
※ David Robinson(1987 Draft)
主なドラフト選手
1.パービス・エリソン

Pervis Ellison
出身校:ルイビル大学
ポジション:C、PF
所属チーム:SAC(1989~1990)→WSB(1990~1994)→BOS(1994~2000)→SEA(2000)
キャリア平均:9.5PPG、6.7RPG、1.5APG、1.6BPG、.510FG%
個人賞:Most Improved Player(1991-1992)
ルイビル大学では1年生ながらチームをNCAA優勝へ導き、1年生としては史上2人目となるトーナメント最優秀選手(MOP)に選出された。
その支配的なプレーから「Never Nervous Pervis」の愛称で呼ばれ、1990年のNBAドラフト全体1位でサクラメント・キングスに入団する。
しかし、NBA入り後は足の故障に苦しみ、本来の実力を発揮できなかった。
期待を裏切る成績が続いたことで、チームメイトから皮肉を込めて「Out of Service Pervis(役立たずのパービス)」と呼ばれることもあり、わずか1シーズンでワシントン・ブレッツへトレードされた。
1991-92シーズンはデビュー以来初めて健康を維持し、66試合に出場して平均38.0分のプレータイムを記録すると、平均20.0得点、11.2リバウンド、2.7ブロックをマークして最も成長した選手に贈られるMIPを受賞した。
故障から復活を遂げて才能の片鱗を見せたものの、その後は再び怪我に悩まされ、成績を下降させていく。
それでもバックアップとしてプレーを続け、2000-01シーズンにシアトル・スーパーソニックスで9試合に出場した後、現役を引退した。
2.ダニー・フェリー

Danny Ferry
出身校:デューク大学
ポジション:PF、SF
所属チーム:CLE(1990~2000)→SAS(2000~2003)
キャリア平均:7.0PPG、2.8RPG、1.3APG、.393 3P%
デューク大学ではNCAA屈指のフォワードとして活躍し、「ラリー・バード2世」とも呼ばれた。
ドラフトではロサンゼルス・クリッパーズから全体2位で指名を受けたが、リーグのお荷物球団と揶揄されていたクリッパーズへの入団を拒否し、イタリアのクラブでプレーする道を選択する。
クリッパーズはロン・ハーパーと将来のドラフト指名権を獲得する代わりに、フェリーの交渉権をクリーブランド・キャバリアーズへトレードした。
フェリーはキャバリアーズと当時としては異例の10年に及ぶ長期契約を結び、大きな期待を背負って1990-91シーズンにNBAデビューを果たす。
しかし、層の厚いチームの中で十分な出場時間を得られず、目立った成績を残せないシーズンが続いた。
1995-96シーズンは故障者が相次いだことで先発に定着し、キャリア初となる平均2桁の13.3得点を記録。
スリーポイントシュート成功率39.4%をマークし、ダン・マーリーに次ぐチーム2位の143本の3ポイントを成功させるなど、高いシュート力で存在感を示した。
しかし、1997年にオールスター・フォワードのショーン・ケンプが加入すると、さらに若手の台頭もあって再び出場時間は減少し、この活躍は長くは続かなかった。
10年契約を終えた2000年にサンアントニオ・スパーズへ移籍し、キャリア最終年となった2002-03シーズンには自身初となるチャンピオンリングを獲得して現役生活を締めくくった。
父親は元NBA選手のボブ・フェリー。
3.ショーン・エリオット

