「1988年 NBAドラフト」年代別に振り返るNBA選手名鑑

NBA
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主なドラフト選手

1.ダニー・マニング

キャプチャ

Danny Manning

出身校:カンザス大学

ポジション:PF

所属チーム:LAC(1988~1994)→ATL(1994)→PHO(1994~1999)→MIL(1999~2000)→UTA(2000~2001)→DAL(2001~2002)→DET(2003)

キャリア平均:14.0PPG、5.2RPG、2.3APG、1.1SPG、.511FG%

個人賞:Sixth Man of the Year(1997-1998)

オールスター出場:2回(1993、1994)

208cmの長身ながら得点力、パス、リバウンドを高いレベルで兼ね備えた万能型フォワード。

故障に悩まされながらも、オールラウンドな能力で長く活躍した。

カンザス大学をNCAAトーナメント優勝に導き、大きな期待を背負って低迷するロサンゼルス・クリッパーズに入団したが、1年目は26試合の出場にとどまるなど故障に苦しみ、2年目から主力として活躍を始めたものの、チームを浮上させることはできなかった。

しかし、1992年に大学時代の恩師ラリー・ブラウンがクリッパーズのヘッドコーチに就任すると、マニングは平均19.3得点、6.9リバウンド、3.5アシスト、1.6スティール、1.5ブロック、FG成功率54.2%とキャリア最高クラスのシーズンを送り、チームも16シーズンぶりとなるプレーオフ進出を決める。

翌シーズンは平均22.8得点とさらに成績を伸ばし、初のオールスター出場も果たした。

2シーズン連続でプレーオフに進出するなど躍進を遂げたクリッパーズだったが、シーズン終了後にブラウンがチームを去ると、すぐに弱小チームへと逆戻りしてしまう。

マニングも1994年にトレードされ、最下位クリッパーズからカンファレンス首位を快走するアトランタ・ホークスへ移籍したが、チームに馴染むことができず、シーズン終了後にフェニックス・サンズへ移籍した。

サンズにとってマニングの獲得は優勝に向けた大きな補強となるはずだったが、移籍後2シーズンは故障で満足に出場できず、健康を取り戻した頃には大黒柱のチャールズ・バークリーはすでにチームを去っていた。

その後はベンチプレイヤーとして新たなキャリアをスタートさせる。

先発時代のような数字は残せなくなったものの、どのポジションもこなせる万能性はベンチからの起用で存分に発揮され、1997-98シーズンにはチームの56勝に貢献してシックスマン賞を受賞した。

その後も5シーズンにわたってプレーを続け、デトロイト・ピストンズでのプレーを最後に2003年に現役を引退した。

父親は元NBA選手のエド・マニング。

2.リック・スミッツ

キャプチャ

Rik Smits

出身校:マリスト大学

ポジション:C

所属チーム:IND(1988~2000)

キャリア平均:14.8PPG、6.1RPG、1.4APG、1.3BPG、.507FG%

オールスター出場:1回(1998)

224cmというリーグ屈指のサイズを誇りながら、驚くほど軽やかな身のこなしと柔らかいシュートタッチを武器に、90年代インディアナ・ペイサーズの不動のセンターとして活躍した。

オランダの出身で、「ダンキング・ダッチマン」の異名で親しまれた。

ペイサーズに入団してしばらくは控えとしてプレーしていたが、主力選手の故障により先発に抜擢され、平均11.7得点、6.1リバウンドを記録した。

以降、引退まで毎シーズン2桁得点を記録し続け、スミッツの成長とともにペイサーズもリーグ屈指の強豪へと飛躍した。

1994-95シーズンにはキャリアハイとなる平均17.9得点、7.7リバウンドを記録。

プレーオフではカンファレンス準決勝第4戦で劇的なブザービーターを沈めるなど勝負強さを発揮し、チームの2年連続カンファレンス決勝進出に大きく貢献した。

1997-98シーズンにはデビュー10年目にして初めてオールスターに選出され、長年リーグを代表するセンターとして活躍したことが高く評価された。

1999-2000シーズン、ペイサーズは球団史上初のNBAファイナル進出を果たしたが、スミッツは長年悩まされていた足の故障の影響で全盛期の動きを失っていた。

ファイナル敗退後、そのまま現役引退を表明し、12年間一筋でプレーしたペイサーズでのキャリアに幕を下ろした。

3.チャールズ・スミス

キャプチャ

Charles Smith

出身校:ピッツバーグ大学

ポジション:SF、PF

所属チーム:LAC(1988~1992)→NYK(1992~1996)→SAS(1996~1997)

