
主なドラフト選手
1.ジョー・スミス

Joe Smith
出身校:メリーランド大学
ポジション:PF、C、SF
所属チーム:GSW(1995~1998)→PHI(1998)→MIN(1998~2000)→DET(2000~2001)→MIN(2001~2003)→MIL(2003~2006)→DEN(2006)→PHI(2006~2007)→CHI(2007~2008)→CLE(2008)→OKC(2008~2009)→CLE(2009)→ATL(2009~2010)→NJN(2010)→LAL(2010~2011)
キャリア平均:10.9PPG、6.4RPG、1.0APG
メリーランド大学で大学最優秀選手に選ばれ、1995年のNBAドラフトで全体1位指名を受けてゴールデンステイト・ウォリアーズに入団する。
1年目から平均15.3得点、8.7リバウンドを記録し、インサイドだけでなく、正確なミドルレンジのシュートでも確実に得点を重ね、将来のスター候補として注目を集めた。
翌1996-97シーズンにはキャリアハイとなる平均18.7得点をマークし、順調な成長を見せる。
しかし、1997-98シーズンはラトレル・スプリーウェルによるコーチ暴行事件などでチームが混乱し、ウォリアーズは大規模な再建へと舵を切ると、その中でスミスもチームを離れ、新天地を求めることになった。
フィラデルフィア・76ersを経て1998年からミネソタ・ティンバーウルブズでプレーしたが、このとき結んだ契約がサラリーキャップ規定に反していたことが発覚し、チームは350万ドルの罰金に5年間のドラフト1巡目指名権を剥奪されるという重い処分を受け、スミスも契約を解除されて様々なチームを渡り歩くことになった。
将来を期待されるスター候補から一転、リバウンドやスクリーンなど泥臭い仕事を厭わないロールプレイヤーへと役割を変えることになったが、どのチームからも「計算できるビッグマン」として重宝され、2011年までの長きにわたって現役生活を続けた。
現役時代の給与総額は約6,100万ドルに上ったが、2018年には15万ドルの借金を抱えて自己破産していることが報じられた。
その後、生活を改善し、自身が立ち上げていたコーチングビジネスに本格的に力を入れ、経済的な再起を果たしている。
2.アントニオ・マクダイス

Antonio McDyess
出身校:アラバマ大学
ポジション:PF、C
所属チーム:DEN(1995~1997)→PHO(1997~1998)→DEN(1998~2002)→NYK(2002~2004)→PHO(2004)→DET(2004~2009)→SAS(2009~2011)
キャリア平均:12.0PPG、7.5RPG、1.3APG、1.1BPG
ALL TEAM:All-NBA 3rd 1回
オールスター出場:1回(2001)
1995年のNBAドラフトでロサンゼルス・クリッパーズから全体2位指名を受けると、直後のトレードでデンバー・ナゲッツへ移籍。
ルーキーイヤーから豪快なダンクと高い跳躍力を生かしたブロックショットで注目を集め、リーグを代表するパワーフォワードへの成長を期待された。
しかし、当時のナゲッツは低迷期にあったため、フリーエージェントの資格取得後、他チームへ無償で移籍してしまう可能性が高いと判断したナゲッツのフロントは、将来のドラフト1巡目指名権を見返りにマクダイスをトレードでフェニックス・サンズへ放出する。
地区最下位を争うチームから一転、強豪サンズの中心選手として活躍するマクダイスだったが、1シーズンをプレーした後にフリーエージェントとなると、周囲の予想に反して古巣ナゲッツに戻ることを決断し、当時のNBAファンを驚かせた。
大型契約を結び、低迷するチームの再建を託されたマクダイスは、1998-99シーズンに平均21.2得点、10.7リバウンド、2.3ブロックを記録してオールNBAサードチームに選出される。
