1971年 NBAドラフト

NBAネタ
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新人王:シドニー・ウィックス(Sidney Wicks)
All Rookie Team
1st:オースティン・カー、フィル・シェニエ、クリフォード・レイ、エルモア・スミス、シドニー・ウィックス
 
主なプレイヤー
 
※赤字はABA時代のもの・キャリア平均はNBA・ABAの通算平均
1.オースティン・カー(Austin Carr)
01

出身校:ノートルダム大学
ポジション: SG
所属チーム:CLE(1971~1980)→DAL(1980)→WSB(1980~1981)
キャリア平均:15.4PPG、2.9RPG、2.8APG
オールスター出場:1回(1974)

「Mr.キャバリアー」の称号を与えらるなど、クリーブランド・キャバリアーズ初期のスター選手として活躍した。
大学時代に数々の得点記録をつくってNBA入りし、1年目から平均21.2得点と得点能力の高さを見せつける。
キャリアハイとなる平均21.9得点を記録した3年目のシーズンに初めてオールスター選出されている。
翌1974-75シーズンに踵を故障してシーズン後半を欠場し、復帰後は調子を落とす事になったが、徐々に平均15得点前後を記録するまでに復調し、プレイオフ進出に貢献するなど再び活躍を見せた。
1980年に9シーズンを過ごしたキャバリアーズを去り、その後1シーズンをプレーして現役を引退した。
背番号『34』はキャバリアーズの永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/ULXHcoutilw
 
2.シドニー・ウィックス(Sidney Wicks)
02

出身校:カリフォルニア大学ロサンゼルス校
ポジション: PF
所属チーム:POR(1971~1976)→BOS(1976~1978)→SDC(1978~1981)
キャリア平均:16.8PPG、8.7RPG、3.2APG、1.0SPG
個人賞:Rookie of the Year
オールスター出場:4回(1972~1975)

大学時代はNCAAトーナメント7連覇を達成した名門UCLAの中心選手として活躍し、3度の優勝に貢献している。
NBAドラフトでは1位指名が確実視されていたが、ポートランド・トレイルブレイザーズが1位指名権を持つクリーブランド・キャバリアーズに25万ドルを支払ってウィックスの指名を見送らせ、2位指名でブレイザーズに入団する事になった。
ブレイザーズの選択が間違いではなかった事を証明するかのように、1年目から平均24.5得点、11.5リバウンドと大活躍を見せて新人王を受賞する。
デビューから4シーズン連続で平均20得点以上を記録し、オールスターにも4年連続で選出されたが、チームをプレイオフ進出に導く事のできないシーズンが続くと、ブレイザーズは1974年に入団したビル・ウォルトンを中心としたチーム作りをすすめていく。
ウィックスはブレイザーズが初の優勝を遂げる1976-77シーズンの開幕前にチームを去る事になり、移籍後は全盛期のような活躍を見せられないまま、1981年に現役を引退する事になった。
youtube:http://youtu.be/kYvw3-G0iTU
 
3.エルモア・スミス(Elmore Smith)
03

出身校:ケンタッキー州立大学
ポジション: C
所属チーム:BUF(1971~1973)→LAL(1973~1975)→MIL(1975~1977)→CLE(1977~1979)
キャリア平均:13.4PPG、10.6RPG、1.4APG、2.9BPG

213cmの長身を生かしたリバウンドとブロックで活躍し、初代ブロックショット王に輝いたほか、1試合のブロック歴代最多記録を保持している。
バッファロー・ブレーブスに入団し、1年目から平均17.3得点、15.2リバウンドを記録するなどインサイドの柱として活躍する。
1973-74シーズンにロサンゼルス・レイカーズに移籍し、このシーズンから計測を始めたブロックショットはリーグトップとなる平均4.9本を記録した。
また、このシーズンに記録した1試合17ブロックという驚異的な数字は現在に至るまで歴代最多の記録となっている。
1975年にカリーム・アブドゥル=ジャバーを獲得するためのトレード要員の一人となり、ミルウォーキー・バックスに移籍してからはジャバーに代わるセンターとして平均15.6得点、11.4リバウンド、3.1ブロックを記録する活躍を見せた。
しかし移籍2年目に調子を落とすと、クリーブランド・キャバリアーズへトレードで放出され、その後は全盛期ほどの数字を残せないまま1979年に現役を引退した。
 
