「1991年 NBAドラフト」年代別に振り返るNBA選手名鑑

NBA
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主なドラフト選手

1.ラリー・ジョンソン

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Larry Johnson

出身校:ネバダ大学ラスベガス校

ポジション:PF、SF

所属チーム:CHH(1991~1996)→NYK(1996~2001)

キャリア平均:16.2PPG、7.5RPG、3.3APG

個人賞:Rookie of the Year

ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回

オールスター出場:2回(1993、1995)

愛称は「LJ」。

CM出演をきっかけに演じた「グランマ(Grandmama)」のキャラクターでも親しまれた。

身長201cmとパワーフォワードとしては小柄だったが、ボディビルダーのような屈強な肉体と俊敏性を兼ね備え、ローポストからのスピンムーブやポンプフェイクを武器に得点を量産した。

大学時代、地元の2年制大学からカレッジバスケットボールの強豪ネバダ大学ラスベガス校(UNLV)へ編入すると、移籍1年目から中心選手としてNCAAトーナメント優勝に貢献する。

決勝では名門デューク大学を103-73で圧倒し、NCAAトーナメント決勝史上最多得点差での優勝という歴史的な勝利を飾った。

1991年のNBAドラフトで創設間もないシャーロット・ホーネッツから全体1位指名を受け、入団直後から若いチームのエースとして活躍する。

1年目は平均19.2得点、11.0リバウンドを記録して新人王を受賞。

翌シーズンには平均22.1得点、10.5リバウンド、4.3アシストとオールラウンドな活躍を見せ、初のオールスター出場も果たした。

同じシーズンにアロンゾ・モーニングも加入し、才能豊かな若手が揃ったホーネッツは「フューチャー・ブルズ」と呼ばれるほど将来を期待された。

しかし、チームの二枚看板だったジョンソンとモーニングの関係は次第に悪化し、1995年にモーニングがマイアミ・ヒートへ移籍。

翌1996年にはジョンソンもニューヨーク・ニックスへトレードされた。

ニックス移籍後は慢性的な背中の故障によって爆発的な得点力こそ失ったものの、アウトサイドシュートを磨いてプレースタイルを変化させ、チームの精神的支柱として活躍。

1999年のプレーオフではインディアナ・ペイサーズとのカンファレンス決勝第3戦で、試合終了間際に4点プレーを成功させる劇的な決勝点を挙げ、ニックス史に残る名場面を演出した。

2001年、長年悩まされてきた背中と腰の故障の悪化により現役引退を表明し、10シーズンのキャリアに幕を下ろした。

高校時代にはボクシングの州チャンピオンになった経験もあり、1998年のプレーオフでマイアミ・ヒートのアロンゾ・モーニングと乱闘騒ぎになった際には、モーニングのパンチを軽快なフットワークでかわし続けた場面も話題となった。

2.ケニー・アンダーソン

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Kenny Anderson

出身校:ジョージア工科大学

ポジション:PG

所属チーム:NJN(1991~1996)→CHH(1996)→POR(1996~1998)→BOS(1998~2002)→SEA(2002~2003)→NOH(2003)→IND(2003~2004)→ATL(2004~2005)→LAC(2005)

キャリア平均:12.6PPG、3.1RPG、6.1APG、1.5SPG

オールスター出場:1回(1994)

圧倒的なハンドリングスキルを持ち、高校時代にはすでにニューヨーク最大級のスター選手としてその名が知られていた。

高校卒業後はジョージア工科大学へ進学し、1年生から全米屈指のポイントガードとして活躍。

大学2年間で平均21.0得点、8.0アシストを記録し、1991年NBAドラフトで全体2位指名を受けてニュージャージ・ネッツへ入団した。

しかし、入団当初はムーキー・ブレイロックから先発の座を奪うことができず、1年目は平均17分の出場で7.0得点、3.2アシストの成績に終わる。

翌1992-93シーズン、ブレイロックがトレードでチームを去り、新ヘッドコーチに就任した名将チャック・デイリーは、ドラゼン・ペトロビッチデリック・コールマンとともにアンダーソンをチームの中心選手に据えた。

先発に定着したアンダーソンは平均16.9得点、8.2アシストと結果を残し、さらに3年目の1993-94シーズンには平均18.8得点、9.6アシストを記録して初めてオールスターに選出される。

