1960年 NBAドラフト

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新人王:オスカー・ロバートソン(Oscar Robertson)
 
主なプレイヤー
 
1.オスカー・ロバートソン(Oscar Robertson)
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出身校:シンシナティ大学
ポジション: PG
所属チーム:CIN(1960~1970)→MIL(1970~1974)
キャリア平均:25.7PPG、7.5RPG、9.5APG、1.1SPG
個人賞:Rookie of the Year、MVP1回(1963-1964)、All-Star Game MVP3回(1961、1964、1969)
ALL TEAM:All-NBA 1st 9回、All-NBA 2nd 2回
オールスター出場:12回(1961~1972)

ニックネームは“The Big O”。
シーズン平均トリプル・ダブルを達成した史上唯一の選手であり、NBA歴代最高峰の選手のひとりとして語られる。
196cm、100kgというフォワード並みの体格ながら、ガードとしてのスピードや優れた判断力を持ち併せ、全てのプレーを高いレベルでこなす万能選手として活躍するなど、バスケットボールという競技そのものにも大きな影響を与えた。
シンシナティ大学でいくつものNCAA記録と大学記録を塗り替え、大学卒業後に出場したローマ五輪で金メダルを獲得し、大きな注目を集めて地元球団のシンシナティ・ロイヤルズに入団する。
ロバートソンは平均30.5得点、10.1リバウンド、9.7アシストという数字を残して新人王を獲得し、さらにオールスターMVP、アシスト王獲得と、脅威的なパフォーマンスを見せつけて1年目のシーズンを終了する。
2年目には平均30.8得点、12.5リバウンド、11.4アシストを記録して史上唯一となるシーズン平均トリプルダブルを達成し、平均11.4アシストという数字はNBA史上初の二桁の大台突破となった。
低迷を続けていたロイヤルズはロバートソン入団後に強豪チームへと変貌し、ロバートソンも1963-64シーズンにMVPを受賞するなどリーグを代表する選手として活躍を続けた。
しかし、当時のNBAを支配していたボストン・セルティックスの壁を超える事ができず、さらにウィルト・チェンバレンを獲得したフィラデルフィア・76ersが急速に力をつけていくと、ロイヤルズの所属する東地区はセルティックスと76ersの2強時代に突入し、取り残され力を失っていくロイヤルズに対してファンの関心も次第に薄れていくことになった。
ロイヤルズは離れていったファンの興味を取り戻すため、1969年にセルティックスで活躍したボブ・クージーをヘッドコーチに就任させ、シーズン中にはクージーを現役に復帰させるなど苦肉の策を講じた。
しかし、チームの成績回復には結びつかず、さらにクージーとロバートソンの確執が表面化していくと、ロバートソンはシーズン終了後にミルウォーキー・バックスへ放出される。
大学時代からシンシナティで活躍してきたロバートソンのトレードはNBAファンを驚かせたが、バックスへの移籍はカリーム・アブドゥル=ジャバー(当時はルー・アルシンダー)とのビッグ・デュオ誕生を意味し、ポイントガードとセンターにリーグ最高クラスの選手を手に入れたバックスは大きな注目を集める。
32歳を迎えるロバートソンはエースの役割を23歳のジャバーに譲り、個人成績は平均19.4得点、5.7リバウンド、8.2アシストと過去最低となったものの、司令塔として抜群の統率力を見せると、バックスは66勝16敗というリーグ最高の成績を収めた。
プレイオフでは他を圧倒する力を見せつけてファイナルまで勝ち上がり、ボルチモア・ブレッツを4戦全勝で一蹴してチーム初の優勝を果たした。
移籍1年目にして念願のチャンピオンリングを獲得したロバートソンは、慢性的な故障を抱えていた事もあり引退を考慮したが、その後も3シーズンをバックスでプレーし、バックスはロバートソン在籍期間中に全てのシーズンで地区優勝を果たしている。
1973-74シーズンに2度目となるファイナルに進出し、仇敵セルティックスを相手に第7戦までもつれこむ熱戦を演じたが、激闘のすえに敗退が決まると、このシーズンを最後に現役からの引退を決意した。
背番号『14』がロイヤルズ(現サクラメント・キングス)で、背番号『1』がバックスで永久欠番となっている。
現役中は選手会(NBPA)会長としてフリーエージェント制の確立に大きな影響を及ぼすなど、NBA選手の地位向上に大きな貢献を果たした。
youtube:http://youtu.be/cPdQ7EhCYa8
 