6.フレッド・ブラウン(Fred Brown)
06

出身校:アイオワ大学
ポジション: SG、PG
所属チーム:SEA(1971~1984)
キャリア平均:14.6PPG、2.7RPG、3.3APG、1.4SPG、.373 3P%
オールスター出場:1回(1976)

バスケットから遠く離れた距離からでも正確にショットを沈め、「ダウンタウン・フレディ」のニックネームで呼ばれた。
シアトル・スーパーソニックスに入団し、1年目は選手兼コーチのレニー・ウィルケンズの控えを務めていたが、ウィルケンズが去った2年目のシーズンに先発に抜擢され、平均13.5得点、4.0リバウンド、5.5アシストを記録すると、以降、チームの中心選手として成長していく。
4年目となる1974-75シーズンには平均21.0得点を記録し、ブラウンはスペンサー・ヘイウッドらとともにチームを創設8年目にして初のプレイオフに導いた。
翌シーズンはヘイウッドの移籍によりチーム成績が若干下降したが、ブラウンはキャリアハイとなる平均23.1得点を記録してオールスターに初めて選出され、ソニックスは2年連続のプレイオフ進出を果たした。
70年代後半になると、チームの主力はガス・ウィリアムスデニス・ジョンソンら若い選手が中心となったが、負担が軽減されたブラウンは出場時間が減少してからも平均15得点前後を記録し、チームの躍進に貢献する。
ソニックスは1978年に初めてファイナルに進出し、ワシントン・ブレッツの前に惜敗したものの、翌1979年に再びファイナルに戻り、2年連続となったブレッツとのシリーズを制して初優勝を遂げた。
ブラウンは入団8年目にして悲願を達成し、翌1979-80シーズンにスリーポイントシュートが導入されると、成功率44.3%を記録して初代1位に輝くなどベテランとなってなお活躍を続けた。
キャリア晩年は緩やかに成績が下降していったが、最後の2シーズンはガードとしては異例のFG成功率50%以上を記録している。
引退するまでソニックス一筋でプレーを続け、背番号『32』は同チームの永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/Ti6TKPUvb1o
 
9.スタン・ラブ(Stan Love)
01

出身校:オレゴン大学
ポジション: PF
所属チーム:BAL(1971~1973)→LAL(1973~1975)→ABA(1975)
キャリア平均:6.6PPG、3.9RPG、0.8APG

1年目に記録した平均7.9得点、4.6リバウンドがそれぞれキャリアハイとなり、控えとして4シーズンをプレーした後、リーグから去っている。
1975年にABAで数試合プレーした。
兄のマイク・ラブは人気バンド、ビーチボーイズのメインヴォーカルとして知られ、息子のケビン・ラブは2008年にNBAデビューしてスター選手として活躍している。
 
11.カーティス・ロウ(Curtis Rowe)
02

出身校:カリフォルニア大学ロサンゼルス校
ポジション: PF
所属チーム:DET(1971~1976)→BOS(1976~1979)
キャリア平均:11.6PPG、7.2RPG、1.6APG
オールスター出場:1回(1976)

デトロイト・ピストンズでは1年目から6シーズン連続で平均2桁得点を記録し、1975-76シーズンに平均16.0得点、8.7リバウンドの活躍でオールスターに選出されている。
1976年にボストン・セルティックスにトレードされてからは数字を落とし、3シーズンをプレーした後に現役を引退した。
 
13.ジム・クレモンズ(Jim Cleamons)
03

出身校:オハイオ州立大学
ポジション: PG
所属チーム:LAL(1971~1972)→CLE(1972~1977)→NYK(1977~1979)→WSB(1979~1980)
キャリア平均:8.3PPG、3.0RPG、3.9APG、1.0SPG
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 1回

