
主なドラフト選手
1.ケニオン・マーティン

Kenyon Martin
出身校:シンシナティ大学
ポジション:PF
所属チーム:NJN(2000~2004)→DEN(2004~2011)→LAC(2011~2012)→NYK(2012~2014)→MIL(2014~2015)
キャリア平均:12.3PPG、6.8RPG、1.9APG、1.2SPG、1.1BPG
オールスター出場:1回(2004)
愛称は「Kマート」。
ドラフト1位でニュージャージー・ネッツに指名された際、新人王ではなく最優秀守備選手賞の獲得を目標に掲げるなど、ディフェンスへの強いこだわりを見せた。目標を達成することはできなかったものの、卓越した身体能力と闘争心あふれるディフェンスでチームを支え、2002年、2003年の2年連続ファイナル進出に主力として貢献。リーグ最少失点を記録した堅守の中心選手として活躍した。
そのフィジカルと爆発的な跳躍力はオフェンスでも威力を発揮し、ジェイソン・キッドのロングパスから豪快なアリウープダンクを叩き込むプレーは、ネッツを象徴する名場面として多くのファンを魅了した。2003-04シーズンには平均16.7得点、9.5リバウンドを記録し、初めてオールスターに選出される。
シーズン終了後、以前から「自分はマックス契約に値する選手」と公言していたマーティンは、デンバー・ナゲッツと大型契約を結び、4シーズンを過ごしたネッツを去った。
ナゲッツでも不動の先発フォワードとして活躍したが、度重なる膝の故障に苦しみ、ネッツ時代のような爆発力は徐々に失われていく。リーグ屈指の高額契約に見合う活躍を期待されていただけに、成績とのギャップから厳しい批判を浴びることも少なくなかった。
2011年のロックアウト中は中国リーグでプレーし、NBA再開後は契約上の問題からすぐに復帰できなかったものの、2012年2月に国際バスケットボール連盟(FIBA)の承認を得てロサンゼルス・クリッパーズと契約。その後はニューヨーク・ニックス、ミルウォーキー・バックスでもプレーし、2015年に現役引退を表明した。
全盛期は激しいダンクやハードなディフェンスで観客を沸かせる一方、危険なファウルもいとわないプレースタイルや歯に衣着せぬ発言から、対戦相手や時にはチームメイトとも衝突することがあった。
ネッツ時代には腎臓移植から復帰を目指していたアロンゾ・モーニングの体調を揶揄したとして批判を浴びたが、その後は自ら非を認めて謝罪し、モーニングが主催するチャリティーイベントにも参加して関係を修復している。
2.ストロマイル・スウィフト

Stromile Swift
出身校:ルイジアナ州立大学
ポジション:PF / C
所属チーム:VAN-MEM(2000~2005)→HOU(2005~2006)→MEM(2006~2008)→NJN(2008~2009)→PHO(2009)
キャリア平均:8.4PPG、4.6RPG、0.5APG、1.2BPG
大学2年生時にチームをNCAAトーナメントのスウィート16へ導く活躍を見せ、アーリーエントリーを宣言。2000年のNBAドラフトでは、バンクーバー・グリズリーズから全体2位で指名されるなど、将来を嘱望されたビッグマンだった。
しかし、ルーキーシーズンは平均4.9得点に終わり、高い身体能力を持ちながら才能を発揮しきれず、期待を大きく下回る結果となった。
フランチャイズがメンフィスへ移転した翌2001-02シーズンには、主にシックスマンとして平均11.8得点、1.7ブロックを記録。驚異的な跳躍力を生かした豪快なダンクやブロックで存在感を示し、その潜在能力の高さをうかがわせた。
しかし、その後はプレーの波が大きく、ヘッドコーチやチームメイトとの衝突、故障なども重なって出場機会は徐々に減少。「スローマイル(Slowmile)」と揶揄されるなど、不安定なプレーぶりを批判されることもあった。
2005年にフリーエージェントとしてヒューストン・ロケッツへ移籍したものの、新天地では持ち味を発揮できず、わずか1シーズンで古巣グリズリーズへトレード復帰。その後も出場時間は減少し、かつて期待されたスター候補としての地位を取り戻すことはできなかった。
2009年にフェニックス・サンズでプレーしたのを最後にNBAを離れ、その後は中国リーグなど海外でプレーを続けた。
2012年には拳銃の不法所持で逮捕されるなど、コート外でも話題となった。
豪快なダンクを決めた際に見せる、両手を交差させて鳥が羽ばたくようなパフォーマンスは、スウィフトのトレードマークとしてファンに親しまれた。
3.ダリアス・マイルズ