2.ジェリー・ウェスト(Jerry West)
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出身校:ウェストバージニア大学
ポジション: PG、SG
所属チーム:LAL(1960~1974)
キャリア平均:27.0PPG、5.8RPG、6.7APG、2.6SPG
個人賞:Finals MVP1回(1968-1969)、All-Star Game MVP1回(1972)
ALL TEAM:All-NBA 1st 10回、All-NBA 2nd 2回、All-Defensive 1st 4回、All-Defensive 2nd 1回
オールスター出場:14回(1961~1974)

類稀な勝負強さから「ミスター・クラッチ」と呼ばれ、NBAのロゴのモデルになるなどリーグを象徴する選手として活躍した。
1960年のローマ五輪でオスカー・ロバートソンらとともに金メダルを獲得し、ドラフトではロバートソンに次いで全体2位でミネアポリス・レイカーズから指名を受ける。
しばらくしてチームの本拠地がロサンゼルスに移転し、ロサンゼルス・レイカーズとして初めてのシーズンにデビューを飾ると、1年目から平均17.6得点、7.7リバウンド、4.2アシストの活躍を見せ、エースのエルジン・ベイラーに次ぐ得点源としてプレイオフ進出に貢献した。
2年目のシーズンはベイラーが兵役のために多くの試合を欠場する事になったが、ウェストはベイラーの穴を埋めるように平均30.8得点と数字を伸ばし、オールNBA1stチームに選出されるなど大きな飛躍を遂げる。
ローポストで自在に得点するベイラーが「ミスター・インサイド」と呼ばれたのに対し、優れたシュート力を披露するウェストは「ミスター・アウトサイド」と呼ばれ、ともに平均30得点を超える2枚看板の活躍でレイカーズはロサンゼルスに移転して初めてのファイナルに進出する。
ファイナルではボストン・セルティックスの4連覇を見届けることになったが、セルティックスを最終戦まで追い詰めるなど、戦力に大きな差はないように思われた。
レイカーズとセルティックスはファイナルの舞台で何度も顔を合わせるライバルとなったが、ウェストにとっては苦悩のシーズンが続く事になる。
レイカーズは1962年から1968年までの7シーズンで5度もファイナルに進出したが、その全てでセルティックスの前に敗退した。
ウェストはファイナルという大舞台でも勝負強さを見せ、何度もセルティックスをシリーズ敗退寸前まで追い詰めたが、最後に勝利を手にしたのは常にセルティックスだった。
1968年、レイカーズはリーグ最強のセンターであるウィルト・チェンバレンを獲得するという大胆な補強を行い、打倒セルティックスに向けて執念を見せる。
ウェスト、ベイラー、チェンバレンというNBA史上にその名を残す名選手が揃ったレイカーズは、プレイオフを勝ち進み順当にファイナルへと進出し、ホームコート・アドバンテージをもって宿敵セルティックスを迎える。
シリーズはまたしても最終戦までもつれこみ、第7戦では前の試合で負傷したウェストが満身創痍のなかで42得点、13リバウンド、12アシストのトリプルダブルを記録する活躍を見せたが、最後は2点差でセルティックスが11度目となる優勝を決めた。
このシーズンから新設されたファイナルMVPには王者を最後まで追い詰めたウェストが選ばれ、初代受賞者になるとともに敗戦チームから選ばれた唯一の選手となった。
ファイナルMVP受賞は慰めにはならず、セルティックスのビル・ラッセルは敗北に打ちひしがれ酷く取り乱すウェストの側に寄り添い、手をとって健闘を讃えた。
ラッセルはこのシーズンを最後に引退し、セルティックスの王朝崩壊とともにリーグは群雄割拠の70年代へと突入する。
1969-70シーズンから通算で決められていたスタッツリーダーは平均で決められるようになり、平均31.2得点を記録したウェストが初めて得点王に輝く。
プレイオフでは7度目となるファイナルに進出し、セルティックスに代わって東地区の覇者となったニューヨーク・ニックスと対戦したが、またしても優勝を目前にしながらの敗退を喫した。
既に30歳を過ぎるベテランとなり、故障も目立ち始めていたウェストはこの頃から引退も考慮するようになったが、1971-72シーズン序盤にウェストとともに長くチームを支えてきたベイラーが引退を表明すると、レイカーズは強固に結束し、ベイラーの引退発表の翌日からNBA史上、また北米4大プロスポーツ史上最長となる33連勝を記録する。
ウェストは平均25.8得点、4.2リバウンド、9.7アシストを記録して初めてアシスト王に輝き、レイカーズは当時のNBA記録となる69勝13敗という好成績を収めてプレイオフを迎えた。
圧倒的な力を見せてファイナルへと勝ち進むと、ニューヨーク・ニックスを4勝1敗で退けて雪辱を果たし、レイカーズにとってミネアポリス時代以来となる18年ぶりの優勝を果たした。
悲願のチャンピオンリングを獲得したウェストはその後2シーズンを過ごし、故障により31試合の出場にとどまった1973-74シーズンが終了すると現役から引退した。
ウェストは14年の現役生活をおくり、全てのシーズンでオールスターに選出され、オールNBA1stチームには10度選出された。
キャリア晩年にはオールディフェンシブ1stチームの常連となり、現役最終年に計測が開始されたスティールでは35歳ながら平均2.6スティールを記録している。
背番号『44』はレイカーズの永久欠番となり、通算得点はコービー・ブライアントに次ぐチーム歴代2位の記録となっている。
引退後はゼネラル・マネージャーとして活躍し、レイカーズとメンフィス・グリズリーズでExecutive of the Yearを2度受賞するなど手腕を発揮した。
ウェストは現役時代から決して自分のプレーに満足する事なく、その姿から周囲からは長く完璧主義者として考えられていたが、近年になって鬱病に苦しんでいた事を告白し、幼少時に虐待された経験により失敗する事や周囲の期待に応えられない事に対して極度の恐れを抱いていたと語っている。
youtube:http://youtu.be/OEzwR1a8KuA
 
