
主なドラフト選手
1.アレン・アイバーソン
2.マーカス・キャンビー

Marcus Camby
出身校:マサチューセッツ大学アマースト校
ポジション:PF、C
所属チーム:TOR(1996~1998)→NYK(1998~2002)→DEN(2002~2008)→LAC(2008~2010)→POR(2010~2012)→HOU(2012)→NYK(2012~2013
キャリア平均:9.5PPG、9.8RPG、1.9APG、2.4BPG
個人賞:Defensive Player of the Year(2006-2007)
ALL TEAM:All-Defensive 1st 2回、All-Defensive 2nd 2回
大学3年生時に平均20.5得点、8.2リバウンドを記録し、カレッジ界屈指のセンターとして攻守にハイレベルなプレーを見せた。
ドラフト指名を受けたトロント・ラプターズでは、前年に新人王を受賞したデイモン・スタウダマイアーとのコンビに期待がかかったが、2年目にブロック王に輝くなど才能の片鱗を見せたものの、度重なる故障に苦しみ、期待されたほどの活躍を見せることはできなかった。
1998年、チャールズ・オークリーらとのトレードでニューヨーク・ニックスへ移籍する。
タフなプレイヤーの代表格であるオークリーの交換相手として、故障が多くソフトなイメージのあったキャンビーの獲得には疑問の声も多かったが、持ち前の機動力と守備力で評価を覆し、プレーオフではルーズボールやブロックショットなど闘志あふれるプレーを連発。
第8シードからファイナル進出を果たすという史上初の快挙に大きく貢献した。
2002年からはデンバー・ナゲッツに在籍し、ディケンベ・ムトンボ以来となる守備の柱としてチームを支える。
2004-05シーズンには平均10.3得点、10.0リバウンド、3.0ブロックを記録してオールディフェンシブ2ndチームに選出され、翌2005-06シーズンからは3シーズン連続でブロック王を獲得。
2006-07シーズンには最優秀守備選手賞(DPOY)を受賞し、リーグ屈指のディフェンダーとして確固たる地位を築いた。
キャリア初期は故障の多さに自身も「何か異常があるのでは」と悩んでいたというが、コンディション管理を見直したことでキャリア後半は安定した活躍を続け、17シーズンにわたる長い現役生活を全うした。
通算ブロック数はNBA歴代上位に名を連ね、優れた守備力と機動力を武器に長年リーグを代表するリムプロテクターとして活躍した。
右腕には「勉族」のタトゥーが彫られており、「ハードにプレーする」「ファミリーを大切にする」という意味が込められている。
3.シャリーフ・アブドゥル=ラヒーム

Shareef Abdur-Rahim
出身校:カリフォルニア大学
ポジション:PF、SF、C
所属チーム:VAN(1996~2001)→ATL(2001~2004)→POR(2004~2005)→SAC(2005~2008)
キャリア平均:18.1PPG、7.5RPG、2.5APG
オールスター出場:1回(2002)
創設2年目のバンクーバー・グリズリーズに入団し、1年目からチームの柱として平均18.7得点、6.9リバウンドを記録する活躍を見せた。
インサイドでもアウトサイドでも得点できる万能型フォワードとして高い評価を受け、1998-99シーズンにはキャリアハイとなる平均23.0得点を記録。
以後も毎年安定して20得点前後を挙げるリーグ屈指のスコアラーとして活躍した。
しかし、ラヒームの奮闘も実らず、グリズリーズは低迷から抜け出すことができず、2001年に移籍したアトランタ・ホークスでも状況は変わらなかった。
2001-02シーズンにはオールスターに初選出されるなど個人としては高い評価を受けたものの、チームは下位に沈み続け、勝利に恵まれないシーズンが続く。
所属するチームがことごとく低迷したラヒームだったが、2004年に21年連続でプレーオフ進出を続けていたポートランド・トレイルブレイザーズへ移籍し、ようやく勝てるチームでプレーできるかと思われた。
