1970年 NBAドラフト

NBAネタ
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前年のドラフト翌年のドラフトドラフトトップ
 
新人王:デイブ・コーウェンス(Dave Cowens)、ジェフ·ペトリー(Geoff Petrie)
All Rookie Team
1st:デイブ・コーウェンスピート・マラビッチジェフ・ペトリーボブ・レイニアカルビン・マーフィー
 
主なプレイヤー
 
※赤字はABA時代のもの・キャリア平均はNBA・ABAの通算平均
1.ボブ・レイニア(Bob Lanier)
01

出身校:セント・ボナベンチャー大学
ポジション: C
所属チーム:DET(1970~1980)→MIL(1980~1984)
キャリア平均:20.1PPG、10.1RPG、3.1APG、1.1SPG、1.5BPG、.514FG%
個人賞:All-Star Game MVP1回(1974)
オールスター出場:8回(1972~1975、1977~1979、1982)

デトロイト・ピストンズ入団1年目に平均15.6得点、8.1リバウンドを記録すると、翌2年目に平均25.7得点、14.2リバウンドの活躍でオールスター出場を果たし、リーグ屈指のセンタープレイヤーへ成長する。
以降、8年連続で平均20得点を記録し、デイブ・ビンとともにピストンズの中心選手としてチームを牽引した。
ブロックの計測が始まった1973-74シーズンにリーグ4位となる3.0ブロックを記録したほか、ビンに次ぐチーム2位の4.2アシストという数字も残すなど、全てにレベルの高いプレーを見せた。
ピストンズは1973-74シーズンから4年連続でプレイオフに進出したが、ビンがチームを去ってからは低迷し、ベテランに差し掛かっていたレイニアも1980年にミルウォーキー・バックスにトレードされる。
バックス移籍後は数字を下降させたが、1984年に引退するまで先発としてプレーし続け、バックスはレイニアが加入した年から引退するまで全てのシーズンでディヴィジョン優勝を果たした。
背番号『16』はピストンズとバックスの両方で永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/Bvc7Vkp9iXE
 
2.ルディ・トムジャノビッチ(Rudy Tomjanovich)
02

出身校:ミシガン大学
ポジション:PF、SF
所属チーム:SDR-HOU(1970~1981)
キャリア平均:17.4PPG、8.1RPG、2.0APG、.501FG%
オールスター出場:5回(1974~1977、1979)

ニックネームは「ルディ・T」。
サンディエゴ・ロケッツに入団し、1年目は目立った成績を残せなかったものの、チームがヒューストンに移転した翌シーズンに平均15.0得点、11.8リバウンドを記録し、期待されていた能力を発揮し始める。
1973-74シーズンは平均24.5得点、9.0リバウンド、3.1アシスト、FG成功率53.6%の活躍で初めてオールスターに選出され、以降、カルビン・マーフィーらとともにロケッツを牽引した。
オールスターの常連となり、リーグを代表するフォワードとして活躍を続けていたが、1977年にキャリアを狂わせる怪我を負う。
ロサンゼルス・レイカーズとの試合中に乱闘が起き、騒動を止めに入ったトムジャノビッチはレイカーズのカーミット・ワシントンからパンチを受けて頭部を骨折する。
トムジャノビッチはシーズン残りの試合を全休することになり、一時は生命の危機にも瀕する重傷となった。
翌シーズンに復帰したトムジャノビッチは平均19.0得点を記録し、初めてファン投票でオールスターに選出され、復帰を待ちわびていたファンに元気な姿を見せた。
しかし、翌シーズンからは徐々に成績が下降し、チームが初のファイナルに進出した1980-81シーズン終了後に現役を引退した。
背番号『45』はロケッツの永久欠番となっている。
 
3.ピート・マラビッチ(Pete Maravich)
03

出身校:ルイジアナ州立大学
ポジション: SG
所属チーム:ATL(1970~1974)→NOJ-UTA(1974~1980)→BOS(1980)
キャリア平均:24.2PPG、4.2RPG、5.4APG、1.4SPG、.667 3P%
ALL TEAM:All-NBA 1st 2回、All-NBA 2nd 2回
オールスター出場:回(1974、1977~1979)