3.ダレル・インホフ(Darrall Imhoff)
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出身校:カリフォルニア大学
ポジション: C
所属チーム:NYK(1960~1962)→DET(1962~1964)→LAL(1964~1968)→PHI(1968~1970)→CIN(1970~1971)→POR(1971~1972)
キャリア平均:7.2PPG、7.6RPG、1.8APG
オールスター出場:1回(1967)

1960年のローマ五輪ではアメリカ代表として金メダルを獲得し、ドラフト3位という高順位でニューヨーク・ニックスに入団したが、インホフのスピードや技術ではNBAのレベルでは通用しないとも囁かれた。
デビューから長くバックアップを務める事になったが、インホフはプレーの改善に努め、1964年にロサンゼルス・レイカーズへの移籍を機に出場時間を増加させていく。
1966-67シーズンは初めて先発としてプレーし、初の2桁となる平均10.7得点を記録したほか、チームトップとなる13.3リバウンドを記録し、オールスターに選出される活躍を見せた。
1968年にウィルト・チェンバレンを獲得するためにフィラデルフィア・76ersにトレードされたが、移籍2年目の1969-70シーズンに10年目にしてキャリアハイの平均13.6得点を記録し、またリーグ2位のFG成功率54.0%という数字も残した。
このシーズンの終了後にトレードされると、その後2シーズンをプレーして1972年に現役を引退した。
 
5.リー・シェーファー(Lee Shaffer)
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出身校:ノースカロライナ大学
ポジション: SF
所属チーム:SYR-PHI(1961~1964)
キャリア平均:16.8PPG、6.3RPG、1.2APG
オールスター出場:1回(1963)

ドラフトではシラキュース・ナショナルズから指名を受けたが、マイナーリーグのNIBLで1シーズンを過ごし、1961年にNBAデビューを果たす。
1年目は平均28分程度の出場ながら、エースのハル・グリアに次ぐ平均16.9得点を記録した。
翌シーズンには平均18.6得点の活躍でオールスターに選出され、主力の高齢化が進むチームの中で新たにチームを牽引していく選手として期待された。
しかし、本拠地を移転してチームがフィラデルフィア・76ersとなったシーズン、3年目を迎えるシェーファーは足の故障によりシーズンの半分を欠場する。
続く1964-65シーズン、ビジネス界に進出したシェーファーは76ersに戻る事を拒否して電撃的に引退し、わずか3シーズンという短さで現役生活に幕を下ろした。
1965年、ウィルト・チェンバレンを獲得するためのトレードで、引退状態にあったシェーファーもサンフランシスコ・ウォリアーズに放出される。
ウォリアーズのオーナーはシェーファーに対して破格の条件を提示したが、シェーファーの決意は固く、その後NBAに復帰する事はなかった。
 