さらに2000-01シーズンには初のオールスター出場を果たすなど、攻守両面でリーグ屈指のパワーフォワードとして活躍し、この間チームのプレーオフ進出はならなかったものの、チーム成績は徐々に上向いていった。
ところが、2001-02シーズンに左膝の重傷を負って10試合の出場に終わり、翌シーズンも全休する。
その後、復帰を果たしたものの、度重なる故障に苦しむキャリアを送り、全盛期の爆発的なプレーを取り戻すことはできなかった。
それでも持ち前の技術と経験を生かしてプレースタイルを変化させ、デトロイト・ピストンズやサンアントニオ・スパーズではシックスマンやベテランビッグマンとしてチームを支えた。
故障によってスター街道を歩み続けることはできなかったものの、役割を受け入れながら長く第一線で活躍し続けた姿勢は、多くの選手やファンから高く評価されている。
3.ジェリー・スタックハウス

Jerry Stackhouse
出身校:ノースカロライナ大学
ポジション:SG、SF
所属チーム:PHI(1995~1997)→DET(1997~2002)→WAS(2002~2004)→DAL(2004~2009)→MIL(2009~2010)→MIA(2010~2011)→ATL(2011~2012)→BRK(2012~2013)
キャリア平均:16.9PPG、3.2RPG、3.3APG
オールスター出場:2回(2000~2001)
積極的に狙うアウトサイドシュートのほか、力強いドライブやポストアップからでも得点する事ができ、ガードとしては非常に多くのフリースローを獲得して得点につなげる点取り屋として活躍した。
マイケル・ジョーダンと同じ大学、同じドラフト指名順位、同じポジションということで注目を浴びたが、低迷を続けるフィラデルフィア・76ersでは1年目からエースとして活躍し、平均19.2得点を記録してスコアラーとして自身の能力を証明した。
翌1996-97シーズンにはアレン・アイバーソンが入団し、スタックハウスとともに強力なバックコートを形成することが期待されたが、個人としてはそれぞれ活躍を見せながらもチームは低迷から抜け出せず、アイバーソンがシューティングガードにコンバートされた事でスタックハウスはデトロイト・ピストンズへとトレードされる。
移籍後はジョー・デュマースの控えとして起用されていたが、デュマース引退後に先発に昇格し、1999-2000シーズンに平均23.6得点を記録して初めてオールスターに選出された。
エースのグラント・ヒルがチームを去ってからはさらに得点機会が増大し、2000-01シーズンにはリーグ2位となる平均29.8得点を記録する。
このシーズンは1試合平均13本以上のフリースローを獲得するなど、リーグ屈指の得点力を誇り、50得点以上を3度記録した。
チーム成績が伴わなかったことで「得点にしか興味がない」と批判もされたが、リック・カーライルがヘッドコーチに就任した2001-02シーズンはディフェンスが劇的に改善され、平均21.4得点と数字を落としたものの、50勝32敗という好成績を収めたチームのリーダーとして評価を高めた。
しかし、スタックハウスは得点機会が減少した事に不満を漏らし、チームが近年最高の成績を収めたにもかかわらず、エースがトレードされるという事態に発展する。
ワシントン・ウィザーズに移籍することになったスタックハウスは、迎えた2002-03シーズンを大学の大先輩であるマイケル・ジョーダンとともにプレーし、ジョーダンを上回る平均21.5得点を記録した。
30代を迎えてからはベンチから登場する機会も多くなったが、得点力のあるシックスマンとしてチームを渡り歩き活躍を続け、ダラス・マーベリックスではベテランとして若手を支えて2005-06シーズンのファイナル進出に貢献している。
引退後は指導者へ転身し、NBAや傘下のチーム、大学などでアシスタントコーチやヘッドコーチを務めている。
4.ラシード・ウォレス

Rasheed Wallace
出身校:ノースカロライナ大学
ポジション:PF、C