Darius Miles
出身校:イーストセントルイス高校
ポジション:SF / SG
所属チーム:LAC(2000~2002)→CLE(2002~2004)→POR(2004~2006)、MEM(2008~2009)
キャリア平均:10.1PPG、4.9RPG、1.9APG、1.1BPG
ドラフトでは高卒選手として当時史上最高順位となる全体3位で指名を受け、ロサンゼルス・クリッパーズに入団した。
206cmの長身にガード並みの俊敏性とボールハンドリングを兼ね備え、マイケル・ジョーダンが「もっと上位で指名されてもおかしくなかった」と語るなど、デビュー前から将来を嘱望された逸材だった。
しかし、クリッパーズにはエルトン・ブランドやラマー・オドムら実力者が揃っており、先発の座をつかみ切れないまま2シーズンを過ごす。シーズン終了後、アンドレ・ミラーとのトレードでクリーブランド・キャバリアーズへ移籍した。
若手中心のキャバリアーズではリーダーとしての活躍が期待され、マイルズ自身も「準備はできている」と自信を見せた。しかし、チームは低迷から抜け出せず、先発として出場時間を増やしたマイルズも期待されたほどの成績を残すことはできなかった。
翌2003-04シーズンには、高卒の超大型新人レブロン・ジェームズが加入。マイルズは年齢の近い先輩としてレブロンを公私にわたって支え、試合前に二人で披露した「ダブル・ハイファイブ」はキャバリアーズの名物パフォーマンスとして親しまれた。後年、レブロンも「ダリアスは兄のような存在だった」と振り返っている。
しかし、キャバリアーズがレブロンを中心としたチーム作りへと舵を切ると、マイルズはシーズン途中にポートランド・トレイルブレイザーズへトレードされた。
加入当初の期待とは裏腹に放出される形となったが、ブレイザーズでは課題とされていたシュート力にも成長が見られ、2005-06シーズンには開幕からチームのリーディングスコアラーとして活躍。ようやく本格的なブレイクを迎えたかと思われた。
しかし、その矢先に膝を故障して長期離脱を余儀なくされる。シーズン後半に復帰したものの、40試合の出場で平均14.0得点に終わり、シーズン終了後には手術を決断。2006-07、2007-08シーズンを全休するなど、度重なる膝の故障によってキャリアは大きく狂わされることとなった。
完全復活を目指したものの膝は回復せず、ブレイザーズは契約を解除。現役続行は困難と思われる中、2008年12月にメンフィス・グリズリーズと契約してNBA復帰を果たしたが、翌2009年1月にウェーバー公示され、そのまま現役を引退した。
高い身体能力と万能性からNBAを代表するフォワードへの成長が期待された一方、度重なる故障によってその才能を十分に開花させることができなかった「未完の大器」の一人として知られている。
5.マイク・ミラー

Mike Miller
出身校:フロリダ大学
ポジション:SF / SG
所属チーム:ORL(2000~2003)→MEM(2003~2008)→MIN(2008~2009)→WAS(2009~2010)→MIA(2010~2013)→MEM(2013~2014)→CLE(2014~2015)→DEN(2015~2017)
キャリア平均:10.6PPG、4.2RPG、2.6APG、.407 3P%
個人賞:Rookie of the Year、Sixth Man of the Year1回(2005-2006)
ニックネームは痩せすぎを意味する「Skinny(スキニー)」。
リーグ屈指のシュート力を武器に活躍したスウィングマンであり、リバウンドやゲームメイクにも優れたオールラウンドな選手として知られる。
オーランド・マジックではグラント・ヒルの控えとして入団したが、故障したヒルに代わって先発に抜擢されると、平均11.9得点、スリーポイントシュート成功率40.7%を記録する活躍で新人王を受賞した。
オーランドではエースのトレイシー・マグレディから厚い信頼を寄せられたが、2003年にトレードで放出されると、マグレディは「最高のチームメイトを失った」と落胆を隠さず、チームの補強方針にも失望を口にした。
メンフィス・グリズリーズに移籍したミラーは、主に控えとして起用された2005-06シーズンに平均13.7得点を記録し、シックスマン賞を受賞する。
翌2006-07シーズンには再び先発に定着し、平均18.5得点、5.4リバウンド、4.3アシストを記録。スリーポイントシュート成功率40.6%、成功数202本をマークするなど、リーグ屈指のシューターとして高い評価を受けた。
その後もワシントン・ウィザーズなどで活躍し、2010年にマイアミ・ヒートへ移籍。レブロン・ジェームズ、ドウェイン・ウェイド、クリス・ボッシュら”ビッグスリー”を支えるベンチメンバーとして重要な役割を担い、2011-12、2012-13シーズンの2連覇に貢献した。
2013年のファイナル第6戦では、腰など複数箇所を痛めながらも足元のシューズが脱げるほど激しくプレーを続け、7本のスリーポイントシュートを成功させて23得点を記録。ヒートを敗戦寸前から救う活躍を見せ、優勝の立役者のひとりとなった。
8.ジャマール・クロフォード