早撃ちガンマンのように素早いモーションからシュートを沈め、「ピストル・ピート」のニックネームで親しまれた。
また、独創的なプレーでも高い人気を集め、マジック・ジョンソンが「彼こそが本物のオリジナルだ」と称賛するなど多くの選手に影響を与えた。
大学では父親が監督を務めるルイジアナ州立大学でプレーし、4年間での平均得点はNCAA記録となる44.2得点を記録している。
アトランタ・ホークスに入団すると、1年目からリーグ9位の平均23.2得点を記録する活躍を見せ、その後も人気・実力を兼ね揃えた選手として活躍を続ける。
1974年にニューオリンズ・ジャズが創設されると、ジャズはチームの目玉として、地元の大学で活躍したマラビッチを獲得する。
しかしジャズはマラビッチを獲得するために選手2人、将来のドラフト1位指名権2つ、2位指名権を2つ、3位指名権1つを失い、マラビッチは戦力補強もままならないチームの中で孤軍奮闘する事となり、移籍1年目はFG成功率41.9%とデビュー以来最低の数字を記録した。
マラビッチに負担がのしかかるシーズンはその後も続いたが、1975-76シーズンに平均25.9得点、4.8リバウンド、5.4アシストでオールNBA1stチームに選出され、翌シーズンには平均31.1得点を記録して得点王に輝いている。
しかし長年の負担から次第に故障が増え、ようやくチームに戦力が整い始めた頃には欠場も目立つようになっていた。
1979-80シーズンはフランチャイズをユタに移転して初めて迎えたシーズンだったが、マラビッチは開幕からしばらくして解雇される。
その後すぐにボストン・セルティックスに加入し、残りのシーズンをプレーした後に現役を引退した。
1988年、プレイグラウンドでバスケットボールをプレーしている最中に心臓発作に襲われ、40歳という若さで死去している。
背番号『7』はジャズで永久欠番となったほか、マラビッチが長く活躍したニューオリンズに本拠地を置くニューオリンズ・ペリカンズの永久欠番にもなっている。
youtube:http://youtu.be/9qv0YS1wHoQ
 
4.デイブ・コーウェンス(Dave Cowens)
04

出身校:フロリダ州立大学
ポジション: C、PF
所属チーム:BOS(1970~1980)、MIL(1982~1983)
キャリア平均:17.6PPG、13.6RPG、3.8APG、1.1SPG
個人賞:Rookie of the Year、MVP1回(1972-1973)、All-Star Game MVP1回(1973)
ALL TEAM:All-NBA 2nd 2回、All-Defensive 1st 1回、All-Defensive 2nd 2回
オールスター出場:8回(1972~1978、1980)

ビル・ラッセル引退直後に成績を急落させたボストン・セルティックスに入団し、ラッセルに代わるインサイドの柱として大きな期待を集める。
身長206cmはセンターとしては恵まれたサイズではなかったが、1年目から平均17.0得点、15.0リバウンドの活躍を見せ、ポートランド・トレイルブレイザーズのジェフ・ペトリーとともに新人王を同時受賞した。
デビュー前から優れたリバウンダーとして評価の高かったコーウェンスの加入により、リバウンドやインサイドのディフェンスが改善されると、ジョン・ハブリチェックら能力の高い選手を揃えるセルティックスは堅守速攻のプレースタイルを武器に早くも名門復活を遂げた。
1972-73シーズンに平均20.5得点、16.2リバウンド、4.1アシストを記録し、セルティックスを68勝14敗という球団史上最高勝率に導くと、中心選手としてチームを率いたコーウェンスがシーズンMVPを受賞した。
プレイオフではカンファレンス決勝でライバルのニューヨーク・ニックスの前に敗退したが、翌1973-74シーズンにニックスを破ってファイナルに進出し、最終戦までもつれこんだミルウォーキー・バックスとのシリーズを制して5シーズンぶりの優勝を決めた。
ラッセル時代の1969年以来となる優勝を果たしたセルティックスは新たな黄金時代を迎え、1976年にもコーウェンスにとって2回目の優勝を遂げる。
しかし、この優勝の後に行われた親友のポール・サイラスのトレードがコーウェンスを落胆させ、情熱的なプレーが影を潜めるようになると、チームも徐々に衰退期へと突入していった。
コーウェンスの成績は1976年の優勝を境に下降の一途を辿り、チームも1978-79シーズンに29勝53敗で地区最下位に沈んだ。
翌1979-80シーズン、ラリー・バードが入団したセルティックスは61勝21敗という劇的な復活を遂げ、新時代の到来を見届けたコーウェンスはシーズン終了後に引退した。
その2年後、元チームメイトのドン・ネルソンから以来を受け、1982-83シーズンにミルウォーキー・バックスで40試合に出場している。
背番号『18』は8連覇時代の選手ジム・ロスカトフの名前で永久欠番となるはずだったが、ロスカトフが辞退したため、コーウェンスは現役時代に『18』をつけてプレーし、現在はコーウェンスの名前で永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/fAXc6u_jGVM
 
