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新人王:ウィルト・チェンバレン(Wilt Chamberlain)
主なプレイヤー
※territorial pick:1巡目指名を放棄する代わりに地元選手を獲得出来る制度
territorial pick.ウィルト・チェンバレン(Wilt Chamberlain)

出身校:カンザス大学
ポジション: C
所属チーム:PHW-SFW(1959~1965)→PHI(1965~1968)→LAL(1968~1973)
キャリア平均:30.1PPG、22.9RPG、4.4APG、.540FG%
個人賞:Rookie of the Year、MVP4回(1959-60、1965-66、1966-67、1967-68)、Finals MVP1回(1971-72)、All-Star Game MVP1回(1960)
ALL TEAM:All-NBA 1st 7回、All-NBA 2nd 3回、All-Defensive 1st 2回
オールスター出場:13回(1960~1969、1971~1973)
身長216cmの身長に、陸上選手としても活躍した規格外の身体能力を持ち、史上類を見ない得点力とリバウンド力で今後も破られないであろう数多くのNBA記録を樹立した。
高校時代から「Wilt the Stilt(竹馬)」と呼ばれ、激しい勧誘合戦の末にカンザス大学へ進学したが、活躍の一方で次第にカレッジバスケに対して情熱を失い、大学を中退してハーレム・グローブ・トロッターズと契約した。
その後、大学を卒業する年齢になるのを待ってドラフトにエントリーし、フィラデルフィア・ウォリアーズに入団する。
ウォリアーズはフィラデルフィア出身である事を理由に地域ドラフト制度を利用して強行指名し、これがリーグに認められたため、チェンバレンは出身大学ではなく出身地で指名された史上唯一の地域ドラフト指名選手となった。
43得点、28リバウンドという衝撃的なデビューを飾ると、シーズンを通して周囲を圧倒するプレーを見せ、これまでの最高記録を大幅に更新する平均37.6得点という数字を記録して得点王となったほか、リバウンド王、オールスターMVP、新人王を獲得し、さらに史上初めて新人にしてシーズンMVPを受賞した。
シーズン前に結んだ歴代最高額の契約は、決して過剰な評価ではなかった事を証明してみせたが、その一方で、大学時代から続く執拗なダブルチームやトリプルチーム、そして体格や風貌を好奇の目で見られる事に対して大きな苦痛を感じ、「誰もゴリアテを愛さない」という言葉を残して早くも引退を考え始めていた。
周囲の説得を受けて現役続行を決意すると、2年目にはFG成功率50.9%という史上初の50%超えとなる数字を記録し、そして現在に至るまで破られていない平均27.2リバウンド、1試合55リバウンドを記録するなど突出した能力を発揮する。
際立つ個人成績に注目が集まると、チームのオーナーはコーチ陣に対してチェンバレンにボールを集中させることを要求し、迎えた1961-62シーズンにはこれまでの常識を覆すような数字が次々と記録された。
1試合100得点、シーズン平均50.4得点という大記録はこのシーズンに生まれ、また、このシーズンはテクニカルファウルで退場した1試合を除き、79試合(当時は全80試合)でフル出場を果たし、延長戦での出場も含む平均出場時間48.5分という歴代最高の数字も残した。
チェンバレンの支配力はルール変更にも影響を及ぼし、リーグは1964年に2度目の制限区域拡大を実施している。
また、フリースローを苦手としていたチェンバレンはシュートをボードに当ててリバウンドを直接ダンクしていたため、リングに当たらない場合はバイオレーションになる事が定められた。
しかし、いくら常軌を逸した個人成績を残しても、プレイオフではリーグを支配し続けるボストン・セルティックスの壁を超える事ができず、ビル・ラッセルとのライバル関係は注目を集めたものの、チームプレイヤーとして称賛されるラッセルに対し、個人タイトルを独占しながらチームを優勝に導く事のできないチェンバレンには疑問の目も向けられた。
ウォリアーズは1962年に本拠地をサンフランシスコへ移転し、移転直後は主力選手の離脱により一時的に低迷したものの、1964年には名将アレックス・ハナムのもとファイナル進出も果たす。
しかし、財政難に陥ったチーム状況により、高給取りのチェンバレンは放出を余儀なくされ、1964-65シーズン途中にフィラデルフィア・76ersへとトレードされた。
チェンバレンを獲得した76ersはプレイオフでセルティックスと激突し、最終戦までもつれた激戦のすえに王者を敗退寸前まで追い詰めたが、試合終了直前にセルティックスのジョン・ハブリチェックに痛恨のスティールを決められ、1点差という最小失点差で敗北を喫した。
この敗北によりついに敗者扱いされるようになったチェンバレンは、取材に対してコーチやチームメイトを批判するコメントを残し、周囲の反感を強め孤立を深めていく。
この状況の中、76ersはウォリアーズでチェンバレンと共に実績を残したアレックス・ハナムをヘッドコーチに招聘する。
ハナムはチェンバレンに対してチームプレーに徹する事を要求し、ウォリアーズ時代から決して良好な関係ではなかった2人は激しく衝突したが、チェンバレンのプレースタイルは変化を見せ、また進んでチームメイトとの距離を縮めようと行動するなど、コート外の振る舞いにも変化が現れた。
ハナム就任1年目の1966-67シーズン、チェンバレンは平均24.1得点、24.2リバウンドを記録し、デビューから8年連続で独占していた得点王を初めて逃したが、FG成功率は68.3%という驚異的な数字を記録し、またセンターとしては異例の7.8アシストという数字も残した。
生まれ変わった76ersは当時のNBA歴代最高となる68勝13敗という好成績を残し、プレイオフでは宿敵セルティックスの連覇記録に終止符を打つ歴史的な勝利を収める。
ファイナルでは古巣サンフランシスコ・ウォリアーズとの対戦となり、4勝2敗でシリーズを制して悲願の優勝を果たした。
翌1967-68シーズンには平均24.3得点、23.8リバウンド、8.6アシストを記録して7度目のリバウンド王になり、さらにセンターとしては初めてのアシスト王にも輝く。(当時のスタッツリーダーは平均ではなく通算で決められていた)
シーズン中の試合では22得点、25リバウンド、21アシストを記録して史上唯一となるダブル・トリプルダブルを達成し、2年連続4度目のMVPを受賞するなど、チェンバレンを中心に76ersの時代が到来したかに思われた。
しかし、故障者が続出したプレイオフでは、王座奪還に燃えるセルティックスの前に敗退し、シーズン終了後にトレードを要求してロサンゼルス・レイカーズへと移籍した。
レイカーズはチェンバレン、エルジン・ベイラー、ジェリー・ウェストというNBA史に残る名選手が揃う事になったが、大きな注目を集めた一方でチェンバレンの加入はレイカーズ内に大きな波紋を呼んだ。
ヘッドコーチやチームメイトとの関係を悪化させてしまったチェンバレンはチームに劇的な変化をもたらす事ができず、レイカーズはこれまで同様ファイナルには辿りつくものの、悲願の優勝は果たせないシーズンが続いた。
レイカーズはチームに新たな変革をもたらすため、1971年に宿敵セルティックスで活躍したビル・シャーマンをヘッドコーチに迎える。
シャーマンはかつてのチームメイト、ビル・ラッセルがそうしてきたように、チェンバレンに対してローポストでの強固なディフェンダーになる事を提案する。
1971-72シーズンの序盤、これまでレイカーズを支えてきたベイラーが引退を表明すると、チームは強力に結束し、NBA史上、そして北米プロスポーツ史上最長となる33連勝を記録するなど怒涛の勢いで勝ち続け、69勝13敗というNBA記録を樹立した。
チェンバレンは過去最低となる平均14.8得点の数字に終わったものの、初めてオールディフェンシブ1stチームに選出され、シャーマンの要求に見事に応えて見せた。
レイカーズはプレイオフを勝ち進んでファイナルへと進出し、2年前に敗北したニューヨーク・ニックスを4勝1敗で退けて雪辱を果たすと、ミネアポリス時代以来となる18年ぶりの優勝を果たした。
チェンバレンは右手骨折という重傷を負いながら強行出場し、優勝が決まった第5戦で痛みに耐えながら24得点をあげて優勝の立役者となり、ファイナルMVPの栄冠に輝いた。
1972-73シーズンには歴代最高となるFG成功率72.7%という数字を残すなど相変わらず存在感を発揮していたが、翌シーズンはABAのチームでコーチを1年務め、シーズン終了後にバスケットボールの世界から引退する事を決意した。
背番号『13』はウォリアーズ、76ers、レイカーズで永久欠番となっている。
1999年、睡眠中に心臓発作に襲われ、63歳で死去した。
youtube:http://youtu.be/rCWrGWuU2Ak
1.ボブ・ブーザー(Bob Boozer)