チームは不慮の事故でペトロビッチを失うという悲劇に見舞われたが、アンダーソンとコールマンはリーグを代表するデュオになると期待され、ネッツの将来は明るいものと思われていた。

しかし、コールマンが次第にチームとの関係を悪化させて1995年に放出されると、アンダーソンもフロントとの対立から残留を拒み、1996年にシャーロット・ホーネッツへ移籍した。

その後はポートランド・トレイルブレイザーズ、ボストン・セルティックス、シアトル・スーパーソニックスなど多くのチームを渡り歩き、セルティックスでは再び先発ポイントガードとしてプレーオフ進出に貢献するなど、経験豊富な司令塔として活躍した。

2002年には古巣ネッツとプレーオフで対戦したが、ジェイソン・キッド率いるネッツの前に敗れ、ネッツはそのまま球団史上初のNBAファイナルへ進出している。

オールスターに再び選出されることはなかったものの、卓越したボールハンドリングとゲームメイク能力を武器に、長年にわたりベテランポイントガードとしてチームに貢献した。

3.ビリー・オーウェンス

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Billy Owens

出身校:シラキュース大学

ポジション:SF、PF、SG

所属チーム:GSW(1991~1994)→MIA(1994~1996)→SAC(1996~1998)→SEA(1999)→PHI(1999~2000)→GSW(2000)→DET(2000~2001)

キャリア平均:11.7PPG、6.7RPG、2.8APG

高校時代から全米屈指のプレーヤーとして知られ、身長203cmというサイズに似合わない高いボールハンドリング技術を持っていたことから、「マジック2世」とも評された。

1991年のNBAドラフトではサクラメント・キングスから全体3位で指名されたものの、シーズン開幕当日にミッチ・リッチモンドとのトレードでゴールデンステイト・ウォリアーズへ移籍する。

このトレードはチームの中心選手だったリッチモンドを放出し、NBAで実績のないルーキーを獲得する内容だったことから大きな物議を醸したが、オーウェンスはルーキーイヤーから平均14.3得点、8.0リバウンドを記録して期待に応え、チームも前年を11勝上回る55勝27敗と躍進を遂げる。

しかし、翌1992-93シーズンにはキャリアハイとなる平均16.5得点をマークしたものの、故障により37試合の出場にとどまり、チームもプレーオフ進出を逃すなど停滞した。

その後は故障の影響もあってチームが求めるレベルに到達できず、1994年にトレードでマイアミ・ヒートへ放出された。

期待された活躍を見せることができず、いつしか「未完の大器」と呼ばれるようになったが、ケビン・デュラントは若い頃にオーエンスのプレー映像を熱心に研究し、自身のプレースタイルに生かしたと語っている。

2001年に現役を引退した後は、大学バスケのコーチやスポーツエージェントとしてバスケットボール界に関わり続けている。

4.ディケンベ・ムトンボ

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Dikembe Mutombo

出身校:ジョージタウン大学

ポジション:C

所属チーム:DEN(1991~1996)→ATL(1996~2001)→PHI(2001~2002)→NJN(2002~2003)→NYK(2003~2004)→HOU(2004~2009)

キャリア平均:9.8PPG、10.3RPG、1.0APG、2.8BPG、.518FG%

個人賞:Defensive Player of the Year4回(1994-1995、1996-1997、1997-1998、2000-2001)

ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回、All-NBA 3rd 2回、All-Defensive 1st 3回、All-Defensive 2nd 3回

オールスター出場:8回(1992、1995~1998、2000~2002)

218cmの長身でゴール下にそびえ立つ姿から「マウント・ムトンボ」と呼ばれ、NBA史上屈指のショットブロッカーとして数え切れないほどのシュートを叩き落とした。

デンバー・ナゲッツに入団し、1年目から平均16.6得点、12.3リバウンド、3.0ブロックを記録する活躍で、新人として唯一オールスターに選出される。

2年目以降はチーム方針もあってオフェンスでの役割は減少したが、圧倒的なディフェンス力でチームを支え、ブロック王に3度、リバウンド王に2度、最優秀守備選手賞には史上最多タイとなる4度輝くなど、リーグを代表するディフェンダーへと成長した。