ところが皮肉にも、ブレイザーズはラヒーム加入後に長年続いていたプレーオフ進出記録が途切れ、ラヒーム自身もプレーオフ初出場を逃し続けることになった。
2005年にはニュージャージー・ネッツへの移籍がまとまりかけたが、健康診断で膝の異常が見つかり、トレードは直前で破談となる。
その後、クリス・ウェバーの後継者としてサクラメント・キングスへ加入すると、故障の影響で全盛期ほどのパフォーマンスは見せられなかったものの、チームはプレーオフ進出を果たし、ラヒームはデビュー10年目にして初めてプレーオフの舞台に立った。
しかし、キングスは翌シーズンから長い低迷期へ突入し、ラヒームも膝の故障が悪化。
2007-08シーズン終了後に現役引退を表明した。
実力者でありながらキャリアの大半を再建中のチームで過ごし、「最も実力がありながら勝利に恵まれなかったスター選手の一人」として語られることも多い。
4.ステフォン・マーブリー

Stephon Marbury
出身校:ジョージア工科大学
ポジション:PG
所属チーム:MIN(1996~1999)→NJN(1999~2001)→PHO(2001~2004)→NYK(2004~2008)→BOS(2008~2009)
キャリア平均:19.3PPG、3.0RPG、7.6APG、1.2SPG
ALL TEAM:All-NBA 3rd 2回
オールスター出場:2回(2001、2003)
優れたバスケットボールプレイヤーであるマーベリー4兄弟の末っ子としてニューヨークでは子供の頃からその名が知られ、NBAに進むことのできなかった兄たちに代わって、一家の宿願であったNBAデビューを果たした。
1年目に平均15.8得点、7.8アシストを記録し、高校時代から親交のあったケビン・ガーネットらとともにミネソタ・ティンバーウルブズを球団史上初のプレーオフへ導く。
新人王はフィラデルフィア・76ersのアレン・アイバーソンに譲ったものの、勝利をもたらす若き司令塔として高い評価を受けた。
マーベリーとガーネットは将来の名コンビになると期待されたが、契約問題などを背景に関係が悪化し、マーベリーはトレードを要求。
1998-99シーズン途中にニュージャージー・ネッツへ移籍した。
移籍後は7シーズン連続で平均20得点以上を記録し、毎年8アシスト前後をマークするなど、リーグ屈指の攻撃型ポイントガードとして活躍する。
一方で、自ら積極的に得点を狙うプレースタイルは「自己中心的」と批判されることも多く、評価は賛否が分かれるようになっていった。
さらに、マーベリー在籍時に低迷していたネッツは、トレードで加入したジェイソン・キッドを中心に2年連続でNBAファイナルへ進出。
フェニックス・サンズでも、マーベリーと入れ替わる形で加入したスティーブ・ナッシュがMVPを獲得してリーグを席巻したため、両者との比較によってマーベリーへの評価は一層厳しくなっていった。
2004年に故郷のニューヨーク・ニックスへ移籍すると、リーグ屈指の高額契約を結んで大きな期待を集めた。
しかし、チームは低迷を続け、ファンやメディアから厳しい批判を浴びるようになる。
それでも長らく先発を任されていたが、2008年にマイク・ダントーニがヘッドコーチに就任すると構想外となり、試合にほとんど起用されない状況に陥った。
2009年にNBAを離れた後は、中国プロリーグ(CBA)へ活躍の場を移す。
当初は話題先行との見方もあったが、北京ダックスでは中心選手としてチームを牽引し、2度のリーグ優勝に貢献。
言動や度重なる奇行から批判を受けることも多かった一方、慈善活動に熱心に取り組むなど人情味あふれる一面も持ち、チームメイトや関係者からその人間性を高く評価する声も少なくなかった。
5.レイ・アレン

Ray Allen
出身校:コネチカット大学
ポジション:SG
所属チーム:MIL(1996~2003)→SEA(2003~2007)→BOS(2007~2012)→MIA(2012~2014)
キャリア平均:18.9PPG、4.1RPG、3.4APG、1.1SPG、.400 3P%