1年目を過ごしたロサンゼルス・レイカーズでは出場時間を与えられず、平均2.6得点の成績に終わる。
シーズン終了後にクリーブランド・キャバリアーズにトレードされ、レニー・ウィルケンズの控えとしてプレーし、徐々に出場時間を増やしていく。
移籍3年目にウィルケンズがチームを去ると、代わってクレモンズが先発に抜擢され、平均11.9得点、5.1アシストを記録した。
翌1975-76シーズンにはキャリアハイとなる平均12.2得点、5.2アシスト、1.5スティールを記録し、オールディフェンシブ2ndチームに選出される活躍を見せると、チームは創設6年目にして初のプレイオフに進出した。
 
24.マイク・ニューリン(Mike Newlin)
04

出身校:ユタ大学
ポジション: SG
所属チーム:HOU(1971~1979)→NJN(1979~1981)→NYK(1981~1982)
キャリア平均:14.9PPG、3.0RPG、4.0APG、1.0SPG

ドラフトではヒューストン・ロケッツから指名を受ける。
ロケッツはこの年に本拠地をサンディエゴからヒューストンに移転し、ニューリンはヒューストン・ロケッツが初めて契約した新人選手となった。
ロケッツではデビューから8シーズンを過ごし、ルディ・トムジャノビッチカルビン・マーフィーらとともに中心選手としてチームを支えた。
1975-76シーズンには、平均18.6得点、4.1リバウンド、5.6アシストを記録し、得点とアシストでチーム2位となっている。
ロケッツでは2番手、3番手のニューリンだったが、ニュージャージ・ネッツ移籍後は在籍した2シーズンで平均20得点を上回る数字を残すなど、チームのリーディングスコアラーとして活躍した。
1980-81シーズンにキャリアハイとなる平均21.4得点をあげ、1試合52得点も記録している。
翌1981-82シーズンはニューヨーク・ニックスでプレーしたが、出場時間の減少により数字を下降させ、このシーズン限りで現役を引退した。
 
30.スペンサー・ヘイウッド(Spencer Haywood)
05

出身校:デトロイト・マーシー大学
ポジション: PF
所属チーム:ABA(1969~1970)→SEA(1970~1975)→NYK(1975~1979)→NOJ(1979)→LAL(1979~1980)、WSB(1981~1983)
キャリア平均:20.3PPG、10.3RPG、1.8APG、1.1BPG
個人賞:ABA Rookie of the YearABA MVP1回(1969-1970)ABA All-Star Game MVP1回(1970)
ALL TEAM:All-ABA 1st 1回、All-NBA 1st 2回、All-NBA 2nd 2回
オールスター出場:5回(1970、1972~1975)

メキシコシティ五輪では平均16.1得点、アメリカ代表記録となるFG成功率71.9%を記録し、アメリカの金メダル獲得の原動力となった。
短大に在籍していたヘイウッドは五輪後にデトロイト大に転校し、1年目に平均32.1得点、21.5リバウンドという圧倒的な数字を残すと、大学生活を2年残してプロ入りを決意した。
当時のNBAは大学卒業前の学生のドラフトエントリーを禁じていたため、NBAとライバル関係にあったABAでのプレーを選択し、デンバー・ロケッツと契約を結ぶ。
プロのキャリアをスタートさせると、1年目から平均30.0得点、19.5リバウンドを記録して得点王・リバウンド王の2冠を達成し、さらにオールスターMVP、新人王、レギュラーシーズンのMVPを獲得するなど個人タイトルを総なめにする活躍を見せた。
残るは早くも優勝のみとなったが、ヘイウッドはシーズン終了後にNBAのシアトル・スーパーソニックスと契約を結ぶ。
しかし、年齢上はまだ大学4年生の扱いとなったため、この契約はNBAから認められず、ヘイウッドは独占禁止法でNBAを訴える事態に発展した。
裁判は最高裁まで争った末にヘイウッド側の勝訴となり、「経済的な困難がある場合に限り大学卒業前でもエントリーを認める」というハードシップ制度を導入するなど、ヘイウッドの訴訟はドラフト制度に大きな影響を与える事になった。
裁判の影響によりソニックスでのデビューはシーズン終盤にずれこみ、NBA1年目は33試合の出場にとどまる。
アウェイの試合では裁判について執拗な野次も浴びたが、本格参戦となった1971-72シーズンに平均26.2得点、12.7リバウンドを記録し、NBAでもトッププレイヤーとして通用することを証明してみせた。
翌1972-73シーズンにはNBAでのキャリアハイとなる平均29.2得点を記録している。
1975年にソニックスを去ってからは次第に数字を下降させ、1979年に移籍したロサンゼルス・レイカーズではデビュー以来初めて平均得点が1桁を記録した。
しかしレイカーズはこのシーズンに優勝を果たし、ヘイウッドはABA、NBAを通して初のチャンピオンリングを獲得した。
レイカーズを1シーズンで退団し、その後はイタリアでプレーしていたが、1981年にワシントン・ブレッツに復帰し、2シーズンを過ごした後に現役を引退した。
背番号『24』はソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)で永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/mzXRBTpEJ7k
 
