1963年 NBAドラフト

NBAネタ
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新人王:ジェリー・ルーカス(Jerry Lucas)
All Rookie Team
1st:ジェリー・ルーカス、ネイト・サーモンド、ガス・ジョンソン、ロッド・ソーン、アート・ヘイマン
 
主なプレイヤー
 
territorial pick:1巡目指名を放棄する代わりに地元選手を獲得出来る制度
※赤字はABA時代のもの・キャリア平均はNBA・ABAの通算平均
territorial pick.トム・サッカー(Tom Thacker)
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出身校:シンシナティ大学
ポジション: PG、SG
所属チーム:CIN(1963~1966)、BOS(1967~1968)→ABA(1968~1971)
キャリア平均:3.2PPG、2.6RPG、1.5APG

NCAA優勝、NBA優勝、ABA優勝を経験した史上唯一の選手として知られている。
シンシナティ大学をNCAAトーナメント優勝に導き、地域ドラフト制度によって地元のシンシナティ・ロイヤルズに入団する。
しかしロイヤルズでの3年間の成績は平均2.9得点にとどまり、1966年にエクスパンション・ドラフトで新設されたばかりのシカゴ・ブルズへの移籍が決定すると、プレーすることなく引退した。
翌1967年に現役に復帰し、ボストン・セルティックスでチャンピオンリングを獲得する。
シーズン終了後にABAに所属するインディアナ・ペイサーズと契約し、1970年にABAで初の優勝を経験している。
 
1.アート・ヘイマン(Art Heyman)
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出身校:デューク大学
ポジション: SG、SF
所属チーム:NYK(1963~1965)→CIN(1965)→PHI(1965~1966)、ABA(1967~1970)
キャリア平均:13.0PPG、4.7RPG、2.8APG

デューク大学で活躍し、同校の地位を高めた人物として知られている。
1961年に行われたノースカロライナ大学との一戦で、ノースカロライナ大学のラリー・ブラウンに犯したハードファウルから前代未聞の大乱闘に発展し、これをきっかけに全米大学バスケットボールで最も有名なライバル関係が生まれることになった。
ドラフトでは1位指名でニューヨーク・ニックスに入団し、平均15.4得点を記録してオールルーキー1stチームに選出されたが、安定感を欠いた2年目に数字を大きく下降させ、シーズン終了後にトレードされる事になった。
翌シーズンは2チームで17試合に出場し、このシーズンを最後にNBAを去っている。
1967年にABAのチームと契約し、3シーズンをプレーしている。
2012年に71歳で死去した。
youtube:http://youtu.be/I0RroAH4vwU
 
2.ロッド・ソーン(Rod Thorn)
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出身校:ウェストバージニア大学
ポジション: SG、PG
所属チーム:BAL(1963~1964)→DET(1964~1965)→STL(1965~1967)→SEA(1967~1971)
キャリア平均:10.8PPG、3.1RPG、2.6APG

ボルチモア・ブレッツに入団し、1年目に平均14.4得点、4.8リバウンド、3.7アシストを記録してオールルーキー1stチームに選出された。
8年のキャリアで4チームに在籍し、1967-68シーズンにシアトル・スーパーソニックスで記録した平均15.2得点がキャリアハイとなっている。
引退後はコーチやフロント職、NBA副会長などを務め、1984年のNBAドラフトではシカゴ・ブルズのGMとしてマイケル・ジョーダンを指名している。
 
3.ネイト・サーモンド(Nate Thurmond)
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出身校:ボーリング・グリーン州立大学
ポジション: C、PF
所属チーム:SFW-GSW(1963~1974)→CHI(1974~1975)→CLE(1975~1977)
キャリア平均:15.0PPG、15.0RPG、2.7APG、2.1BPG
ALL TEAM:All-Defensive 1st 2回、All-Defensive 2nd 3回
オールスター出場:7回(1965~1968、1970、1973~1974)