Sean Elliott
出身校:アリゾナ大学
ポジション:SF
所属チーム:SAS(1989~1993)→DET(1993~1994)→SAS(1994~2001)
キャリア平均:14.2PPG、4.3RPG、2.6APG、.375 3P%
オールスター出場:2回(1993、1996)
外角シュートから豪快なダンクまでこなす万能型フォワードとして活躍し、デビッド・ロビンソンらとともに強豪サンアントニオ・スパーズを牽引した。
1993年にデニス・ロドマンを獲得するためデトロイト・ピストンズへトレードされたが、翌1994年に再びトレードでスパーズに呼び戻された。
1995-96シーズンにキャリアハイとなる平均20.0得点を記録し、地元サンアントニオで行われたオールスターゲームでは2回目となる出場を果たしている。
翌シーズン以降、故障により徐々に数字を下降させていったが、1999年のプレーオフでは劇的な逆転ショットを決めるなど活躍し、チーム史上初となる優勝に大きく貢献した。
しかし、その直後に腎臓病であることを公表し、腎臓移植手術を受けることになった。
引退の危機に瀕することになったエリオットだったが、2000年3月にチームに復帰し、NBA史上初めて腎臓移植後に復帰した選手になった。
2000-01シーズンの終了後に引退を発表し、背番号「32」はスパーズの永久欠番となった。
日系人の妻を持ち、日本とゆかりのある選手としても知られている。
4.グレン・ライス

Glen Rice
出身校:ミシガン大学
ポジション:SF
所属チーム:MIA(1989~1995)→CHH(1995~1999)→LAL(1999~2000)→NYK(2000~2001)→HOU(2001~2003)→LAC(2003~2004)
キャリア平均:18.3PPG、4.4RPG、2.1APG、1.0SPG、.400 3P%
個人賞:All-Star Game MVP(1997)
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回、All-NBA 3rd 1回
オールスター出場:3回(1996~1998)
高精度なアウトサイドシュートを武器に得点を量産し、90年代を代表するスコアラー兼シューターとして活躍した。
創設2年目のマイアミ・ヒートに入団すると、1試合50得点以上を叩き出す爆発力を見せ、デビューから6シーズンで平均19.3得点を記録するなど本格的なエースとして初期のヒートを牽引した。
1995年にシャーロット・ホーネッツに移籍してからはさらに得点力が増し、1996-97シーズンにはキャリアハイとなる平均26.8得点を記録、スリーポイント成功率はリーグトップとなる47.0%を記録した。
1997年に出場したオールスターゲームでは、第3クォーターだけで20得点を叩き出し、史上初のトリプルダブルを記録したマイケル・ジョーダンを抑えてMVPを獲得している。
1999年にロサンゼルス・レイカーズに移籍し、シャキール・オニール、コビー・ブライアントに次ぐ3番目のスコアラーとして優勝に貢献する。
シーズン終了後にレイカーズを去ると、その後は足の故障に悩まされ、3つのチームを渡り歩いた後、2004年に引退した。
息子のグレン・ライスJr.も2013年にNBAデビューを果たしている。
10.プー・リチャードソン

Pooh Richardson
出身校:カリフォルニア大学ロサンゼルス校
ポジション:PG
所属チーム:MIN(1989~1992)→IND(1992~1994)→LAC(1994~1999)
キャリア平均:11.1PPG、2.8RPG、6.5APG、1.3SPG
本名はジェローム・リチャードソン。
ニックネームの「Pooh」は「くまのプーさん」に由来する。
名門UCLAでは1年生からスターターを務め、アシスト数やスリーポイント成功率で同校の記録を樹立した。
ミネソタ・ティンバーウルブズ初のドラフト指名選手となり、2年目には平均17.1得点、9.0アシストを記録してチームを牽引する。
将来有望な若手ポイントガードのひとりとして期待がかかったが、ウルブズとの契約延長がこじれ、1992年にトレードでインディアナ・ペイサーズへ移籍、さらに1994年にロサンゼルス・クリッパーズへ移籍する。
クリッパーズでは故障に苦しみ成績を軒並み下降させたが、若い選手が多いチームに安定感をもたらし、久しぶりのプレーオフ進出にも貢献している。
11.ニック・アンダーソン

