1956年 NBAドラフト

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新人王:トム・ヘインソーン(Tom Heinsohn)
 
主なプレイヤー
 
territorial pick:1巡目指名を放棄する代わりに地元選手を獲得出来る制度
territorial pick.トム・ヘインソーン(Tom Heinsohn)
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出身校:ザ・ホリー・クロス大学
ポジション: PF、SF
所属チーム:BOS(1956~1965)
キャリア平均:18.6PPG、8.8RPG、2.0APG
個人賞:Rookie of the Year
ALL TEAM:All-NBA 2nd 4回
オールスター出場:6回(1957、1961~1965)

ビル・ラッセルとともにボストン・セルティックスに入団し、俊敏な動きと多彩なシュートを駆使して1年目から平均16.2得点、9.8リバウンドを記録した。
新人王争いはチームメイトのラッセルと一騎打ちになったが、ラッセルがメルボルン五輪出場のために24試合に欠場した事もあって、ヘインソーンが新人王に輝いた。
ラッセルとヘインソーンが加わったセルティックスはプレイオフを勝ち進み、ファイナルでセントルイス・ホークスを破って初優勝を果たす。
1958-59シーズンに2度目の優勝を果たすと、セルティックスはこの優勝を皮切りに前人未到の8連覇を成し遂げる。
この間、ヘインソーンは中心選手として活躍を続け、1959-60シーズンに平均21.7得点、10.6リバウンドを記録すると、以降3年連続で平均20得点以上を記録した。
1964-65シーズンにチームが7連覇を達成し、自身8個目のチャンピオンリングを獲得すると、このシーズンを最後に現役を引退した。
背番号『15』はセルティックスの永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/jLsCtXyNHDc
 
1.シヒューゴ・グリーン(Sihugo Green)

出身校:デュケイン大学
ポジション: PG、SG
所属チーム:ROC-CIN(1956~1957、1958~1959)→STL(1959~1961)→CHP-CHZ-BAL(1961~1965)→BOS(1965~1966)
キャリア平均:9.2PPG、4.3RPG、3.3APG

ロチェスター・ロイヤルズに入団し、1年目から平均11.5得点を記録する活躍を見せたが、兵役に就くためにシーズン終了後にチームを離れた。
1958-59シーズンに復帰し、以前と変わらない活躍を見せたが、シーズン途中にセントルイス・ホークスにトレードされ、バックアッププレイヤーとして4シーズンを過ごす。
1961年に移籍したシカゴ・パッカーズでは先発を任され、1962-63シーズンに平均11.7得点、4.6リバウンド、5.8アシストを記録している。
1965-66シーズンにボストン・セルティックスに移籍し、10試合に出場した後に現役を引退した。
 
2.ビル・ラッセル(Bill Russell)
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出身校:サンフランシスコ大学
ポジション: C
所属チーム:BOS(1956~1969)
キャリア平均:15.1PPG、22.5RPG、4.3APG
個人賞:MVP5回(1957-1958、1960-1961、1961-1962、1962-1963、1964-1965)、All-Star Game MVP1回(1963)
ALL TEAM:All-NBA 1st 3回、All-NBA 2nd 8回、All-Defensive 1st 1回
オールスター出場:12回(1958~1969)