5.サム・レイシー(Sam Lacey)
05

出身校:ニューメキシコ州立大学
ポジション: C
所属チーム:CIN-KCO-KCK(1970~1981)→NJN(1981~1982)→CLE(1982~1983)
キャリア平均:10.3PPG、9.7RPG、3.7APG、1.3SPG、1.5BPG
オールスター出場:1回(1975)

シンシナティ・ロイヤルズに入団し、カンザスシティ・オマハ・キングス、カンザスシティ・キングスと名前を変えていくチームの中で、12シーズンにわたってインサイドの柱として活躍した。
1年目に平均13.5得点、11.3リバウンドを記録し、以降、主力選手として同期入団のタイニー・アーチボルドとともにチームを支えた。
1974-75シーズンには平均11.5得点、リーグ3位の14.2リバウンド、センターとしては高水準の5.3アシストを記録し、初のオールスターに選出されている。
また、スティールとブロックの計測を始めた1973-74シーズンから7年連続で100ブロック100スティール以上を達成している。
背番号『44』は現サクラメント・キングスの永久欠番となり、出場試合数、通算リバウンド、通算ブロック、通算スティールでチーム記録を保持している。
2014年に66歳で死去した。
youtube:http://youtu.be/rGNS-IA_gA4
 
7.ジョン・ジョンソン(John Johnson)
06

出身校:アイオワ大学
ポジション: SF
所属チーム:CLE(1970~1973)→POR(1973~1975)→HOU(1975~1977)→SEA(1977~1982)
キャリア平均:12.9PPG、5.5RPG、3.8APG
オールスター出場:2回(1971~1972)

創設されたばかりのクリーブランド・キャバリアーズに入団し、1年目から平均16.6得点、6.8リバウンド、4.8アシストを記録すると、このシーズンにオールスターに選出され、キャバリアーズ初のオールスター選手となった。
翌シーズンにはキャリアハイとなる平均17.0得点、7.7リバウンド、5.1アシストを記録している。
1973年にポートランド・トレイルブレイザーズに移籍してからもチームの重要な得点源として活躍していたが、若手の成長によって次第に出場時間が減少し、ヒューストン・ロケッツ移籍後は平均得点も2桁を下回った。
1977-78シーズンの開幕直後にシアトル・スーパーソニックスにトレードで放出され、移籍後も状況は変化する事なくベンチを温める時間が続いた。
開幕から不振が続くソニックスはシーズン序盤でヘッドコーチを解任し、ジョンソンにとってキャバリアーズ時代のチームメイトでもあるレニー・ウィルケンズが後任に就いた。
ウィルケンズはジョンソンを先発に抜擢し、若い選手が多いチームの中でリーダーシップを発揮させる。
ソニックスはヘッドコーチ交代後に脅威的なペースで勝利を積み重ね、プレイオフでも勢いは衰えずに勝ち進み、チーム初のファイナル進出を決めた。
ファイナルでは強豪ワシントン・ブレッツの前に惜しくも敗れたが、ソニックスは翌シーズンもファイナルに進出し、2年連続となったブレッツとのシリーズを制して初めての優勝を遂げた。
ジョンソンはこのファイナルでも主力としてプレーし、優勝に大きく貢献している。
その後、現役を引退する1982年までソニックスでプレーを続けた。
ポイントフォワードと呼べるほどパス能力が高く、1978-79シーズンから2シーズン続けてチームトップのアシスト数を記録している。
 
