前年のドラフト・翌年のドラフト・ドラフトトップ
新人王:ボブ・ペティット(Bob Pettit)
主なプレイヤー
1.フランク・セルヴィ(Frank Selvy)

出身校:ファーマン大学
ポジション: SG、SF
所属チーム:BLB(1954)→MLH-STL(1954~1956、1957~1958)→MNL(1958)→NYK(1958~1959)→SYR(1959)→MNL-LAL(1959~1964)
キャリア平均:10.8PPG、3.7RPG、2.8APG
オールスター出場:2回(1955、1962)
大学で1試合100得点という偉業を達成し、鳴り物入りでボルチモア・ブレッツに入団したが、ブレッツがすぐに解散してしまい、1年目の大半をミルウォーキー・ホークスで過ごす事になった。
セルヴィはこのシーズンに平均19.0得点、5.5アシストと期待通りの活躍を見せたが、1955-56シーズンから兵役に就くためにチームを離れると、1957-58シーズンに戻ったときには居場所を失ってい、復帰後すぐにトレードされた。
その後はチームを転々とするキャリアを送り、個人成績も大きく下降させる事になったが、1959-60シーズンの途中に移籍したミネアポリス・レイカーズで成績を持ち直し、エルジン・ベイラーやジェリー・ウェストらとともに中心選手として優勝を目指す事になった。
1961-62シーズンに平均14.7得点、5.2リバウンド、4.8アシストを記録すると、1年目以来となるオールスターに選出され、チームも過去最多となる54勝を記録した。
当時のNBAは連覇を続けるボストン・セルティックスが支配し、レイカーズは毎シーズンのようにセルティックスの前に敗退していたが、打倒セルティックスと優勝に最も近づいたのがこの年のファイナルだった。
両者譲らず3勝3敗のタイで迎えた最終戦で、セルヴィは試合終盤に試合を振り出しに戻す貴重な同点シュートを決める。
さらに同点のまま試合終了直前にボールを手にしたレイカーズは、ベイラーとウェストをおとりに使い、好調のセラヴィに決勝シュートを託した。
ノーマークとなって近距離からジャンプショットを狙ったセラヴィだったが、無常にもボールはリムに弾かれ、レイカーズは延長戦のすえに敗退し、セルティックスの優勝を見届ける事になった。
レイカーズは以後もファイナルを舞台にセルティックスに敗退し続けたため、このミスショットは悔やんでも悔やみきれないものとなり、セルヴィは後年、「すべての得点をあのラストショットと交換したい」と語った。
その後、2シーズンをレイカーズで過ごし、1964年に現役を引退した。
youtube:http://youtu.be/mJXWPQjI020
2.ボブ・ペティット(Bob Pettit)

出身校:ルイジアナ州立大学
ポジション: PF、C
所属チーム:MLH-STL(1954~1965)
キャリア平均:26.4PPG、16.2RPG、3.0APG
個人賞:Rookie of the Year、MVP2回(1955-1956、1958-1959)、All-Star Game MVP4回(1956、1958、1959、1962)
ALL TEAM:All-NBA 1st 10回、All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:11回(1955~1965)
ミルウォーキー・ホークスに入団し、1年目に平均20.4得点、13.8リバウンド、3.2アシストを記録して新人王を獲得した。
また、引退するまで11年連続で選ばれる事になるオールスターに選出されたほか、10年連続で選ばれる事になるオールNBA1stチーム入りも果たし、早くもリーグを代表するプレイヤーとなった。
翌1955-56シーズン、チームは本拠地を移転してセントルイス・ホークスとなり、2年目のペティットは平均25.7得点、16.2リバウンドを記録し、得点王とリバウンド王に輝くとともに、このシーズンから新設されたシーズンMVPの初代受賞者となった。
さらに、シーズン中のオールスターゲームでもMVPを獲得し、個人賞を総なめにしてシーズンを終えた。
低迷を続けていたホークスはペティット入団後に成績を伸ばし、1955-1956シーズンに6シーズンぶりとなるプレイオフ進出、翌1956-57シーズンにファイナル進出と、優勝に向けて着実に前進していく。
1957-58シーズン、ペティットはオールスターゲームで2度目のMVPを獲得し、プレイオフではチームを2年連続のファイナルへと導いた。
前年に続きボストン・セルティックスとの対戦となったファイナルでは、平均29.3得点、17.0リバウンドを記録したペティットの活躍でシリーズを優位に進め、ペティットが50得点を叩き出した第6戦を1点差で勝利すると、チーム初となる優勝を成し遂げた。
敗れたセルティックスは翌シーズンから未曾有のファイナル8連覇を達成する事になるため、ホークスの優勝は貴重な勝利となった。
ホークスは優勝以後も強豪として君臨し続け、ペティットもリーグ最高峰の選手として活躍を続ける。
1960-61シーズンに平均27.9得点、20.3リバウンドを記録し、史上4人しか成し遂げていない20得点、20リバウンド以上を達成。(ほかはウィルト・チェンバレン、ジェリー・ルーカス、ネイト・サーモンド)
翌1961-62シーズンにキャリアハイとなる平均31.1得点を記録している。
ペティットは1965年に現役を引退したが、ラストシーズンとなった1964-65シーズンは膝の故障を抱えながら平均22.5得点、12.4リバウンドを記録し、NBAデビュー以来、全シーズンで平均20得点、10リバウンド以上を記録して選手生活に幕を下ろした。
背番号『9』はホークスの永久欠番となっている。
youtube:http://youtu.be/jdeiZRW7gSo
3.ジーン・シュー(Gene Shue)