37.ラリー・スティール(Larry Steele)
06

出身校:ケンタッキー大学
ポジション: SG、SF
所属チーム:POR(1971~1980)
キャリア平均:8.2PPG、2.9RPG、2.8APG、1.8SPG

ポートランド・トレイルブレイザーズに入団し、出場時間が大幅に増えた3年目の1973-74シーズンに平均9.7得点、4.0アシストを記録する。
このシーズンから計測が始まったスティールでは平均2.7本を記録し、初代スティール王に輝いた。
1980年に現役を引退するまでブレイザーズ一筋でプレーを続け、背番号『15』は同チームの永久欠番となった。
ブレイザーズが初優勝を遂げた1976-77シーズンにキャリアハイとなる平均10.3得点を記録している。
 
40.クリフォード・レイ(Clifford Ray)
01

出身校:オクラホマ大学
ポジション: C
所属チーム:CHI(1971~1974)→GSW(1974~1981)
キャリア平均:7.4PPG、8.9RPG、2.2APG、1.0BPG、.524FG%

シカゴ・ブルズでの1年目に平均7.0得点、10.6リバウンドを記録し、オールルーキー1stチームに選出される。
ブロックの計測を始めた1973-74シーズンに平均2.2ブロックを記録し、リバウンドでもキャリアハイとなる平均12.2本を記録するなど、チームのインサイドを支える活躍を見せた。
1974年にゴールデンステイト・ウォリアーズに移籍し、移籍1年目に出場したファイナルでは、チームトップとなる平均10.0リバウンド、1.5ブロックを記録して優勝に貢献した。
以降、1981年に現役を引退するまで、ウォリアーズで7シーズンをプレーした。
youtube:http://youtu.be/NjWpFSQjkqc
 
104.ランディ・スミス(Randy Smith)
02

出身校:バッファロー州立大学
ポジション: SG、SF
所属チーム:BUF-SDC(1971~1979)→CLE(1979~1981)→NYK(1981~1982)→SDC(1982~1983)→ATL(1983)
キャリア平均:16.7PPG、3.7RPG、4.6APG、1.7SPG
個人賞:All-Star Game MVP1回(1978)
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:2回(1976、1978)

ドラフトでは104位という非常に低い評価でのバッファロー・ブレーブス入団となったが、1年目から平均13.4得点と結果を残し、以降、チームの中心選手として活躍した。
1975-76シーズンに平均21.8得点、5.1リバウンド、5.9アシストを記録し、オールスターに初めて選出されている。
スミスはボブ・マッカドゥらとともにチームを牽引し、新興チームのブレーブスを3シーズン連続でプレイオフ進出に導く活躍を見せた。
1976年にマッカドゥがチームを去って以降、ブレーブスはプレイオフから遠ざかる事になったが、スミス自身は選手としての全盛期を迎え、1977-78シーズンにはキャリアハイとなる平均24.6得点を記録した。
怪我に強いことで知られ、12シーズンのキャリアのうち、1年目と現役最終年を除く10シーズンで全試合出場を果たしている。
このときに記録した906試合連続出場は、後にA.C.グリーンに破られるまでNBA記録となっていた。
youtube:http://youtu.be/lE3vguvN5sE
 