8.ジェフ·ペトリー(Geoff Petrie)
01

出身校:プリンストン大学
ポジション: SG、PG
所属チーム:POR(1970~1976)
キャリア平均:21.8PPG、2.8RPG、4.6APG、1.1SPG
個人賞:Rookie of the Year
オールスター出場:2回(1971、1974)

創設されたばかりのポートランド・トレイルブレイザーズに入団し、1年目から平均24.8得点、4.8アシストの活躍でボストン・セルティックスのデイブ・コーウェンスとともに新人王を同時受賞した。
また、このシーズンにオールスターにも選出され、ブレイザーズ初のオールスター選手となっている。
チームには1971年にシドニー・ウィックスが、1974年にはビル・ウォルトンが入団し、着実に戦力を整えていく。
しかし、ペトリーが高い得点能力を発揮し続ける一方で、大きな期待を背負って入団したウォルトンは故障で多くの試合を欠場し、チームはプレイオフ進出も果たせないでいた。
そして次第にペトリーも膝の故障に苦しむようになり、1976年に6シーズンというあまりに早い現役生活を終える。
皮肉な事に、ペトリー引退後にウォルトンが健康を取り戻し、1976-77シーズンにプレイオフ初進出で初優勝を遂げるという快挙が達成された。
背番号『45』はブレイザーズの永久欠番となっている。
 
13.ジム・マクミリアン(Jim McMillian)
02

出身校:コロンビア大学
ポジション: SF
所属チーム:LAL(1970~1973)→BUF(1973~1976)→NYK(1976~1978)→POR(1978~1979)
キャリア平均:13.8PPG、5.3RPG、2.5APG、1.1SPG

ロサンゼルス・レイカーズに入団し、1年目は控えとしてプレーして平均8.4得点、4.1リバウンドを記録した。
2年目も開幕から控えとしてプレーしていたが、シーズン序盤にチームの大黒柱エルジン・ベイラーが引退を表明し、自宅でこの事を知ったマクミリアンは衝撃を受ける。
翌日、マクミリアンはコーチから先発に昇格することを伝えられると、その日の試合で22得点、13リバウンドの活躍を見せた。
レイカーズはこの日の勝利から連勝を重ね、33連勝という北米プロスポーツ史上最長記録を達成する。
このシーズンを平均18.8得点、6.5リバウンドという成績で終えたマクミリアンはプレイオフでも活躍し、ロサンゼルスに本拠地を移転して初めてとなる優勝に貢献した。
1973年にバッファロー・ブレーブスへ移籍してからは、ボブ・マッカドゥらとともにチームの主力として活躍し、新興チームのブレーブスをプレイオフに導いている。
 
18.カルビン・マーフィー(Calvin Murphy)
03

出身校:ナイアガラ大学
ポジション: PG、SG
所属チーム:SDR-HOU(1970~1983)
キャリア平均:17.9PPG、2.1RPG、4.4APG、1.5SPG
オールスター出場:1回(1979)