出身校:カンザス州立大学
ポジション: PF、SF
所属チーム:CIN(1960~1963)→NYK(1963~1965)→LAL(1965~1966)→CHI(1966~1969)→SEA(1969~1970)→MIL(1970~1971)
オールスター出場:1回(1968)
1959年にシンシナティ・ロイヤルズからドラフト指名を受けたが、1960年のローマ五輪に出場するためにプロ入りを延期し、オスカー・ロバートソンらとともに金メダルを獲得した。
ロバートソンも1960年のドラフトでロイヤルズから指名を受け、ブーザーとロバートソンは同時にロイヤルズに入団する。
ロバートソンの華やかな活躍の陰に隠れるようにして1年目のシーズンを過ごしたが、2年目には先発に定着して平均13.7得点、10.2リバウンドを記録し、シーズン・ダブルダブルの数字を残した。
その後もチームのインサイドの要として活躍したが、1963年にローマ五輪でともにプレーしたジェリー・ルーカスが入団すると、ポジションの重なるブーザーはトレードでニューヨーク・ニックスへ放出された。
その後は移籍を繰り返すシーズンが続いたが、1966年にエクスパンション・ドラフトで新設チームのシカゴ・ブルズに移籍すると、移籍2年目の1967-68シーズンに平均21.5得点、9.8リバウンドを記録し、デビュー8年目にして初めてオールスターに選出された。
翌シーズンはキャリアハイとなる平均21.7得点を記録したが、チームは創設3年目にして初めてプレイオフ進出を逃し、シーズン終了後に再びトレードで放出された。
現役最終年となった1970-71シーズンはミルウォーキー・バックスでプレーし、再びチームメイトとなったオスカー・ロバートソンとともに優勝を果たすと、初のチャンピオンリングを獲得して引退するという有終の美をもって現役生活を締めくくった。
2012年に脳動脈瘤により75歳で死去した。
2.ベイリー・ハウエル(Bailey Howell)