キャリア平均:14.4PPG、5.8RPG、1.4APG、1.4BPG

ドラフトではフィラデルフィア・76ersから指名を受けたが、直後に6位指名のハーシー・ホーキンス、将来のドラフト指名権との交換でロサンゼルス・クリッパーズへトレードされる。

クリッパーズでは1年目から高い身体能力とフィジカルの強さを武器に平均16.3得点を記録し、翌2年目には平均21.1得点、3年目には平均20.0得点、8.2リバウンド、2.0ブロックと攻守にわたってチームの柱として活躍した。

オールスターには選出されなかったものの、リーグを代表する若手フォワードの一人として高い評価を受けていた。

1992年にトレードでニューヨーク・ニックスへ移籍すると、タレントの揃うチームの中で個人成績は低下したものの、パトリック・ユーイングやチャールズ・オークリーと強力なフロントコートを形成し、守備とリバウンドでチームを支えた。

プレーオフでは宿敵シカゴ・ブルズとの激闘を繰り広げ、優勝争いの中心メンバーとして活躍している。

しかし1993年のブルズとのカンファレンス決勝では、2勝2敗で迎えた第5戦の試合終了間際、決まれば勝利が決まるゴール下のシュートを4度続けてブルズのディフェンスに阻まれ、逆転のチャンスを逃した。

シリーズはブルズが制し、そのまま3連覇を達成。

スミスの一連のプレーは、ニックスが王座奪還へ最も近づきながら逃した象徴的な場面として、現在でもNBAプレーオフ史を代表する名シーンの一つとして語り継がれている。

その後、1996年にサンアントニオ・スパーズへ移籍し、デビッド・ロビンソンらとプレーしたが、膝のケガに苦しみ、1997年に31歳という若さで現役を引退した。

引退後はNBA選手会の副会長を務めたり、元選手たちのセカンドキャリアを支援する組織を立ち上げるなど、ビジネスやコミュニティ活動で活躍している。

5.ミッチ・リッチモンド

キャプチャ

Mitch Richmond

出身校:カンザス州立大学

ポジション:SG

所属チーム:GSW(1988~1991)→SAC(1991~1998)→WAS(1998~2001)→LAL(2001~2002)

キャリア平均:21.0PPG、3.9RPG、3.5APG、1.2SPG、.388 3P%

個人賞:Rookie of the Year、All-Star Game MVP(1995)

ALL TEAM:All-NBA 2nd 3回、All-NBA 3rd 2回

オールスター出場:6回(1993~1998)

ニックネームは「ザ・ロック」。

優れたシュート力と屈強なフィジカルを兼ね備えたコンボガードで、長年にわたりリーグ屈指のスコアラーとして活躍した。

新人時代にマイケル・ジョーダンから「得点面では自分を超える可能性を持っている」と評価され、NBA史上わずか4人しか達成していない「デビューから10シーズン連続平均21得点以上」を記録するなど、長くリーグを代表する選手として活躍した。

ゴールデンステイト・ウォリアーズでは1年目から平均22.0得点、5.9リバウンド、4.2アシストを記録し、新人王を受賞。

翌シーズンにティム・ハーダウェイが加入すると、リッチモンド、ハーダウェイ、クリス・マリンの3人は高得点を量産するトリオとして「RUN-TMC」の愛称で親しまれ、リーグ屈指の攻撃力を誇った。

しかし、プレーオフを勝ち抜くにはサイズが必要と判断したウォリアーズは、サクラメント・キングスがドラフト指名したビリー・オーウェンスを獲得するため、リッチモンドを放出。

「RUN-TMC」はわずか2シーズンで解体されることとなった。

強豪への道を歩み始めていたウォリアーズから一転、地区最下位争いを続けるキングスへ移籍したリッチモンドだったが、腐ることなく得意のシュート力に加えてディフェンスにも磨きをかけ、リーグ屈指のシューティングガードとして活躍を続けた。