211cmの大型センターとしてゴールデンステイト・ウォリアーズを中心に活躍し、特にディフェンス面で高い能力を発揮した。
サンフランシスコ・ウォリアーズでの1年目はウィルト・チェンバレンの控えとしてプレーし、平均7.0得点、10.4リバウンドを記録する。
翌シーズン途中にチェンバレンがチームを去ると、ウォリアーズは成績を低迷させたものの、先発に昇格したサーモンドは平均16.5得点、18.1リバウンドと飛躍を遂げ、オールスターにも選出された。
リック・バリーが入団してからはチーム成績も上向き、1966-67シーズンにMVP投票でチェンバレンに次ぐ2位の得票を集める活躍を見せると、サーモンドとバリーに率いられたウォリアーズはプレイオフを勝ち進んでファイナルへと進出する。
ファイナルでは6試合で平均14.2得点、26.7リバウンドという活躍を見せたが、チェンバレン擁するフィラデルフィア・76ersの前に惜敗した。
シーズン終了後にバリーがABAのチームと契約してチームを去ると、サーモンドは攻守両面でさらなる活躍を見せ、迎えた1967-68シーズンに平均20.5得点、22.0リバウンド、4.2アシストという数字を残し、現在に至るまで4人しか成し遂げていない平均20得点、20リバウンド以上を達成した。(サーモンドのほかは、ボブ・ペティット、ウィルト・チェンバレン、ジェリー・ルーカス
ウォリアーズは1971年に本拠地をオークランドに移転し、新たにゴールデンステイト・ウォリアーズとして生まれ変わったが、1967-68シーズンから5シーズン連続で平均20得点以上を記録するなど、サーモンドは変わらず大黒柱としてチームを牽引した。
しかし、ウォリアーズを再びファイナルの舞台へと導く事はできず、数字の下降が目立ち始めてくると、1974年にシカゴ・ブルズへトレードされ、デビューから11シーズンを過ごしたウォリアーズを去る事になった。
ブルズでのデビュー戦でいきなり22得点、14リバウンド、13アシスト、12ブロックショットというクアドルプル・ダブルを達成したサーモンドだったが、すでに33歳となり、1年目以来となる平均1桁得点に終わる。
それでも同年代のベテラン選手が多く揃うブルズの中でチーム最長の出場時間を記録し、リバウンドとブロックでチームトップとなったほか、ベテランのビッグマンでありながらチーム2位の平均4.1アシストを記録するなど存在感を発揮した。
1975年からは故郷アクロンに近いクリーブランドに本拠地を置くキャバリアーズでプレーし、2シーズンを過ごした後、1977年に現役を引退した。
背番号『42』はウォリアーズとキャバリアーズで永久欠番となり、ウォリアーズでの通算リバウンド数はチーム歴代1位の記録となっている。
2016年、白血病との闘病の末、74歳で死去した。
youtube:http://youtu.be/FyPYVp9f4Ag
 
4.エディ・マイルズ(Eddie Miles)
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出身校:シアトル大学
ポジション: SG、PG
所属チーム:DET(1963~1970)→BAL(1970~1971)→NYK(1971~1972)
キャリア平均:13.4PPG、3.1RPG、2.0APG
オールスター出場:1回(1966)

「黄金の腕を持つ男」の異名を持ち、シアトル大のスター選手として活躍した。
デトロイト・ピストンズ入団当初は出場機会に恵まれなかったが、2年目を迎えるとチームの中心選手として活躍を始める。
3年目にチームトップとなる平均19.6得点を記録してオールスターに出場を果たすと、以降も得点源として活躍し、デビューから7シーズンをピストンズでプレーした。
ニューヨーク・ニックス在籍時の1971-72シーズンにアキレス腱を損傷する重傷を負い、シーズン終了後に解雇されると、そのまま現役を引退した。

 
10.ガス・ジョンソン(Gus Johnson)
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出身校:アイダホ大学
ポジション: PF、SF
所属チーム:BAL(1963~1972)→PHO(1972)→ABA(1972~1973)
キャリア平均:16.2PPG、12.1RPG、2.5APG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 4回、All-Defensive 1st 2回
オールスター出場:5回(1965、1968~1971)

