「1999年 NBAドラフト」年代別に振り返るNBA選手名鑑

NBA
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主なドラフト選手

1.エルトン・ブランド

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Elton Brand

出身校:デューク大学

ポジション:PF

所属チーム:CHI(1999~2001)→LAC(2001~2008)→PHI(2008~2012)→DAL(2012~2013)→ATL(2013~2015)→PHI(2015~2016)

キャリア平均:15.9PPG、8.5RPG、2.1APG、1.7BPG、.500FG%

個人賞:Rookie of the Year

ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回

オールスター出場:2回(2002、2006)

203cmというパワーフォワードとしては決して恵まれた身長ではなかったが、長いリーチと屈強な肉体を武器にインサイドで圧倒的な存在感を発揮し、得点力に加えてリバウンドやブロックでも高い能力を示した。

名門デューク大学では初めてアーリーエントリーを宣言してNBA入りした選手となり、再建中のシカゴ・ブルズへ入団する。

ルーキーイヤーから平均20.1得点、10.0リバウンド、1.6ブロックを記録し、ヒューストン・ロケッツのスティーブ・フランシスとともに新人王を受賞。しかし、ジョーダン王朝解体後のブルズは戦力不足が深刻で、チームは17勝、翌年も15勝と低迷を続けると、球団の再建方針転換により、2001年にロサンゼルス・クリッパーズへトレードされる。

当時のクリッパーズも長年低迷を続ける弱小チームだったが、ブランドは移籍直後から攻守の柱として活躍し、毎年のようにオールスター級の成績を残した。一方で故障者の続出や戦力不足もあり、チームはあと一歩でプレーオフを逃すシーズンが続いた。

2005-06シーズン、ベテランのサム・キャセールカッティーノ・モーブリーが加入すると、クリッパーズは球団史に残る躍進を遂げる。ブランドも平均24.7得点、10.0リバウンド、2.5ブロックを記録し、MVP投票では7位に入るなどキャリア最高のシーズンを送り、チームを9シーズンぶりのプレーオフ進出へ導いた。

プレーオフでもデンバー・ナゲッツを破って球団史上2度目となるシリーズ突破を果たし、フェニックス・サンズとのカンファレンス準決勝では7戦までもつれる熱戦を演じるなど、クリッパーズ黄金期の中心選手となった。

しかし翌2006-07シーズンはキャセールら主力の故障もあってチームは失速。さらにブランド自身もオフのトレーニング中にアキレス腱を断裂する重傷を負い、キャリアの大きな転機を迎える。

2008年には一度は残留の意思を示しながらも、最終的にフィラデルフィア・76ersへ移籍。この決断はクリッパーズファンに大きな衝撃を与えた。

76ersでは故障の影響もあって全盛期のような活躍は見せられなかったが、ベテランとして若手を支え続け、キャリア晩年まで堅実なプレーを披露した。

2.スティーブ・フランシス

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Steve Francis

出身校:メリーランド大学

ポジション:PG / SG

所属チーム:HOU(1999~2004)→ORL(2004~2006)→NYK(2006~2007)→HOU(2007~2008)

キャリア平均:18.1PPG、5.6RPG、6.0APG、1.5SPG

個人賞:Rookie of the Year

オールスター出場:3回(2002~2004)

爆発的なスピードで一瞬のうちにディフェンダーを抜き去るプレーから「ウィンク」の愛称で親しまれ、ヒューストン・ロケッツではチームの顔として「スティービー・フランチャイズ」と呼ばれた。

ドラフトではバンクーバー・グリズリーズから全体2位で指名を受けたが、チーム事情や生活環境への不安などから入団を拒否。開幕前の大型トレードによってヒューストン・ロケッツへ移籍した。

ロケッツではアキーム・オラジュワンチャールズ・バークリーの後継者として期待され、ルーキーイヤーから平均18.0得点、5.3リバウンド、6.6アシスト、1.5スティールを記録。シカゴ・ブルズのエルトン・ブランドとともに新人王を受賞し、一躍リーグを代表する若手スターへと駆け上がった。

驚異的な身体能力から繰り出される豪快なダンクやアクロバティックなプレーで絶大な人気を集め、2002年から3年連続でオールスターのファン投票による先発出場を果たすなど、リーグ屈指の人気選手として活躍した。

しかし、2002年にヤオ・ミンが加入するとチームは次第にヤオを中心とした編成へ移行し、さらに2003-04シーズンから就任したジェフ・バン・ガンディHCとは戦術を巡って何度も衝突。2004年、トレイシー・マグレディ獲得の交換要員としてオーランド・マジックへトレードされた。

