
主なドラフト選手
1.デビッド・ロビンソン

David Robinson
出身校:海軍兵学校
ポジション:C
所属チーム:SAS(1989~2003)
キャリア平均:21.1PPG、10.6RPG、2.5APG、1.4SPG、3.0BPG、.518FG%
個人賞:Rookie of the Year(1989-1990)、Defensive Player of the Year(1991-1992)、MVP(1994-1995)
ALL TEAM:All-NBA 1st 4回、All-NBA 2nd 2回、All-NBA 3rd 4回、All-Defensive 1st 4回、All-Defensive 2nd 4回
オールスター出場:10回(1990~1996、1998、2000~2001)
216cmの恵まれた体格と驚異的な運動能力を兼ね備え、攻守両面でリーグを支配した90年代最高峰のセンターのひとり。
海軍で軍役に就いていたことから「提督(The Admiral)」のニックネームで親しまれ、長年サンアントニオ・スパーズの象徴として活躍した。
サンアントニオ・スパーズからドラフト指名を受け、2年間の義務軍役を終えた1989-90シーズンにNBAデビューを果たすと、平均24.3得点、12.0リバウンド、1.7スティール、3.9ブロック、FG成功率53.1%という圧巻の成績を記録。
チームを前年より35勝も上積みさせる原動力となり、新人王を受賞した。
216cmのセンターとしては前例のない身体能力を誇り、ガード顔負けのスピードでコートを駆け抜けて豪快なダンクを叩き込む一方、ミドルレンジからも高い精度で得点を重ねた。
攻撃の引き出しは非常に多く、1993-94シーズンにはシーズン最終戦で71得点を記録してシャキール・オニールとの熾烈な争いを逆転し、平均29.8得点で初の得点王に輝いている。
マイケル・ジョーダンは、アキーム・オラジュワン、パトリック・ユーイング、そしてロビンソンの3人を「NBAを代表するBIG3」と評しており、1992年にはドリームチームの一員としてバルセロナ五輪で金メダルも獲得した。
リーグを代表するセンターとして活躍を続けた一方で、ロビンソンを擁するスパーズは毎年のように優勝候補に挙げられながらも、ファイナル進出すら果たせないシーズンが続いた。
ここ一番でチームを勝利へ導けないとして、ファンやメディアだけでなく、一部のチームメイトからも批判を受けることがあった。
1996-97シーズンには故障で長期離脱を余儀なくされ、常勝チームだったスパーズは一転してリーグ下位へ転落する。
ロビンソン不在は、彼の存在価値の大きさを改めて証明すると同時に、結果としてティム・ダンカンを全体1位で指名する機会をもたらした。
1997-98シーズンに復帰すると、ダンカンとの「ツインタワー」は瞬く間にリーグ屈指のフロントコートとなり、スパーズは再び優勝候補へ返り咲く。
翌1998-99シーズンには自ら主役の座をダンカンへ譲り、守備やリーダーシップでチームを支える役割へと転身。
プレーオフでは圧倒的な強さで勝ち進み、ニューヨーク・ニックスとのファイナルを制して悲願だった初優勝を果たした。
その後も献身的なプレーでチームを支え続け、現役最後となる2002-03シーズンには2度目のNBA制覇を達成。
有終の美を飾って現役を引退した。
デビューから引退まで14シーズンをスパーズ一筋でプレーし、背番号「50」はチームの永久欠番となっている。
優れた実績だけでなく、その誠実な人柄からもNBA史に残る名センターとして高く評価されている。
2009年にバスケットボール殿堂入りを果たした。
2.アーメン・ギリアム

Armen Gilliam
出身校:ネバダ大学ラスベガス校
ポジション:PF、SF
所属チーム:PHO(1987~1989)→CHH(1989~1991)→PHI(1991~1993)→NJN(1993~1996)→MIL(1996~1999)→UTA(2000)
キャリア平均:13.7PPG、6.9RPG、1.2APG