所属チーム:WSB(1995~1996)→POR(1996~2004)→ATL(2004)→DET(2004~2009)→BOS(2009~2010)、NYK(2012~2013)
キャリア平均:14.4PPG、6.7RPG、1.8APG、1.0SPG、1.3BPG
オールスター出場:4回(2000~2001、2006、2008)
大学ではジェリー・スタックハウスとともに活躍し、フロントコートに厚みを加える選手と期待されてワシントン・ブレッツに入団する。
1年目はクリス・ウェバーの故障もあって多くの試合で先発を務めたが、ウェバーの復調にともない出場時間が減少する事を考慮され、シーズン終了後にロッド・ストリックランドらとのトレードでポートランド・トレイルブレイザーズへと移籍した。
移籍後は平均15得点前後を稼ぎ出す主力として活躍していたが、コート上では審判への激しい抗議を繰り返し、「歩くテクニカルファウル」と呼ばれるなど感情のコントロールに難を見せた。
しかし、1999-2000シーズンにリーグ屈指の選手層を誇るチームの中でトップとなる平均16.4得点を記録し、初めてオールスターに選出されるなど選手として成長していく。
2001-02シーズンにはキャリアハイとなる平均19.3得点を記録し、ビッグマンとしては非常に柔らかいシュートタッチを武器に、インサイド・アウトサイドを問わない幅広いシュートレンジで得点を重ねた。
優れたディフェンス力も兼ね備え、センターとパワーフォワードの両ポジションを高いレベルで守ることができる万能型ビッグマンとして評価を高めていく。
ブレイザーズは王者ロサンゼルス・レイカーズを脅かす存在となっていたが、プレーオフではレイカーズの前に敗退を続け、次第に優勝の望みが遠のいていくと、選手たちは次から次へと警察沙汰となる問題を起こしていき、「ジェイル(監獄)・ブレイザーズ」と揶揄されるまでにチーム状況が悪化する。
ブレイザーズは問題のある選手を次々と放出し始め、マリファナ所持や練習中にチームメイトと乱闘騒動を起こしていたウォレスも、2003-04シーズンのトレード期限数時間前にアトランタ・ホークスへ放出され、1試合のみに出場した後、ウォレスの獲得に動いていたデトロイト・ピストンズに移籍する。
ピストンズではチームの掲げる「チーム・バスケット」に徹し、攻守両面で重要な選手となる。
ベン・ウォレスとの強力なフロントコートはリーグ屈指の守備力を誇り、ピストンズの鉄壁のディフェンスを支えた。
ウォレスを獲得したピストンズはシーズン後半戦に快進撃を見せ、プレーオフを勝ち進んでファイナルに進出すると、大型補強を断行して王座奪還に燃えるレイカーズを破って14年ぶりの優勝を決めた。
ピストンズでは2009年までプレーを続け、その後は引退や復帰を繰り返し、2013-14シーズンにピストンズのアシスタントコーチに就任した。
キャリア通算317回のテクニカルファウルに加え、NBA歴代最多となる29回の退場を記録しているが、文句を言うのは審判に対してだけで、乱闘を起こすこともなければ参加することもなく、どちらかというと制止に回ることが多かった。
また、勝負どころで放つスリーポイントや高いディフェンス力から、歴代屈指のストレッチビッグマンの先駆者としても評価されている。
5.ケビン・ガーネット

Kevin Garnett
出身校:ファラガット高校
ポジション:PF、C、SF
所属チーム:MIN(1995~2007)→BOS(2007~2013)→BRK(2013~2015)→MIN(2015~2016)
キャリア平均:17.8PPG、10.0RPG、3.7APG、1.3SPG、1.4BPG
個人賞:NBA MVP 1回(2003-2004)、Defensive Player of the Year(2007-2008)、All-Star Game MVP(2003)
ALL TEAM:All-NBA 1st 4回、All-NBA 2nd 3回、All-NBA 3rd 2回、All-Defensive 1st 9回、All-Defensive 2nd 3回