1994年のプレーオフでは、第8シードのナゲッツを率いて第1シードのシアトル・スーパーソニックスを撃破するNBA史上初の番狂わせを演じ、勝利の瞬間にボールを抱えてコートに寝転ぶ姿は、プレーオフ史に残る名場面として語り継がれている。

ブロックを決めた際に人差し指を左右に振る「ワッグル」はムトンボの代名詞となったが、相手選手に向けて行うことがテクニカルファウルの対象となったため、その後は観客席へ向けて披露するようになった。

キャリア後半は故障が目立つようになったものの、ヒューストン・ロケッツではヤオ・ミンのバックアップ兼メンターとして重要な役割を果たし、ベテランとしてチームを支えた。

22歳のときにコンゴ共和国からアメリカのジョージタウン大学へ留学したが、当初の目的はバスケットボールではなく医師になることだった。

そこでジョン・トンプソンに見出され、本格的にバスケットボールへ打ち込むようになる。

現役時代から慈善活動に熱心で、故郷コンゴ民主共和国に自身の名を冠した病院を建設するなど、アフリカの医療・教育支援に多大な貢献を果たしたことでも知られる。

背番号「55」は、ホークスとナゲッツの2チームで永久欠番となっている。

2015年にバスケットボール殿堂入りを果たした。

2024年、脳腫瘍のため58歳で死去した。

5.スティーブ・スミス

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Steve Smith

出身校:ミシガン州立大学

ポジション:SG

所属チーム:MIA(1991~1994)→ATL(1994~1999)→POR(1999~2001)→SAS(2001~2003)→NOH(2003~2004)→CHA(2004~2005)→MIA(2005)

キャリア平均:14.3PPG、3.2RPG、3.1APG、.358 3P%

オールスター出場:1回(1998)

203cmの長身ガードとして活躍し、マジック・ジョンソンを輩出したミシガン州立大学出身ということもあって「マジック2世」と呼ばれた。

アウトサイドから精密機械のようにシュートを決める一方、インサイドでもミスマッチを生かしたポストプレーで得点を重ねるなど、サイズと技術を兼ね備えた万能型ガードとして知られた。

1991年のNBAドラフトでマイアミ・ヒートから全体5位指名を受け、創設間もないチームの中心選手として活躍する。

1994年にアトランタ・ホークスへ移籍すると、チームのエースとして安定した成績を残し、1997-98シーズンには平均20.1得点、4.2リバウンド、4.0アシストを記録して、キャリア唯一となるオールスターに選出された。

1999-2000シーズンにはポートランド・トレイルブレイザーズへ移籍し、スコッティ・ピッペンラシード・ウォレスらとともに優勝候補の一角として活躍する。

プレーオフではロサンゼルス・レイカーズをあと一歩まで追い詰めたものの、カンファレンス決勝第7戦で第4クォーターの15点リードを逆転され、惜しくもファイナル進出を逃した。

最も優勝に近づいたシーズンを悔しい結果で終えると、翌シーズンは若手選手の台頭によって先発の座を譲り、シーズン終了後にサンアントニオ・スパーズへ移籍する。

スパーズではベンチからチームを支えるベテランとしてプレーし、2003年に念願のチャンピオンリングを獲得した。

キャリアを通じて高いシュート力と安定感を武器に活躍し、優れた得点力を持つ大型シューティングガードの先駆け的存在としてリーグに名を残している。

7.ルーク・ロングリー

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Luc Longley

出身校:ニューメキシコ大学

ポジション:C

所属チーム:MIN(1991~1994)→CHI(1994~1998)→PHO(1998~2000)→NYK(2000)

キャリア平均:7.2PPG、4.9RPG、1.5APG、1.0BPG

オーストラリア出身。

ミネソタ・ティンバーウルブズでNBAデビューを果たし、主にバックアップセンターとして平均20分に満たない出場時間の中で経験を積んだ。

3年目のシーズン途中にシカゴ・ブルズへ移籍すると、1995-96シーズンから先発センターに定着。

チームはこのシーズンからNBA史上最多タイ(当時)となる72勝を挙げるとともに、リーグ3連覇を達成した。

ミドルレンジからの安定したシュート力を備えていた一方で、得点を量産するタイプではなく、スクリーンやポストからのパスでトライアングルオフェンスを機能させるなど、縁の下の力持ちとして重要な役割を担った。