出身校:メリーランド大学
ポジション: PG、SG
所属チーム:PHW(1954)→NYK(1954~1956)→FTW-DET(1956~1962)→NYK(1962~1963)→BAL(1963~1964)
キャリア平均:14.4PPG、4.1RPG、3.7APG
ALL TEAM:All-NBA 1st 1回、All-NBA 2nd 1回
オールスター出場:5回(1958~1962)
デトロイト・ピストンズのエースとして活躍し、「スピン・ムーブ」を編み出した選手と言われている。
キャリア初期は活躍できずに移籍を繰り返したが、1956年に移籍したフォートウェイン・ピストンズで一気に出場時間が増加し、移籍2年目にチームが本拠地を移転してデトロイト・ピストンズとなると、平均15.6得点を記録する活躍を見せてオールスターに選出された。
1959-60シーズンは平均22.8得点、5.5リバウンドを記録してオールNBA1stチームに選出され、翌1960-61シーズンには平均22.6得点に加え、リーグ4位となる平均6.8アシストも記録した。
ピストンズはシューが在籍した全シーズンでプレイオフに進出したが、優勝に近付く事はできず、1962年に6シーズンを過ごしたピストンズを去る事になった。
その後、2シーズンをプレーし、1964年に現役を引退した。
引退後はヘッドコーチとして長年に渡り采配を振り、最優秀コーチ賞を2度受賞している。
6.レッド・カー(Red Kerr)

出身校:イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校
ポジション: C
所属チーム:SYR-PHI(1954~1965)→BAL(1965~1966)
キャリア平均:13.8PPG、11.2RPG、2.2APG
オールスター出場:3回(1956、1959、1963)
本名ジョニー・カー(フルネームはジョン・グラハム・カー)。
シラキュース・ナショナルズでは1年目から平均10.5得点、6.6リバウンドを記録し、大黒柱のドルフ・シェイズをサポートする活躍を見せて、デビュー早々にNBA優勝を経験した。
3年目の1956-57シーズンに平均12.4得点、11.2リバウンドのダブルダブルを記録すると、以降、8シーズン連続でシーズン・ダブルダブルを達成し続けた。
1958-59シーズンには平均17.8得点、14.0リバウンドを記録し、2度目のオールスターに選出されている。
ナショナルズは1963年に本拠地を移転してフィラデルフィア・76ersとなり、カーはデビューから11シーズンにわたりナショナルズ・76ersを支える優秀なビッグマンとして活躍を続けた。
特筆すべきはその頑丈さで、この11シーズンの間、一試合も休むことなくプレーを続け、834試合連続出場はランディ・スミスに破られるまでNBA記録となっていた。
1965-66シーズンからボルチモア・ブレッツで1シーズンを過ごした後、出身地のシカゴに誕生したシカゴ・ブルズからエクスパンション・ドラフトで指名を受けたが、ブルズのヘッドコーチになるために現役からの引退を決意した。
カーは創部元年のブルズをプレーオフに導き、就任1年目にして最優秀コーチ賞を受賞している。
チームオーナーとの確執によって僅か2年でブルズを去る事になったが、その後、解説者としてブルズに戻り、2008年まで同職を務める名物解説者となった。
マイケル・ジョーダンはブルズでの現役時代、試合前に解説者席のカーの前ですべり止めの粉をばらまくのを恒例行事としていた。
2009年に前立腺癌により76歳で死去した。
10.スリック・レナード(Slick Leonard)