117.アーティス・ギルモア(Artis Gilmore)
03

出身校:ジャクソンビル大学
ポジション: C
所属チーム:ABA(1971~1976)→CHI(1976~1982)→SAS(1982~1987)→CHI(1987)→BOS(1988)
キャリア平均:18.8PPG、12.3RPG、2.3APG、2.4BPG、.582FG%
個人賞:ABA Rookie of the YearABA MVP1回(1971-1972)ABA All-Star Game MVP1回(1974)
ALL TEAM:All-ABA 1st 5回ABA All-Defensive 1st 4回、All-Defensive 2nd 1回
オールスター出場:11回(1972~1976、1978~1979、1981~1983、1986)

ニックネームは「A-Train」。
ドラフトではシカゴ・ブルズから指名を受けたが、ABAのケンタッキー・カーネルズでプレーすることを選択する。
218cmの長身に俊敏さとパワー、さらにテクニックをも兼ね揃え、支配的なセンターとして活躍した。
1年目から平均23.8得点、17.8リバウンド、5.0ブロック、FG成功率59.8%と圧倒的な力を見せ、デビューから5年連続でALL-ABA 1stチームに選出されている。
1976年にABAが消滅すると、ギルモアの権利を保持していたブルズへ加入し、NBAのキャリアをスタートさせる。
1977-78シーズンに平均22.9得点、13.1リバウンド、2.2ブロックを記録し、NBAでもオールスターに選出されるなどリーグ屈指のセンターとして実力を発揮した。
ベテランとなってからは得点機会を若手選手に譲り、それまで15本以上あったシュート試投数は10本程度までに減少したが、FG成功率はその後に60%以上を記録し続け、得点機会の減少にもかかわらず30代半ばという年齢になっても平均得点は20得点近くをマークした。
ブルズとサンアントニオ・スパーズで記録したFG成功率は、現在もそれぞれのチームの歴代記録となっている。
youtube:http://youtu.be/M5EUU9UZWCc
 
Hardship Draft.フィル・シェニエ(Phil Chenier)
04

出身校:カリフォルニア大学
ポジション: SG
所属チーム:BAL-CAP-WSB(1971~1979)→IND(1979~1980)→GSW(1981)
キャリア平均:17.2PPG、3.6RPG、3.0APG、1.6SPG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:3回(1974~1975、1977)

NBAでは大学生のドラフトへのエントリーが認められていなかったが、スペンサー・ヘイウッドの訴訟問題を機に、経済的に困難な状況にある学生のみにエントリーを認める「ハードシップ・ドラフト」制が導入される。
当時、大学3年生だったシェニエはこの制度を利用してドラフトにエントリーし、1971年にボルティモア・ブレッツに入団する。
ハードシップ制度はその後アーリー・エントリー制度に姿を変え、シェニエはNBAのドラフトで初めてアーリーエントリーした選手となった。
デビュー後は1年目から主力として活躍し、エルビン・ヘイズウェス・アンセルドら名選手とともにプレーした。
自身も1973-74シーズンに平均21.9得点を記録し、3年目にしてオールスターに初めて選出される。
フランチャイズを移転しワシントン・ブレッツとなって迎えた1974-75シーズン、チームは60勝という好成績を収め、敗退したもののチーム史上2回目となるファイナル進出を果たす。
優勝への期待が大きくなる中でシェニエは活躍を続けたが、1977-78シーズンは背中の故障で初めての長期欠場を強いられ、プレーオフも全休する事になった。
皮肉な事にシェニエを失ったチームはプレイオフを勝ち抜き、初のNBA優勝を遂げる。
一方、シェニエはこの故障が原因でパフォーマンスを大きく低下させ、1979年にブレッツを去った後、1981年に現役を引退した。
 

この記事を書いた人
TANA

バスケ初心者でありながらバスケサークルを立ち上げる。
2025年までの代表。
初心者ならではの視点でバスケを見つめ、「もっと楽な道」がないかを常に探求し続ける。

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