逞しい肉体とパワフルなプレーから「The Hammer」のニックネームで呼ばれた。
フェニックス・サンズでは1年目から平均14.8得点、7.9リバウンドの活躍を見せ、2年目には主力としてプレイオフ・カンファレンス決勝進出に貢献したが、3年目のシーズン序盤にトレードでチームを去ると、以降は多くのチームを渡り歩くジャーニーマンとしてキャリアを送ることになった。
その後はフィラデルフィア・76ers、シャーロット・ホーネッツ、ネッツなどでインサイドの得点源として安定した成績を残し、堅実なパワーフォワードとして重宝された。
デビュー以来、長年にわたって平均15得点前後を記録し続け、ニュージャージ・ネッツ在籍時の1995-96シーズンにはキャリアハイとなる平均18.3得点、9.1リバウンドを記録している。
キャリア後半になって、「名前を間違って発音されるのをいちいち訂正するのが面倒になった」という理由で、「アーモン(Armon)」から「アーメン(Armen)」に改名した。
2000年に現役を引退し、13年の選手生活に幕を下ろした。
2011年、バスケットボールの試合中に心臓発作を起こし、47歳の若さで死去している。
5.スコッティ・ピッペン

Scottie Pippen
出身校:セントラルアーカンソー大学
ポジション:SF
所属チーム:CHI(1987~1998)→HOU(1998~1999)→POR(1999~2003)→CHI(2003~2004)
キャリア平均:16.1PPG、6.4RPG、5.2APG、2.0SPG
個人賞:All-Star Game MVP(1994)
ALL TEAM:All-NBA 1st 3回、All-NBA 2nd 2回、All-NBA 3rd 2回、All-Defensive 1st 8回、All-Defensive 2nd 2回
オールスター出場:7回(1990、1992~1997)
卓越したディフェンス、ゲームメイク、得点力を兼ね備えた史上最高のオールラウンドプレーヤーの一人。
マイケル・ジョーダンとともにシカゴ・ブルズを6度の優勝へ導き、NBA史に残る万能選手として高く評価される。
オールスターの常連となり、2度の3連覇を達成。さらにオリンピックでは2度の金メダルを獲得するなど、常に最高峰の舞台で活躍を続けた。
しかしキャリア前半は「ジョーダンあってのピッペン」と見られることも多く、その実力は過小評価されていた。
1993年、マイケル・ジョーダンが突然引退を表明すると、多くの関係者はブルズの低迷を予想した。
ヘッドコーチのフィル・ジャクソンでさえ、「バードやマジックが去った後のチームを見れば分かる」と悲観的な見方を示していた。
しかしブルズは予想に反して優勝争いを演じ、ピッペンは平均22.0得点、8.7リバウンド、5.6アシスト、2.9スティールというオールラウンドな成績でチームを牽引。
このシーズン、オールスターゲームMVPを獲得するとともに、自身初のオールNBA1stチームに選出され、オールディフェンシブ1stチームにも3年連続で名を連ねた。
ジョーダン不在でもチームを勝たせられることを証明し、リーグ屈指のスーパースターとしての評価を確立した。
1995年にジョーダンが電撃復帰を果たすと、ジョーダン自身も「ブルズはスコッティのチームだ」と語り、その価値を公然と認めている。
1995-96シーズン、ブルズは当時NBA史上最高となる72勝10敗を記録。ピッペンはジョーダンとともに再びリーグを支配し、チームは2度目の3連覇を達成した。
その一方で、球団フロントとは契約問題を巡って長年対立を続け、関係は修復不能なまでに悪化。
1998年、11シーズンを過ごしたブルズを離れることになった。
ヒューストン・ロケッツで1シーズンを過ごした後、ポートランド・トレイルブレイザーズへ移籍。
2000年のプレーオフ・カンファレンス決勝ではフィル・ジャクソン率いるロサンゼルス・レイカーズと対戦する。
ピッペンは数字以上の存在感でチームを牽引し、格上と見られたレイカーズをあと一歩まで追い詰めた。