リーグ最下位に沈んでいたマジックへの移籍には不満を示したものの、新天地では平均21.3得点、7.0アシストを記録し、チームをプレーオフ争いへ押し上げる活躍を見せる。

しかし、シーズン途中に親友でもあったカッティーノ・モーブリーがトレードされると、フランシスはチームとの関係を悪化させ、モチベーションも低下。チームは終盤に失速してプレーオフ進出を逃した。

その後も出場停止処分を受けるなど問題行動が続き、2005-06シーズン途中にニューヨーク・ニックスへ移籍したが、混乱期のチームの中で本来の輝きを取り戻すことはできず、個人成績も急激に下降していった。

2007-08シーズンには古巣ロケッツへ復帰したが、膝の故障に苦しみ10試合の出場にとどまり、これがNBA最後のシーズンとなった。

3.バロン・デイビス

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Baron Davis

出身校:カリフォルニア大学ロサンゼルス校

ポジション:PG

所属チーム:CHH-NOH(1999~2005)→GSW(2005~2008)→LAC(2008~2011)→CLE(2011)→NYK(2011~2012)

キャリア平均:16.1PPG、3.8RPG、7.2APG、1.8SPG

ALL TEAM:All-NBA 3rd 1回

オールスター出場:2回(2002、2004)

ブロックに跳んだビッグマンを弾き飛ばしてダンクを叩き込むほどの強靭なフィジカルを誇り、卓越したゲームメイクと積極的なディフェンスから速攻を演出するオールラウンドなポイントガードとして活躍した。

シャーロット・ホーネッツでは入団2年目から先発に定着し、2001-02シーズンに平均18.1得点、8.5アシスト、2.1スティールを記録して初のオールスターに選出される。

2003-04シーズンにはジャマール・マッシュバーンが故障で離脱するとエースとしてチームを牽引し、平均22.9得点、リーグトップの2.4スティールを記録して、苦戦が予想されたホーネッツをプレーオフへ導いた。

しかし、自身も故障を抱えるようになるとチームは再建期に入り、2005年にゴールデンステイト・ウォリアーズへトレードされる。

移籍後は健康を取り戻し、2006-07シーズンに平均20.1得点、8.1アシスト、2.1スティールを記録するなど完全復活を遂げると、チームもシーズン最終戦の勝利で13シーズンぶりのプレーオフ進出を決めた。

プレーオフ1回戦では67勝15敗を記録した優勝候補ダラス・マーベリックスと対戦し、シリーズ平均25.0得点の活躍でチームを4勝2敗の勝利へ導く。第8シードが第1シードを破る歴史的アップセットの立役者となり、この「We Believe Warriors」はNBA史に残る快進撃として語り継がれている。

翌2007-08シーズンは82試合すべてに先発出場し、平均21.8得点を記録したが、その後は再び故障に苦しみ、徐々に個人成績を下降させていった。

2011-12シーズンにプレーしたニューヨーク・ニックスでは椎間板ヘルニアの影響で29試合の出場にとどまり、これが現役最後のシーズンとなった。

4.ラマー・オドム

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Lamar Odom

出身校:ロード・アイランド大学

ポジション:PF / SF

所属チーム:LAC(1999~2003)→MIA(2003~2004)→LAL(2004~2011)→DAL(2011~2012)→LAC(2012~2013)

キャリア平均:13.3PPG、8.4RPG、3.7APG

個人賞:Sixth Man of the Year1回(2010-2011)

208cmの長身に見合わないスピードと卓越したスキルを兼ね備え、ガードからセンターまであらゆるポジションをこなすNBA屈指のユーティリティプレイヤーとして活躍した。

ロサンゼルス・クリッパーズでは1年目から平均16.6得点、7.8リバウンド、4.2アシスト、1.2スティール、1.3ブロックというオールラウンドな成績を残し、移籍を希望する選手を引き留めないことで知られるオーナー、ドナルド・スターリングに「オドムだけは手放さない」と言わしめるほど高い評価を受けた。

低迷を続けるクリッパーズの救世主として期待されたが、その後はマリファナ使用による出場停止や故障に苦しみ、本来の力を発揮できないシーズンが続く。

制限付きフリーエージェントとなった2003年、サイン・アンド・トレードでマイアミ・ヒートへ移籍した。2003-04シーズンは平均17.1得点、9.7リバウンド、4.1アシストを記録し、エディ・ジョーンズや新人ドウェイン・ウェイドとともにヒートをプレーオフへ導く。