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回、All-NBA 3rd 1回
オールスター出場:10回(2000~2002、2004~2009、2011)
スリーポイントシュートの名手として知られ、引退時には通算スリーポイント成功数歴代1位を記録するなど、NBA史に残る傑出したピュアシューターとして活躍した。
ミルウォーキー・バックスに入団すると、1年目から平均13.4得点を記録し、ヴィン・ベイカー、グレン・ロビンソンに次ぐ得点源として活躍する。
スリーポイントシュートではチームトップの117本、成功率39.3%を記録し、高い身体能力を武器に鋭いドライブからのダンクや難しい体勢でのジャンプシュートでも得点を重ねた。
2年目には平均19.5得点と数字を大幅に伸ばし、長く低迷を続けていたバックスも1998年にジョージ・カールがヘッドコーチに就任して以降、徐々に成績を上昇させていく。
2000-01シーズン、バックスはアレン、グレン・ロビンソン、前年加入したサム・キャセールによる「BIG3」を中心に躍進し、プレーオフではカンファレンス決勝まで勝ち進むなどリーグ屈指の強豪へと成長した。
しかし翌2001-02シーズンはアレンとロビンソンの関係悪化もありチームは停滞。
シーズン終了後にロビンソンが放出されると、アレン自身も2002-03シーズン途中にシアトル・スーパーソニックスへトレードされた。
移籍後はエースとして得点力を発揮し続け、2004-05シーズンにはソニックスを52勝30敗、ディビジョン優勝へ導く活躍を見せる。
若手選手の手本となるプロフェッショナルな姿勢も高く評価され、チームの精神的支柱としても存在感を発揮した。
しかし2006-07シーズンはキャリアハイとなる平均26.4得点を記録しながらも故障による欠場が多く、チームも大きく失速。
シーズン終了後、再建を決断したソニックスは主力を放出し、アレンもボストン・セルティックスへ移籍した。
セルティックスではポール・ピアースとのコンビに注目が集まったが、その後ケビン・ガーネットも加入し、NBAファンを騒然とさせる「ビッグ3」が結成される。
スター選手同士のエゴが衝突するとの懸念もあったが、3人は驚くほど高い協調性を見せ、それぞれが個人成績を犠牲にしながらディフェンスでも相手を圧倒。
66勝16敗というリーグ最高成績を残した。
ファイナルでは1987年以来となるロサンゼルス・レイカーズとの伝統のライバル対決が実現し、アレンはシリーズ平均20.3得点、FG成功率50.7%を記録。
22年ぶりとなるセルティックス優勝の原動力となった。
2012-13シーズンにはライバル関係にあったマイアミ・ヒートへ移籍し、シックスマンとしてプレー。
ファイナル第6戦では試合終了直前に起死回生の同点スリーポイントシュートを沈め、敗退寸前だったチームを救う歴史的な一投を決める。
この勝利で流れを引き寄せたヒートは第7戦も制し、アレンは自身2度目のチャンピオンリングを獲得した。
2013-14シーズン終了後にヒートを離れ、多くのチームがアレンの獲得に乗り出したものの、所属チームが決まらないまま2016年に正式に引退を表明した。
2018年にバスケットボール殿堂入りを果たしている。
6.アントワン・ウォーカー

Antoine Walker
出身校:ケンタッキー大学
ポジション:PF
所属チーム:BOS(1996~2003)→DAL(2003~2004)→ATL(2004~2005)→BOS(2005)→MIA(2005~2007)→MIN(2007~2008)
キャリア平均:17.5PPG、7.7RPG、3.5APG、1.2SPG
オールスター出場:3回(1998、2002~2003)
パワーフォワードながらアウトサイドシュートやボールハンドリングに優れ、多彩なプレーを見せる万能プレイヤーとして活躍した。
低迷を続けるボストン・セルティックスに入団したウォーカーは、1年目から得点とリバウンドでチームをリードする活躍を見せ、2年目にはコービー・ブライアントとともに同期最速でオールスターに選出される。