1997-98シーズンにはキャリアハイとなる平均11.4得点、5.9リバウンドを記録し、ブルズ最後の3連覇にも大きく貢献している。

その後はフェニックス・サンズへ移籍したが、度重なる故障の影響もあってブルズ時代のような活躍を見せることはできず、ニューヨーク・ニックスでプレーした2000-01シーズンを最後に現役を引退した。

9.ステイシー・オーグモン

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Stacey Augmon

出身校:ネバダ大学ラスベガス校

ポジション:SG、SF

所属チーム:ATL(1991~1996)→DET(1996~1997)→POR(1997~2001)→CHH-NOH(2001~2004)→ORL(2004~2006)

キャリア平均:8.0PPG、3.2RPG、1.6APG、1.0SPG

優れた身体能力を生かしたアクロバティックなプレーで知られ、そのしなやかな動きから、アメリカンコミックスのヒーロー「プラスチックマン」の愛称で親しまれた。

ネバダ大学ラスベガス校(UNLV)ではラリー・ジョンソンらとともに黄金時代を築き、チームの主力として1990年のNCAAトーナメント制覇に大きく貢献。

大学屈指のオールラウンドプレーヤーとして高い評価を受けた。

1991年のNBAドラフトでアトランタ・ホークスに入団すると、3年目にはキャリアハイとなる平均14.8得点を記録。

NBA入り当初は攻守両面で存在感を発揮していたが、年齢を重ねるにつれてディフェンスを最大の武器とするプレースタイルへと変化していった。

1996年にホークスを離れて以降は平均得点こそ5点前後まで低下したものの、相手エースを封じるディフェンダーとして各チームから重宝され、勝負どころではコートに立つ機会も少なくなかった。

2006年まで現役を続け、リーグ屈指のディフェンススペシャリストとして長いキャリアを築いた。

10.ブライアン・ウィリアムズ

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Brian Williams

出身校:アリゾナ大学

ポジション:C、PF

所属チーム:ORL(1991~1993)→DEN(1993~1995)→LAC(1995~1996)→CHI(1996~1997)→DET(1997~1999)

キャリア平均:11.0PPG、6.2RPG、1.1APG、.528FG%

NBA入り後しばらくは目立った成績を残せずにいたが、ロサンゼルス・クリッパーズに在籍していた1995-96シーズンに前年の倍近い平均15.8得点を記録し、一躍FA市場の注目選手となった。

しかし、自身が望む条件の契約を得ることができず、1996-97シーズン開幕時点では所属先が決まらない状態が続く。

それでもシーズン終盤にシカゴ・ブルズと契約を結ぶと、プレーオフではベンチメンバーとして優勝に貢献。

その活躍が評価され、オフにはデトロイト・ピストンズと5年契約を結んだ。

移籍1年目にはキャリアハイとなる平均16.2得点、8.9リバウンドを記録し、チームのインサイドを支える主力として活躍したが、翌1998-99シーズン終了後、契約を数年残したまま突然現役を引退した。

引退後の2000年には、自身のルーツであるネイティブアメリカンの血筋を尊重する思いから、本名のブライアン・ウィリアムズを捨て、「バイソン・デリー(Bison Dele)」へと改名。

物質的な成功よりも自由な人生を求め、世界各地を旅する生活を送るようになった。

2002年には、自身の所有するヨットで南太平洋を航海中に消息を絶つ。

その後の捜査で、兄がバイソン・デリーらを殺害して遺体を海へ遺棄したと、兄の交際相手が証言した。

兄は殺人への関与が強く疑われたものの、有罪判決を受けることはなく、事件の真相は現在も謎に包まれている。

11.テレル・ブランドン

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Terrell Brandon

出身校:オレゴン大学

ポジション:PG

所属チーム:CLE(1991~1997)→MIL(1997~1999)→MIN(1999~2002)

キャリア平均:13.8PPG、3.0RPG、6.1APG、1.6SPG

オールスター出場:2回(1996、1997)