チーム成績が振るわなかったため評価される機会は決して多くなかったが、1995年のオールスターゲームでMVPを獲得。

さらにアトランタ五輪の代表選考では、マイケル・ジョーダンが強く推薦したことでも話題となり、その完成度の高い実力が改めて広く認められるようになった。

キングスでは1995-96シーズンにチームを10シーズンぶりのプレーオフ進出へ導き、翌1996-97シーズンにはリーグ5位となる平均25.9得点を記録した。

しかし、当時のキングスにはリッチモンド以外にスター選手がおらず、孤軍奮闘を続ける状況に限界を感じたリッチモンドは、次第に優勝を狙えるチームへの移籍を望むようになる。

球団も長年チームを支えてきた功労者の意思を尊重し、1998年、クリス・ウェバーとの大型トレードでワシントン・ウィザーズへ移籍した。

実力者が揃うウィザーズで新たなスタートを切ったものの、移籍1年目はチームトップとなる平均19.7得点を記録しながらも、デビュー以来初めて平均20得点を下回った。

システムへの適応や主力選手の故障も重なり、チームも前年を下回る成績に終わった。

一方、リッチモンドを放出したキングスはウェバーを中心に戦力が充実し、西地区を代表する強豪へと成長。

皮肉にも、リッチモンドが去った後に黄金期を迎えることとなった。

その後は自身も故障の影響で成績を落とし、2000年にマイケル・ジョーダンが球団社長へ就任するとチームの再建が進められ、契約満了となった2001年に退団した。

2001-02シーズンはロサンゼルス・レイカーズへ加入。

出場機会は限られたものの、現役最後のシーズンに悲願だった自身初のNBAチャンピオンリングを獲得した。

キングス時代の背番号「2」は同チームの永久欠番となっている。

2014年にバスケットボール殿堂入りを果たした。

6.ハーシー・ホーキンス

キャプチャ

Hersey Hawkins

出身校:ブラッドリー大学

ポジション:SG、PG

所属チーム:PHI(1988~1993)→CHH(1993~1995)→SEA(1995~1999)→CHI(1999~2000)→CHH(2000~2001)

キャリア平均:14.7PPG、3.6RPG、2.9APG、1.7SPG、.394 3P%

オールスター出場:1回(1991)

フィラデルフィア・76ersでは40%を超えるスリーポイントシュートを武器に、チャールズ・バークリーに次ぐ得点源として活躍した。

1990-91シーズンには平均22.1得点、2.2スティールを記録し、バークリーとともにオールスターに選出されている。

優れたシュート力に加え、チーム事情によってポイントガードもこなせる万能性を持ち、ディフェンスでもスティールを量産するなど攻守に安定したプレーを見せた。

1995年にシアトル・スーパーソニックスへ移籍すると、ゲイリー・ペイトンとリーグ屈指のバックコートを形成し、アウトサイドシュートと堅実なディフェンスでチームを支えた。

1995-96シーズンにはフランチャイズ記録となる64勝18敗とNBAファイナル進出に大きく貢献している。

キャリア晩年にはシカゴ・ブルズやシャーロット・ホーネッツでプレーし、2001年に現役を引退した。

デビューから1999年までの10シーズンで、欠場したのはわずか7試合しかなく、その期間に出場した試合はすべて先発としてプレーするなど、耐久性の高さでも知られた。

また、1999年にはその紳士的なプレイスタイルと模範的な態度が称えられ、「NBAスポーツマンシップ賞」を受賞している。

8.レックス・チャップマン

キャプチャ

Rex Chapman

出身校:ケンタッキー大学

ポジション:SG、PG

所属チーム:CHH(1988~1992)→WSB(1992~1995)→MIA(1995~1996)→PHO(1996~2000)