万能型フォワードとしての評価を再び高めたが、そのオフにシャキール・オニール獲得の交換要員となりロサンゼルス・レイカーズへ移籍。当初はコービー・ブライアントとの連携に苦しみ、チームも11シーズンぶりにプレーオフ進出を逃すなど期待を裏切る結果に終わった。

しかし、フィル・ジャクソンがヘッドコーチに復帰してからはトライアングルオフェンスの要として存在感を増し、万能性を生かしたプレーでチームに欠かせない存在となる。

2008-09シーズンからはシックスマンとして起用され、どのポジションでも高いレベルでプレーできる柔軟性を武器にレイカーズの7シーズンぶりとなる優勝に大きく貢献。翌2009-10シーズンも連覇を達成し、シーズン終了後にはFIBA世界選手権でアメリカ代表の金メダル獲得に貢献した。

さらに2010-11シーズンには自身初の個人タイトルとなるシックスマン賞を受賞し、キャリアの絶頂期を迎えた。

しかし、レイカーズが優勝から遠ざかるとチームはオドムのトレードを計画し、その事実を知ったオドムは強い失望を抱いて自らトレードを要求した。

2011年にレイカーズを去って以降は以前のような活躍を見せることができず、2014年、レギュラーシーズン終了間際の4月にニューヨーク・ニックスと契約したものの、一度も試合に出場することなく同年6月に契約を解除され、これがNBAにおける現役最後の所属チームとなった。

現役終盤から精神的な問題を抱え、引退後に薬物・アルコール依存症が深刻化すると、2015年にはオーバードーズ(薬物過剰摂取)で昏睡状態に陥り、生死の境をさまよう。

この際、プレシーズンマッチに出場中だったコービー・ブライアントは、試合途中に会場をあとにしてオドムが搬送された病院へ急行し、傍らで無事を祈り続けた。オドムが奇跡的に一命を取り留めると、コービーはオドムを自身の引退シーズンの試合に招き、復活を誰よりも喜んだ。

2020年にコービーがヘリコプター事故で急逝した際、オドムは深い絶望を口にしたが、「夢の中で彼がクリーンな生活を続けろ、前を向いて生きろと鼓舞し続けてくれている」と語り、現在は自身の依存症体験を公表しながら講演活動や慈善活動にも取り組んでいる。

6.ウォーリー・ザービアック

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Wally Szczerbiak

出身校:マイアミ大学

ポジション:SF / SG

所属チーム:MIN(1999~2006)→BOS(2006~2007)→SEA(2007~2008)→CLE(2008~2009)

キャリア平均:14.1PPG、4.0RPG、2.4APG、.406 3P%

オールスター出場:1回(2002)

スペインに生まれ、ニューヨーク州ロングアイランドで育つ。父ウォルト・ザービアックもポーランド代表として活躍した元プロバスケットボール選手。

ミネソタ・ティンバーウルブズでは1年目から平均11.6得点、FG成功率51.1%を記録し、高いシュート力と気迫あふれるプレーでチームの主力へと成長していく。3年目の2001-02シーズンには平均18.7得点、FG成功率50.8%、スリーポイントシュート成功率45.5%という高い数字を残し、初のオールスターに選出された。

ケビン・ガーネットに次ぐ得点源としてウルブズを支えた一方、勝負への執着が強い性格から練習中にガーネットと激しく衝突し、殴り合いの乱闘騒動を起こしたこともあった。

2003-04シーズンにはラトレル・スプリーウェルサム・キャセールが加入し、チームは58勝24敗という球団史上最高成績を記録したが、ザービアックは故障の影響で28試合の出場にとどまり、不本意なシーズンを送った。それでもプレーオフでは負傷を押して復帰し、チーム史上初となるカンファレンス決勝進出に貢献した。

2006年にボストン・セルティックスへトレードされると、ポール・ピアースのバックアップとして献身的なプレーを見せたが、出場時間の減少に加えて度重なる故障にも苦しみ、個人成績は徐々に下降していく。

その後はシアトル・スーパーソニックス、クリーブランド・キャバリアーズなどを渡り歩き、2008-09シーズン終了後に3度目となる膝の手術を受けると、現役引退を決断した。

7.リチャード・ハミルトン

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Richard Hamilton

出身校:コネチカット大学

ポジション:SG / SF

所属チーム:WAS(1999~2002)→DET(2002~2011)→CHI(2011~2013)

キャリア平均:17.1PPG、3.1RPG、3.4APG

オールスター出場:3回(2006~2008)

愛称は「リップ」。疲れ知らずのスタミナでコートを走り回り、幾重ものスクリーンを巧みに利用しながら精度の高いミドルシュートで得点を量産。オフボールムーブの巧みさはリーグ屈指と評され、2003年の鼻骨骨折以降はフェイスマスク姿がトレードマークとなった。