しかし、第7戦で逆転負けを喫し、歴史に残る激戦を勝ち抜いたレイカーズはその後3連覇を達成し、新たな王朝を築くことになる。
その後は年齢とともに全盛期ほどの力を発揮できなくなったが、かつての盟友ジョン・パクソンがGMを務める古巣ブルズへ復帰し、1シーズンをプレーした後、2004年に現役を引退した。
背番号「33」はブルズの永久欠番となっている。
甥のウィリアム・ピッペンはプロバスケットボール選手となり、日本のbjリーグでもプレーした。
2010年にバスケットボール殿堂入りを果たしている。
6.ケニー・スミス

Kenny Smith
出身校:ノースカロライナ大学
ポジション:PG
所属チーム:SAC(1987~1990)→ATL(1990)→HOU(1990~1996)→DET(1996)→ORL(1996~1997)→DEN(1997)
キャリア平均:12.8PPG、2.0RPG、5.5APG、1.0SPG、.399 3P%
191cmの身長でポイントガードを務め、リーグ随一のファストブレイクの推進力とスピードから「ザ・ジェット」のニックネームで呼ばれた。
ノースカロライナ大ではマイケル・ジョーダンやブラッド・ドアティらとともにプレーしている。
ドラフトで指名を受けたサクラメント・キングスでは、低迷するチームを浮上させるフランチャイズプレーヤーとして期待がかかった。
1年目から先発を務めて平均13.8得点、7.1アシストを記録し、2年目には平均17.3得点と順調な成長を見せたが、チーム成績に改善が見られないと、3年目のシーズン途中にアトランタ・ホークスへトレードされ、シーズン終了後に再びヒューストン・ロケッツへトレードされた。
ロケッツでは移籍1年目から平均17.7得点を記録し、高速の速攻と正確なアウトサイドシュートを武器にチームの司令塔として活躍したが、若手選手の台頭により徐々に出場時間が減少していった。
ロケッツは1994年に球団史上初の優勝を飾る。
しかし、スミスは依然として先発ポイントガードを務めていたものの、若手のサム・キャセールと出場時間を分け合うようになり、各スタッツはデビュー以来最低の数字となっていた。
翌1995年、ロケッツは再びファイナルへ進出したが、若く勢いに乗るオーランド・マジックを相手に劣勢が予想された。
第1戦では一時20点差をつけられる苦境に立たされたものの、スミスは次々とスリーポイントシュートを沈め、試合終了直前には延長に持ち込む同点スリーを成功させるなど、劇的な逆転勝利の立役者となる。
シリーズの流れを掴んだロケッツは周囲の予想を覆す4戦全勝で2年連続2度目の優勝を果たした。
1997年に現役を引退。
その後はテレビ解説者へ転身し、歯に衣着せぬコメントと軽妙な語り口で人気を集め、NBAを代表する解説者として活躍を続けている。
7.ケビン・ジョンソン

Kevin Johnson
出身校:カリフォルニア大学
ポジション:PG
所属チーム:CLE(1987~1988)→PHO(1988~1999、2000)
キャリア平均:17.9PPG、3.3RPG、9.1APG、1.5SPG
個人賞:Most Improved Player(1988-1989)
ALL TEAM:All-NBA 2nd 4回、All-NBA 3rd 1回
オールスター出場:3回(1990~1991、1994)
圧倒的なスピードと突破力を武器に、1980年代後半から90年代にかけてリーグ屈指の司令塔として活躍したポイントガード。
豪快なダンクも持ち味とし、小柄ながらインサイドへ果敢に切り込むプレースタイルでフェニックス・サンズ黄金期を支えた。
高校、大学では野球選手としても活躍し、1986年にはMLBからドラフト指名を受け、マイナーリーグでもプレーした経験を持つ。
クリーブランド・キャバリアーズへ入団したが、2年目のマーク・プライスが急成長したことで出場機会が限られ、ルーキーシーズン途中にフェニックス・サンズへトレードされた。