オールスター出場:15回(1997~1998、2000~2013)
高校卒業後すぐにNBA入りして成功を収め、その後のコービー・ブライアントら多くの高校卒業選手に大きな影響を与えた。
211cmの長身ながら抜群のクイックネスと器用さを併せ持ち、ボールハンドリング、パス、シュート、ディフェンスのすべてを高いレベルでこなす、NBA史に残る万能プレイヤーとして活躍した。
高校時代に全米屈指の選手として知られていたガーネットは、当初、大学への進学を目指していたが、成績の問題でNCAAでプレーできるかどうかが不透明だったため、大学進学を諦め1995年のNBAドラフトへのエントリーを決意する。
高校から大学を経ずに直接NBA入りをしたのは1975年のダリル・ドーキンスらが最後のことで(ショーン・ケンプは大学ではプレーしていないが、短大を経てNBA入りしている)、成功例のサンプルが少ないうえに、まだ線の細いガーネットがNBAで通用するかは懐疑的な声も少なくなかった。
1994年にミネソタ・ティンバーウルブズの副社長に就任したケビン・マクヘイルがガーネットの才能に惚れこみ、全体5位という周囲の予想を上回る高順位で指名を決行した。
入団当初はヘッドコーチのビル・ブレアの判断でベンチを温めることが多かったが、マクヘイルはガーネットを重用しないブレアを20試合目で解雇し、後任のフリップ・ソーンダーズによって先発に抜擢されると、シーズン後半にダブル・ダブルを連発する活躍を見せる。
最終的に平均10.4得点6.3リバウンド1.8アシストをあげてオールルーキー2ndチームに選出された。
1989年の創設以来、まだ一度も勝率4割を超えたことがなかったウルブズは、このシーズンも26勝56敗に終わる。
しかし、翌シーズンにステフォン・マーブリーが加入すると、ガーネットとマーブリーという若いデュオに牽引されて40勝42敗まで勝ち星を伸ばし、チーム史上初のプレーオフ進出を果たした。
1998年夏、まだ21歳のガーネットは、ウルブズと6年総額1億2,600万ドルという前代未聞の超大型契約を結ぶ。
以降、選手のサラリー高騰が加速するなどリーグに大きな影響を与えることになったが、チーム内でもこの契約に不満を示した(と言われている)マーブリーや他の主力選手がチームを去っていった。
陣容が大きく変貌する中で、ガーネットは大型契約に見合う成績を残し続け、1999-2000シーズンには平均22.9得点、11.8リバウンド、5.0アシスト、1.6ブロック、1.5スティールを記録して、オールNBA1stチーム、オールディフェンシブ1stチームに同時選出され、名実ともにリーグを代表する選手となった。
しかし、ガーネットの巨額契約もあって効果的な補強が進まず、さらにジョー・スミスと結んだ契約が違法であるとして5年間のドラフト指名権が剥奪される。
補強策が八方ふさがりとなったウルブズで孤軍奮闘するガーネットだったが、7年連続でプレーオフ1回戦敗退を喫すると、アンセルフィッシュでオールラウンドな能力は「勝負所で頼りにならない」と批判されることになった。
2003-04シーズン、かつてない大型補強に打って出たウルブズは、ラトレル・スプリーウェルとサム・キャセールの獲得に成功する。
強力なチームメイトを得たガーネットは、平均24.2得点、13.9リバウンド、5.0アシスト、2.2ブロックと躍動。
チームを初の地区優勝に導くと共に、自身も初のリバウンド、そして初のシーズンMVP受賞という栄誉に輝いた。
さらに勢いそのままにプレーオフで1回戦の呪縛を突破し、カンファレンス・ファイナルまで駆け上がった。
ファイナルまであと一歩というところで敗退したが、キャセールらの負傷でガード陣が壊滅状態だったこともあり、戦力的には今後数年、十分に優勝が狙えると考えられていた。
しかし、翌シーズンは主力選手の契約問題やチーム内の不和もあってガーネットが孤軍奮闘する日々に逆戻りし、優勝どころかルーキーイヤー以来となるプレーオフ不出場という結果に終わった。