インサイドプレイヤーとしては当時としても小柄な198cmという身長だったが、屈強な肉体と驚異的な身体能力を武器に「パワーフォワードの原型」と語られるほどの活躍を見せた。
ジョンソンが見せたアクロバティックなプレーはその後の多くの選手に影響を与え、バックボードを破壊するほどの迫力あるダンクを見せるなどダンクアーティストの先駆け的存在としても知られている。
高校時代、後に殿堂入りする事になるネイト・サーモンドとともにプレーし、サーモンドに「自分よりも上」と認識させるほどの活躍を見せたが、ビリヤードで生計を立てようとするなどバスケでの大学進学にはそれほど熱心ではなかった。
その後、アマチュア・アスレチック・ユニオン(アメリカ合衆国最大の非営利のボランティアスポーツ組織)で働き始めたが、才能が埋もれていくの見かねた知人の紹介により、24歳でアイダホ大学へ進学する。
大学では誰もジョンソンを止める事ができず、スクープショットやウィンドミルダンクなど未知のプレーを連発すると、会場には収まりきらないほどの観客が訪れるようになり、ジョンソンは「Honeycomb(蜂の巣)」の名で呼ばれた。
大学での1年目の学年終了後、NBAドラフトにエントリーし、2巡目全体10位でボルチモア・ブレッツに入団する。
さっそく平均17.3得点、13.6リバウンドを記録してオールルーキー1stチームに選出されると、2年目にはオールスターに選出されたほか、オールNBA2ndチーム入りも果たし、ブレッツをチーム初のプレイオフにも導いた。
ブレッツは徐々に成績を下降させていったが、60年代後半にアール・モンローウェス・アンセルドの入団後に再び息を吹き返し、若手が中心となるチームの中、ジョンソンは身体能力に任せた派手なプレースタイルから、勝利に貢献する多方面で活躍できる選手へと変貌していった。
1970-71シーズンに平均18.2得点、17.1リバウンドを記録し、前年に続いて2年連続でオールディフェンシブ1stチーム入りを果たしたが、故障を抱えて強行出場したプレイオフで症状を悪化させ、以降、成績を大きく低下させていく。
1972年にブレッツを放出されると、移籍先のフェニックス・サンズで21試合に出場した後に解雇された。
その後、ABAのインディアナ・ペイサーズと契約して1シーズンをプレーし、これまで無縁だった優勝を経験して現役を引退した。
ジョンソンの背番号『25』はブレッツ(現ワシントン・ウィザーズ)の永久欠番となったが、永久欠番が発表された翌1987年に脳腫瘍により48歳という若さで亡くなった。
ジョンソンの能力については、多くの逸話が残されている。

youtube:http://youtu.be/uchAeIUAZco
 
13.ジム・キング(Jim King)

出身校:タルサ大学
ポジション: PG、SG
所属チーム:LAL(1963~1966)→SFW(1966~1969)→CIN(1969~1970)→CHI(1970~1973)
キャリア平均:7.2PPG、2.5RPG、2.3APG
オールスター出場:1回(1968)

ロサンゼルス・レイカーズでの3年間はジェリー・ウェストゲイル・グッドリッチの控えとして僅かな時間をプレーするだけだったが、1966年にサンフランシスコ・ウォリアーズに移籍してからは出場時間が増加し、主力として活躍する機会を与えられた。
1967-68シーズン、開幕前にチームを去ったリック・バリーの穴を埋めるために主力選手の多くが成績を向上させ、移籍2年目のキングも平均16.6得点、4.5リバウンド、4.2アシストを記録してオールスターに選出される活躍を見せた。
しかしその活躍は長くは続かず、翌シーズンに故障によって成績を落とすと、その後は再びオールスターに選出されるほどの活躍を見せる事はできなかった。
 

この記事を書いた人
TANA

バスケ初心者でありながらバスケサークルを立ち上げる。
2025年までの代表。
初心者ならではの視点でバスケを見つめ、「もっと楽な道」がないかを常に探求し続ける。

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