Nick Anderson
出身校:イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校
ポジション:SG、SF
所属チーム:ORL(1989~1999)→SAC(1999~2001)→MEM(2001~2002)
キャリア平均:14.4PPG、5.1RPG、2.6APG、1.4SPG
オーランド・マジックでは得点力のあるスウィングマンとして1年目から活躍し、3年目にはチームトップとなる平均19.9得点を記録した。
その後、シャキール・オニールら能力の高い選手が揃ったことで個人成績は下降したものの、リーグ屈指の先発メンバーの一角としてチームとともに注目を集めた。
1995年のプレーオフでは、マイケル・ジョーダンが電撃復帰したシカゴ・ブルズとカンファレンス準決勝で対戦。
第1戦の試合終了直前、ジョーダンから勝利を決定づける値千金のスティールを決めた。
試合後、アンダーソンは「45番は23番のようには見えない」とコメントし、それを伝え聞いたジョーダンは罰金を支払ってまで背番号を「45」から「23」に戻している。
ブルズを4勝2敗で破ったマジックは、インディアナ・ペイサーズとのカンファレンス決勝も制して球団史上初のファイナルへ進出し、前年王者ヒューストン・ロケッツと対戦した。
不調のレギュラーシーズンを過ごしながらもプレーオフを勝ち上がってきたロケッツに対し、勢いに勝るマジックが優位と見られていたが、第1戦は中盤まで大量リードを奪いながら終盤にロケッツの猛攻を受け、残り10秒でリードは3点まで縮まっていた。
ここでフリースローラインに立ったアンダーソンは、1本でも決めれば勝利を大きく引き寄せられる場面でフリースローを2本連続で失敗。
さらに直後、自らオフェンスリバウンドを奪って得たフリースローでも再び2本連続で外してしまう。
試合終了直前に同点のスリーポイントシュートを決められて延長戦へ突入すると、勢いを失ったマジックは初戦を落とし、その後もロケッツに傾いた流れを引き戻すことができず、4戦全敗という屈辱のスウィープ負けを喫した。
シーズンのフリースロー成功率は70%を記録していたにもかかわらず、勝負どころで4本連続で外したアンダーソンは、敗戦の象徴として厳しい批判を浴びることになった。
翌年のプレーオフでは完全復活を果たしたブルズの前に完敗し、以降、チームは徐々に戦力を失って低迷していく。
1995年のファイナル以降、極度のシュートスランプに陥っていたアンダーソンは、1996-97シーズンにはフリースロー成功率がシューターとしては考えられない40.4%まで低下した。
ファイナル進出時の主力選手が次々とチームを去る中、生え抜き選手としてプレーを続けたが、1999年、再建期を迎えたチームの方針により、10シーズンを過ごしたマジックを去ることとなった。
その後はサクラメント・キングスなどでプレーし、2002年に現役を引退した。
マジックでの通算出場試合数は球団歴代1位、通算得点も球団歴代2位を記録している。
NBAデビューから引退まで一貫して、高校時代に亡くなった友人が着けていた背番号「25」を着用し続けた。
12.ムーキー・ブレイロック

Mookie Blaylock
出身校:オクラホマ大学
ポジション:PG
所属チーム:NJN(1989~1992)→ATL(1992~1999)→GSW(1999~2002)
キャリア平均:13.5PPG、4.1RPG、6.7APG、2.3SPG
ALL TEAM:All-Defensive 1st 2回、All-Defensive 2nd 4回
オールスター出場:1回(1994)
本名はダロン・オシェイ・ブレイロック。
スティール王に2度輝き、オールディフェンシブチームの常連となるなど、リーグ屈指のディフェンス力を誇るポイントガードとして活躍した。
ニュージャージー・ネッツでの2年目に先発へ定着し、平均14.1得点、6.1アシスト、2.3スティールを記録。
以降11シーズン連続で平均2.0本以上のスティールを記録し続けた。
1992年からはアトランタ・ホークスでプレーし、1993-94シーズンには平均13.8得点、9.7アシスト、2.6スティールを記録して、キャリア唯一となるオールスター出場を果たしている。
スリーポイントシュートも積極的に狙い、リーグ最多となる604本を放った1996-97シーズンには、キャリアハイとなる平均17.4得点を記録した。
人気ロックバンド、パール・ジャムがデビュー前に「ムーキー・ブレイロック」の名で活動していたことでも知られ、1991年にリリースされたアルバム『TEN』のタイトルは、ブレイロックが着用していた背番号「10」に由来している。
14.ティム・ハーダウェイ