以降、チーム成績が下降していくと、すでに31歳となっていたガーネットは勝てるチームでのプレーを望み、2007年に1対7(選手5人、ドラフト指名権2つ)という異例のトレードでボストン・セルティックスへ移籍する。
セルティックスは前年、イースタン・カンファレンスの最下位に沈んでいたが、チームにはリーグ屈指のスモールワールドであるポール・ピアースが在籍し、ドラフト当日にはリーグ随一のピュアシューターであるレイ・アレンの獲得に成功していた。
迎えた2007-08シーズン、ピアースとアレン、そしてガーネットが形成するBIG3は優勝のためにエゴを捨て、前評判以上の相性の良さを見せてチームを前年の24勝から66勝へと大躍進に導く。
ガーネットは個人成績こそ低下させたものの、強力なリーダーシップを発揮してチームディフェンスを統括し、プレーオフを苦しみながら勝ち進んで悲願のチャンピオンリングを獲得した。
キャリア終盤は古巣ティンバーウルブズへ復帰し、2016年に現役を引退。
背番号「21」がティンバーウルブズで、背番号「5」がセルティックスで永久欠番となっている。
2020年にバスケットボール殿堂入りを果たした。
7.デイモン・スタウダマイアー

Damon Stoudamire
出身校:アリゾナ大学
ポジション:PG
所属チーム:TOR(1995~1998)→POR(1998~2005)→MEM(2005~2008)→SAS(2008)
キャリア平均:13.4PPG、3.5RPG、6.1APG、1.1SPG、.357 3P%
個人賞:Rookie of the Year
ニックネームは「マイティー・マウス」。
トロント・ラプターズの本拠地で開催された1995年NBAドラフトでは、スタウダマイアーが指名された直後にラプターズファンで埋め尽くされた会場は一斉にブーイングに包まれた。
ファンは178cmのスタウダマイアーよりもNCAAトーナメントで活躍したエド・オバノンの指名を期待していたが、ファンの反応に対してスタウダマイアーは「バスケを知らないだけだ」と一蹴した。
シーズンが始まるとオバノンがNBAへの順応に苦しむ一方で、スタウダマイアーは抜群のクイックネスと勝負度胸でチームをリードし、平均19.0得点、9.3アシストを記録して新人王を受賞した。
創設間もないラプターズではチームの顔として活躍し、1996-97シーズンには平均20.2得点、8.8アシストを記録するなど、リーグ屈指の若手ポイントガードへと成長していく。
1998年にポートランド・トレイルブレイザーズへ移籍してからは厚い選手層もあって全体的に数字を下降させたものの、先発ポイントガードとして強豪チームの一角を担い、ときに50点以上を叩き出すなど爆発力を見せながら活躍を続けた。
その後はメンフィス・グリズリーズやサンアントニオ・スパーズなどでもプレーしたが、故障の影響や若手の台頭もあってプレー時間が減少し、2008年に現役を引退した。
引退後は大学やNBAでアシスタントコーチを務めている。
13.コーリス・ウィリアムソン

Corliss Williamson
出身校:アーカンソー大学
ポジション:SF、PF
所属チーム:SAC(1995~2000)→TOR(2000~2001)→DET(2001~2004)→PHI(2004~2005)→SAC(2005~2007)
キャリア平均:11.1PPG、3.9RPG、1.2APG
個人賞:Sixth Man of the Year(2001-2002)
「ビッグ・ナスティ(Big Nasty)」の愛称で親しまれたパワーフォワード。
パワーフォワードとしては機動力があり、スモールフォワードとしては圧倒的なフィジカルを誇るなど、相手にとってマッチアップの難しい選手として活躍した。
サクラメント・キングスではルーキーイヤーから出場機会を得ると、1997-98シーズンに先発へ定着し、キャリアハイとなる平均17.7得点を記録。
力強いポストプレーと高確率のミドルシュートを武器に、チームの主力スコアラーとして存在感を示した。