キャリア平均:14.6PPG、2.5RPG、2.7APG

新設されたばかりのシャーロット・ホーネッツに入団し、ホーネッツ初のドラフト指名選手となった。

跳躍力に優れた「跳べる白人プレイヤー」として知られ、高い身体能力を武器に1年目から平均16.9得点を記録する。

その後もチームの主力スコアラーとして活躍したが、ケンドール・ギルの加入によりバックコートの競争が激しくなり、1992年にワシントン・ブレッツへトレードされた。

移籍後は故障に悩まされ一時は成績を落としたものの、1993-94シーズンにはキャリアハイとなる平均18.2得点を記録して復活を果たす。

その後はスリーポイントシュートを武器とするリーグ屈指のアウトサイドシューターとして活躍し、勝負どころで得点を量産する爆発力でも知られた。

1996年からはフェニックス・サンズでプレーし、1997年のプレーオフでは5試合で平均24.2得点を記録するなど、エース級の活躍を見せている。

度重なる故障に苦しみながらも卓越した得点能力を武器に12シーズンにわたってプレーし、1990年代を代表するスコアリングガードの一人として活躍した。

9.ロニー・サイカリー

キャプチャ

Rony Seikaly

出身校:シラキュース大学

ポジション:C

所属チーム:MIA(1988~1994)→GSW(1994~1996)→ORL(1996~1998)→NJN(1998~1999)

キャリア平均:14.7PPG、9.5RPG、1.3APG、1.3SPG

個人賞:Most Improved Player(1989-1990)

子供の頃にレバノン・ベイルートからギリシャへ移住し、その後シラキュース大に留学してデリック・コールマンらとともにプレーした。

新設されたばかりのマイアミ・ヒートに入団すると、1年目から平均10.9得点、7.0リバウンドをあげ、インサイドで存在感を発揮する。

さらに、2年目のシーズンにはそれぞれチームトップとなる平均16.6得点、10.4リバウンドを記録し、最も成長した選手に贈られるMIPを受賞した。

恵まれた体格と巧みなスピンムーブを繰り出すことから「Dr. Spin(ドクター・スピン)」の異名で呼ばれ、初期のヒートを代表する主力選手として活躍した。

ヒートで6シーズンを過ごした後、ゴールデンステイト・ウォリアーズを経てオーランド・マジックへ移籍し、1996-97シーズンにキャリアハイとなる平均17.3得点を記録している。

その後は故障の影響もあって成績を下降させ、ニュージャージー・ネッツでプレーした後、1999年に現役を引退した。

12.ハーベイ・グラント

キャプチャ

Harvey Grant

出身校:オクラホマ大学

ポジション:PF、SF

所属チーム:WSB(1988~1993)→POR(1993~1996)→WSB-WAS(1996~1999)→PHI(1999)

キャリア平均:9.9PPG、4.4RPG、1.6APG

シカゴ・ブルズなどで活躍したホーレス・グラントは双子の弟。

兄のホーレスがディフェンスやリバウンドなどでブルズの王朝を支えたのに対し、弟のハーベイはよりオフェンスの選択肢が豊富なスコアラーであり、高確率でネットを射抜くミドルレンジのジャンプシュートを最大の武器とした。

大学時代はホーレスとのポジション争いに敗れ、クレムゾン大学からオクラホマ大学へ転校した。
ワシントン・ブレッツ入団当初は出場機会に恵まれなかったが、3年目のシーズンから先発に定着すると、バーナード・キングに次ぐ平均18.2得点を記録するなど、攻守に安定したプレーでチームの主力へと成長した。

1992-93シーズンにはキャリアハイとなる平均18.6得点を記録し、チームのリーディングスコアラーとして活躍する。

しかしシーズン終了後にトレードでポートランド・トレイルブレイザーズへ移籍して以降は、若手の台頭や故障の影響もあって徐々に成績を下降させ、ロールプレイヤーとしてチームを支える役割へと変化していった。

その後はワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)への復帰やフィラデルフィア・76ersでもプレーし、堅実なベテランフォワードとして12シーズンにわたりNBAで活躍した。

14.ダン・マーリー 

キャプチャ

Dan Majerle

出身校:セントラルミシガン大学

ポジション:SG、SF

所属チーム:PHO(1988~1995)→CLE(1995~1996)→MIA(1996~2001)→PHO(2001~2002)

キャリア平均:11.4PPG、4.5RPG、2.9APG、1.3SPG、.358 3P%

ALL TEAM:All-Defensive 2nd 2回

オールスター出場:3回(1992~1993、1995)