高校時代から同地区で活躍するコービー・ブライアントとともにその名を知られ、大学ではコネチカット大をNCAAトーナメント優勝へ導き、ファイナル・フォー最優秀選手(MOP)にも選出された。

ワシントン・ウィザーズでは1年目にミッチ・リッチモンドの控えを務め、2年目のシーズン途中から先発に定着して平均18.1得点を記録。2001-02シーズンには現役復帰したマイケル・ジョーダンとともにプレーし、平均20.0得点を挙げるなどチームの得点源として成長した。

しかし、チームはプレーオフ進出を逃し、シーズン終了後にジェリー・スタックハウスとのトレードでデトロイト・ピストンズへ移籍する。

憧れのジョーダンから見放されたと落胆するハミルトンに対し、GMのジョー・デュマースは現役時代にジョーダンのシュートをブロックした写真を見せながら、「神様にも間違いはある。君は神様を見返せばいい」と励ましたという。

ピストンズではチャウンシー・ビラップスベン・ウォレス、テイショーン・プリンスらと強固なチームを築き、2004年には史上屈指の豪華メンバーを擁したロサンゼルス・レイカーズを4勝1敗で破って14シーズンぶりのNBA制覇を達成した。

ファイナルMVPは兄のように慕うビラップスが受賞したものの、ハミルトンはシリーズトップの平均21.4得点を記録。さらにプレーオフ通算でもリーグ最多得点を挙げるなど、優勝の立役者となった。

その後もピストンズで2011年まで9シーズンにわたり主力として活躍し、2005-06シーズンから3年連続でオールスターに選出されるなどリーグを代表するシューティングガードとして活躍した。

背番号「32」はピストンズの永久欠番となり、プレーオフ通算得点は現在も同チームの球団歴代1位の記録となっている。

8.アンドレ・ミラー

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Andre Miller

出身校:ユタ大学

ポジション:PG

所属チーム:CLE(1999~2002)→LAC(2002~2003)→DEN(2003~2006)→PHI(2006~2009)→POR(2009~2011)→DEN(2011~2014)→WAS(2014~2015)→SAC(2015)→MIN(2015~2016)→SAS(2016)

キャリア平均:12.5PPG、3.7RPG、6.5APG、1.2SPG

ニックネームは「ザ・プロフェッサー」。

卓越したゲームコントロールと高いバスケットボールIQを武器に、スピードや身体能力に頼らず試合を支配したクラシカルなポイントガードであり、堅実なゲームメイクと巧みなポストプレーで長年リーグ屈指の司令塔として活躍した。

クリーブランド・キャバリアーズに入団し、2年目の2000-01シーズンに82試合すべてに先発出場して平均15.8得点、8.0アシストを記録。翌2001-02シーズンには平均10.9アシストでリーグトップに立ち、自身初のアシスト王に輝いた。

シーズン終了後、獲得を熱望していたロサンゼルス・クリッパーズへトレード移籍し、戦力が揃いながら低迷を続けるチームの立て直しを期待された。しかし故障者が相次いだこともあり、チームをプレーオフへ導くことはできず、わずか1シーズンでデンバー・ナゲッツへ移籍した。

その後は多くのチームを渡り歩いたが、どのチームでも卓越したゲームメイクでオフェンスを組み立て、チーム戦術を正確に理解して味方の力を引き出す司令塔としてコーチやチームメイトから厚い信頼を得た。

ナゲッツで指揮を執ったジョージ・カールは、「彼は実際に起こる前に試合を見ることができる選手だ」と、その先見性を高く評価している。

また、「鉄人」と呼ばれるほど耐久力に優れ、欠場の少ない選手としても知られている。31歳となった2007-08シーズンにはキャリアハイとなる平均17.0得点を記録し、その後も30代半ばまで平均15得点前後を維持するなど、年齢を感じさせない安定した活躍を続けた。

9.ショーン・マリオン

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Shawn Marion

出身校:ネバダ大学ラスベガス校

ポジション:SF / PF

所属チーム:PHO(1999~2008)→MIA(2008~2009)→TOR(2009)→DAL(2009~2014)→CLE(2014~2015)

キャリア平均:15.2PPG、8.7RPG、1.9APG、1.5SPG、1.1BPG

オールスター出場:4回(2003、2005~2007)

人間離れした跳躍力と驚異的な身体能力を誇り、デビュー当時に大ヒットした映画にちなみ「マトリックス」の愛称で親しまれた。ガードからパワーフォワードまで守ることのできる万能ディフェンダーとしても知られ、NBA屈指のオールラウンドプレーヤーとして活躍した。