Jamal Crawford
出身校:ミシガン大学
ポジション:SG / PG
所属チーム:CHI(2000~2004)→NYK(2004~)→GSW(~2009)→ATL(2009~2011)→POR(2011~2012)→LAC(2012~2017)→MIN(2017~2018)→PHO(2018~2019)→BRK(2019~2020)
キャリア平均:14.6PPG、2.2RPG、3.4APG、0.9SPG
個人賞:Sixth Man of the Year3回(2009-2010、2013-2014、2015-2016)
ディフェンスを翻弄する卓越したハンドリングスキルと勝負強い得点力を武器に、リーグ屈指のシックスマンとして活躍した。
シカゴ・ブルズ入団当初は故障の影響もあって思うような活躍ができなかったが、4年目の2003-04シーズンにポイントガードからシューティングガードへコンバートされると、その高い得点能力が開花する。このシーズンは73試合で先発を務め、平均17.3得点、5.1アシストを記録し、シーズン終了後にサイン&トレードでニューヨーク・ニックスへ移籍した。
当時のニックスは選手、コーチ、フロントが対立する混乱期にあり、「暗黒時代」とも呼ばれる低迷が続いていたが、クロフォードは人員過剰のガード陣の中で出場時間を勝ち取り、2007-08シーズンにはキャリアハイとなる平均20.6得点を記録。不振を極めるチームの中で孤軍奮闘する活躍を見せた。
2009年にアトランタ・ホークスへ移籍すると、2009-10シーズンは79試合すべてを控えとして出場しながら平均18.0得点を記録。53勝29敗を挙げたチームの躍進を支え、初のシックスマン賞を受賞した。
その後もロサンゼルス・クリッパーズではクリス・ポールやブレイク・グリフィンらを支えるベンチスコアラーとして活躍し、2013-14、2015-16シーズンにもシックスマン賞を受賞。NBA史上初となる3度のシックスマン賞受賞を果たし、歴代最高のシックスマンの一人としてその名を刻んだ。
また、キャリアを通じて4点プレーを数多く成功させたことでも知られ、NBA史上最多となる4点プレー成功数を記録。さらに、NBA史上で唯一、4つの異なる球団で50得点以上を記録した選手としても知られている。
16.ヒドゥ・ターコルー