2000-01シーズンは平均23.4得点、8.9リバウンドに加え、チームトップとなる5.5アシストも記録し、ポイントフォワードとも呼ばれる器用さを発揮した。
翌2001-02シーズン、チームを7シーズンぶりのプレーオフ進出へ導くと、さらにカンファレンス決勝まで勝ち上がる快進撃を見せ、ポール・ピアースとの2枚看板として名門復活の立役者となった。
一方で、得意としていたスリーポイントシュートを過剰に放つプレースタイルには賛否があり、2000-01シーズンから3年連続でリーグ最多のスリーポイント試投数を記録したものの、成功率は決して高くなく、その強引なショットセレクションはしばしば批判の対象となった。
2005-06シーズンからマイアミ・ヒートでシックスマンとしてプレーし、移籍1年目に自身初となるチャンピオンリングを獲得する。
しかし、その後はチームの求めるコンディションを維持できず、2007年にミネソタ・ティンバーウルブズへトレードされると、1シーズン限りでNBAの舞台から姿を消した。
勝負所でスリーポイントシュートやダンクを決めた際に披露する、肩をくねらせながら踊る「シミー」は彼のトレードマークとして親しまれた。
引退後はギャンブルや浪費などにより、現役時代に稼いだ約1億1千万ドルもの資産を失って自己破産したことでも大きな話題となった。
8.ケリー・キトルズ

Kerry Kittles
出身校:ビラノバ大学
ポジション:SG
所属チーム:NJN(1996~2004)→LAC(2004~2005)
キャリア平均:14.1PPG、3.9RPG、2.6APG、1.6SPG、.378 3P%
針金のような細い身体と、左右で長さの違うソックスがトレードマークとして知られている。
ドライブでもアウトサイドからでも得点できる万能型のシューティングガードで、ニュージャージー・ネッツでは1年目から平均16.4得点を記録するなど、低迷していたチームの主力選手として活躍した。
翌1997-98シーズンにキャリアハイとなる平均17.2得点を記録し、リーグ有数の若手選手としてさらなる成長が期待されたが、キャリアの早い時期から故障に苦しみ、2000-01シーズンには膝の手術によりシーズン全休を余儀なくされた。
復帰後は再び先発に名を連ね、チームの貴重なアウトサイドの得点源として2年連続のファイナル進出に貢献している。
ネッツではファンから高い人気を集めていたが、サラリーキャップを確保するため2004年にロサンゼルス・クリッパーズへトレードされる。
移籍後は故障の影響で満足にプレーすることができず、2005年に現役を引退した。
13.コービー・ブライアント
14.ペジャ・ストヤコビッチ

Peja Stojakovic
ポジション:SF
所属チーム:SAC(1998~2006)→IND(2006)→NOK-NOH(2006~2010)→TOR(2010~2011)→DAL(2011)
キャリア平均:17.0PPG、4.7RPG、1.8APG、.401 3P%
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:3回(2002~2004)
クロアチア出身。
本名はプレドラグ・ストヤコヴィッチ。
16歳からギリシャのプロリーグでプレーを始め、1996年のNBAドラフトでサクラメント・キングスから指名を受けたが、そのままギリシャに残り、1998年にNBAデビューを果たした。
キングス入団当初は控えを務めていたが、3年目の2000-01シーズンに先発へ定着すると、208cmの長身から放たれる正確なスリーポイントシュートを武器に、クリス・ウェバーらとともにキングス黄金期を支える中心選手へと成長する。
特にトランジションやスクリーンを利用したキャッチ&シュートを得意とし、当時のリーグでも屈指のシューターとして恐れられた。
2003-04シーズンにはキャリアハイとなる平均24.2得点を記録し、チームのリーディングスコアラーとしてオールNBAセカンドチームにも選出されている。