フェニックス・サンズでは入団当初こそ控えとしてプレーしていたが、当時からインパクトのあるプレーを連発し大きな注目を集める。先発に定着した2年目にはチームトップとなる平均17.3得点、10.7リバウンド、1.4ブロックを記録し、一躍チームの主力へと成長した。

長い腕と高い身体能力を武器に、スモールフォワードながら毎年リーグ屈指のリバウンダーとして活躍。独特のシュートフォームではあったもののアウトサイドシュートにも優れ、平均21.2得点を記録した2002-03シーズンにはチームトップとなる141本のスリーポイントシュートを成功させ、成功率も38.7%を記録した。

2004-05シーズンにはラン&ガンオフェンスを掲げるマイク・ダントーニHCの構想によりパワーフォワードへコンバートされる。スティーブ・ナッシュを司令塔に据えた「セブン・セカンズ・オア・レス」と呼ばれる超高速オフェンスの中で攻守両面に欠かせない存在となり、サンズはリーグ屈指の強豪へと変貌を遂げた。

翌2005-06シーズンには平均21.8得点、11.8リバウンド、2.0スティール、1.7ブロック、FG成功率52.5%を記録するなどキャリア最高のシーズンを送り、得点・リバウンド・守備のすべてでリーグを代表するフォワードとして評価を確立した。

一方で、チーム内でナッシュやアマレ・スタウダマイアーに次ぐ3番手という扱いに不満を抱くようになり、2007-08シーズン途中にデビューから9シーズンを過ごしたサンズを去ることとなった。

移籍後はロールプレーヤーとしての役割を受け入れながらも高い守備力と万能性でチームに貢献を続け、2011年にはダラス・マーベリックスの主力として悲願のNBA制覇を達成。ファイナルではレブロン・ジェームズへの粘り強いディフェンスでも大きく貢献し、自身初となるチャンピオンリングを獲得した。

10.ジェイソン・テリー

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Jason Terry

出身校:アリゾナ大学

ポジション:SG / PG

所属チーム:ATL(1999~2004)→DAL(2004~2012)→BOS(2012~2013)→BRK(2013~2014)→HOU(2014~2016)→MIL(2016~2018)

キャリア平均:13.4PPG、2.3RPG、3.8APG、1.1SPG、.380 3P%

個人賞:Sixth Man of the Year1回(2008-2009)

アトランタ・ホークスでの1年目は控えとしてプレーし、チームトップとなる平均4.3アシスト、1.1スティールを記録。先発に定着した2年目のシーズンには平均19.7得点を記録し、低迷期にあったホークスにとって待望のフランチャイズプレイヤー誕生を予感させる活躍を見せる。

しかし、テリーの奮闘も虚しくホークスは低迷から抜け出すことができず、激しく選手が入れ替わる中で5シーズンにわたってプレーした後、2004年にダラス・マーベリックスへトレードされた。

テリーを放出したホークスがチーム史上最低となる13勝69敗に沈む一方で、テリーは強豪マーベリックスで移籍1年目からプレーオフを経験する。

シーズン序盤は新たな役割への適応に苦しんだものの、プレーオフではエースのダーク・ノビツキーに次ぐ平均17.5得点を記録。翌2005-06シーズンからは先発の一角としてホークス時代と変わらぬ得点力を発揮し、チームの主力として定着した。

シーズン終了後に6年契約を結んだテリーは、その後もマーベリックスの躍進を支える存在となる。

ジェイソン・キッド加入後の2008-09シーズンからはシックスマンへと役割を変えたが、得点に専念できる環境で持ち味を発揮し、平均19.6得点を記録してシックスマン賞を受賞した。

2010-11シーズンにはチーム史上初のNBA優勝に大きく貢献する。ファイナルではシリーズ平均18.0得点を記録し、優勝を決めた第6戦ではチームトップの27得点を挙げる活躍を見せた。

また、開幕前から優勝トロフィーのタトゥーを腕に刻み、「必ず優勝する」という強い決意を示していたことでも話題となり、その大胆な自信はチームメイトの士気を高める象徴となった。

名前のイニシャルから「JET(ジェット)」の愛称で親しまれ、重要なシュートを決めた後に両腕を翼のように広げてコートを駆け抜けるパフォーマンスは、彼の代名詞となった。