リーグ屈指のスリーポイントシューターでありながら、豪快なダンクも叩き込む運動能力を兼ね備え、「サンダー・ダン」の愛称で親しまれた。

ドラフトではフェニックス・サンズから指名を受けたが、当時は無名に近い存在だったこともあり、地元ファンからはブーイングが巻き起こった。

しかしコーチは「ブーイングしたことをすぐに後悔するだろう」と語り、その言葉どおりマーリーはチームに欠かせない選手へと成長。

攻守にわたる献身的なプレーでファンの心を掴み、フェニックスでは絶大な人気を誇る選手となった。

キャリア序盤はベンチから試合の流れを変えるシックスマンとして活躍し、4年目の1991-92シーズンには平均17.3得点を記録して初のオールスターに選出された。

翌1992-93シーズンからは先発へ定着し、リーグ最多となるスリーポイント試投数と成功数を記録するなど、NBAを代表するアウトサイドシューターとして活躍。

チャールズ・バークリーらとともにチームをNBAファイナル進出へ導いた。

1995年、インサイド強化を求めるチーム事情により、ホットロッド・ウィリアムズとのトレードでクリーブランド・キャバリアーズへ移籍。

この放出にはファンだけでなくチーム内部からも疑問の声が上がるほど、マーリーはサンズに欠かせない存在となっていた。

移籍後は年齢や故障の影響もあって得点力は徐々に低下したものの、卓越したシュート力を武器にベテランシューターとして2002年まで現役を続けた。

現役最後のシーズンは古巣フェニックス・サンズでプレーし、長年親しまれたホームのファンに見送られながら現役生活に幕を下ろした。

背番号「9」はサンズの永久欠番となっている。

18.ロッド・ストリックランド

キャプチャ

Rod Strickland

出身校:デポール大学

ポジション:PG、SG

所属チーム:NYK(1988~1990)→SAS(1990~1992)→POR(1992~1996)→WSB-WAS(1996~2001)→POR(2001)→MIA(2001~2002)→MIN(2002~2003)→ORL(2003~2004)→TOR(2004)→HOU(2005)

キャリア平均:13.2PPG、3.7RPG、7.3APG、1.5SPG

ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回

ニューヨークのストリート仕込みの変則的なドライブと、どんな体勢からでもシュートをねじ込むボディコントロールを武器に1on1では抜群の強さを誇った。

リーグ屈指の実力者と認められながら、キャリアで一度もオールスターに選出されなかったが、選手間からのリスペクトが極めて高く、玄人好みのプレイヤーとして知られている。

ドラフトでは前シーズンに新人王を獲得したマーク・ジャクソンが司令塔を務めるニューヨーク・ニックスから指名を受け、周囲からは不可解なドラフト指名と疑問視された。

オールルーキー2ndチームに選出されるなどバックアップガードとしてまずまずの成績を残したものの、やはりジャクソンとの共存は難しく、2年目のシーズン途中に早くもサンアントニオ・スパーズへとトレードされる。

スパーズ移籍後は先発として起用され、3シーズン連続で平均13得点、8アシスト以上を記録して能力の高さを証明して見せたが、契約をめぐってチームとの関係が悪化し、フリーエージェントとなった1992年にポートランド・トレイルブレイザーズに移籍した。

ブレイザーズではテリー・ポーターの控えを務めながら多くの時間をプレーし、ポーターから先発の座を奪ってからは個人成績を一気に上昇させる。

アウトサイドのシュートに難はあったものの1on1に抜群の強さを見せ、1994-95シーズンにキャリアハイとなる平均18.9得点を記録し、アシストでも常にリーグ上位となる成績を残した。

ワシントン・ウィザーズ在籍時の1997-98シーズンに平均10.5本で初のアシスト王に輝いている。

キャリア初期は度々起こす乱闘騒動など問題児としてのイメージが強く、その影響からかリーグ屈指の選手として評価されながらオールスターには1度も選出されずにキャリアを終えた。