クリーブランド・キャバリアーズに入団し、デビュー当初はオールスターガードのマーク・プライスの控えとして経験を積んだ。

1994-95シーズンにプライスが故障で戦列を離れると、シーズン途中から先発ポイントガードを務め、期待を上回る活躍を披露。

翌1995-96シーズンには正ポイントガードとして開幕を迎え、平均19.3得点、6.5アシストを記録して初のオールスター選出を果たした。

翌シーズンも同水準の成績を残し、安定したゲームメークと高い得点能力を兼ね備えたポイントガードとして評価を確立。

スポーツ・イラストレイテッド誌から「NBA最高のポイントガード」と評されるなど、リーグ屈指の司令塔として高い評価を受けた。

その後はミネソタ・ティンバーウルブズへ移籍。

キャリア後半は故障に悩まされながらも、1999-2000シーズンには平均17.1得点、リーグ5位となる平均8.9アシストを記録し、チームのオフェンスを支え続けた。

コート外でも人格者として知られ、1997年にはNBAスポーツマンシップ賞を受賞。

故郷で開催していたバスケットボールキャンプには、少年時代のレブロン・ジェームズも参加していたことが知られている。

13.デイル・デイビス

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Dale Davis

出身校:クレムゾン大学

ポジション:C、PF

所属チーム:IND(1991~2000)→POR(2000~2004)→GSW(2004~2005)→IND(2005)→DET(2005~2007)

キャリア平均:8.0PPG、7.9RPG、0.9APG、1.2BPG、.530FG%

オールスター出場:1回(2000)

インディアナ・ペイサーズに入団すると、ルーキーイヤーから屈強な肉体を武器にインサイドで存在感を発揮。

3年目には平均11.7得点、10.9リバウンドを記録し、シーズン・ダブルダブルを達成した。

その後はスクリーンやリバウンド、ディフェンスといった目立たない仕事を黙々とこなし、ペイサーズ黄金期を支える存在へと成長。

チームメイトのアントニオ・デイビスとともに「デイビス・ブラザーズ」の愛称で親しまれ、ファンからも高い人気を集めた。

1999-2000シーズンには平均10.0得点、9.9リバウンドを記録し、デビュー9年目にして初のオールスターに選出。

地道なプレーがリーグから高く評価された瞬間でもあった。

翌シーズン、世代交代を進めるチーム方針により、ジャーメイン・オニールとのトレードでポートランド・トレイルブレイザーズへ移籍する。

新天地でも先発センターとして多くの試合に出場し、インサイドの要として堅実な働きを見せた。

キャリア晩年には古巣ペイサーズへ復帰し、長年ともにチームを支えてきたレジー・ミラーのラストシーズンをともに戦った。

派手さこそなかったものの、献身的なプレーでチームを支え続けたビッグマンとして、多くのファンの記憶に残る選手となっている。

16.クリス・ギャトリング

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Chris Gatling

出身校:オールドドミニオン大学

ポジション:PF、C

所属チーム:GSW(1991~1996)→MIA(1996)→DAL(1996~1997)→NJN(1997~1999)→MIL(1999)→ORL(1999~2000)→DEN(2000)→CLE(2000~2001)→MIA(2001~2002)

キャリア平均:10.3PPG、5.3RPG、0.7APG、.513FG%

オールスター出場:1回(1997)

卓越した得点能力を持つインサイドプレーヤーで、高いシュート成功率を誇り、限られた出場時間でも効率よく得点を重ねることで知られた。

リバウンドにも優れ、ベンチスタートであっても試合の流れを変えられる存在として重宝された。

1996-97シーズンはダラス・マーベリックスでプレーし、先発出場はわずか1試合だったにもかかわらず、平均19.0得点を記録。

この活躍が評価され、キャリアで唯一となるNBAオールスターゲームに選出された。

なお、オールスター開催前にニュージャージー・ネッツへトレードされたため、マーベリックス所属選手として選出されながら、ネッツの選手としてオールスターゲームに出場するという珍しい経歴を持つ。

キャリアを通じて主力級の働きを見せながらも、トレードによる移籍が非常に多かったことでも知られ、数多くのチームを渡り歩いた。

爆発的な得点力を持つ一方で、守備やゲームメークには課題を抱えていたこともあり、絶対的なエースにはなれなかった。

しかし、ベンチから流れを変えられるスコアラーとして長年リーグで重宝され、1990年代を代表する「ジャーニーマン」の一人として知られている。

24.リック・フォックス

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Rick Fox

出身校:ノースカロライナ大学

ポジション:SF

所属チーム:BOS(1991~1997)→LAL(1997~2004)