Hedo Turkoglu
ポジション:SF / PF
所属チーム:SAC(2000~2003)→SAS(2003~2004)→ORL(2004~2009)→TOR(2009~2010)→PHO(2010)→ORL(2010~2014)→LAC(2014~2015)
キャリア平均:11.1PPG、4.0RPG、2.8APG、.384 3P%
個人賞:Most Improved Player(2007-2008)
トルコ出身、身長208cmの長身シューター。
NBA初のトルコ人スター選手として知られ、ゲーム終盤に勝負強さを発揮するクラッチプレイヤーであると同時に、ポイントフォワードとしてオフェンスを組み立てる高いゲームメイク能力も兼ね備えていた。
18歳でトルコのプロリーグデビューを果たし、4シーズンを過ごした後にNBA入りを決意。サクラメント・キングスへ入団すると、「ベンチモブ」と称されたリーグ屈指の控えユニットの中心選手として活躍し、シックスマン賞候補にも名を連ねた。
2004年にフリーエージェントでオーランド・マジックへ移籍。当初はグラント・ヒルの控えとしてプレーしていたが、ヒルの故障やその後のチーム再編を機に先発へ定着し、若きドワイト・ハワードを中心とするチームの再建を支える主力へと成長した。
2007-08シーズンには初めて82試合すべてに先発出場し、キャリアハイとなる平均19.5得点、5.7リバウンド、5.0アシストを記録。大型フォワードながら司令塔の役割も担うオールラウンドな活躍が高く評価され、最優秀躍進選手賞(MIP)を受賞した。
翌2008-09シーズンも勝負どころで幾度となくクラッチシュートを沈め、ラシャード・ルイスらとともにドワイト・ハワードを支えながら、マジックを14シーズンぶりのNBAファイナル進出へ導く原動力となった。
しかし、全盛期を迎えたターコルーは、より高額な契約を求めて2009年にトロント・ラプターズへ移籍。以降はフェニックス・サンズなどでもプレーしたが、マジック時代のような存在感を示すことはできず、古巣マジック復帰後も若手選手の台頭によって徐々に出場時間を減らしていった。
2013年には禁止薬物検査で陽性反応が出たことにより20試合の出場停止処分を受けるなど晩年は苦しい時期もあったが、トルコ代表では長年にわたりエースとして活躍し、自国バスケットボール界を代表する選手として高い人気を誇った。
17.デズモンド・メイスン

Desmond Mason
出身校:オクラホマ州立大学
ポジション:SG / SF
所属チーム:SEA(2000~2003)→MIL(2003~2005)→NOK(2005~2007)→MIL(2007~2008)→OKC(2008~2009)→SAC(2009~2010)
キャリア平均:12.1PPG、4.5RPG、1.6APG
シアトル・スーパーソニックスに入団し、2年目の2001-02シーズンには控えとして起用されながら30分を超える出場時間を得て、平均12.4得点を記録する活躍を見せた。
同年のオールスター・スラムダンクコンテストでは優勝を果たし、リーグ屈指のスラムダンカーとして一躍その名を知られる存在となる。
シュート力には課題を残していたものの、驚異的な身体能力を生かした鋭いドライブと迫力満点のダンクでファンを魅了し、エネルギッシュなプレースタイルはソニックスを象徴する見どころのひとつとなった。
2003年にミルウォーキー・バックスへトレードされると、次第にミドルレンジシュートやポストプレーにも磨きをかけ、先発としてプレーする機会を増やしていく。71試合に先発出場した2004-05シーズンにはキャリアハイとなる平均17.2得点を記録し、ダンクだけではない総合力を備えたスコアラーへと成長した。
その後はオクラホマシティ・サンダーなどでプレーし、2010年を最後に現役を引退した。
大学では芸術を専攻しており、現役時代から絵画制作に取り組んでいた。引退後はプロのアーティストとして活動し、個展の開催や作品の販売を行うなど、バスケットボールとは異なる世界でも才能を発揮している。
18.クエンティン・リチャードソン

Quentin Richardson
出身校:デポール大学
ポジション:SF / SG
所属チーム:LAC(2000~2004)→PHO(2004~2005)→NYK(2005~2009)→MIA(2009~2010)→ORL(2010~2012)→NYK(2013)
キャリア平均:10.3PPG、4.7RPG、1.5APG、.355 3P%
愛称は「Q-Rich(Q・リッチ)」。
デビューから4シーズンをロサンゼルス・クリッパーズで過ごし、先発に定着した2003-04シーズンにはキャリアハイとなる平均17.2得点を記録。屈強なフィジカルを生かしたディフェンスと高精度のスリーポイントシュートを武器に、リーグ有数の3&Dタイプのフォワードとして評価を高めていった。
シーズン終了後、フリーエージェントとしてフェニックス・サンズへ移籍。
タレントが揃うサンズでは得点機会こそやや減少したものの、リーグ最多となる631本のスリーポイントシュートを放ち、成功数もリーグトップの226本を記録。スティーブ・ナッシュのゲームメイクからショーン・マリオンらが豪快なダンクを決め、リチャードソンが外角から長距離砲を沈めるオフェンスは、リーグ屈指の破壊力を誇った。
サンズは前年の29勝から62勝へと劇的な躍進を遂げ、テンポの速い「セブン・セカンズ・オア・レス」のバスケットボールでリーグに旋風を巻き起こす。リチャードソン自身もリーグ屈指のシューターとして存在感を示し、スティーブ・ナッシュとは親友としても知られ、互いに深い信頼関係を築いていた。
しかしシーズン終了後、トレードでニューヨーク・ニックスへ移籍。チームの課題だったアウトサイドシュート強化を期待されたものの、故障に悩まされるようになり、以前のような活躍を見せることはできず、徐々に成績を落としていった。
クリッパーズ時代、同期入団のダリアス・マイルズと非常に仲が良く、二人がダンクや3ポイントを決めた後に両手の拳で頭を軽く叩くパフォーマンスはアメリカのストリートや高校生の間で大流行した。
マイルズのトレードによってコンビは2年で解体したが、若者のカルチャーを体現する二人はクリッパーズを「弱小」から「エキサイティングでファンキー」なチームへと変貌させた。
引退後はマイルズとの共同ホストで配信するポッドキャスト番組が大人気コンテンツとなっている。
19.ジャマール・マグロワ