実力があってもオールスターに出場できない選手の代表格として語られる事が多く、「ストリックランド現象」という言葉も生まれた。

後にNBAを代表するスター選手となるカイリー・アービングの名付け親(ゴッドファーザー)としても知られている。

24.ブライアン・ショウ

キャプチャ

Brian Shaw

出身校:カリフォルニア大学サンタバーバラ校

ポジション:PG、SG

所属チーム:BOS(1988~1989)、BOS(1990~1992)→MIA(1992~1994)→ORL(1994~1997)→GSW(1997~1998)→PHI(1998~1999)→POR(1999)→LAL(1999~2003)

キャリア平均:6.9PPG、3.4RPG、4.2APG

ボストン・セルティックスで1シーズンをプレーした後にイタリアへ渡り、翌年ふたたびセルティックスへ復帰する。

1990-91シーズンは開幕から先発を任され、平均13.8得点、チームトップとなる7.6アシストを記録し、ゲームメイク能力の高さを証明した。

その後は主にバックアップガードとして様々なチームでプレーしたが、ポイントガードとシューティングガードの両方をこなせる万能性と冷静な判断力を武器に、勝負どころで何度も値千金のクラッチ3ポイントシュートを沈めて見せた。

1999年にロサンゼルス・レイカーズへ移籍すると、シャキール・オニール、コビー・ブライアントらを支えるベテランとして重要な役割を担い、1999-2000シーズンからの3連覇に大きく貢献している。

現役引退後は指導者へ転身し、レイカーズではアシスタントコーチとして2度の優勝を経験したほか、2013年にはデンバー・ナゲッツのヘッドコーチにも就任した。

歌手のマドンナと交際していたことでも知られ、現役時代はその私生活でも大きな注目を集めた。

50.スティーブ・カー

キャプチャ

Steve Kerr

出身校:アリゾナ大学

ポジション:PG、SG

所属チーム:PHO(1988~1989)→CLE(1989~1992)→ORL(1992~1993)→CHI(1993~1999)→SAS(1999~2001)→POR(2001~2002)→SAS(2002~2003)

キャリア平均:6.0PPG、1.2RPG、1.8APG、.454 3P%

キャリア通算のスリーポイント成功率は45.4%と非常に高く、50%を上回ったシーズンが4度あるNBA史上最高峰のシャープシューターのひとりであるが、

サイズ(191cm)や身体能力の低さ、守備への懸念から、ドラフトでは2巡目50位という低評価を受け、デビュー当初は出場機会に恵まれなかった。

フェニックス・サンズからクリーブランド・キャバリアーズ、オーランド・マジックと渡り歩いた後、1993年にシカゴ・ブルズへ移籍する。

ブルズではベンチから登場し、要所で高確率のスリーポイントシュートを決めるスポットシューターとしてプレータイムを勝ち取った。

1994-95シーズンにスリーポイント成功率52.4%というNBA歴代1位の数字も記録している。

一方で、1993年に引退していたマイケル・ジョーダンがこのシーズンの終盤に復帰したが、この時点でカーはまだジョーダンの信頼を勝ち得てはいなかった。

翌1995-96シーズンの開幕直前のトレーニングキャンプでは、ジョーダンとカーが激しいトラッシュトークを繰り広げ、互いにヒートアップした末にジョーダンがカーの顔面を殴る騒動に発展する。

しかし、カーは偉大なエースに対して怯むことなく立ち向かい、その姿勢にジョーダンもカーを認め、2人の間に強固な信頼関係が生まれる要因となった。

迎えたシーズン、ブルズは72勝10敗という当時のNBA記録を樹立して優勝を果たし、再び王朝時代が幕を開ける。

さらに1997年のユタ・ジャズとのファイナル第6戦では、試合残り時間わずか、同点の緊迫した場面で、ジョーダンはカーに「(マークが俺に集中するから)お前が準備しておけ」と告げた。