13年のキャリアで11度の優勝を誇り、歴代最高のディフェンダー、ひいては史上最も偉大なバスケットボール選手として語られる。
ドラフト当時、ボストン・セルティックスがラッセルを獲得できる見込みは低かったが、巧妙な取引でセルティックス入団が実現する。
1年目はメルボルン五輪出場のために48試合の出場にとどまったが、14.7得点、19.6リバウンドを記録し、プレイオフではセルティックスをチーム初の優勝に導いた。
ラッセルが入団するまで、セルティックスはリーグトップのオフェンス力を持ちながら、ディフェンスではリーグワーストの実力しかなかった。
ラッセルはセルティックスのディフェンス力を一気に引き上げ、さらに強力なリバウンドとブロックは速攻の起点となり、攻防一体の戦術はセルティックスの大きな武器となった。
セルティックスは1958-59シーズンに2度目となる優勝を果たし、このシーズンの優勝を皮切りに8連覇という偉業がスタートする。
打倒セルティックスを掲げるチームの前に何度も連覇記録が途切れかけたが、ラッセルを中心に1966年まで続く8連覇という大記録を達成した。
セルティックスはこの間、世代交代を進めながら連覇の回数を重ねていったが、ラッセルは変わらず大黒柱としてチームを支えた。
1966-67シーズンからはレッド・アワーバックの後を継いで選手兼ヘッドコーチとなり、アメリカプロスポーツ史上初の黒人ヘッドコーチの誕生となった。
セルティックスは60勝21敗と好調なシーズンを送ったものの、プレイオフではシーズン68勝を記録したフィラデルフィア・76ersの前に敗退し、ついに連覇記録に終止符を打つ事になった。
しかし、シーズン60勝を記録したセルティックスにはまだ十分優勝するために力が備わっており、翌1967-68シーズンに早くも王座を奪還すると、続く1968-69シーズンにも優勝を果たした。
11度目の優勝にボストンのファンは大いに沸いたが、ラッセルはチーム関係者に相談する事なく突然一方的に引退を宣言し、ファンやメディアの前に現れる事なくボストンを去った。
背番号『6』は1972年に永久欠番となったが、ラッセルは式典に姿を現さず、セルティックスとの関係は冷えたものとなっていった。
しかし時が経ち、ラッセルも何度かボストンに訪れるなど両者の関係が和解の方向へと向かうと、1999年に新しく建築された新アリーナーを訪れて満員の観衆の前でコートに立ち、自身の背番号『6』が綴られたバナーが掲げられるのを見届けている。
youtube:http://youtu.be/HtLkvYhXgoE
 
2nd round.K.C.ジョーンズ(K.C. Jones)
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出身校:サンフランシスコ大学
ポジション: PG
所属チーム:BOS(1958~1967)
キャリア平均:7.4PPG、3.5RPG、4.3APG

サンフランシスコ大学ではビル・ラッセルとともにに活躍し、ともにボストン・セルティックスに入団した。
ジョーンズは兵役のために1958年からセルティックスに参加し、ボブ・クージービル・シャーマンのバックアップとしてプレーする。
セルティックスはこのシーズンに2年ぶりの優勝を果たすと、以降、8年の長期にわたる連覇をスタートさせた。
ジョーンズはシャーマンが引退した1961-62シーズンから出場時間が増加し、クージーが引退した1963-64シーズンから本格的に先発としてプレーを始める。
ジョーンズはサム・ジョーンズとともに「ジョーンズ・ボーイズ」と呼ばれるバックコートを形成し、クージー&シャーマンのコンビに代わってセルティックスの連覇を支えた。
ジョーンズの個人成績は1961-62シーズンに記録した平均9.2得点がキャリアハイとなり、成績そのものは目立った数字を残す事はなかったが、相手チームのエースを封じ込めるディフェンス力で大きな役割を果たしている。
デビューから8年連続で優勝するというキャリアを送ったが、9年目にシーズンに連覇記録が途絶え、このシーズンを最後に現役から引退した。
背番号『25』はセルティックスの永久欠番となっている。
 
Other Picks.ウィリー・ナオルス(Willie Naulls)
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出身校:カリフォルニア大学ロサンゼルス校
ポジション: SF、PF
所属チーム:STL(1956)→NYK(1956~1962)→SFW(1962~1963)→BOS(1963~1966)
キャリア平均:15.8PPG、9.1RPG、1.6APG
オールスター出場:4回(1958、1960~1962)

セントルイス・ホークスに入団し、1年目のシーズン序盤にニューヨーク・ニックスへトレードされた。
2年目に平均18.1得点、11.8リバウンドを記録してオールスターに選出されると、1959-60シーズンからは3年連続で平均20得点以上を記録し、1961-62シーズンにはキャリアハイとなる平均25.0得点を記録している。
この期間、ナオルスはアメリカの主要プロスポーツの中で初となる、黒人キャプテンとしてチームを牽引した。
しかし、低迷期を迎えていたニックスはプレイオフ進出もままならず、若手選手が台頭してくると、1962-63シーズンの途中にサンフランシスコ・ウォリアーズへとトレードされた。
さらにシーズン終了後にボストン・セルティックスに移籍すると、バックアップとしてプレーし、全盛期ほどの数字を残す事はなかったが、在籍した3シーズンで全て優勝を経験している。
 

この記事を書いた人
TANA

バスケ初心者でありながらバスケサークルを立ち上げる。
2025年までの代表。
初心者ならではの視点でバスケを見つめ、「もっと楽な道」がないかを常に探求し続ける。

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