しかし、故郷の英雄でもあるブラディ・ディバッツに対するチームの対応に不信感を募らせたことから、2006年に8シーズンを過ごしたキングスを退団した。
その後はインディアナ・ペイサーズやニューオーリンズ・ホーネッツなどでプレーし、キャリア最終年にはダラス・マーベリックスでベンチから貴重な得点源として活躍。
2010-11シーズンには悲願のNBA優勝を果たし、自身初のチャンピオンリングを獲得した。
背番号「16」はキングスの永久欠番となっている。
15.スティーブ・ナッシュ

Steve Nash
出身校:サンタクララ大学
ポジション:PG
所属チーム:PHO(1996~1998)→DAL(1998~2004)→PHO(2004~2012)→LAL(2012~2014)
キャリア平均:14.3PPG、3.0RPG、8.5APG、.428 3P%
個人賞:MVP 2回(2004-2005、2005-2006)
ALL TEAM:All-NBA 1st 3回、All-NBA 2nd 2回、All-NBA 3rd 2回
オールスター出場:8回(2002~2003、2005~2008、2010、2012)
イングランド出身のプロサッカー選手だった父の仕事により、南アフリカで生まれカナダで育つ。
大学時代はチームを5年ぶりのNCAAトーナメントに導き、優勝候補を破る波乱を巻き起こしたが、1996年のドラフト時点でのナッシュの知名度はほとんどなく、フェニックス・サンズから指名された際はファンからブーイングを浴びた。
入団当初からクレバーなプレーで一定の評価を受けていたが、ケビン・ジョンソンやジェイソン・キッドといったスターガードの影に隠れ、出場時間を得ることが出来なかった。
1998年、大学時代から縁のあるドン・ネルソンの働きかけで、ダラス・マーベリックスの司令塔としてプレーする機会を与えられる。
移籍当初は期待に応える活躍ができず、またしてもファンからブーイングを浴びることもあったが、移籍3年目に平均15.6得点、7.3アシストと成績を大きく伸ばし、チームを11シーズンぶりのプレーオフ進出へ導くと、初戦で優勝候補のユタ・ジャズを破る番狂わせを演じて一躍注目を集めた。
長い低迷期にあったマーベリックスは強豪の仲間入りを果たし、独創的なパスや高精度のシュート、卓越したゲームメイクでチームを牽引するナッシュはリーグ屈指のポイントガードとして評価されるようになった。
2004年に古巣のサンズへ復帰すると、マイク・ダントーニ・ヘッドコーチのもとでアップテンポなオフェンスを展開し、「7 Seconds or Less(7秒オフェンス)」と呼ばれた革新的なバスケットボールを完成させる。
低迷していたチームは一気にリーグ屈指の強豪へと変貌し、62勝を挙げてディビジョン優勝を果たした。
ナッシュはこの活躍によりMVPを受賞し、翌シーズンも平均18.8得点、10.5アシストを記録して2年連続となるMVPを獲得すると、圧倒的なオフェンス力でチームメイトの能力を最大限に引き出すプレーは高く評価され、リーグ史に残る司令塔としてその地位を確立した。
サンズではたびたび優勝候補に挙げられながらも故障や不運に泣き、ファイナル進出は果たせなかった。
キャリア晩年はロサンゼルス・レイカーズへ移籍したが、故障の影響で本来のプレーを見せることはできず、2015年に現役を引退した。
2018年にバスケットボール殿堂入りを果たしている。
アシスト王に5度輝き、50-40-90(FG成功率50%以上、3P成功率40%以上、FT成功率90%以上)を4度達成した数少ない選手としても知られている。
17.ジャーメイン・オニール

Jermaine O’Neal
出身校:オ・クレア高校
ポジション:C、PF
所属チーム:POR(1996~2000)→IND(2000~2008)→TOR(2008~2009)→MIA(2009~2010)→BOS(2010~2012)→PHO(2012~2013)→GSW(2013~2014)
キャリア平均:13.2PPG、7.2RPG、1.4APG、1.8BPG