2001年に移籍したデトロイト・ピストンズでは、ベンチから得点を供給する役割へと転身。
移籍1年目の2001-02シーズンには平均13.6得点を記録し、NBAシックスマン賞を受賞した。
その後もセカンドユニットの中心として活躍し、2004年にはチャンピオンリング獲得に貢献している。
2005年に古巣キングスへ復帰し、2007年に現役を引退。
派手な身体能力に頼るのではなく、卓越したパワーと技術で得点を重ねたミスマッチメーカーとして、長年リーグで高い評価を受けた。
15.ブレント・バリー

Brent Barry
出身校:オレゴン州立大学
ポジション:SG、SF
所属チーム:LAC(1995~1998)→MIA(1998)→CHI(1998~1999)→SEA(1999~2004)→SAS(2004~2008)→HOU(2008~2009)
キャリア平均:9.3PPG、3.0RPG、3.2APG、1.0SPG、.405 3P%
細身の体格から「ボーンズ(Bones)」の愛称で親しまれた。
父はNBA殿堂入り選手のリック・バリーで、兄のジョン、ドリューもNBAでプレーしたバスケットボール一家の出身である。
ルーキーイヤーに出場したスラムダンクコンテストでは、フリースローラインからのダンクを成功させて優勝。
コンテスト史上初の白人優勝者となり、高い身体能力で大きな注目を集めた。
キャリア初期は豪快なダンクや創造性あふれるプレーで観客を魅了したが、経験を重ねるにつれてゲームメークやアウトサイドシュートにも磨きをかけ、状況判断に優れた万能選手へと成長。
シアトル・スーパーソニックスではポイントガードも務め、2001-02シーズンにはキャリアハイとなる平均14.4得点、5.4リバウンド、5.3アシスト、1.8スティールを記録した。
2004年にサンアントニオ・スパーズへ移籍すると、高いバスケットボールIQと正確な3ポイントシュートを武器にグレッグ・ポポビッチ監督の信頼を獲得。
ティム・ダンカンらとともに2005年と2007年のNBA優勝に貢献した。
2009年にヒューストン・ロケッツで現役を引退。
その後は解説者として長年活躍。
古巣スパーズでフロントとしてのキャリアを積んだ後、フェニックス・サンズの運営責任者としてチーム編成や戦略立案に深く関わり、主要幹部として辣腕を振るっている。
18.セオ・ラトリフ

Theo Ratliff
出身校:ワイオミング大学
ポジション:C、PF
所属チーム:DET(1995~1997)→PHI(1997~2001)→ATL(2001~2004)→POR(2004~2006)→BOS(2006~2007)→MIN(2007~2008)→DET(2008)→PHI(2008~2009)→SAS(2009~2010)→CHA(2010)→LAL(2010~2011)
キャリア平均:7.2PPG、5.7RPG、0.6APG、2.4BPG
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 2回
オールスター出場:1回(2001)
デトロイト・ピストンズでは出場機会に恵まれなかったが、1997年のフィラデルフィア・76ersへの移籍を機に、高い跳躍力と俊敏なフットワークを武器にリーグ屈指のショットブロッカーへと成長を遂げる。
チームのディフェンスを支えるゴール下の守護神として活躍し、2000-01シーズンには平均12.4得点、8.3リバウンド、リーグトップとなる3.7ブロックを記録、自身初のオールスターに選出される。
しかし、故障によってオールスターゲームは欠場する。
その後もシーズン中の復帰が困難となると、優勝を目指す76ersはディケンベ・ムトンボを獲得する大型トレードを敢行し、ラトリフはアトランタ・ホークスへ移籍した。
移籍後も度重なる故障に悩まされたが、健康なシーズンには卓越したディフェンス力で存在感を発揮。
76ers時代を含めて通算3度のブロック王に輝き、長年にわたりNBA屈指のリムプロテクターとして活躍した。