抜群の勝負強さを誇るクラッチシューターとして長年リーグを代表するシックスマンのひとりに数えられ、従兄にはNBA選手のマーテル・ウェブスターがいる。

13.コーリー・マゲッティ

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Corey Maggette

出身校:デューク大学

ポジション:SF

所属チーム:ORL(1999~2000)→LAC(2000~2008)→GSW(2008~2010)→MIL(2010~2011)→CHA(2011~2012)→DET(2012~2013)

キャリア平均:16.0PPG、4.9RPG、2.1APG

198cmの身長に強靭なフィジカルと高い身体能力を兼ね備え、スモールフォワードとシューティングガードをこなす得点力に優れたスウィングマンとして活躍した。

オーランド・マジックでルーキーシーズンを過ごしたものの、満足な出場時間を得られず、シーズン終了後にロサンゼルス・クリッパーズへトレードされる。

移籍後は着実に個人成績を伸ばし、2001年に加入した大学時代のチームメイト、エルトン・ブランドとともにチームを支える中心選手へと成長した。

爆発的なドライブから相手のファウルを誘う能力はリーグ屈指で、フリースロー獲得数では毎年のように上位へ名を連ねるなど、高確率で得点を積み重ねるスタイルを確立した。

2003-04シーズンにはチームトップとなる平均20.7得点を記録。その後も毎シーズン安定した得点力を発揮したが、活躍がチーム成績に結びつくことは少なく、8シーズン在籍したクリッパーズでプレーオフを経験したのは、皮肉にもマゲッティ自身が長期欠場を強いられた2005-06シーズンだけだった。

2008年にゴールデンステイト・ウォリアーズと大型契約を結ぶと、先発・控えを問わず起用されながら2シーズンにわたってチームの得点源として活躍する。

しかし、2010年にミルウォーキー・バックスへトレードされて以降は故障に苦しむシーズンが続き、デトロイト・ピストンズで18試合に出場した2012-13シーズンを最後にNBAでのキャリアを終えた。

16.メッタ・ワールド・ピース

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Metta World Peace

出身校:セントジョンズ大学

ポジション:SF

所属チーム:CHI(1999~2002)→IND(2002~2006)→SAC(2006~2009)→HOU(2008~2009)→LAL(2009~2013)→NYK(2013~2014),LAL(2015~2017)

キャリア平均:13.2PPG、4.5RPG、2.7APG、1.7SPG

個人賞:Defensive Player of the Year1回(2003-2004)

ALL TEAM:All-NBA 3rd 1回、All-Defensive 1st 2回、All-Defensive 2nd 2回

オールスター出場:1回(2004)

ポイントガードからパワーフォワードまでを抑え込むディフェンス力を持ち、その激しいプレースタイルから「Tru Warrior(トゥルー・ウォリアー)」と呼ばれた。

ロン・アーテスト(Ron Artest)として生まれ、2011年に平和への思いを込めて「メッタ・ワールド・ピース(Metta World Peace)」へと改名。その後も2014年には中国リーグで登録名を「ザ・パンダズ・フレンド(The Pandas Friend)」とし、2017年には法的に「メッタ・サンディフォード=アーテスト(Metta Sandiford-Artest)」へ改名するなど、たびたび話題を集めた。

シカゴ・ブルズに入団し、下位指名ながら平均12.0得点を記録するなど1年目から即戦力として活躍する。

2002年にインディアナ・ペイサーズへ移籍してからはリーグ屈指のディフェンダーとして評価を高め、2003-04シーズンには初のオールスターに選出されたほか、最優秀守備選手賞(DPOY)も受賞した。

翌2004-05シーズンは開幕直後の数試合で平均24.6得点を叩き出す上々の滑り出しを見せ、チームも充実した戦力で優勝候補にも挙げられていた。

ところが、11月19日にデトロイト・ピストンズのホームコートで行われた試合で前代未聞の事件(パレスの騒乱)が起きる。アーテストとピストンズの選手との小競り合いがピストンズファンをも巻き込む騒動へと発展し、最終的にはアーテストが観客席へ飛び込みファンに暴行を加える事件となった。

アーテストはシーズン残り73試合の出場停止処分を受け、ペイサーズは辛うじてプレーオフに進出したものの初戦敗退。このシーズン限りで引退を表明していたレジー・ミラーにとっても、悔いの残る幕引きとなった。

翌2005-06シーズン、停止処分が明けたアーテストはチームにトレードを要求し、これまで擁護してきたチームメイトや球団関係者の反感を買ってサクラメント・キングスへ移籍する。

アーテストの加入により開幕から不調が続いていたキングスはプレーオフ争いへ復帰し、その言動や行動から問題児のイメージを強めながらも、再びリーグ屈指のディフェンダーとして存在感を発揮した。