その言葉通り、ジョーダンからのパスを受け取ったカーは、完璧なミドルジャンパーを沈めて優勝決定のブザービーターを炸裂、ブルズを5度目の王座へと導いた。

シカゴ・ブルズで3連覇を経験したあと、1999年にサンアントニオ・スパーズへ移籍し、個人として4年連続でチャンピオンリングを獲得した。

キャリア最終年にもスパーズで優勝し、自身5個目となるチャンピオンリングを獲得している。

大舞台で勝負強さを発揮し、ブルズ、スパーズ、ポートランド・トレイルブレイザーズなど複数のチームで記憶に残るクラッチショットを沈めた。

引退後はテレビ解説者やゼネラルマネージャーを経て、2014年にゴールデンステート・ウォリアーズのヘッドコーチに就任。

ステフィン・カリーらを中心とした革新的なチームを築き、4度のNBA優勝を果たすなど、指導者としても歴史に名を刻んでいる。

父親のマルコム・カーはエジプト政治思想の研究者として知られ、ベイルートのアメリカン大学学長を務めていた1984年に、テロの標的として暗殺されている。

53.アンソニー・メイスン

キャプチャ

Anthony Mason

出身校:テネシー州立大学

ポジション:PF、SF、C

所属チーム:NJN(1989~1990)→DEN(1990~1991)→NYK(1991~1996)→CHH(1996~2000)→MIA(2000~2001)→MIL(2001~2003)

キャリア平均:10.9PPG、8.3RPG、3.4APG、.509FG%

個人賞:Sixth Man of the Year(1994-1995)

ALL TEAM:All-NBA 3rd 1回、All-Defensive 2nd 1回

オールスター出場:1回(2001)

201cmの身長ながらプロレスラーのような屈強な肉体でインサイドに陣取り、ガードのようにゲームをコントロールするポイントフォワードとして活躍した。

デビュー当初は出場機会を得ることができなかったが、ニューヨーク・ニックスでパット・ライリーに見出され、チームのプレイスタイルを体現するタフプレイヤーとして注目された。

チャールズ・オークリーやパトリック・ユーイングらとともに、フィジカルなディフェンスを武器とする90年代ニックスの象徴的な存在となり、ベンチから試合の流れを変えるシックスマンとして高い評価を受ける。

1994-95シーズンには最優秀シックスマン賞を受賞。

翌1995-96シーズンには82試合すべてに先発出場し、平均14.6得点を記録。

インサイドプレイヤーながらチームトップとなる平均4.4アシストを残し、オールNBA3rdチームとオールディフェンシブ2ndチームにも選出されるなど、リーグ屈指のオールラウンドプレイヤーへと成長した。

翌シーズン、ラリー・ジョンソンとのトレードでシャーロット・ホーネッツへ移籍すると、前シーズンを上回る平均16.2得点、11.4リバウンド、5.7アシストを記録し、初のシーズン・ダブルダブルを達成した。

ポイントフォワードとして攻撃の起点も担い、キャリア最高ともいえるシーズンを送っている。

その風貌に似合わず器用なプレイヤーとして知られるが、フリースローの成功率はいまひとつで、一時は片手でシュートを放つなど、キャリアを通して試行錯誤を続けた。

2015年、心臓疾患により48歳の若さで死去した。

ドラフト外.ジョン・スタークス

キャプチャ

John Starks

出身校:オクラホマ州立大学

ポジション:SG

所属チーム:GSW(1988~1989)、NYK(1990~1999)→GSW(1999~2000)→CHI(2000)→UTA(2000~2002)

キャリア平均:12.5PPG、2.5RPG、3.6APG、1.1SPG

個人賞:Sixth Man of the Year(1996-1997)

ALL TEAM:All-Defensive 2nd 1回

オールスター出場:1回(1994)

大学時代は素行面の問題から3度の転校を経験し、1988年にオクラホマ州立大学を卒業した。

ドラフトではどのチームからも指名されず、独立リーグでプレーした後にゴールデンステイト・ウォリアーズと契約してNBAデビューを果たす。

しかしウォリアーズでは結果を残せず、わずか1シーズンで放出されると、CBAなどでプレーしながら再起の機会を待った。

1990年にニューヨーク・ニックスへフリーエージェントとして加入。

開幕前には膝を負傷し、一度は解雇寸前まで追い込まれたが、練習中にパトリック・ユーイングへのダンクを試みた際に負傷し、故障者リストに入ったことで解雇を免れたという有名な逸話が残っている。