サンズではすぐに先発ポイントガードへ定着し、2年目の1988-89シーズンに平均20.4得点、12.2アシストを記録。
前年わずか28勝だったチームを一気にプレーオフ・カンファレンス決勝へ導く原動力となり、最も成長した選手に贈られるMIPを受賞した。
このシーズンから3年連続で平均20得点・10アシスト以上を記録し、リーグを代表するポイントガードとしてサンズを西地区屈指の強豪へと押し上げた。
ロングレンジシュートには課題を残していたものの、マイケル・ジョーダンが「オープンスペースを与えたら誰にも止められない」と評したほどの爆発的なクイックネスを誇り、ビッグマンの頭上からダンクを叩き込むなど、小柄なポイントガードとは思えないダイナミックなプレーでもファンを魅了した。
1992-93シーズンにはチャールズ・バークリーが加入し、サンズは初のNBAファイナルへ進出。
しかし、マイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズの前に敗れ、悲願の優勝にはあと一歩届かなかった。
その後はジョンソンをはじめ主力選手の故障が相次ぎ、チームは次第に優勝争いから遠ざかっていく。
それでも1996-97シーズンには平均20.1得点、9.3アシストを記録するなど、なおリーグ屈指の実力を維持していた。
10シーズンで現役を終えることにこだわっていたジョンソンは、1997年に一度引退を表明。
しかしチームの強い要請を受けて翌シーズンもプレーし、シーズン終了後に改めて現役を引退した。
さらに1999-2000シーズンにもプレーオフ進出を狙うチームから復帰を求められ、レギュラーシーズンとプレーオフで数試合に出場。
異例の二度にわたる現役復帰を経験している。
背番号「7」はサンズの永久欠番となっている。
現役時代から人格者として知られ、引退後は政界へ転身。
2008年には故郷カリフォルニア州サクラメント市の市長に選出され、市政でも手腕を発揮した。
10.ホーレス・グラント

Horace Grant
出身校:クレムゾン大学
ポジション:PF、C
所属チーム:CHI(1987~1994)→ORL(1994~1999)→SEA(1999~2000)→LAL(2000~2001)→ORL(2001~2003)→LAL(2003~2004)
キャリア平均:11.2PPG、8.1RPG、2.2APG、1.0SPG、1.0BPG、.509FG%
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 4回
オールスター出場:1回(1994)
トレードマークのゴーグルを装着し、インサイドの要としてシカゴ・ブルズやオーランド・マジックなどで活躍した。
ブルズ入団当初はチャールズ・オークリーの控えを務めていたが、グラントの将来性を見込んだチームの判断により、オークリーを放出してグラントが先発フォワードに昇格する事になった。
当時はエースのマイケル・ジョーダンからもグラントには荷が重いと否定的な意見が聞かれたが、チームにとって必要不可欠な選手へと成長し、リバウンドやディフェンス、ルーズボールなど目立たない仕事を献身的にこなし、1991年からの3連覇に大きく貢献した。
ジョーダン引退後の1993-94シーズンには平均15.1得点、11.0リバウンドを記録し、初のオールスター出場を果たしている。
リーグ有数の好ディフェンダーとして高い評価を受けた一方で、チームの待遇に不満を募らせ、フリーエージェントとなった1994年にオーランド・マジックへと移籍する。
グラントは若く才能あふれる選手が揃うマジックに経験をもたらし、マジックは優勝候補の本命として高い注目を集める。
プレーオフではカンファレンス準決勝で古巣のブルズと対戦し、グラントは弱体化したブルズのインサイドを攻め、シリーズ平均18得点、11リバウンドという活躍でブルズに引導を渡した。
しかしファイナルではヒューストン・ロケッツを相手にまさかの4戦全敗で優勝を逃し、翌年のプレーオフ・カンファレンス決勝では雪辱に燃えるブルズの前に完敗すると、以降チームは急速に力を失っていった。