Tim Hardaway
出身校:テキサス大学エルパソ校
ポジション:PG
所属チーム:GSW(1989~1996)→MIA(1996~2001)→DAL(2001~2002)→DEN(2002)→IND(2003)
キャリア平均:17.7PPG、3.3RPG、8.2APG、1.6SPG
ALL TEAM:All-NBA 1st 1回、All-NBA 2nd 3回、All-NBA 3rd 1回
オールスター出場:5回(1991~1993、1997~1998)
「キラー・クロスオーバー」と呼ばれた高速の切り返しを武器に、183cmという小柄な体格ながら圧倒的なスピードでディフェンスを翻弄した90年代屈指のポイントガード。
ゴールデンステイト・ウォリアーズでは1年目から先発を務め、2年目には平均22.9得点、9.7アシスト、2.6スティールを記録してオールスターに選出される。
翌シーズンからは2シーズン連続で20得点、10アシスト以上を記録し、リーグを代表するポイントガードとして活躍した。
チームメイトのクリス・マリン、ミッチ・リッチモンドとは、「RUN‐TMC」と呼ばれるハイスコアリングトリオとしてリーグを席巻する原動力となったが、リッチモンドは1991年にトレードでチームを去り、ハーダウェイもシーズンを全休する重傷を負うなど、ウォリアーズの黄金期は長くは続かなかった。
復帰後、クリス・ウェバーやラトレル・スプリーウェルら若手選手との間に溝が生まれ、全幅の信頼を寄せていたドン・ネルソンがヘッドコーチを辞任すると、居場所を失ったハーダウェイは1996年にマイアミ・ヒートへと移籍した。
故障の影響により生命線であるスピードを失ったかに思われたハーダウェイは「終わった選手」とも囁かれたが、ヒートの司令塔として平均20.3得点、8.6アシストを記録する活躍を見せると、オールスターにも返り咲き、さらには初めてオールNBA1stチームにも選出されるなど完全復活を果たした。
積極的なシュートセレクションには批判もあったが、勝負どころでは幾度となくスリーポイントシュートを沈め、クラッチシューターとしても名を馳せた。
息子のティム・ハーダウェイJr.も2013年にNBAデビューを果たしている。
背番号「10」はヒートで永久欠番となっている。
バスケットボール殿堂には2013年から毎年、最終候補に残りながら落選し続け、10年目の2022年に悲願の殿堂入りを果たした。
16.ダナ・バロス

Dana Barros
出身校:ボストン大学
ポジション:PG、SG
所属チーム:SEA(1989~1993)→PHI(1993~1995)→BOS(1995~2000)→DET(2000~2002)、BOS(2004)
キャリア平均:10.5PPG、1.9RPG、3.3APG、.411 3P%
個人賞:Most Improved Player(1994-1995)
オールスター出場:1回(1995)
シアトル・スーパーソニックスでの1年目は主にネイト・マクミランの控えとして起用され、平均9.7得点と一定の活躍を見せた。
しかし翌シーズンにゲイリー・ペイトンが入団すると、バロスの出場時間はさらに減少し、1993年にトレードで放出される。
フィラデルフィア・76ersへ移籍したバロスは先発の座をつかむと、平均13.3得点、5.2アシストを記録。
さらに翌1994-95シーズンには平均20.6得点、7.5アシストと飛躍を遂げ、オールスター初出場も果たした。
高確率のスリーポイントシュートを武器とし、前シーズンから続いていた「1試合以上スリーポイントを成功させる」という連続試合記録を、このシーズンに89試合まで伸ばした。
この記録は、2013年にカイル・コーバーが更新するまで長くNBA記録として残っていた。
シーズン終了後、評価を高めたバロスはボストン・セルティックスと長期高額契約を結ぶ。
故郷ボストンへの凱旋は大きな話題となったが、期待されたほどの活躍を見せることはできず、その後は徐々に成績を下降させていった。
17.ショーン・ケンプ