その後は闘争心あふれるプレーと勝負強いアウトサイドシュートで頭角を現し、熱狂的なニューヨークのファンから絶大な支持を集めた。

1992-93シーズンには平均17.5得点を記録し、ユーイングに次ぐ得点源へと成長。

この年のプレーオフではカンファレンス決勝でシカゴ・ブルズと激闘を演じ、マイケル・ジョーダンを相手に激しいディフェンスを披露して高い評価を受けた。

また、ジョーダンをかわしてホーレス・グラントの上から叩き込んだ豪快な「ザ・ダンク」は、ニックス史に残る名場面として現在でも語り継がれている。

翌1993-94シーズンにはキャリアハイとなる平均19.0得点、5.9アシストを記録し、初のオールスターにも選出。

チームをNBAファイナル進出へ導く活躍を見せたが、ファイナル第7戦ではフィールドゴール18本中2本成功という極度の不振に陥り、ニックスはあと一歩のところで優勝を逃した。

この試合はスタークスにとってキャリア最大の悔いとして知られている。

1996年にアラン・ヒューストンが加入するとシックスマンへと役割を変えたが、平均13.8得点を記録してシックスマン賞を受賞。

ベンチから流れを変える得点源として再び高い評価を受けた。

1999年にラトレル・スプリーウェルとのトレードで古巣ウォリアーズへ移籍。

その後はシカゴ・ブルズ、ユタ・ジャズでもプレーし、2002年に現役を引退した。

ニックスで記録した通算982本のスリーポイント成功は長らくチーム歴代最多記録として残り、闘志あふれるプレースタイルとともにニューヨークを代表する人気選手として記憶されている。

ドラフト外.エイブリー・ジョンソン

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Avery Johnson

出身校:サザン大学

ポジション:PG

所属チーム:SEA(1988~1990)→DEN(1990)→SAS(1991)→HOU(1992)→SAS(1992~1993)→GSW(1993~1994)→SAS(1994~2001)→DEN(2001~2002)→DAL(2002~2003)→GSW(2003~2004)

キャリア平均:8.4PPG、1.7RPG、5.5APG、1.0SPG

1988年の大学卒業後、ドラフトではNBAのどのチームからも指名を受けることができず、独立リーグUSBLでプロキャリアをスタートさせた。

1988-89シーズンにシアトル・スーパーソニックスと契約してNBAデビューを果たしたものの、チームに定着することはできず、解雇や短期契約、移籍を繰り返す苦しい下積み時代を送る。

1994年、この年からサンアントニオ・スパーズのGMに就任したグレッグ・ポポビッチは、以前から高く評価していたジョンソンをチームへ加入させた。

1994-95シーズン、ジョンソンは82試合すべてに先発出場し、平均13.4得点、8.2アシスト、1.4スティールを記録。

卓越したゲームメイクとリーダーシップでポポビッチの期待に応え、ようやくNBA屈指の司令塔としての地位を確立した。

スパーズのエースであるデビッド・ロビンソンの愛称「The Admiral(提督)」に対し、ジョンソンは「The Little General(小さな将軍)」の愛称で親しまれ、闘志あふれるプレーと強い統率力でチームを牽引した。

試合終盤でも冷静な判断を失わず、勝負どころでチームをまとめ上げる精神的支柱として厚い信頼を集めた。

1997年にティム・ダンカンが加入すると、ベテランポイントガードとして若きエースを支え、ロビンソンとのツインタワーを巧みに操る司令塔として活躍。

1998-99シーズンにはロックアウトで短縮されたシーズンを勝ち抜き、スパーズを球団史上初のNBAチャンピオンへ導いた。

優勝が決まったファイナル第5戦では、試合残り47秒で決勝シュートを沈め、自身のキャリアを象徴する名場面となっている。

2001年に7シーズンを過ごしたスパーズを離れ、その後はチームを渡り歩きながら選手兼コーチとしてプレーを続けた。

2004年にダラス・マーベリックスへ移籍した際にはプレーすることなく現役を引退し、コーチ業に専念。

ヘッドコーチとして初めてフルシーズン指揮を執った2004-05シーズンには最優秀コーチ賞を受賞し、指導者としても高い評価を得ている。

スパーズ時代に着用した背番号「6」は、チームの永久欠番となっている。

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