個人賞:Most Improved Player(2001-2002)
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回、All-NBA 3rd 2回
オールスター出場:6回(2002~2007)
コービー・ブライアントとともに高卒プレイヤーとして注目を集めたが、ポートランド・トレイルブレイザーズでは故障や厚い選手層もあって出場時間を勝ち取ることができなかった。
ブレイザーズで4シーズンを過ごした後、2000年にインディアナ・ペイサーズへ移籍する。
若返りを図るチーム構想により先発に抜擢されたオニールは、平均12.9得点、9.8リバウンド、2.8ブロックを記録し、長く眠らせたままだった才能をようやく開花させ、最も成長した選手に贈られるMIPを受賞した。
その後もオフェンス面で毎シーズンのように成長を見せ、スピードと高さを兼ね備えたターンアラウンドショットやポストプレーを武器にリーグ屈指のビッグマンへと成長する。
2003-04シーズンには平均20.1得点、10.0リバウンド、2.6ブロックを記録してチームをリーグ最高勝率へ導き、MVP投票ではケビン・ガーネット、ティム・ダンカンに次ぐ3位となった。
翌2004-05シーズンはデトロイト・ピストンズとの乱闘事件「パレスの騒乱」による出場停止処分や故障などにより42試合の出場にとどまったものの、キャリアハイとなる平均24.3得点を記録している。
ペイサーズでは4シーズン連続で平均20得点以上を記録し、6シーズン連続でオールスターに選出されるなど、リーグを代表するインサイドプレイヤーとして活躍した。
2008年にペイサーズを去ってからは多くのチームを渡り歩き、キャリア晩年はベテランとして若手を支える役割も担った。
20.ジードルナス・イルゴースカス

Zydrunas Ilgauskas
ポジション:C
所属チーム:CLE(1997~2010)→MIA(2010~2011)
キャリア平均:13.0PPG、7.3RPG、1.1APG、1.6BPG
オールスター出場:2回(2003、2005)
リトアニア共和国出身で、愛称は「BIG-Z」。
クリーブランド・キャバリアーズに入団した1年目は足の骨折により全休を強いられた。
翌シーズンにデビューして全試合出場を果たすと、221cmの長身から多彩なオフェンススキルを見せ、平均13.9得点、8.8リバウンド、1.6ブロックを記録してチームのプレーオフ進出の原動力となった。
このシーズンに開催されたルーキーオールスターゲームではMVPを受賞している。
しかし、その後は足を何度も骨折するなど度重なる故障に苦しみ、長期欠場を繰り返したことから、一時は現役続行も危ぶまれた。
それでも懸命なリハビリによって復活を果たし、2002-03シーズンには81試合に出場して平均17.2得点、7.5リバウンドを記録し、初めてオールスターに選出される。
怪我に弱いイメージがついてしまったが、その後は毎シーズン70試合前後に出場するなど健康を維持し、2006-07シーズンにはキャバリアーズ史上初となるNBAファイナル進出にも大きく貢献した。
キャバリアーズでともにプレーしたレブロン・ジェームズからは必要不可欠なプレイヤーと評価され、キャリア最終年はレブロンに請われるようにしてマイアミ・ヒートへ移籍し、1シーズンをプレーした後に引退した。
NBAでは実質13シーズンにわたってキャバリアーズ一筋で活躍した功績が認められ、背番号「11」はチームの永久欠番となっている。
24.デレック・フィッシャー

Derek Fisher
出身校:アーカンソー大学リトルロック校
ポジション:PG、SG
所属チーム:LAL(1996~2004)→GSW(2004~2006)→UTA(2006~2007)→LAL(2007~2012)→OKC(2012)→DAL(2012)→OKC(2013~2014)
キャリア平均:8.3PPG、2.1RPG、3.0APG、1.1SPG、.374 3P%
新人時代からベテランのような堅実なプレーを見せ、ロサンゼルス・レイカーズで過ごしたキャリア前半はベンチスタートながら多くの出場時間を得た。