出身校:ミシシッピ州立大学
ポジション: PF、SF
所属チーム:DET(1959~1964)→BAL(1964~1966)→BOS(1966~1970)→PHI(1970~1971)
キャリア平均:18.7PPG、9.9RPG、2.0APG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:6回(1961~1964、1966~1967)
デトロイト・ピストンズでは1年目から平均17.8得点、10.5リバウンドを記録する活躍を見せ、2年目に平均23.6得点、14.4リバウンドとさらに数字をアップさせると、以降、リーグを代表するフォワードとしてオールスターの常連選手となった。
身長201cmのハウエルは、センターのようにリバウンドを奪取し、ガードのようにアウトサイドから得点を重ねる万能選手として活躍した。
1964年にボルチモア・ブレッツに移籍し、ウォルト・ベラミーやガス・ジョンソンらリーグ屈指の選手と共に活躍を見せたが、ブレッツは豪華な陣容に見合う成績を残す事ができず、2シーズンを過ごした後、1966年にボストン・セルティックスへトレードされた。
セルティックスはハウエルが移籍したシーズンに連覇記録が途絶えてしまったが、得点、リバウンドでチーム2位となる活躍を見せ、続く1968年からの2連覇に大きく貢献した。
1969年にビル・ラッセルが引退すると、セルティックスは大きな転換期を迎え、33歳を迎え数字を下降させていたハウエルは翌1970年にチームを去る事になった。
翌1970-71シーズンをフィラデルフィア・76ersで過ごし、シーズン終了後に現役を引退した。
4.ディック・バーネット(Dick Barnett)

出身校:テネシー州立大学
ポジション: SG
所属チーム:SYR(1959~1961)、LAL(1962~1965)→NYK(1965~1974)
キャリア平均:15.8PPG、2.9RPG、2.8APG
オールスター出場:1回(1968)
フェイダウェイショットのパイオニア的存在として知られ、バーネットがこのショットを「Fall back, baby」と呼んでいた事からこの呼び名はそのまま本人の愛称となった。
シラキュース・ナショナルズ(現フィラデルフィア・76ers)に入団し、1年目からチームの貴重な得点源として活躍したが、2年目のシーズン終了後に創設されたばかりの新リーグABLへと移籍した。
ABLで1シーズンをプレーした後にNBAに戻り、ロサンゼルス・レイカーズではエルジン・ベイラー、ジェリー・ウェストに次ぐ得点源として平均18得点前後を記録する。
レイカーズで3シーズン過ごした後、1965年にトレードでニューヨーク・ニックスへ移籍すると、エースとして平均23.1得点を記録する活躍を見せ、低迷を続けていたチームを8シーズンぶりのプレイオフ進出に導いた。
チームの主役は翌シーズンに入団したウィリス・リードに譲られる事になったが、着実に成績を伸ばしていくチームの中で、バーネットは主力のひとりとして躍進を支えた。
1969-70シーズン、ニックスはフランチャイズ記録となる60勝22敗という好成績を残してプレイオフに突入する。
チーム最年長のバーネットは、プレイオフに入るとシーズン中に記録した平均14.9得点を上回る活躍を見せ、古巣レイカーズとの対戦となったファイナルでは平均18.6得点、4.3アシストを記録し、チーム初、自身初の優勝に大きな役割を果たした。
1972-73シーズン、バーネットは36歳となり、前シーズンにニックスに加入したアール・モンローが先発に定着した事もあって数字を大きく下降させたが、プレイオフでは再びレイカーズとのファイナルを制して2つ目となるチャンピオン・リングを獲得した。
翌シーズンに5試合のみに出場し、このシーズンを最後に現役を引退した。
バーネットの背番号『12』がニックスの永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/g5cTBV22mJE
5.ジョニー・グリーン(Johnny Green)