Jamaal Magloire
出身校:ケンタッキー大学
ポジション:C
所属チーム:CHH-NOH(2000~2005)→MIL(2005~2006)→POR(2006~2007)→NJN(2007~2008)→DAL(2008)→MIA(2008~2011)→TOR(2011~2012)
キャリア平均:7.2PPG、6.5RPG、0.6APG
オールスター出場:1回(2004)
カナダ出身。
ケンタッキー大学では2年生時にNCAAトーナメント優勝を経験し、4年間で同校の通算ブロック数記録を更新した。
シャーロット・ホーネッツに入団後の2シーズンは控えとしてプレーしたが、フランチャイズがニューオリンズへ移転した2002-03シーズンから先発に定着し、82試合すべてに先発出場した。
翌2003-04シーズンも全82試合に先発出場し、平均13.6得点、10.3リバウンドのシーズン・ダブルダブルを記録。この活躍が評価されてオールスターゲームに選出されると、試合でも存在感を発揮し、MVP候補に挙げられるほどの活躍で会場を沸かせた。
しかし、翌シーズンは故障の影響で大半を欠場。チームの低迷も重なり、自らトレードを志願して2005年にミルウォーキー・バックスへ移籍した。
その後は多くのチームを渡り歩き、ベテランセンターとしてプレーを続ける。
2011年には地元カナダのトロント・ラプターズへ加入し、翌2012年に現役を引退した。
引退後はラプターズのコンサルタントを経てアシスタントコーチに就任。その後も選手育成部門やコーチングスタッフの一員として長くチームに携わり、後進の育成に尽力している。
21.モリス・ピータソン

Morris Peterson
出身校:ミシガン州立大学
ポジション:SG / SF
所属チーム:TOR(2000~2007)→NOH(2007~2010)→OKC(2010~2011)
キャリア平均:10.7PPG、3.5RPG、1.5APG、.373 3P%
トロント・ラプターズで長く活躍し、チームの中心選手が次々と入れ替わる中でも、一貫して主力としてプレーを続けたことから、トロントのファンに高い人気を誇った。
スリーポイントシュート、鋭いドライブからのアクロバティックなフィニッシュ、粘り強いディフェンスなど攻守にバランスの取れたプレーを持ち味とし、故障にも強く、2002-03シーズンから4シーズン連続で全82試合出場を果たしている。
2005-06シーズンにはキャリアハイとなる平均16.8得点を記録し、チーム屈指の得点源として活躍した。しかし、翌2006-07シーズンに故障で連続試合出場が途切れると、その後は徐々に先発の座を失い、個人成績も下降していった。
シーズン終了後、フリーエージェントとしてニューオリンズ・ホーネッツへ移籍。再び先発として起用されたものの、出場時間は20分前後にとどまり、ラプターズ時代のような活躍を見せることはできなかった。
2011年にオクラホマシティ・サンダーでプレーしたのを最後に現役を引退。
ラプターズでは球団創設初期を支えた功労者として知られ、当時の球団記録となる通算801本のスリーポイントシュート成功数を記録するなど、長年にわたりチームの歴史に名を刻んだ。
引退後の2015年からは、カナダのスポーツ専門放送局でNBA解説者として活動している。
なお、従兄弟にはインディアナ・ペイサーズなどでプレーしたジョナサン・ベンダーがいる。
43.マイケル・レッド