レイカーズで2000年からの3連覇を経験した後、2004年にゴールデンステイト・ウォリアーズへ移籍する。
控えでの出場が多かったものの、2005-06シーズンにはキャリアハイとなる平均13.3得点、4.3アシストを記録している。
2006年からはユタ・ジャズでプレーし、チームの4年ぶりのプレーオフ進出に貢献したが、娘の闘病生活を支えるため医療施設が充実している大都市でのプレーを求め、ジャズもこれを受け入れて2007年にレイカーズに復帰する。
王朝崩壊後、孤軍奮闘するコービー・ブライアントはチーム内で孤立し、1試合81得点などの異次元の個人スタッツを残しながら、プレーオフでは勝てない状況に強いフラストレーションを抱えていた。
フィッシャーは復帰後すぐにコービーをなだめてフロントとの仲を修復し、若手たちを集めて「コービーが厳しいのは勝ちたいからだ。俺たちが変わらなきゃいけない」とチームをまとめ上げた。
パウ・ガソルら優勝を目指すための戦力も整い、レイカーズはフィッシャーが復帰した年から3年連続でファイナルに進出し、2009年・2010年に2連覇を果たした。
オフェンス力に秀でたタイプではなかったが、試合終盤に放つスリーポイントは非常に勝負強く、2004年のプレーオフでの残り0.4秒から決勝シュートを始め、大舞台でNBA史に残るクラッチショットを幾度も演じている。
2013-14シーズン、オクラホマシティ・サンダーで81試合に出場し、シーズン終了後に現役を引退。
18シーズンという長い現役生活を送り、そのうち16シーズンでプレーオフに進出している。
プレーオフ通算出場259試合、プレーオフ通算勝利161勝は、どちらもNBA歴代屈指の記録であり、いかに「勝つチームに不可欠な存在」であり続けたかを物語っている。
ドラフト外.ベン・ウォレス

Ben Wallace
出身校:バージニア・ユニオン大学
ポジション:C、PF
所属チーム:WSB-WAS(1996~1999)→ORL(1999~2000)→DET(2000~2006)→CHI(2006~2008)→CLE(2008~2009)→DET(2009~2012)
キャリア平均:5.7PPG、9.6RPG、1.3APG、1.3SPG、2.0BPG
個人賞:Defensive Player of the Year(2001-2002、2002-2003、2004-2005、2005-2006)
ALL TEAM:All-NBA 2nd 3回、All-NBA 3rd 2回、All-Defensive 1st 5回、All-Defensive 2nd 1回
オールスター出場:4回(2003~2006)
高校時代は無名選手に過ぎなかったが、その存在を知ったチャールズ・オークリーの推薦でバージニア・ユニオン大学への編入が決まる。
卒業後もNBAドラフトでは指名を受けることができず、トライアウトからのNBA入りを目指してボストン・セルティックスのサマーリーグに参加したが、公称206cmに対して実際の身長は約201cmしかなかったため、希望するインサイドではなくシューティングガードとして苦手なプレーを強いられ、本領を発揮できないまま解雇された。
その後イタリアでプレーしていたが、ワシントン・ブレッツのGMウェス・アンセルドの目に留まり、1996年にブレッツへ入団する。
1年目は平均1.1得点、1.7リバウンドと目立った活躍ができなかったものの、クリス・ウェバー退団後に出場時間を増やし、1998-99シーズンは控えながら平均8.3リバウンド、2.0ブロックを記録するなど、得意のディフェンスで存在感を発揮した。
その後、オーランド・マジックを経て、グラント・ヒルとのトレードでデトロイト・ピストンズへ移籍すると、類まれなディフェンス能力が一気に開花する。
移籍1年目から先発に定着し、平均13.2リバウンド、2.3ブロックを記録。
翌2001-02シーズンには平均13.0リバウンド、3.5ブロックを記録してリバウンド王とブロック王の2冠を達成し、最優秀守備選手賞を初受賞した。