グラントも1999年にチームを去る事になり、2000-01シーズンにはロサンゼルス・レイカーズへ移籍し、シャキール・オニール、コビー・ブライアントを支えるベテランとして自身4個目となるチャンピオンリングを獲得した。
双子の弟のハーベイ・グラントは1988年にNBA入りし、ワシントン・ブレッツなどで活躍した。
11.レジー・ミラー

Reggie Miller
出身校:カリフォルニア大学ロサンゼルス校
ポジション:SG
所属チーム:IND(1987~2005)
キャリア平均:18.2PPG、3.0RPG、3.0APG、1.1SPG、.395 3P%
ALL TEAM:All-NBA 3rd 3回
オールスター出場:5回(1990、1995~1996、1998、2000)
リーグ史上屈指のシューターであり、「ミラータイム」と呼ばれた驚異的な勝負強さで数々の伝説を残したクラッチプレーヤー。
インディアナ・ペイサーズ一筋で18シーズンを戦い抜き、チーム史上最高の選手として語り継がれている。
少年時代は、後に女子バスケットボール界の伝説となる姉シェリル・ミラーを相手に腕を磨き、姉弟で地元のプレイグラウンドを席巻した。
名門UCLAへ進学すると、カリーム・アブドゥル=ジャバーに次ぐ同校歴代2位の通算得点を記録するなど活躍したが、インディアナ・ペイサーズ入団当初は、針金のように細い体格から「NBAでは通用しない」と疑問視する声も少なくなかった。
それでもルーキーイヤーは控えながら82試合すべてに出場して平均10.0得点を記録。
翌1988-89シーズンに先発へ定着すると、平均16.0得点、3ポイント成功率40.2%を記録し、ペイサーズの新たなエースへと成長していく。
3年目にはリーグ8位となる平均24.6得点を挙げ、チームを3年ぶりのプレーオフへ導く活躍を見せて初のオールスターにも選出された。
しかし当時は姉シェリルの知名度が圧倒的で、オールスター選手となってからも「シェリルの弟」という見方がつきまとっていた。
その一方で、ミラーは執拗なトラッシュトークでも有名となり、マイケル・ジョーダンが激昂して殴りかかったこともあるなど、リーグ屈指のヒールとして知られる存在になっていく。
ミラー加入後、ペイサーズは毎年プレーオフへ進出するようになったが、勝率5割前後を行き来する中堅チームの域を抜け出せず、優勝には程遠い時期が続いた。
その流れを変えたのが、1993年に就任したラリー・ブラウンだった。
1993-94シーズン、ブラウン就任1年目でペイサーズは当時の球団新記録となる47勝を挙げ、プレーオフでは球団史上初のシリーズ突破を達成。
その勢いのままカンファレンス決勝へ進出し、優勝候補ニューヨーク・ニックスと激突した。
シリーズ第5戦、敵地マディソン・スクエア・ガーデンで迎えた第4クォーター。
12点ビハインドの状況から、ミラーは最後の12分だけで25得点を叩き出し、ゲームハイの39得点を記録。
ペイサーズを劇的な逆転勝利へ導き、「ミラータイム」の名を全米へ轟かせた。
最終的にシリーズは敗れたものの、この戦いをきっかけにペイサーズはニックス最大のライバルとなり、ミラーはニューヨークのファンにとって最も憎むべき存在となっていく。
翌1994-95シーズンには球団初のディビジョン優勝を達成し、プレーオフでは3年連続でニックスと対戦。
シリーズ第1戦では、残り16.4秒で6点差を追う絶体絶命の状況から、3ポイント2本を含む8得点を一気に奪う歴史的な大逆転劇を演じた。
この勝利をきっかけにペイサーズはシリーズを4勝3敗で制覇し、ミラーは単なるヒールではなく、「土壇場で奇跡を起こす男」としてリーグ屈指の人気選手となった。
その後もドリームチームⅡ、ドリームチームⅢに選出され、1996年のアトランタ五輪では金メダルを獲得するなど、NBAを代表するスターとして活躍を続けた。
しかし18シーズンのキャリアを通じて、悲願だったNBA優勝だけは最後まで手にすることができなかった。