Shawn Kemp
出身校:トリニティ・バレー・コミュニティ大学
ポジション:PF、C
所属チーム:SEA(1989~1997)→CLE(1997~2000)→POR(2000~2002)→ORL(2002~2003)
キャリア平均:14.6PPG、8.4RPG、1.6APG、1.1SPG、1.2BPG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 3回
オールスター出場:6回(1993~1998)
圧倒的な身体能力を武器に豪快なダンクを連発し、90年代を代表するパワーフォワードとして活躍した。
ニックネームは「レインマン」。
由来は本人いわく、単純に雨男だったからとのこと。
NBAでは雨を降らせるように迫力あるダンクを連発し、雨が多いシアトルの気候から「レインマン」の名は広く親しまれることになった。
高校卒業後、進学予定だったケンタッキー大学で不正問題が発覚した影響によりプレーすることができなくなり、テキサス州の短大への転籍を経てシアトル・スーパーソニックスに入団する。
経験の少なさが懸念されたが、1年目にシックスマンとして81試合に出場すると、2年目には早くも平均15.0得点、8.4リバウンド、1.5ブロックを記録し、適応能力の高さを見せた。
派手なダンクやブロックなど身体能力を生かしたプレーだけでなく、ミドルレンジのショットも年々向上し、リーグを代表するフォワードへと成長していく。
1995-96シーズンは平均19.6得点、11.4リバウンド、1.6ブロック、FG成功率56.1%を記録し、プレーオフではチームをファイナルへと導く活躍を見せた。
選手として全盛期を迎えていたケンプだったが、契約問題からチームとの関係が次第に悪化し、1997年に8シーズンを過ごしたソニックスを去ることになった。
3チームが絡む大型トレードでクリーブランド・キャバリアーズへ移籍すると、若手中心のチームでリーダーとしてチームを牽引したが、徐々に増えていく体重にチーム関係者は懸念を示した。
キャバリアーズで3シーズンを過ごした後、2000年にポートランド・トレイルブレイザーズへトレードされると、薬物やアルコールの問題も重なって急激に成績を落とし、全盛期の輝きを取り戻すことはできなかった。
18.B.J.アームストロング

B.J. Armstrong
出身校:アイオワ大学
ポジション:PG
所属チーム:CHI(1989~1995)→GSW(1995~1997)→CHH(1997~1999)→ORL(1999)
キャリア平均:9.8PPG、1.8RPG、3.3APG、.425 3P%
オールスター出場:1回(1994)
子供に間違われるほどの童顔から「ザ・キッド」と呼ばれ、女性や子供を中心に多くのファンに親しまれた。
シカゴ・ブルズでは1年目から81試合に出場し、翌シーズンからは控えながらも先発のジョン・パクソンと出場時間を分け合い、高いシュート力を武器にチームの3連覇に貢献した。
1992-93シーズンにはパクソンから先発の座を奪い、平均12.3得点、4.0アシスト、リーグトップとなるスリーポイント成功率45.3%を記録している。
マイケル・ジョーダンの引退により、翌1993-94シーズンは得点機会が増え、平均14.8得点を記録して初のオールスターに選出された。
その後は得点志向の強いプレースタイルからコーチとたびたび衝突し、1995年のエクスパンションドラフトでチームを去ることになった。
怪我に強い選手として知られ、577試合連続出場を記録している。
アームストロングの背番号「10」は、ブルズではボブ・ラブの背番号として永久欠番となっている。
しかし、その決定はアームストロングの入団後だったため、在籍中は背番号を変更することなくプレーを続けた。
26.ブラディ・ディバッツ