キャリア平均:9.6PPG、3.8RPG、2.8APG、1.0SPG

カナダ出身。

ボストン・セルティックスでNBAデビューを果たすと、ラリー・バード以来となるルーキーでの開幕先発出場を果たし、早くから将来を期待された。

1995-96シーズンには平均14.0得点、5.6リバウンド、4.6アシスト、1.4スティールを記録するなど、攻守にわたってオールラウンドな活躍を披露。

翌1996-97シーズンにはキャリアハイとなる平均15.4得点をマークし、低迷期のセルティックスを支える中心選手へと成長した。

しかし1997年オフ、伝統的なライバルであるロサンゼルス・レイカーズへFA移籍し、多くのセルティックスファンを驚かせる。

レイカーズでは得点こそ減少したものの、優れたディフェンスや状況判断、味方を生かすプレーでフィル・ジャクソンのトライアングルオフェンスに欠かせない存在となり、シャキール・オニールコービー・ブライアントらとともに2000年からのNBA3連覇に大きく貢献した。

現役時代はリーグ屈指の二枚目としても知られ、引退後は俳優としてテレビドラマや映画に出演するなど、コートの外でも幅広く活躍している。

45.ボビー・フィルズ

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Bobby Phills

出身校:サザン大学

ポジション:SG

所属チーム:CLE(1991~1997)→CHH(1997~2000)

キャリア平均:11.0PPG、3.1RPG、2.7APG、1.3SPG、.390 3P%

ALL TEAM:All-Defensive 2nd 1回

1991年のNBAドラフトでミルウォーキー・バックスから指名を受けたものの、開幕前に解雇され、その後はCBAで実戦経験を積んだ。

努力が実を結び、翌シーズンにクリーブランド・キャバリアーズと契約を結ぶと、持ち前のシュート力と粘り強いディフェンスで徐々に出場時間を伸ばしていく。

1995-96シーズンには平均14.6得点、3ポイント成功率44.0%を記録。

高確率のアウトサイドシュートに加え、相手エースをマークするディフェンダーとしても高く評価され、攻守両面でチームに欠かせない存在へと成長した。

1997年にシャーロット・ホーネッツへ移籍すると、その献身的なプレーと闘志あふれるディフェンスでチームの主力として活躍した。

マイケル・ジョーダンレジー・ミラーなど、相手チームのエーススコアラーを任されることも多く、リーグ屈指のペリメーターディフェンダーの一人として知られた。

しかし2000年1月、交通事故により30歳の若さで急逝。

チームはその功績だけでなく、誠実な人柄やプロフェッショナルな姿勢を称え、背番号「13」を永久欠番に制定した。

これはホーネッツ史上初の永久欠番でもあり、フィルズが球団に残した功績の大きさを物語っている。

48.アイザック・オースティン

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Isaac Austin

出身校:アリゾナ州立大学

ポジション:C

所属チーム:UTA(1991~1993)→PHI(1993~1994)、MIA(1996~1998)→LAC(1998)→ORL(1998~1999)→WAS(1999~2000)→VAN(2000~2001)→MEM(2001~2002)

キャリア平均:7.6PPG、4.7RPG、1.2APG

個人賞:Most Improved Player(1996-1997)

ユタ・ジャズでNBAデビューを果たしたものの、当初は十分な出場機会を得られず、1994年からの2シーズンはフランスやトルコなど海外リーグでプレーし、NBA復帰を目指して実戦経験を積み重ねた。

1996年にマイアミ・ヒートと契約すると、82試合すべてに出場。

主にベンチからの起用ながら平均9.7得点、5.8リバウンドを記録し、チームの東カンファレンス決勝進出にも貢献した。

この飛躍が高く評価され、同シーズンのNBA最優秀躍進選手賞(MIP)を受賞。

翌1997-98シーズンには平均13.5得点、7.1リバウンドとさらに成績を伸ばし、リーグ有数の成長株として注目を集めた。

その活躍を受けてフリーエージェント市場では高い評価を受け、オーランド・マジックと大型契約を締結する。

しかし、マジックでは期待されたほどの成績を残すことができず、以降は徐々に出場機会や個人成績を落としていった。

それでも、海外リーグからNBAへ復帰してMIP受賞まで上り詰めた数少ない選手の一人であり、不屈の努力でキャリアを切り開いた苦労人として知られている。

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