キャリア晩年には、有力チームへ移籍して優勝を目指すスター選手が増える中、ミラーは最後までペイサーズ一筋を貫いた。
通算得点など数多くの球団記録を保持し、通算3ポイント成功数は引退時点で歴代1位の記録となっていた。
2012年にバスケットボール殿堂入りし、背番号「31」はペイサーズの永久欠番となっている。
家族は姉シェリルのほか、兄がMLB選手、妹もUCLAでバレーボール選手として活躍するなど、全米屈指のスポーツ一家として知られている。
12.マグジー・ボーグス

Muggsy Bogues
出身校:ウェイクフォレスト大学
ポジション:PG
所属チーム:WSB(1987~1988)→CHH(1988~1997)→GSW(1997~1999)→TOR(1999~2001)
キャリア平均:7.7PPG、2.6RPG、7.6APG、1.5SPG
本名はタイロン・カーティス・ボーグス。
愛称の「マグジー」は、ボーグスにそっくりだったという映画に登場するギャングの役名が由来。
身長160cmというNBA史上最も低いプレイヤーとして知られ、キャリアをスタートさせたワシントン・ブレッツには231cmというNBA史上最高身長(当時)を誇るマヌート・ボルも在籍していたことで話題となった。
注目を集める反面、満足な出場機会を得る事ができず、2年目にはエクスパンション・ドラフトで新設されたばかりのシャーロット・ホーネッツへ移籍する。
移籍1年目、控えとして平均7.8アシストを記録すると、翌シーズンは先発として多くの試合に出場し、平均9.4得点、リーグ4位となる10.7アシストを記録した。
以降もアシストは常にリーグ上位の数字を記録し、驚異的なスピードと低い重心を生かしたドリブル、鋭いパスでオフェンスを操る司令塔として活躍する。
相手の懐に飛び込んでボールを奪うディフェンスにも優れ、身長の不利を感じさせないプレーで多くのファンを魅了した。
エネルギーに満ち溢れたプレーと強烈なリーダーシップを発揮するボーグスは地元シャーロットで絶大な人気を誇るようになっていく。
片手で掴めるボールならダンクできてしまうほどの跳躍力があり、リーグを代表するセンターであるパトリック・ユーイングをブロックしたこともあった。
ホーネッツで10シーズンを過ごし、通算アシスト、通算スティールはチーム歴代トップとなっている。
18.マーク・ジャクソン

Mark Jackson
出身校:セントジョンズ大学
ポジション:PG
所属チーム:NYK(1987~1992)→LAC(1992~1994)→IND(1994~1996)→DEN(1996~1997)→IND(1997~2000)→TOR(2000~2001)→NYK(2001~2002)→UTA(2002~2004)→HOU(2004)
キャリア平均:9.6PPG、3.8RPG、8.0APG、1.2SPG
個人賞:Rookie of the Year
オールスター出場:1回(1989)
ニューヨーク・ニックスでは1年目に平均13.6得点、10.6アシスト、2.5スティールを記録して新人王を受賞し、歴代の新人王受賞選手の中で最もドラフト指名順位の低いプレーヤーとなった。
ニックスも4シーズンぶりにプレーオフ進出を決め、翌シーズンには18シーズンぶりとなるディビジョン優勝を果たすなど、パトリック・ユーイング入団以降、高い期待を集めながら低迷を続けていたチームは、ようやく調子を上向かせることに成功する。
しかし、プレーオフを勝ち上がれないシーズンが続くと、1991年にヘッドコーチへ就任したパット・ライリーは次々とトレードを敢行し、ジャクソンも1992年に5シーズンを過ごしたニックスを去ることになった。
移籍先のロサンゼルス・クリッパーズではチームのプレーオフ進出に貢献し、ラリー・ブラウンがインディアナ・ペイサーズのヘッドコーチに就任すると、ジャクソンも1年後にトレードでペイサーズへ移籍した。
ペイサーズではパス優先型の司令塔としてチームの勝利に貢献し、レジー・ミラーらとともにペイサーズの黄金期を築く。