Vlade Divac
ポジション:C
所属チーム:LAL(1989~1996)→CHH(1996~1999)→SAC(1999~2004)→LAL(2004~2005)
キャリア平均:11.8PPG、8.2RPG、3.1APG、1.1SPG、1.4BPG
オールスター出場:1回(2001)
ユーゴスラビア出身、216cmのビッグマン。
ボールハンドリングに優れ、アシストやミドルレンジシュートでも高い能力を発揮するなど、多彩なプレーで活躍した。
ロサンゼルス・レイカーズに入団し、2年目に出場したファイナルでは5試合で平均18.2得点、8.8リバウンド、2.4ブロックを記録する活躍を見せた。
レイカーズが低迷期に入った後も主力としてチームを支え続け、1994-95シーズンには平均16.0得点、10.4リバウンド、4.1アシスト、2.2ブロックを記録し、チームの再建に貢献している。
1996年、シャキール・オニールのレイカーズ加入が決まると、サラリーキャップ調整のため、新人コービー・ブライアントの交渉権との交換でシャーロット・ホーネッツへトレードされた。
その後、サクラメント・キングスに加入すると、クリス・ウェバーらとともに低迷していたチームをリーグ屈指の強豪へと押し上げた。
コート上だけでなくロッカールームでも優れたリーダーシップを発揮し、チームをひとつにまとめた。
ディバッツ退団後のキングスはメンバー間の確執などもあり、次第に崩壊への道をたどることになった。
背番号「21」はキングスの永久欠番となっている。
2019年にバスケットボール殿堂入りを果たした。
36.クリフォード・ロビンソン

Clifford Robinson
出身校:コネチカット大学
ポジション:PF、SF、C
所属チーム:POR(1989~1997)→PHO(1997~2001)→DET(2001~2003)→GSW(2003~2005)→NJN(2005~2007)
キャリア平均:14.2PPG、4.6RPG、2.2APG、1.0SPG、1.0BPG
個人賞:Sixth Man of the Year(1992-1993)
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 2回
オールスター出場:1回(1994)
今では多くの選手が着用するヘアバンドの先駆け的存在としても知られる。
208cmのビッグマンながら機動力と優れたシュート力を兼ね備え、ポートランド・トレイルブレイザーズではクライド・ドレクスラー退団後にエースとして平均20得点以上を記録した。
1992年のファイナルでシカゴ・ブルズと対戦した際、マイケル・ジョーダンとスコッティ・ピッペンのディフェンスに感銘を受けたことをきっかけに、自身もディフェンスへの意識をさらに高めていく。
キャリア後半になると、その高いディフェンス力もあらためて評価され、攻守両面でチームから厚い信頼を寄せられる存在となった。
18シーズンにわたる長い現役生活を送り、その間プレーオフ進出を逃したのは、2003-04シーズンにゴールデンステイト・ウォリアーズでプレーした1シーズンのみであり、所属チームの勝利への貢献度の高さを物語っている。
また、非常に故障の少ない選手としても知られ、デビューから5シーズン連続で全試合出場を果たした。
2020年、悪性リンパ腫のため53歳で死去した。
38.ダグ・ウェスト

Doug West
出身校:ビラノバ大学
ポジション:SG
所属チーム:MIN(1989~1998)→VAN(1998~2001)
キャリア平均:9.6PPG、2.5RPG、1.9APG
ドラフトでは新設されたばかりのミネソタ・ティンバーウルブズから指名を受け、9シーズンにわたって同チームでプレーした。
デビュー当初は目立った成績を残せなかったが、先発に定着した3年目に平均14.0得点を記録すると、翌シーズンにはチームトップとなる平均19.3得点をマークし、チームのエースとして活躍した。
しかし、このシーズンをピークに成績は徐々に下降し、それに伴って出場時間も減少していった。
高い身体能力を生かしたドライブや豪快なダンクを武器とし、スラムダンクコンテストにも出場したほか、ディフェンスでも優れた能力を発揮した。



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