出身校:インディアナ大学
ポジション: PG
所属チーム:MNL-LAL(1956~1961)→CHP-CHZ(1961~1963)
キャリア平均:9.9PPG、2.9RPG、3.3APG
本名はボブ・レナード(フルネームはウィリアム・ロバート・レナード)。
ミネアポリス・レイカーズに入団し、デビューから5シーズンをレイカーズで過ごした。
1年目に平均11.0得点を記録し、その後も同様の活躍を見せていたが、1960年にジェリー・ウェストが入団してからは急激に出場時間が減少し、シーズン終了後にエクスパンション・ドラフトで新設チームのシカゴ・パッカーズに移籍した。
移籍1年目にキャリアハイとなる平均16.1得点、5.4アシストを記録したが、翌シーズンの途中からヘッドコーチを兼任する事になり、現役としてのキャリアはこのシーズンが最後となった。
その後、ABAのヘッドコーチとして歴代最多の勝利を収め、2014年にバスケット殿堂入りを果たしている。
youtube:http://youtu.be/3sUXQN4_7T8
12.ラリー・コステロ(Larry Costello)

出身校:ナイアガラ大学
ポジション: PG
所属チーム:PHW(1954~1955、1956~1957)→SYR-PHI(1957~1965、1966~1968)
キャリア平均:12.2PPG、3.8RPG、4.6APG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 2回
オールスター出場:6回(1958~1962、1965)
フィラデルフィア・ウォリアーズに入団し、兵役でチームを離れた1年を除き、1957年まで2シーズン在籍した。
シラキュース・ナショナルズ移籍後、それまでロールプレイヤーのひとりにしか過ぎなかったコステロは、平均14.9得点、5.3リバウンド、4.4アシストを記録するチームの中心選手へと成長する。
このシーズンから5年連続でオールスターに選出され、リーグを代表するガードとして活躍を続けた。
チームは1963年に本拠地を移転してフィラデルフィア・76ersへと改称する。
移転2年目の1964-65シーズン、コステロは3シーズンぶり6度目となるオールスターに選出されたが、33歳を迎え、このシーズン限りでの現役引退を決意した。
しかし、1967年にヘッドコーチに就任したアレックス・ハナムの要請により1967-68シーズンに現役復帰を果たし、ベテランとしてチームをサポートした。
76ersはこのシーズンに当時のNBA記録となる68勝13敗という成績を残し、ファイナルではコステロの古巣であるウォリアーズを下して優勝を果たした。
翌シーズン終了後に今度こそ完全に引退した。
引退後はミルウォーキー・バックスの初代ヘッドコーチを務め、1971年にチームを優勝に導いている。
17.リッチー・ゲリン(Richie Guerin)

出身校:アイオナ大学
ポジション: SG
所属チーム:NYK(1956~1963)→STL-ATL(1963~1967、1968~1970)
キャリア平均:17.3PPG、5.0RPG、5.0APG
ALL TEAM:All-NBA 2nd 3回
オールスター出場:6回(1958~1963)
1954年のドラフト指名後、海兵隊で兵役に就いたため、1956年にニューヨーク・ニックスに合流した。
ニックスでは2年目に平均16.5得点、7.8リバウンド、5.0アシストを記録し、チームの中心選手へと成長した。
以後、順調に成績を伸ばし、1959-60シーズンからは4シーズン連続で平均20得点以上を記録、とくに1961-62シーズンには平均29.5得点、6.4リバウンド、6.9アシストというキャリア最高のシーズンを送った。
2年目のシーズンから6年連続でオールスターに選出され、オールNBA2ndチームにも3度選ばれたが、ゲリンが在籍した8シーズンでニックスはプレイオフにわずか1回しか進む事ができなかった。
1963-64シーズンが開幕してすぐ、31歳を迎えたゲリンはセントルイス・ホークスへとトレードされる。
ホークスではボブ・ペティットらをサポートする役割を担い、個人成績を後退させながらもチームの好成績に貢献した。
1964-65シーズンの途中からは、選手と兼任してヘッドコーチの大役を任されている。
1966-67シーズン終了後、ヘッドコーチに専念するために現役を引退し、翌1967-68シーズンにさっそく最優秀コーチ賞を受賞した。
1968-69シーズンから2シーズンにわたり限定的に現役復帰し、1970年のプレーオフでは1試合31得点も記録している。
youtube:http://youtu.be/zKWh8Ht7dn0
30.チャック・ノーブル(Chuck Noble)
出身校:ルイビル大学
ポジション: SG
所属チーム:FTW-DET(1955~1962)
キャリア平均:8.0PPG、2.6RPG、3.3APG
オールスター出場:1回(1960)
フォートウェイン・ピストンズに入団し、チームが本拠地をデトロイトへ移転して以降もピストンズ一筋の選手生活を送った。
5年目となった1959-60シーズンに、キャリアハイとなる平均11.3得点、4.6アシストを記録し、キャリア唯一となるオールスターに選出されている。
1962年に現役を引退し、7シーズンの選手生活に幕を下ろした。



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