1996年にデンバー・ナゲッツへトレードされたが、シーズン途中にペイサーズへ復帰。
シーズン前半をラン&ガンスタイルのナゲッツでプレーしたことで例年以上にアシスト数を伸ばし、平均11.4アシストを記録して自身初のアシスト王に輝いた。
2000年にペイサーズを去り、その後4シーズンをプレーして引退した。
通算アシスト数10,334本は歴代でも上位に位置し、ジョン・ストックトンのバックアップを務めていたユタ・ジャズ在籍時に通算1万アシストを達成している。
得点を決めた際に身体を揺らす「ジャクソン・ジグル」がトレードマークとして知られ、引退後はヘッドコーチとしても活躍し、ゴールデンステイト・ウォリアーズでは後の王朝の礎を築いた。
22.レジー・ルイス

Reggie Lewis
出身校:ノースイースタン大学
ポジション:SG、SF
所属チーム:BOS(1987~1993)
キャリア平均:17.6PPG、4.3RPG、2.6APG、1.3SPG
オールスター出場:1回(1992)
セルティックスでの1年目のシーズンは出場機会が限られていたが、翌シーズンは怪我がちになっていたラリー・バードに代わり、チームのスコアラーとして平均18.5得点と結果を残した。
その後も順調に成長を続け、1991‐92シーズンには平均20.8得点を記録してオールスター初出場も果たしている。
跳躍力・敏捷性を備え、ドライブからのダンクはもちろん、独特のタメがあるミドルレンジのジャンプシュートは極めて高い精度を誇った。
また、ディフェンスの評価も高く、全盛期にあったマイケル・ジョーダンとのマッチアップでは、1試合で4度のクリーンブロックを決めるという驚異的な守備を見せたこともあった。
バードが1992年に引退すると、ルイスは正式にセルティックスのキャプテンに就任し、「緑の血(セルティックスの伝統)」を継ぐ男として名門の未来そのものとなった。
しかし、1993年のプレーオフで試合中に倒れたことをきっかけに心臓の異常が見つかり、医師からは引退を勧告される。
ルイスは診断結果に納得できず、現役続行を強く希望した。
しかし同年7月、オフシーズン中のシュート練習中に再び倒れ、そのまま意識を取り戻すことなく27歳という若さで死去した。
将来を嘱望されたスター候補の突然の死はNBA全体に大きな衝撃を与え、セルティックスも長く低迷期へと入ることになった。
背番号「35」はセルティックスの永久欠番となっている。
127.サルナス・マーシャロニス

Sarunas Marciulionis
ポジション:SG、SF
所属チーム:GSW(1989~1994)→SEA(1994~1995)→SAC(1995~1996)→DEN(1996~1997)
キャリア平均:12.8PPG、2.3RPG、2.2APG、1.3SPG、.505FG%、.369 3P%
リトアニア出身。
ソ連代表としてソウル五輪で金メダル、ソ連崩壊後はリトアニア代表としてバルセロナ五輪とアトランタ五輪で銅メダルを獲得した。
1989年にNBAデビューを果たし、キャリアを通じて得点力の高いシックスマンとして活躍した。
独特のステップを駆使したドライブと強靭なフィジカルを武器に得点を重ね、1991-92シーズンには平均18.9得点、FG成功率53.8%を記録し、シックスマン賞の投票では2位となった。
翌1992-93シーズン前半に負った故障の影響により、その後約1年半にわたってプレーすることができず、復帰後は全盛期ほどの得点力を見せることはできなかった。
アメリカの大学を経ずにNBA入りしたヨーロッパ出身選手の草分け的存在として知られ、1990年代のリーグ国際化に大きく貢献した。
また、ソ連崩壊後に独立したリトアニア代表の再建にも尽力し、祖国のバスケットボール発展にも大きな足跡を残している。
引退後はホテル業など実業家として成功を収める一方、バスケットボール普及活動にも携わっている。
2014年にバスケットボール殿堂入りを果たした。



COMMENT