出身校:ミシガン州立大学
ポジション: PF
所属チーム:NYK(1959~1965)→BAL(1965~1967)→SDR(1967~1968)→PHI(1968~1969)→CIN-KCO(1969~1973)
キャリア平均:11.6PPG、8.6RPG、1.4APG
オールスター出場:4回(1962~1963、1965、1971)
高校を卒業して建設会社に勤務した後、朝鮮半島での紛争のために軍に参加する。
そして、軍のバスケットボールチームでのプレーがミシガン州立大学関係者の目にとまり、推薦を受けてミシガン州立大学へ入学する事になった。
グリーンは「Jumpin’ Johnny」と呼ばれ、高い身体能力を武器にブロックやリバウンドで活躍すると、26歳を迎えた1959年にNBAドラフトにエントリーする。
ニューヨーク・ニックスに入団したグリーンは2年目に平均10.2得点、10.7リバウンドのダブルダブルを記録し、以降4シーズン連続でシーズン・ダブルダブルを達成した。
4年目には平均18.1得点、12.1リバウンドを記録し、前シーズンに続いて2度目のオールスターにも選出されている。
しかし、当時のニックスは低迷期にあり、プレイオフ進出も叶わないまま1965年にチームを去ることになった。
その後は移籍を繰り返すシーズンが続き、役割の変化や年齢を重ねていく中で数字も急激に下降させていった。
1969-70シーズン、すでに36歳となっていたグリーンは、このシーズンからシンシナティ・ロイヤルズに加入する。
前シーズンに平均4.7得点とキャリア最低の成績に終わり、引退も間近だと思われていたグリーンだったが、ロイヤルズでは主力として長時間コートに立ち、平均15.6得点、10.8リバウンド、リーグトップとなるFG成功率55.9%を記録した。
翌シーズンにはさらに平均16.7得点と数字を伸ばし、6シーズンぶりにオールスターにも復帰するなど、キャリア晩年になって再び絶頂期を迎えた。
ロイヤルズは1972年に本拠地を移転してカンザスシティ=オマハ・キングスとなり、グリーンはキングスで1シーズンを過ごした後、現役を引退して14シーズンのキャリアに幕を下ろした。
10.ルディ・ラルッソ(Rudy LaRusso)

出身校:ダートマス大学
ポジション: PF、SF
所属チーム:MNL-LAL(1959~1967)→SFW(1967~1969)
キャリア平均:15.6PPG、9.4RPG、2.1APG
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 1回
オールスター出場:4回(1963、1966、1968~1969)
ミネアポリス・レイカーズに入団し、平均13.7得点、9.6リバウンドを記録するなど1年目から主力として活躍する。
シーズン終了後、チームはラルッソの地元でもあるロサンゼルスに本拠地を移転し、ロサンゼルス・レイカーズとして新たなシーズンを迎える。
3年目の1961-62シーズン、エルジン・ベイラーが軍の召集により多くの試合を欠場すると、ベイラーの穴を埋める役割を求められたラルッソは平均17.2得点、10.4リバウンドを記録し、チームのファイナル進出に貢献する活躍を見せた。
ラルッソは相手チームのエースをディフェンスする役割を任され、積極的なディフェンススタイルはコート上で多く乱闘騒動に発展した。
とくにライバル関係にあったボストン・セルティックスを相手に執念を見せ、ボストンのファンからは「Roughhouse Rudy(ばか騒ぎルディ)」と呼ばれた。
ラルッソはデビューから8シーズンをレイカーズで過ごし、この間ファイナルには4度出場したが、セルティックスの前に敗退を続け、優勝は叶わないまま1967年にサンフランシスコ・ウォリアーズに移籍する。
ネイト・サーモンドら若手を中心としたチームの中、ラルッソは平均21.8得点、9.4リバウンドの活躍を見せ、大黒柱としてウォリアーズを牽引した。
しかし、プレイオフ地区決勝で古巣のレイカーズの前に4戦全敗で敗退し、翌シーズンもプレイオフ初戦でレイカーズに敗れ去ると、2シーズン連続で平均20得点を超えるなど選手として全盛期を迎えていたラルッソは突然現役から引退してリーグから去った。
2004年にパーキンソン病で死去した。



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