Michael Redd
出身校:オハイオ州立大学
ポジション:SG
所属チーム:MIL(2000~2011)→PHO(2011~2012)
キャリア平均:19.0PPG、3.8RPG、2.1APG、.380 3P%
オールスター出場:1回(2004)
頭上に大きく振りかぶる独特のフォームと、左手から放たれるクイックリリースのスリーポイントシュートを武器に、リーグ屈指のスコアラーとして活躍した。
強豪オハイオ州立大学では1年目から平均21.9得点を記録する得点源として活躍したが、不安定なシュート力やディフェンス面への評価により、アーリーエントリーを宣言して臨んだドラフトでは2巡目全体43位での指名となった。
ミルウォーキー・バックスでのルーキーシーズンは出場機会に恵まれなかったものの、2年目の2001-02シーズンになるとレイ・アレンのバックアップとして頭角を現し、平均11.4得点、スリーポイントシュート成功率44.4%を記録。成功率ではアレンを上回る数字を残し、将来の主力候補として注目を集めた。
その成長はチームに対して不満を募らせていたアレンの放出を後押しする要因のひとつとなり、2003年のトレード後はアレンに代わるエースとしてチームを牽引する存在となる。
主力選手を大量放出して迎えた2003-04シーズン、レッドは期待に応えるように平均21.7得点を記録し、初めてオールスターに選出。その後も毎年のように得点力を伸ばし、2006-07シーズンにはキャリアハイとなる平均26.7得点を記録してリーグ屈指のスコアラーへと成長した。
また、2008年にはアメリカ代表として北京オリンピックに出場し、「リディーム・チーム」の一員として2大会ぶりの金メダル獲得にも貢献している。
しかし、この頃から度重なる膝の故障に苦しむようになり、2008-09シーズンと2009-10シーズンには前十字靱帯を相次いで断裂。かつての得点力を取り戻すことはできず、10試合の出場にとどまった2010-11シーズンを最後に11年間在籍したバックスを退団した。
2011-12シーズンはフェニックス・サンズでプレーし、シーズン終了後に現役を引退。バックスではデビューから11シーズンを過ごし、通算得点をはじめ数々の球団記録で現在も上位に名を連ねるなど、球団史を代表するスコアラーのひとりとして知られている。
ドラフト外.ラジャ・ベル

Raja Bell
出身校:フロリダ国際大学
ポジション:SG
所属チーム:PHI(2000~2002)→DAL(2002~2003)→UTA(2003~2005)→PHO(2005~2008)→CHA(2008~2009)→GSW(2009~2010)→UTA(2010~2012)
キャリア平均:9.9PPG、2.8RPG、1.7APG、.406 3P%
ALL TEAM:All-Defensive 1st 1回、All-Defensive 2nd 1回
アメリカ領ヴァージン諸島出身。
マイナーリーグのCBAから這い上がり、フィラデルフィア・76ersと10日間契約を結んで2000-01シーズン終盤にNBAデビューを果たす。
わずかな出場時間の中で目立った数字を残す事はできなかったが、プレーオフでは執拗なディフェンスで存在感を発揮し、ヘッドコーチのラリー・ブラウンやエースのアレン・アイバーソンを驚かせる活躍を見せた。ファイナルでは、アイバーソンがブラウンに「いったいどこでこんな選手を見つけてきたんだ?」と尋ねたという逸話が残されている。
NBAで生き残る足掛かりをつかんだベルは、その後もディフェンスに特化したロールプレーヤーとしてプレーを続けたが、2003年にユタ・ジャズへ加入したことが転機となる。ジェリー・スローンの下でオフェンス面にも磨きをかけ、アウトサイドシュートを武器とする3&Dプレーヤーへと成長していった。
移籍1年目の2003-04シーズンは82試合すべてに出場し、主にシックスマンとして約25分間プレーして平均11.2得点を記録。攻守両面で安定した働きを見せ、リーグでも評価を高めていく。
2005年にフェニックス・サンズへ移籍すると、スティーブ・ナッシュ率いるハイテンポなオフェンスの中でシューターとしての才能を開花させる。2006-07シーズンには平均14.7得点を記録し、リーグ最多となる205本のスリーポイントシュートを成功させた。
同シーズンには初めてオールディフェンシブ1stチームにも選出され、リーグ屈指の攻撃力を誇るサンズで活躍しながら、NBA最高峰のペリメーターディフェンダーとしても認められた。



COMMENT