少年時代はバトントワリングの世界的な選手として知られ、高校時代にバスケットボールの選手としても注目されるようになった。
ナイアガラ大学では後にユタ・ジャズのヘッドコーチとなるフランク・レイデンの下で活躍したが、175cmという身長のマーフィーに注目するNBAチームは少なく、ドラフトでは2巡目になってようやくサンディエゴ・ロケッツから指名を受けた。
1年目から先発の座を掴むと、高評価で入団した同期のルディ・トムジャノビッチを上回る平均15.8得点、4.0アシストを記録し、ドラフトでの低い評価が間違いであった事を証明してみせた。
シーズン終了後、チームは本拠地をサンディエゴからヒューストンに移転し、若手のマーフィーとトムジャノビッチが中心となってヒューストン・ロケッツを牽引していく。
4年目を迎える1973-74シーズンには平均20.4得点を記録し、初めて20得点を超えたほか、7.4アシスト、1.9スティール、FG成功率52.2%を記録した。
1976-77シーズンにはジョン・ルーカスモーゼス・マローンが加入し、ロケッツはチーム創設以来最高となる49勝33敗の好成績を収める。
強豪への階段を昇り始めたかに見えたロケッツだったが、翌1977-78シーズンにエースのトムジャノビッチが試合中に相手選手に殴られ、シーズン残りの59試合を全て欠場するという重傷を負う。
マーフィーはこのシーズンから得点力を生かすためにシューティングガードにコンバートされ、キャリアハイとなる平均25.6得点を記録する活躍を見せたが、チームはエースを失った混乱から抜け出す事ができず、28勝54敗と前年の好成績から大きく急落した。
トムジャノビッチ不在はチームの大きな痛手となったが、このシーズンを境にモーゼス・マローンはリーグを代表する選手へと成長し、翌シーズンはマーフィー、マローン、そして復帰したトムジャノビッチの活躍でチームは早々に成績を回復させた。
80年代に入ると若手選手の台頭により徐々に数字を下降させていったが、1981年のプレイオフでは往年の得点力を発揮し、チームのファイナル進出に大きく貢献している。
1983年に現役から引退し、ロケッツ一筋で過ごした13シーズンの選手生活に幕を下ろした。
背番号『23』はロケッツの永久欠番となっている。
フリースローの名手としても知られ、1980-81シーズンに記録したフリースロー成功率95.8%という数字は、2008-09シーズンにホセ・カルデロンに破られるまで長い期間NBA記録となっていた。
youtube:http://youtu.be/2LLVdADh5_k
 
19.ネイト・“タイニー”・アーチボルド(Nate Tiny Archibald)
04

出身校:テキサス大学エルパソ校
ポジション: PG
所属チーム:CIN-KCO-KCK(1970~1976)→NYN(1976~1977)→BOS(1978~1983)→MIL(1983~1984)
キャリア平均:18.8PPG、2.3RPG、7.4APG、1.1SPG
個人賞:All-Star Game MVP1回(1981)
ALL TEAM:All-NBA 1st 3回、All-NBA 2nd 2回
オールスター出場:6回(1973、1975~1976、1980~1982)

185cm、68kgというサイズの不利をものともせずに活躍し、NBA史上唯一、得点王とアシスト王の2冠を達成した選手として知られている。
「ちっぽけな」を意味する「Tiny」というニックネームは子供の頃に父親に名付けられ、その後も大柄な選手の中で自由に得点を重ねるアーチボルドの愛称として親しまれた。
シンシナティ・ロイヤルズでは控えとして起用される事が予定されていたが、主力選手の契約問題により1年目から先発の座を掴み、平均16.0得点、5.5アシストを記録するなど周囲の予想を上回る活躍を見せた。
2年目にはリーグ2位の平均28.2得点、リーグ3位の9.2アシストを記録、オールNBA2ndチームにも選出され、大きな飛躍を遂げる。
アーチボルドの活躍はとどまる事を知らず、チームがカンザスシティ・オマハ・キングスになった翌1972-73シーズン、平均34.0得点、11.4アシストを記録して得点王とアシスト王に同時に輝く史上初の快挙を達成した。
オールNBA1stチームに選出されるなどリーグ最高峰の選手として評価を受けたアーチボルドだったが、一方でディフェンスに対する姿勢やターンオーバーの多さが批判される事もあり、個人成績がチームの勝利に結びつかないシーズンが続いた。
1974-75シーズンにチームを8シーズンぶりとなるプレイオフ進出に導いたが、翌1975-76シーズンに再び低迷すると、シーズン終了後にトレードで放出された。
アーチボルドは移籍したニューヨーク・ネッツでアキレス腱を断裂するという重傷を負い、およそ1年半もの間プレーできない状態が続いた。
その間、立て続けにトレードされたアーチボルドは、1978年からボストン・セルティックスでプレーする事になったが、復帰後は以前のようなパフォーマンスを見せる事ができず、さらにチームメイトやヘッドコーチと衝突を繰り返すなど取り巻く状況は悪化していった。
「終わった選手」という扱いを受けるようになり、引退する事も考えたアーチボルドだったが、チームが新しい体制を整えた1979-80シーズン、司令塔として生まれ変わった姿を見せる。
このシーズンに記録した平均14.1得点は全盛期の半分以下の数字となったが、アシストはリーグ2位の8.4本を記録し、セルティックスは前年を遥かに上回る61勝21敗という好成績を収めた。
アーチボルドは4シーズンぶりにオールスターに選出され、翌1980-81シーズンには自身初となる優勝に貢献する活躍を見せた。
1981年に出場したオールスターゲームでは初めてMVPを受賞し、名門復活とともに自身の選手としての復活も果たしている。
1984年に現役を引退し、背番号『1』はキングスの永久欠番となっている。
引退後は故郷ニューヨークに戻り、貧困地区の子供たちを対象に教育や社会貢献に力を注いでいる。
youtube:http://youtu.be/MOKd-xyTkIs
 