2008年、プレーオフ進出を逃したアーテストは、ロサンゼルス・レイカーズとボストン・セルティックスが対戦するファイナルを観戦。敗退後のレイカーズのロッカールームを訪れ、「自分がいればこんな結果にはならなかった」と獲得を直談判したという逸話が残っている。

キングスが実施したトレードにより、アーテストはレイカーズではなくヒューストン・ロケッツでプレーすることになったが、プレーオフではレイカーズのコービー・ブライアントに対して見せた激しいディフェンスが評価され、オフにフリーエージェントとして念願のレイカーズ入りを果たした。

2009-10シーズン、前年王者レイカーズはアーテストを加えて順当にプレーオフを勝ち進む。

ファイナルでは2年前に敗れた宿敵セルティックスと再戦し、シリーズ最終第7戦では20得点、5スティールの活躍で優勝に大きく貢献。2年前の「自分がいれば」という発言を、自ら証明する形となった。

2014年は中国リーグでプレーし、その後2015年にNBAへ復帰。古巣レイカーズで2シーズンをプレーして現役生活を終えた。

18.ジェームス・ポージー

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James Posey

出身校:ザビエル大学

ポジション:SF

所属チーム:DEN(1999~2002)→HOU(2002~2003)→MEM(2003~2005)→MIA(2005~2007)→BOS(2007~2008)→NOH(2008~2010)→IND(2010~2011)

キャリア平均:8.6PPG、4.7RPG、1.6APG、1.1SPG

相手チームのエースを封じ込めるディフェンスを武器に活躍した「エースキラー」であり、勝負どころで確実に仕事をこなすロールプレーヤーとして数字以上に高い評価を受けた。

デンバー・ナゲッツに入団し、攻守に貢献度の高い先発フォワードとして頭角を現す。

2003年にメンフィス・グリズリーズへ移籍すると、2003-04シーズンには82試合すべてに先発出場し、キャリアハイとなる平均13.7得点、1.7スティールを記録。チーム史上初のプレーオフ進出に大きく貢献した。

その後は控えとして起用される機会が増えたものの、アウトサイドシュートの精度を高め、ディフェンスとスリーポイントを兼ね備えたシックスマンとして価値を発揮した。

2005年にマイアミ・ヒートへ移籍すると、移籍1年目の2005-06シーズンに自身初のチャンピオンリングを獲得。プレーオフでは相手チームのエースを執拗にマークし、ドウェイン・ウェイドやシャキール・オニールにディフェンスが集中した場面では勝負どころでスリーポイントシュートを沈めるなど、優勝に欠かせない存在となった。

2007年にはボストン・セルティックスへ移籍し、またも移籍1年目にNBA制覇を達成。ケビン・ガーネットポール・ピアースレイ・アレンのBIG3を支える守備のスペシャリストとして、コービー・ブライアントら相手エースとのマッチアップを任されるなど攻守両面で重要な役割を果たした。

この2度の優勝での活躍から、「優勝請負人」と呼ばれるようになった。

2011年に現役を引退。その後はGリーグで指導経験を積み、故郷クリーブランドを本拠地とするキャバリアーズやワシントン・ウィザーズでアシスタントコーチを務めるなど、指導者としてもNBAに携わっている。

24.アンドレイ・キリレンコ

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Andrei Kirilenko

ポジション:SF / PF

所属チーム:UTA(2001~2011)、MIN(2012~2013)→BRK(2013~2015)

キャリア平均:11.8PPG、5.5RPG、2.7APG、1.4SPG、1.8BPG

ALL TEAM:All-Defensive 1st 1回、All-Defensive 2nd 2回

オールスター出場:1回(2004)

ソビエト連邦ロシア・イジェフスク出身。出身地で製造される自動小銃「AK-47」にちなみ背番号47を着用し、ユタ・ジャズ時代には「AK-47」の愛称で親しまれた。

長い手足と驚異的な運動能力を武器に、ガードからセンターまで守れる万能ディフェンダーとして活躍し、「蛇男」「ゴム人間」とも呼ばれたが、本人はこうした愛称を好んでいないと語っている。

1999年のドラフトでユタ・ジャズから指名されたものの、当時所属していたCSKAモスクワとの契約が残っていたため、NBAデビューは2001年となった。

最初の2シーズンは控えとしてプレーしながらも平均2桁得点を記録し、とりわけ長いリーチを生かしたブロックやスティールで早くも存在感を発揮する。

2年目のシーズン終了後、長年ジャズを支えてきたカール・マローンジョン・ストックトンがそれぞれ移籍と引退でチームを去ると、新たな中心選手としてキリレンコに大きな期待が寄せられた。