21.マイケル・フィンリー

Michael Finley
出身校:ウィスコンシン大学
ポジション:SF、SG
所属チーム:PHO(1995~1996)→DAL(1996~2005)→SAS(2005~2010)→BOS(2010)
キャリア平均:15.7PPG、4.4RPG、2.9APG、.375 3P%
オールスター出場:2回(2000~2001)
下位指名でフェニックス・サンズに入団し、厚い選手層の中で1年目から先発を務めて平均15.0得点を記録すると、この年のドラフト最大の掘り出し物と評価された。
翌1996-97シーズンの途中、ジェイソン・キッドとのトレードで低迷期の真っ只中にあったダラス・マーベリックスへ移籍する。
切れ味鋭いドライブから叩き込む破壊力満点のダンクと、高確率の外角シュートを武器にチームの中心選手となり、後に加入するスティーブ・ナッシュ、ダーク・ノビツキーとともに「ビッグ3」を形成する。
チームは右肩上がりで成長し始め、毎年プレーオフに進出する強豪チームへと変貌を遂げると、この間、フィンリーも1997-98シーズンから5シーズン連続で平均20得点以上を記録し、2000-01シーズンに平均21.5得点、5.2リバウンド、4.4アシストを記録してオールNBA3rdチームに選出される活躍を見せた。
チーム躍進の立役者となったフィンリーだったが、2005年にチームのサラリーキャップ調整のために解雇される。
無制限のフリーエージェントとなったフィンリーは、マーベリックスのライバルであり、同じテキサス州に本拠地を置くサンアントニオ・スパーズに加入する。
スパーズではマヌ・ジノビリの控えを務めていたが、2007年のプレーオフではジノビリがシックスマンに転向したことで全試合に先発で出場し、キャリア12年目にして初のチャンピオンリングを獲得した。
2010年、ボストン・セルティックスでのプレーを最後に現役を引退し、2013年からはマーベリックスの球団副社長を務めている。
怪我に強い選手としても知られ、デビューから6シーズン連続で全試合出場を果たしたほか、ダラス在籍時には8シーズン連続で80試合以上に出場するなど、高い耐久力を誇った。
43.エリック・スノウ

Eric Snow
出身校:ミシガン州立大学
ポジション:PG、SG
所属チーム:SEA(1995~1998)→PHI(1998~2004)→CLE(2004~2008)
キャリア平均:6.8PPG、2.5RPG、5.0APG、1.2SPG
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 1回
シアトル・スーパーソニックスではゲイリー・ペイトンの控えとして経験を積み、堅実なゲームメークと粘り強いディフェンスで評価を高めた。
1998年にフィラデルフィア・76ersへ移籍すると先発ポイントガードに定着し、アレン・アイバーソンとの名コンビを形成。
自ら積極的に得点を狙うタイプではなかったが、ゲームメークやディフェンス、リーダーシップでチームを支え、2000-01シーズンのNBAファイナル進出に大きく貢献した。
2002-03シーズンにはキャリアハイとなる平均12.9得点、6.6アシスト、1.6スティールを記録し、オールディフェンシブ・セカンドチームにも選出。
リーグ屈指のディフェンス力を誇るポイントガードとして高い評価を受けたほか、アイバーソンからも絶大な信頼を寄せられた。
2004年からはクリーブランド・キャバリアーズへ移籍し、若きレブロン・ジェームズを支えるベテラン司令塔として活躍。
勝負どころで冷静さを失わないプレーと献身的なディフェンスでチームを支え、2007年にはNBAファイナル進出にも貢献した。
2000年にスポーツマンシップ賞を受賞しているが、コート外でも優れた人格者として知られ、慈善活動や人道的な行為に対して贈られるシチズンシップ賞も受賞している。



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