40.ガー・ハード(Gar Heard)
05

出身校:オクラホマ大学
ポジション: PF
所属チーム:SEA(1970~1972)→CHI(1972~1973)→BUF(1973~1976)→PHO(1976~1980)→SDC(1980~1981)
キャリア平均:8.7PPG、7.5RPG、1.6APG、1.3SPG、1.3BPG

フルネームはガーフィールド・ハード。
キャリア序盤は目立った成績を残せなかったが、1973年に移籍したバッファロー・ブレーブスでは先発で起用され、移籍1年目の1973-74シーズンにキャリアハイとなる平均15.3得点、11.7リバウンド、1.7スティール、2.8ブロックを記録した。
前年21勝に終わっていたブレーブスはハードが加入したシーズンに42勝を記録し、チーム初のプレイオフ進出を決めた。
1976年にフェニックス・サンズに移籍してからは数字を下降させたが、移籍したシーズンに自身初となるファイナルに出場している。
両者譲らぬ激戦となったボストン・セルティックスとのシリーズ第5戦で、ハードは絶体絶命の状況からトリプルオーバータイムにもつれこむ同点ショットを沈めている。
結局、試合には敗れ優勝も逃したが、この第5戦はファイナル史上最高の名勝負として語り継がれる事になった。
youtube:http://youtu.be/rvBxzd9heLo
 
79.ジョージ・ジョンソン(George Johnson)
01

出身校:ディラード大学
ポジション: C
所属チーム:GSW(1972~1977)→BUF(1977)→NJN(1977~1980)→SAS(1980~1982)→ATL(1982~1983)、NJN(1984~1985)→SEA(1985~1986)
キャリア平均:4.8PPG、6.5RPG、1.0APG、2.5BPG
ALL TEAM:All-Defensive 2nd 1回

ドラフトではシカゴ・ブルズから指名を受けたが、プレーする機会を与えられないまま解雇され、1972年にゴールデンステイト・ウォリアーズと契約を結んでNBAデビューを果たす。
2年目のシーズンにウォリアーズはファイナルに進出し、ジョンソンは控えとしてプレーしながら、平均2.8ブロックを記録して優勝に貢献した。
1977年に移籍したニュージャージ・ネッツでは先発で起用され、移籍1年目に平均8.7得点、9.6リバウンド、3.4ブロックを記録し、初めてブロック王に輝いた。
以降、5シーズン連続で平均3.0ブロック以上を記録し、うち3シーズンでブロック王のタイトルを獲得している。
デビュー1年目にフリースロー成功率41.2%を記録するなどシュートを苦手としていたが、チームメイトのリック・バリーに触発され、5年目以降はほとんどのシーズンで70%以上を記録するまでに改善させた。
1984-85シーズンにはフリースロー成功率81.5%を記録している。
 