6.レ二ー・ウィルケンズ(Lenny Wilkens)
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出身校:プロビデンス大学
ポジション: PG
所属チーム:STL(1960~1968)→SEA(1968~1972)→CLE(1972~1974)→POR(1974~1975)
キャリア平均:16.5PPG、4.7RPG、6.7APG、1.3SPG
個人賞:All-Star Game MVP1回(1971)
オールスター出場:9回(1963~1965、1967~1971、1973)

プレイヤーとコーチの2部門でバスケットボール殿堂入りを果した数少ない人物として知られている。
強豪セントルイス・ホークスに入団し、控えとして起用されながら経験を積んでいくと、3年目の1962-63シーズンからは司令塔としてチームを牽引する事になった。
185cmと小柄な身長ながら、卓越したゲームメイクを見せるリーグ屈指の司令塔として活躍し、平均20.0得点、5.3リバウンド、8.3アシストを記録した1967-68シーズンにホークスを56勝26敗の好成績に導き、シーズンMVPの投票ではウィルト・チェンバレンに次ぐ2位の得票を集めた。
このシーズン終了後、デビューから8シーズンを過ごしたホークスを去り、シアトル・スーパーソニックスに移籍する。
ソニックスでは移籍1年目にキャリアハイとなる平均22.4得点を記録し、翌シーズンには平均9.1アシストで初のアシスト王に輝いたほか、このシーズンから3シーズンにわたり選手兼ヘッドコーチを務めた。
1972年にクリーブランド・キャバリアーズに移籍し、35歳にして平均20.5得点、8.4アシストを記録している。
1974-75シーズンはポートランド・トレイルブレイザーズで再び選手兼ヘッドコーチとして過ごし、シーズン終了後、ヘッドコーチに専念するために現役を引退した。
ヘッドコーチとして1979年にソニックスを優勝に導き、1995-96シーズンに史上初の1,000勝を達成している。
背番号『19』はソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)で永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/UNED1j2Is58
 
8.サッチ・サンダース(Satch Sanders)
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出身校:ニューヨーク大学
ポジション: SF、PF
所属チーム:BOS(1960~1973)
キャリア平均:9.6PPG、6.3RPG、1.1APG
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 1回

本名はトーマス・アーネスト・サンダース。
連覇記録をスタートさせていたボストン・セルティックスに入団し、1年目から優勝を経験する。
2年目からはディフェンス能力を買われてローテーション入りし、平均11.2得点、9.5リバウンドを記録した。
198cm、95kgと決して恵まれた体格ではなかったが、自分よりも大きな相手に好ディフェンスを見せ、毎年のようにファイナルで激闘を繰り広げたロサンゼルス・レイカーズとの試合では、レイカーズのエースであるエルジン・ベイラーを持ち前のディフェンス力で苦しめ、セルティックスの連覇に大きな役割を果たした。
現役時代に8個のチャンピオンリングを獲得し、1973年に現役を引退した。
背番号『16』はセルティックスの永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/DrR_z_oj-DE
 
39.アル・アットルス(Al Attles)
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出身校:ノースカロライナA&T州立大学
ポジション: PG
所属チーム:PHW-SFW(1960~1971)
キャリア平均:8.9PPG、3.5RPG、3.5APG

ドラフト39位という下位指名でフィラデルフィア・ウォリアーズに入団し、ポール・アリジンウィルト・チェンバレンネイト・サーモンドリック・バリーと次々主力選手が変わる中、11シーズンにわたりウォリアーズ一筋でプレーを続けた。
2年目に平均11.3得点、4.7リバウンド、4.4アシストを記録し、本拠地をサンフランシスコに移転した翌シーズンからもチームの主力として活躍を続ける。
アットルスは現役時代に2度ファイナルを経験したが、2度とも優勝には届かなかった。
1969-70シーズン、序盤から不調が続いていたウォリアーズはシーズン中にヘッドコーチを解任し、アットルスは選手兼コーチとしてチームを牽引する事になった。
アットルスの選手としての成績は一気に下降したが、コーチとして翌1970-71シーズンにチーム成績を5割に復帰させると、シーズン終了後にコーチに専念するため現役を引退した。
ウォリアーズで14シーズンにわたりコーチを務め、1975年に優勝を果たしている。
背番号『16』はウォリアーズの永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/aD-KAm-90z8
 

この記事を書いた人
TANA

バスケ初心者でありながらバスケサークルを立ち上げる。
2025年までの代表。
初心者ならではの視点でバスケを見つめ、「もっと楽な道」がないかを常に探求し続ける。

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