続く2002-03シーズンも平均15.4リバウンド、3.2ブロックを記録し、2年連続で最優秀守備選手賞を受賞するとともに、初めてオールスターにも選出される。
2004年にはピストンズの守備の要としてファイナル進出を果たし、大型補強で注目を集めていたロサンゼルス・レイカーズを破って優勝を達成した。
翌2005年もファイナルへ進出したが、サンアントニオ・スパーズとの激闘の末に敗退する。
その後、ラリー・ブラウンの退任とともにチームの戦術はオフェンス重視へと変化し、ウォレスの役割も徐々に縮小すると、2006年にシカゴ・ブルズへ移籍した。
以降は故障の影響などから成績を下降させ、2009年に古巣ピストンズへ復帰すると、3シーズンをプレーした後に現役を引退した。
「ビッグ・ベン」の愛称で親しまれ、腕にはロンドンの時計塔「BIG BEN」のタトゥーが彫られている。
ウォレスがコートに入る時や得点した時には、場内にBIG BENの鐘の音が鳴り響いた。
最優秀守備選手賞を歴代最多タイとなる4度受賞したNBA史上屈指のディフェンダーであり、背番号「3」はピストンズの永久欠番となっている。
2021年にバスケットボール殿堂入りを果たした。
ドラフト外.ブルース・ボウェン

Bruce Bowen
出身校:カリフォルニア州立大学フラトン校
ポジション:SF
所属チーム:MIA(1997)→BOS(1997~1999)→PHI(1999~2000)→MIA(2000~2001)→SAS(2001~2009)
キャリア平均:6.1PPG、2.8RPG、1.2APG、.393 3P%
ALL TEAM:All-Defensive 1st 5回、All-Defensive 2nd 3回
オールディフェンシブチームの常連であり、スティールやブロックなどの派手なプレーは少なかったものの、執拗なまでに相手に張り付き自由を奪う密着マークでエースプレイヤーを封じ込めた。
ファウルをいとわない激しいディフェンスから対戦相手の間では物議を醸すことも多かったが、常勝サンアントニオ・スパーズの絶対的先発フォワードとして3度の優勝に貢献している。
大学卒業後、1993年のNBAドラフトでは指名を受けることができず、プレーの場を求めてフランスでプロとしてのキャリアをスタートさせる。
1997年になってようやくマイアミ・ヒートでNBAデビューを果たしたが、シーズン終盤だったこともあり、ルーキーシーズンはわずか1試合、出場時間も1分に終わった。
その後はチームを転々とし、2000年にシカゴ・ブルズへトレードされた直後に解雇されるが、再びヒートと契約。
ここでヘッドコーチのパット・ライリーに見出され、卓越したディフェンス能力を開花させていく。
2000-01シーズンには82試合すべてに出場し、オフェンスでは平均7.6得点にとどまったものの、初めてオールディフェンシブ2ndチームに選出され、チームの好成績に貢献した。
シーズン終了後にフリーエージェントとなり、サンアントニオ・スパーズへ移籍。
スパーズでは不動の先発フォワードとして定着し、2003年、2005年、2007年の3度にわたりチャンピオンリングを獲得した。
ディフェンスのスペシャリストとして名を馳せた一方で、苦手だったシュート力も年々向上し、コーナーから放つスリーポイントはチームの重要な武器となる。
2002-03シーズンにはリーグトップとなる3ポイント成功率44.1%を記録した。
その反面、フリースローは最後まで苦手で、このシーズンの成功率40.4%は3ポイント成功率を下回るという珍しい数字を残している。
怪我にも非常に強く、2002-03シーズンから現役最後となった2008-09シーズンまで欠場したのはわずか3試合のみ。
2008年に1試合の出場停止処分を受けるまで500試合連続先発出場を続けた。
オールディフェンシブチームには8年連続で選出されるなど、2000年代を代表するディフェンダーとして高く評価されており、スパーズ時代につけていた背番号「12」はチームの永久欠番となっている。



COMMENT