2003-04シーズン、先発に定着したキリレンコは平均16.5得点、8.1リバウンド、3.1アシスト、1.9スティール、2.8ブロックというオールラウンドな成績を記録。さらに、得点・リバウンド・アシスト・スティール・ブロックの5部門すべてで5以上を記録する極めて珍しい「ファイブ・バイ・ファイブ」をシーズン中に2度達成し、その万能ぶりを証明した。

低迷が予想されたジャズをプレーオフへ導く活躍で、初のオールスターにも選出されている。

翌2004-05シーズンは故障の影響で41試合の出場にとどまったものの、平均3.3ブロックを記録し、スモールフォワードとしては異例となるブロック王を獲得。卓越した守備力が高く評価され、オールディフェンシブ2ndチームに2年連続で選出されると、翌シーズンにはついにオールディフェンシブ1stチームに選出された。

ストックトンとマローン退団後のジャズを長く支えたが、デロン・ウィリアムズやカルロス・ブーザーら若い主力の台頭によって役割が変化し、個人成績が徐々に下降していくとチームとの関係も悪化、トレードを希望するようになった。

2011-12シーズンはロックアウトの影響でNBA開幕が延期されたことから、古巣CSKAモスクワへ復帰。翌2012-13シーズンにミネソタ・ティンバーウルブズでNBAへ復帰し、その後はブルックリン・ネッツでもプレーした。

現役引退後はロシアバスケットボール連盟会長に就任し、母国バスケットボール界の発展にも尽力している。

57.マヌ・ジノビリ

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Manu Ginobili

ポジション:SG

所属チーム:SAS(2002~2018)

キャリア平均:13.3PPG、3.5RPG、3.8APG、1.3SPG、.369 3P%

個人賞:Sixth Man of the Year1回(2007-2008)

ALL TEAM:All-NBA 3rd 2回

オールスター出場:2回(2005、2011)

本名はエマニュエル・ダビド・ジノビリ。

アルゼンチンのバスケットボール一家に生まれ、コーチを務める父やプロ選手として活躍する兄たちの影響を受けて育った。自身もアルゼンチンのプロリーグで頭角を現し、その後はイタリア・セリエAへ渡ってヨーロッパ屈指の選手へと成長する。

1999年のNBAドラフトでサンアントニオ・スパーズから指名を受けたが、すぐには渡米せずイタリアに残留。ユーロリーグ優勝やファイナルMVP、リーグMVPなど数々のタイトルを獲得し、ヨーロッパ最高峰の選手として評価を確立した。

2002年の世界選手権ではアルゼンチン代表のエースとして活躍し、国際大会でNBA選手を擁するアメリカ代表が無敗を続けていた中、その記録を止める歴史的な勝利に大きく貢献した。

同年よりスパーズに加入し、ルーキーシーズンにNBA優勝を経験する。しかし、この頃は故障もあり、まだ本来の実力を十分に発揮するまでには至らなかった。

2年目になると、出場時間を伸ばして存在感を高めていく。そして、シーズン終了後に開催されたアテネ五輪では、五輪連覇を続けるアメリカ代表を準決勝で破り、世界に再び衝撃を与えた。

アルゼンチンは決勝でイタリアを下して金メダルを獲得。ジノビリは平均19.3得点を記録して大会MVPに選出され、世界最高峰のプレーヤーの一人としてその名を轟かせた。

NBAでも年々評価が高まり、システムと規律を重んじるスパーズにあって、ジノビリの予測不能なプレーは異彩を放った。とくに、欧州の選手が見せる独特のステップでディフェンスをかわす「ユーロステップ」は、ジノビリの活躍により「ジノビリ・ステップ」と呼ばれるようになった。

ティム・ダンカン、トニー・パーカーとともにスパーズの「BIG3」を形成し、15年以上にわたってチームを支え続ける。プレーオフやファイナルではシーズン以上の勝負強さを発揮し、4度のNBA優勝に大きく貢献した。

2007-08シーズンはシックスマンとして起用されながらチームトップの平均19.5得点を記録し、NBAシックスマン賞を受賞。スター選手でありながらベンチスタートを受け入れ、チームを最優先する姿勢はスパーズ王朝の象徴ともなった。

2012-13シーズン終了後には一時引退も示唆したが、スパーズと再契約を結んで現役を続行。ベテランとなってからも勝負所で存在感を発揮し続け、2014年には4度目のチャンピオンリングを獲得した。

2018年に現役を引退。背番号「20」はスパーズの永久欠番となり、2022年にはその功績が称えられてバスケットボール殿堂入りを果たしている。

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