

ポジション:C

所属チーム:SAS(1986)→POR(1986~1993)→WSB(1993~1995)→MIL(1995~1996)→LAC(1996~1997)

キャリア平均:11.8PPG、5.8RPG、0.9APG

個人賞:Most Improved Player(1987-1988)

オールスター出場:2回(1989、1991)

サンアントニオ・スパーズでは出場機会に恵まれず、1年目のシーズン途中にポートランド・トレイルブレイザーズへとトレードされる。

移籍後は先発センターとして起用され、2年目のシーズンに平均15.8得点、7.4リバウンドを記録して最も成長した選手に贈られるMIPを受賞した。

翌シーズンには平均18.1得点を記録してオールスターにも初選出され、テリー・ポーター、クライド・ドレクスラーらとともにブレイザーズ黄金期を支えるインサイドの要として活躍、チームの2度にわたるファイナル進出に大きく貢献している。

派手さはないものの、恵まれた体格を生かしたポストプレーと柔らかなシュートタッチを武器に安定した得点を重ね、全盛期にはリーグ屈指のセンターとして高く評価された。

しかし、キャリア後半は体重増加やコンディション不良の影響で数字を下降させ、チームを渡り歩いた後、1997年に現役を引退した。

引退後もブレイザーズのイベントなどに積極的に参加し、ファンから愛され続けたが、2008年に心不全のため44歳の若さで死去した。

46.ジェフ・ホーナセック

キャプチャ

Jeff Hornacek

出身校:アイオワ州立大学

ポジション:SG

所属チーム:PHO(1986~1992)→PHI(1992~1994)→UTA(1994~2000)

キャリア平均:14.5PPG、3.4RPG、4.9APG、1.4SPG、.403 3P%

オールスター出場:1回(1992)

大学時代は奨学金をもらえない「ウォークオン(練習生)」からスタートし、地道な努力でチームのエースへと成長すると、ドラフト2巡目46位という下位指名からNBA入りを果たす。

フェニックス・サンズでの1年目は平均5.3得点の成績に終わったものの、ポイントガードもこなせる器用さを見せた。

ユーティリティープレーヤーとして2年目以降も出場時間を増やし、それに伴ってオフェンスでも得点源として活躍を始める。

1991-92シーズンになると、平均20.1得点、5.0リバウンド、5.1アシスト、2.0スティールというオールラウンドな成績を残して初めてオールスターに選出され、リーグ屈指のシューティングガードとして評価を高めた。

シーズン終了後にチャールズ・バークリーとの大型トレードで移籍したフィラデルフィア・76ersでは、司令塔としての役割も任され、平均19.1得点、6.9アシストを記録するなど攻守の中心選手として活躍した。

1994年にユタ・ジャズへ移籍してからはジョン・ストックトンとバックコートコンビを組み、高精度のアウトサイドシュートと的確な判断力を武器にチームの重要な得点源として2度のファイナル進出に大きく貢献した。

2000年までジャズでプレーを続け、背番号「14」はジャズの永久欠番となった。

フリースローを打つ前に頬を3回撫でるルーティンで知られ、この動作は試合を見ている3人の子供たちへのメッセージだったと語っている。

60.ドラゼン・ペトロビッチ

キャプチャ

Drazen Petrovic

ポジション:SG

所属チーム:POR(1989~1991)→NJN(1991~1993)

キャリア平均:15.4PPG、2.3RPG、2.4APG、.506FG%、.437 3P%

ALL TEAM:All-NBA 3rd 1回

クロアチア出身。

アメリカの大学を経ずにNBA入りして成功を収めた最初のヨーロッパ出身選手として知られ、後に続くヨーロッパ出身選手たちの道を切り開いたパイオニアと評価されている。

1986年のドラフトでポートランド・トレイルブレイザーズから指名を受けたものの、ヨーロッパにとどまり、1988年にスペインのレアル・マドリードへ入団。

ヨーロッパでは圧倒的な得点力で数々のタイトルを獲得し、最優秀選手にも選ばれるなど世界最高クラスのガードとして名声を築いた。

スペインで1シーズンを過ごした後にNBAへの挑戦を決意し、ブレイザーズがレアル・マドリードへ違約金を支払うことでNBA入りが実現する。

ヨーロッパでは最優秀選手として活躍していたペトロビッチだったが、ブレイザーズでは控えとして起用され十分な出場時間を得られず、その実力を発揮できない日々が続いた。

3年目のシーズンには出場機会が激減し、平均4.4得点まで数字を落とすと、言葉の壁や起用法への不満も重なり、シーズン途中にトレードでニュージャージー・ネッツへ移籍する。

ネッツでもシーズン終了までは全試合で控えとしてプレーしたが、出場時間は大幅に増え、移籍後は平均12.6得点を記録して実力の片鱗を見せた。

翌シーズンは開幕から先発に定着し、82試合すべてに出場してチームトップとなる平均20.6得点を記録。

ネッツをチーム史上初の50勝到達とプレーオフ進出へ導いたほか、スリーポイントシュート成功数はリーグ9位の123本、成功率は100本以上成功させた選手の中でトップとなる44.4%を記録し、リーグ屈指のシューターとして高い評価を受けた。

その後、デリック・コールマンケニー・アンダーソンら若い才能が加わり、チームには明るい未来が期待されていたが、1993年にクロアチア代表の活動中、ドイツで交通事故に遭い、28歳という若さで急逝した。

その突然の死は世界中のバスケットボール界に大きな衝撃を与えた。

背番号「3」はネッツの永久欠番となっている。

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