106.チャーリー・スコット(Charlie Scott)
02

出身校:ノースカロライナ大学
ポジション: SG、PG
所属チーム:ABA(1970~1972)→PHO(1972~1975)→BOS(1975~1977)→LAL(1977~1978)→DEN(1978~1980)
キャリア平均:20.7PPG、4.0RPG、4.9APG、1.3SPG
個人賞:ABA Rookie of the Year
ALL TEAM:All-ABA 1st 1回All-ABA 2nd 1回
オールスター出場:5回(1971~1972、1973~1975)

ドラフトではNBA、ABAの両リーグから低評価を受けたが、入団を決めたABAバージニア・スクワイアーズでは1年目から周囲の評価を覆す平均27.1得点という大活躍を見せ、ケンタッキー・カーネルズのダン・イッセルとともに新人王を同時受賞した。
翌シーズンにはリーグトップとなる平均34.6得点を記録していたが、NBAでのプレーを望んでいたスコットはシーズン終了を目前にしてNBAのフェニックス・サンズに電撃移籍する。
このサンズ移籍の際、2年前のドラフトでスコットを指名していたボストン・セルティックスが所有権を主張し、サンズは好フォワードのポール・サイラスをセルティックスに放出してスコットを獲得した。
スコットはNBAデビューとなった1972-73シーズンに平均25.3得点、6.1アシストを記録し、以降3シーズンにわたってサンズのエースとして活躍した。
1975年にはポール・ウェストファルとのトレードで因縁浅からぬボストン・セルティックスへ移籍する事になったが、移籍1年目からチームのファイナル進出に貢献する活躍を見せた。
ファイナルではスコットと入れ替わりに移籍したウェストファル率いるサンズと対戦し、スコットは優勝が決まった第6戦で25得点、11リバウンド、5スティールの大活躍を見せた。
その後、1977年にトレードでセルティックスを去ってからは数字が下降し、1980年に現役を引退した。
 
122.ダン・イッセル(Dan Issel)
03

出身校:ケンタッキー大学
ポジション: C、PF
所属チーム:ABA(1970~1976)→DEN(1976~1985)
キャリア平均:22.6PPG、9.1RPG、2.4APG、1.0SPG
個人賞:ABA Rookie of the YearAll-Star Game MVP1回(1972)
ALL TEAM:All-ABA 1st 1回All-ABA 2nd 4回
オールスター出場:7回(1970~1976、1977)

ドラフトではNBA、ABAの両リーグから指名され、1巡目で指名を受けたABAケンタッキー・カーネルズへの入団を選択する。
イッセルは1年目から平均29.9得点、13.2リバウンドを記録して得点王に輝き、バージニア・スクワイアーズのチャーリー・スコットと共に新人王を同時受賞した。
イッセルはその後もABAを代表する選手として活躍を続け、1975年には以降10年間を過ごすことになるデンバー・ナゲッツに移籍する。
1976年にABAが消滅し、NBAに加盟することになったナゲッツとともにイッセルはNBAでのプレーをスタートさせる。
ABAのチームがNBAで通用するかは疑問視されたが、イッセルの他にデビッド・トンプソンら名選手を抱えるナゲッツはNBA加入1年目にして地区優勝を果たした。
イッセルはこのシーズンに平均22.3得点、8.8リバウンドを記録し、頭脳的なプレーと精度の高いアウトサイドシュートを武器に現役を引退する1985年まで、ほとんどのシーズンで平均20得点前後を記録する活躍を続けた。
キャリアを通して欠場が少なく、その勤勉さと頑丈さでファンから「The Horse」の愛称で親しまれた。
背番号『44』はナゲッツの永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/kaMmJNJLWcg
 

この記事を書いた人
TANA

バスケ初心者でありながらバスケサークルを立ち上げる。
2025年までの代表。
初心者ならではの視点でバスケを見つめ、「もっと楽な道」がないかを常に探求し続ける。

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